次の日。お母様が持って来てくれたメモを前に♯は机に突っ伏していた。♯の仮説と完全ではないが大体は合致するデータが取れてしまったからだ。
お母様には事前に、行ってもらいたい実験を書いた資料を渡していた。実験は実質的に全部で4段階に分かれていた。
まず、父親に発火/消火魔法、水呼魔法、洗濯魔法を使ってもらい、様子を記録する。
つぎに、父親を泥酔させた状態で同じことを行う。
さらに、父親を酷く疲れた状態にしたうえで同じことを行う。
それから、数秒間魔法が続いているように見える水呼魔法と洗濯魔法を父親に行使させ、途中で父親の意識を落とし、魔法の様子を記録する。
このそれぞれの段階を複数回行って欲しいと♯は説明し、記録用の紙は10枚近く渡した。記録を取る時は同じ紙に同じ実験の結果は絶対にひとつだけしか書かないようにと念を押してあった。これは、直前の記録が目に入ることで今の結果の判断に多少のズレが現れる事を防ぐための一般的な措置だ。(本来は複数人の被験者を相手にするべき実験だが、♯は正確性よりも速度を優先した結果だと自分に言い訳をしていた。脳内の自分には合理化をするなと怒られたが、人を集めるような事はしたくないと反論することで事なきを得た。♯は人見知りだった。)
つまりこの実験は、魔法は本当に思考によって操作されているのか、という仮説を検証するためだけにおこなわれた事だった。こういう事はどこかで過去行われていそうだと思ってはいたが、お父様の書斎と屋敷の資料庫には見当たらないとのことだったので、自分でやることにしたのだ。それに正直、科学的方法論についてほとんど知られていないこの世界の実験結果を信頼出来る気もしなかった。
そして、実験結果はというと、♯には都合の悪い事に…魔法はおそらく思考によって操作されているようだった。
酩酊状態で魔法を使うと、普段の魔法の効果にくらべ規模が極端に大きくなったりする。疲労時には時々魔法が発現しなくなり、それは体よりも頭脳の疲労の方が顕著に現れる。持続する魔法を行使した直後の人の意識を落としても魔法が急に消え去るわけではないようだが、魔法の専門家である母の意見では、魔法は唱えられた時点で終わる時が決まっているという。つまり、持続する魔法は単に魔法のプロセス全体が発火魔法などと比べ長いだけらしい。
とんだ期待はずれだ。宇宙を書き換える方法がまさか何かを信じこむことだなんて。魔法をうまく使える人はただ思い込みが強いだけだなんて。
実際、よく見た目の似た効果のない偽薬をそうと知らせずに投与した患者の中には、本物の薬と同じくらい効果が現れる人間も居る。地球世界の現実にはそれくらい騙されやすい人がいる。この世界にもそういう人が居そうだというのは想像に難くない。そういう人の一部が魔法をうまく使える人間と言われているだけ。
♯はこれまでの人生で、思い込みを出来る限り減らす訓練をしてきた。人間の脳は高性能だが放っておくと愚かになろうとし続けると知っていたからだ。♯は自分の判断が正確かどうか常に反芻する癖をつけていた。判断をするための情報に歪みや間違いがないか確かめる癖を常につけていた。自分が何かを信じようとしていないかを検知するように脳に訓練させようとしていた。これら全てが完璧な水準まで育ったとはとても言えないが、ある程度まで育てることは出来たと自負するくらいにはなった。合理的な判断を選ぶための土台くらいはあると考えていた。
そして♯は転生し異世界に降り立った。そこは宇宙を書き換える力を個人保有することが可能な世界で、思い込みが激しい人間ほど強い力を行使できるという。
「バカーーーーーーーーーーー!!!!!」
♯は窓を開けて思いっきり叫んだ。
庭には使用人さんのマチルダが居て、♯に気づくと手を振ってきた。♯は恥ずかしくなってちょっと手を振ってからすぐに机に戻った。
***
魔法は思考によって操作される。♯はようやく現実を認めた。愉快な現実ではないが、そもそも現実では愉快なことの方が希少だと♯は思い出した。問題は、♯の脳内に組み上げられた嘘を許さない機構によって♯は魔法を信じ切ることが出来ないということだった。というのも、♯にはこんな超常現象を起こしていそうな原理の仮説すら立て始められていなかったからだ。
お母様に聞いたところ、魔法の原理について書かれた本はあまりにも大量にあり、そのどれも全然違うことが書かれているという話だった。ある本には女神の叡智による奇跡と表現され、ある本には大地に住まう精霊の加護だとされ、ある学者は世界に蓄えられた力を変形させたものだと言い、ある村に住む呪術師は魔法は虚空へと沈んだ古代都市が作り上げたものだという。それらを支える興味深い証拠もあったが、どれか一つでも実際に起きていたら大変なことになっているものばかりだった。
魔法の全てー女神ソラリスの奇跡と人類の進歩ーという本には、一度完全に滅び虚無へと堕ちた世界が女神の奇跡によって復活したとする主張が書かれており、実際に虚無に行ってしまった石のスケッチも書かれていた。この本を書いた人間が書いている途中で自己矛盾に陥らなかったのだとしたら、たいしたものだ。おそらく創作作家としての才能の他に、非常に高い魔法行使の才能も持ち合わせていたと推測できる。
♯はこの疑い深い脳の状態を保ったまま、魔法を信じなければならない。そうでなければ魔法世界に生まれておきながら魔法を一切使えない人間として成長することになってしまう。次期当主となる♯にそんな事は許されない。
それに正直、♯は心底魔法が使えるようになりたかった。
光り輝く純白の後光を受け杖を手にする美少女、シャロン・P・ウィッケンハイザー。杖の一振りで傷は癒え、争いが止まり、陽光と共に温かな恵みの雨が降り始め、花が芽吹き木々が青々と茂る。あらゆる既存の魔法を息を吐くように行使し、他に誰も知らない魔法すらも当然のように使い世界を一変させる完璧な魔法使い。
魔法がこの世界にあると知った♯は、いつか必ずそんな魔法使いになると心に決めていた。
♯は自分が今洗濯魔法すら使えないことを心の片隅で思い出さないようにしながらも思い出してしまい、この性格の悪い脳に制裁を下すために机に突っ伏した。ぶつけた所がちょっと痛かった。
***
その日の午後、♯が一人で魔法行使の練習をしていた中庭に乱入者が現れた。不機嫌な様子のウィッケンハイザー現当主その人だった。
男は昨日の夕方から夜にかけて行われた革新的な魔法研究に被験者として参加し、その疲労によって昼食直前まで倒れていたのだった。♯は昨日のタイミングで、今日は眠りたいだけ寝かせてあげてほしいと使用人さん達に言っておいた。純粋な罪悪感からの提案だった。
実験は♯にとって都合の悪い結果に終わったが、だからと言って被験者を非難するわけにはいかない。特に、今後も実験に使うためには協力すれば良いことがあると思ってもらわなくてはならない。
♯はにっこりと笑った。「おはようパパ!」そして5歳の子供がしそうな行動である、意味もなく親に近づいていく動作を真似した。
父親は呆気に取られたようだったが、すぐに満面の笑みになって身を屈めた。まるで♯が抱きついてくるのを受け止めるかのような態勢だ。♯は一瞬意味もなく反抗的な態度を取ろうとしてしまったが、すぐに自分をたしなめた。このタイミングでは父親を労う行動を取っておく方が良い。
♯は父親に抱きついた。
「おはようシャロン。」と受け止めた男が言う。「今日はやけにご機嫌じゃないか。誰かのおかげで実験がうまくいったとか?」父親は明らかに肯定の意味の返事を期待しているようだった。
「まあ、そうとも言えます。」♯は濁した。「それよりパパ、今日はお暇?」♯は手を胸の前で組み完璧な角度で首を傾け父親を見上げた。
5歳児の愛嬌を完璧に使い切ったお願いに父親は轟沈した。ものすごい優しい声で「夜までずっとパパは暇だよ」と本人は言っているが、後ろに控えている父親の補佐をしている使用人さんは頭を押さえて首を振っている。おそらく領地経営のための仕事が溜まっているのだ。
もちろん♯にそんな事は関係ない。娘の可愛いお願いを聞いたことで仕事が滞ることをこちらのせいにされても困る。
「今日はね、パパに魔法を教えてもらいたいの。」♯は明らかにおかしなお願いをした。母親ではなく父親に魔法を教わるなど全くもって意味がない。普段の判断力なら冷静に指摘されるような頼みだが…。
「良いよ。一緒に練習しよう。」男はニコニコとうなづいた。父親は♯の愛嬌によって思考を完全に破壊されているらしい。
まあ、これに関してはどちらに転んでも良かった。父親に断られたとしても母親にお願いするだけではあったからだ。このお願いの真の目的は他者の使う魔法をつぶさに観察するための口実だった。魔法が思考によって制御されているのなら、可能な限り魔法が起こる様子を細かく観察することが魔法を使えるようになるための堅実な方法だろうと思われた。同時に父親の機嫌を取れるならそれ以上望むこともない。実際、お父様は昨日の♯の実験によって行われたひどい行いの数々をサッパリ忘れてしまっているようだった。
「じゃあパパ、杖を取ってきてね!♯待ってるから!」
***
ろうそくをつぶさに観察していた♯は顔の周りに漂ってきた煙を払った。ここまで近づくと物が焦げた匂いも少し感じられる。
♯はろうそくから目を離さず、こちらを見ているはずの父親に手で合図を送った。今度は消せという合図だ。詠唱は聞こえない。父親には声を抑えてほしいと頼んでいるのと、聞こえない距離まで離れたからだ。
少しするとろうそくについていた炎は前触れなく消えた。風が吹くわけでもなく、ただ忽然と消える。まるでライターのガスノズルから手を離した時のように、そうなるべくして消えるような様子だ。ろうそくの芯から立ち昇る煙は消えた瞬間から真上に登っていく。空気が揺れている様子すら分からない。
♯はもう一度合図を送った。少しすると突然炎が灯る。一瞬前は火がつきそうな様子を欠片も見せていなかったろうそくは、一瞬後にはそれが当然であるかのように燃えている。火花が散ることも、魔法特有の青緑の光が揺らぐことも、マッチを擦る精霊も、指を鳴らす女神も現れない。宇宙が書き換えられてこのろうそくの芯の先に発火するほどの熱が集められて火がついたといった様子となる証拠は、全然見られない。現実に起きたことは、ただ火がついただけ。
そもそもこの宇宙における炎という現象は熱によって引き起こされる連続的な酸化反応だという証拠もない。酸化という現象が存在するかどうかも分からない。酸素なんてものがあるかどうかすら分からないし、熱と呼ばれる現象があるかどうかすら分からない。地球の物理法則と極めて似た見た目のように見える、なにもかも一切違う物理法則でこの世界が運営されている可能性が大真面目にある。現実のあらゆることが、なにもかも一切分からない。
♯はそろそろ気が狂いそうだった。
そして段々と怒りが湧いてきた。もうたくさんだ。こんなことは許せない。いくらここが中世ヨーロッパ風異世界だとしても限度がある。魔法が思考によって操作出来る?学生が考えたような痛々しい呪文で魔法が発動する??あまりにも設定が雑過ぎる。作者はいったいなにを考えてこんな舞台を作ったんだ?最強の主人公が強大な敵を倒す物語とか?古代の遺跡を見つけた主人公が世界の敵を相手に魔法決戦を仕掛ける異世界魔法ファンタジーか?
♯の怒りは形状を変え、決意に変わっていった。♯は決心がついた。ようやく、真の決心がついた。この明らかに地球に似た世界と、その背後に広がる物理法則と、誰かの妄想だと言われても納得してしまいそうなこの魔法という技術を完璧に理解する。そして、人間が自然の征服者になる。可能なら、♯がそれを成し遂げる。
♯が世界を最適化する。そうでなくてはならない。
目の前のろうそくの火を♯は息で吹いて消した。そして杖を構えた。
「ta-wind swirlarn obeyak.
na-steela frailarn strikak.」
発火呪文は完璧に唱えられた。
♯はそれと同時に、極めて強烈にこう考えた。
たかが脳構造程度が、♯の自己実現をはばむことは許せない。
♯が手に持つ杖は宇宙を書き換えるための機構に必須の物であり、唱えた言葉は宇宙を書き換えるための機構の一段回目であり、この今思考している内容こそが宇宙を書き換える方向を決める照準の役割であり、宇宙はこの命令にしたがって書き換わる。
原理はいずれ解き明かすから今は考えない。♯の思考は魔法を変形させる機構の部品の一つであり、どんな思考が入力されたかで機構は出力結果を変える。
魔法行使者がやるべきことは、求められた思考のパターンを魔法という機構に出力すること。
♯がやるべきことは、脳という装置に、魔法という機構が動くために必要な特定の思考パターンを出力させること。
ただ脳というメモに一時的に別の事を書き込み、それを読み取らせた後に元々書いてあったメモを書き直すだけのこと。
魔法を発動させるその一瞬だけ、考え方を変えるだけのこと。
♯は魔法を使えない訳がないということ。唱えた呪文によって青緑の光が現れない訳がないということ。目の前のろうそくに火が灯らない訳がないということ。
♯にはそれを起こす力があるということ。
***
びっしょりと汗をかいた♯は、後ろ向きに受け身も取らず倒れた。一瞬だけ考え方を変えるなんて人間に出来るわけがないことを♯は今になって思い出した。というより、今まで忘れていたことに気づいて衝撃をうけた。人間にはそんなことは明らかに不可能なのだが、なぜかそのことを完全に忘れていた。
握った杖から手を離すと、手に杖の跡がくっきりと残っていた。多少震える手を♯は地面に投げ出した。あと5分はこのまま動く気も起きない。
ろうそくには、それが当然の事であるように火が灯っている。♯の魔法によって灯った火だった。
父親が向こうで喝采をあげる声が聞こえ、♯が倒れている事に気づいて焦ってこちらに向かってくる母の様子も聞こえてきた。
♯は湧き上がってくる達成感と同時に、自分の脳を騙すことがこれだけ疲労感を感じる事に多少の絶望感を感じてもいた。
毎回これでは、やってられない。