モンスターハンター カシワの書   作:77493

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視点、地点が少し変わります。




45話 打たれし布石

 

 

「ペッコー。支給品の配達依頼、手配済ませたよー!」

「ひーっ。おいおい、本当にこんなところをベースキャンプにするのか!? せいぜい、足場がいいところじゃないか!」

 

雷雲が怒号を上げている。強風はうねりを上げ、ここからそう遠くない草海原に吹くものとは毛色の異なる不穏さを内包していた。下方から吹き上げる空気は絶えず異臭を放つ。生き物の死骸、血液や消化液などで濁った淡水、あるいは古くに撃墜された飛行船の残骸などが主な出所だ。

遠方を望めば菌糸類や維管束植物が集合して造られた樹海に、巨大生物の白骨死体――白亜の建築物や、それをねぐらに定めた腐食動物の群れが見える。

生き物という生き物が拒む墓所……死という概念を掻き集めた広大なフィールドはしかし、新たな狩猟場としてギルドの承認を受けたばかりだった。

 

「ギルドが定めたんだ。俺たちは用意を済ませてやるだけだろう」

 

昼間だというのに視界は暗い。今にも降り出しそうな曇天でありながら、一粒の雨も落ちてこないことがかえって不気味だった。

眼下、大穴の真上に位置するこの高台は菌糸類やツル植物が侵食から守り続けた崖の一つだった。天井などは存在せず、強風にさらされたままになっている。

岩肌が剥き出しになった頂上には大人数人が立っていられるだけのスペースしかない。それでもモンスターが巣くっていないだけ利用価値は高いと言えた。

……ユカは、眼下に広がる底の見えない暗がりから顔を上げる。黒く濁った視界の先では、馴染みの同僚が酷いしかめっ面を浮かべていた。

体格のいい灰髪の男はディエゴ、細身で馴れ馴れしい口調の男はローランという。双方ともに癖のある性格だが、技術も知識も豊富で信の置ける相手だった。

 

「いんや、仕事は仕事としてこなすさ。しかし……ユカ、本当にお前もあの子らに同行する気か。もう何日も寝てないんだろ?」

「言ったって無駄だよー、ディエゴ。仕事モードのペッコったらコッチの言うこと聞いてくれないもーん」

「分かっているなら口より先に手を動かせ。ローラン」

 

ベースキャンプの設置。それ自体は慣れたものだが、今回ばかりは減らず口の一つも叩きたくなる任務だった。

新たな狩り場、希有な狩猟対象、そのねぐらの真上……口にこそ出さずにいたが、誰もがひりついた緊張感の中にいる。ぐっと歯噛みし、瓦礫をどかした。

 

「うーし、こんなもんだろう。流石にテントまでは無理だったが……狭いし、足場も悪いからなあ」

「退避場所があるだけマシだよ-。少なくとも『狩り場と呼べる』環境だってことだもん、大型古龍の前で休息なんかとれないでしょ」

 

最終確認の後、胸元のポケットから取り出した手帳片手にローランは癖の強い髪をぐしゃりと掻き上げる。

この仕草は彼が頭の中で思考を整理しているか、もしくは強い苛立ちを感じているかのどちらかの際に見られるものだった。

 

「『竜ノ墓場』。大穴の底に生き物の死骸……食後の残骸が積み上げられてて、生き物はまず近寄らない、ってさ。ネコタクが出入りできれば御の字だって」

「おっ、いつものローランサン情報網か」

「まぁね-。場所が場所だから退避ルートもかなり制限されるって話。ま、そこはアイルーちゃんたちがなんとかしてくれるでしょー」

「悪路、か。確かなのか」

「ペッコの勘頼りの狩りと一緒にしないでくださーい。間違いないよ、その道のプロからの情報だからね」

 

茶目っ気たっぷりに片目をつぶる金髪の男に、ユカは渋面を返す。「勘頼りの狩り」。返す言葉もないとはこのことだった。

ディエゴとローランは情報屋だ。特にローラン――本名はローランサンというそうだ――は高位の貴族の出ということもあり、独自の情報網を築いている。表向きは情報屋として動く傍ら、彼らは腕利きの狩人でもあり、一方でユカに同じくギルド直属の「騎士」でもあった。

彼らとのつきあいはチャイロのそれよりも長くなる。着任時期が似ていたこともあり、気がつけばだらだらと一緒に行動していることが常だった。とはいえ、ユカ自身はハンターズギルドにおいては中堅の部類にあたる。正義感の強さ、過去の特殊な事情も相まって、仕事面では苦労することも多かった。

そんな中でも、ディエゴとローランは若いユカを気にかけ率先してパーティを組んでくれていた。臆することなく意見を述べ、また過酷な任務にも同行した。

 

「撤退の目処も立ったなら、あとは連中と合流するだけだな……」

「おーい、こら、ユカ! 悪い癖だぞ、ろくに休みもしないで超大型に挑むつもりか!?」

「お前たちが準備を手伝ったんだ。しくじる要素などあるはずがないだろう」

 

年齢に大した差はない。しかし、仕事については彼らの方が少しばかり「上」なのだ。よってユカは二人に頭が上がらなかった。

尊敬と感謝の念は常にある。周りを鼓舞し、支援することを自然体で行えるほど度量が大きい彼らの存在は、孤高を持するユカにとって貴重な救いといえた。

 

「『骸龍オストガロア』。目撃例、狩猟記録はごく僅かだが、それでもないよりはマシだろう」

 

とはいえ、狩りが絡むとなれば話は別だ。目を剥く情報屋らに見向きもせず、赤髪の騎士は羽根帽子の下で銀朱の目を輝かせる。

ベルナ村を離れた後、好奇心とトラウマから逃れたい一心でユカの心は狩猟方面に傾倒しつつあった。

繁殖期を抜け、温暖期が近づくにつれその傾向はなお強くなる。今はちょうどその頃だ――ディエゴとローランは血色の悪い同僚の顔を見て口端を歪めた。

 

「……あー、やだねえ。俺たちが関与したから失敗しない、ってどんだけ褒め殺す気なんだか」

「ちょいちょい、ディエゴさん。誤魔化されてる場合じゃないの。ペッコを休ませるのもオレらの大事な仕事なの……オーケー!?」

「おっ、おう、もちろんちゃーんと分かってるさ、ローラン……な、なあ、ユカ、」

「俺はクリノスたちに同行するぞ。止めても無駄だ」

「いやいや、あのな……」

「はあぁ~!? なに、『新人くんたちを手伝っちゃうオレカッケー!』みたいな? それとも『好きな娘の前ではりきっちゃうオレカッケー!』的な?」

「……」

「おおっ、意外とダメージ受けてる!? 図星か!? いいぞローラン、もっとやれ!」

「はいよ~。んんっ、ペッコと一緒にしないでくださーい! オレは、年下のかわいこちゃんと喧嘩して大人げなく謝れもしないへたれ男とは違うんですー」

 

意外なところから意外な形で攻撃が来た……ユカは引きつった顔で同僚たちの顔を見比べる。

視線に気づいたローラン――こちらは確信犯だ――はにんまりと底意地の悪い笑みを浮かべ、隣のディエゴは同情しているのか、頬を掻いて苦笑していた。

休め、と双方の表情が雄弁に語っている。今も背後に立つ「蒼い髪の女」から目を反らしたまま、赤髪の騎士は双眸を僅かに細めた。

 

「それで? 俺にどうして欲しいんだ」

「……えっ、あ、べべべ、べっつにー!? そのままクリノスちゃんにフラれちゃえばーって!」

「いやあ、ローラン。流石にそれは言いすぎだ……あれだな、ユカの……うら若き俺らの後続の大事な恋バナだから、心から応援してやらにゃーならん!」

「うっわディエゴさんウッザ」

「それはない。お前たちに手伝って欲しいとは一言も言ってないからな」

「なんだよお前ら!? 言っておくがな、この中で俺は唯一の既婚者なんだからな! 俺の! 話を! 聞けぇ!!」

 

ぐわっと引き寄せられ、強引に肩を組まされる。馬鹿力に目を白黒させるユカだが、ディエゴとローランに悪感情らしきものは欠片も見当たらない。

子どものように楽しげに笑い合う姿は、あのニカリと人好きのする顔で笑う新米狩人の姿を彷彿とさせた。

 

(そうだな。たった数日、されどもう数日だ)

 

……会いに行こう。どのみち依頼書は急ぎで届けてやらなければならない。その為には気まずいなどと言っていられないことを騎士たちは十分に理解していた。

 

「ディエゴ、ローラン。俺はベルナ村、いや、一度龍歴院に戻るぞ。お前たちはどうする」

「おっ、やっと本気モードに入ったな。そうこないとな」

「最新の報告だよー、ペッコ。カシワのおにーさんが古代林のヌシに挑んだってさ。そろそろ決着がつく頃じゃない?」

「……そんな話は初耳だな。あいつ、いつの間に」

 

目の前で二人の顔馴染みが笑っている。亡霊を嘲笑うようにして、暗がりを祓うかのように破顔している。

 

「あの兄ちゃんだって頑張ってる、ってことだろ。誰も立ち止まってなんていられないんだよ。あんたがそうであるようにな」

「……ディエゴ」

「オレとディエゴさんは古代林と中継地点の二手に分かれて待機、だからー……だから、ペッコは早くクリノスちゃんに会って謝ること! 分かった!?」

 

ざわりと、胸中で蠢くものがあった。常ならばすぐにそれに手を伸ばし、淀んだ心の赴くままに狩り場に出る自分だが……ユカは小さく頭を振る。

 

「当然だ。俺を誰だと思ってる」

 

……本当のことを言えば、この叱咤激励さえ一時の慰めにしかならないことは分かりきっていた。トラウマとはそういうものだ。

今でも幻覚は後ろからぼそぼそと何ごとかを囁きかけていて、すぐにでも狩り場に向かえと、生命を屠ることだけがお前の存在意義なのだと挑発してくる。

眼前の狩り仲間に、ユカは心の底から感謝した。少なくとも彼らと笑い合っている間は亡霊の怨言を忘れることができたからだ。

口端をつり上げれば、情報屋たちは顔を見合わせて苦笑いを浮かべてみせる。そうこなくっちゃ、と笑う二人の口元に、僅かながら寂然の感情が見てとれた。

 

「よし、急ぐぞ。骸龍に気取られたら帰りの船がなくなるからな」

「オーケー、同感ー。ディエゴさん、オレ古代林に行くね。カシワのおにーさんもそうだけど、取り残されてた調査隊も気になるし」

「おうっ!? ローランお前、今日は俺が樹海行きってか!? くそっ、今度龍ころしでも奢れよ!」

 

慌ただしく撤収準備を進め、眼下の大穴を気にしながら小型の飛行船へと乗り込む。

あの暗がりの奥底に、今回の狩猟対象が身を潜ませているからだ。騎士たちに名残惜しんでいる暇などなかった。

ユカは、別隻に分かれて飛び乗った情報屋の背中に一度だけ振り向いた。ディエゴは気楽に手を振り返し、ローランは資料に視線を落としたまま首肯する。

 

『――ユカ。あいつら、生きてあんたの前に現れることができるのかねえ』

 

船影が遠のくにつれ、再び背後から声を掛けられた。「知るか」、そう答えかけて頭を振る。

これから先、手練れの狩り人でも苦労する超大型との対峙が待っているのだ。同僚たちの気遣いを無碍にするのも癪だった。ましてや今回は新米狩人も同行する。幻覚に気取られて不覚をとるわけにはいかない――赤髪の騎士は、軋む木箱に背を預けて半ば無理やりに目を閉じた。

曇天も相まって、視界はすぐに暗く閉ざされる。だというのに、眠気が訪ねてくる気配は欠片もなかった。

 

 

 

 

 

 

……その日は、早朝から霧が出ていた。

ベルナ村において朝霧は珍しいものではない。高原であるが故の風物詩として、好んで早起きする酪農家もいるほどだった。

この近辺は日中は暖かく風も少ない穏やかな気候に恵まれる一方で、朝晩は気温が下がるため、どうしても早朝は山霧、層雲が発生しやすい傾向にある。

とはいえ、「空路を活かして迅速な実地調査を」売りとする龍歴院始動の飛行船事業に差し支えたことはない。

霧の中でも運航できる技術があるのか、アイルー族の視力の賜か、単に時間をずらしているのか。疑問は一向に尽きなかったが、それよりも乗客が全員無事に出発ないし帰還を済ませてくれるなら、それだけでよかった。

 

「カシワさん、無事かしら……」

 

ノアは、畜舎に入る直前でふと空を仰ぐ。今朝の霧はいつもより遥かに濃く、数メートル先が見渡せないほどだった。

数日前に火急の仕事に出た狩人の姿を思い出す。ディノバルドの狩猟……それが容易な狩りではないことくらい、一村人でしかない自分にも分かっていた。

無事であって欲しいと、そう思う。彼は父のように逞しくもクリノスのように身軽でもなかったが、ひたすら努力を惜しまないひとだった。

 

(応援したいだけなのか、気になっているのか……自分でも、よく分からないなあ)

 

ベルナ村は開放的で朗らかな村だ。観光地として名高いことはもちろんだが、腕利きのハンターが龍歴院を訪ねる関係で立ち寄ることも多い。

そのためか同年代の少女たちは彼らの活躍に胸をときめかせては話に花を咲かせていた。ノアもまた、近所の雲羊鹿飼いに恋の有無を振られたこともある。

 

「ううー……でもわたし、恋とかよく分からないし……」

 

カシワという名の新米狩人。彼は、ノアが昔から周期的にみる夢に出てくるハンターに瓜二つだった。

一つ結びの黒髪に黒瞳、人好きのする笑顔と使い込まれた片手剣……実のところ、ノアはそのハンターに強く惹かれていた。

「自分」は、その夢の中では男の恋人か何かであるらしかった。手を繋ぎ、買い物に出かけ、人気のない川辺で密かに愛を語り合う……そんな間柄だった。

 

「名前、何さん、って呼んでたかなあ。そこだけは絶対に覚えてないのよね……」

 

夢で何度もみるうちに興味が湧き、傍らに立つうちに好意に変わり、気がつけば毎夜会えることを望むようになっていたのだ。

……決して、多くは望まない。

現実にあの狩人が存在しているかどうかも分からないし、何よりすべては夢の中の出来事だ。カシワにしても、偶然彼に似ているだけという可能性が高い。

何より、自分は大恋愛の末に死別という形で婚姻生活を終わらせた両親を目の当たりにしている。病死という形で早くに倒れた母、妻を亡くした直後から仕事に逃げた父。彼らの生き様を思う度、夢の中の逢瀬だけで満足しようと、そう決めた。

それ以外のものをないがしろにしてしまえるのが「恋」ならば、自分はそこに堕ちたくない――そうして長くを過ごす最中、ノアはカシワと出会ったのだ。

 

(カシワさんは、わたしのことどう思ってるんだろう? いきなり触られて嫌じゃなかったかな、びっくり……させてるよね、きっと)

 

クリノスという女狩人と親しげに狩りの腕を磨く姿は、夢の中のハンターとはまた違った一面を持っているように見えた。

そもそも彼はあの男とは別人なのだ。惹かれたところで、試したところで、同じ反応が返されるとは思えない。

それでも興味と関心は彼に向けられてしまった。悪いと思いつつも礼などと称して近寄り、こちらの行動に一喜一憂し、慌てふためく姿を堪能してしまった。

 

「……いやだなあ……恋をすると女は可愛くなる、なんて嘘もいいところじゃない」

 

顔を真っ赤にしたり、大げさに首を振ったり、狩ったモンスターの話を喜んで明かしたり、一方でその死を悼み深く悲しんだり……。

カシワというハンターは、ノアにとって衝撃としか言いようのない存在だった。父ともクリノスとも異なる、全く未知の生命としか言いようがなかった。

惹かれているわけではない、同一視しているつもりもない……本当に、そうだろうか。

困惑と好奇心に突き動かされるままに、彼を自宅に誘ったのが数日前。どう振り返っても、距離を置かれても仕方のないことをしてしまったと、そう思う。

 

(でも、うん……これ以上、夢の中のあのひとと重ねたくなかったし。これはこれでよかったのかもしれない)

 

吐き出した息は重く、深い。頭を振り、気を取り直してムーファたちの世話をしようと一歩踏み出した、そのときだ――

 

『やあ。ずいぶんとまた捜したよ、君のこと』

 

――その日は、早朝から霧が出ていた。

村人はもちろん、龍歴院の研究員やハンター、それこそ他の雲羊鹿飼いさえも起きていない、日の昇る前の、暁の時刻の最中のこと。

靄、いや、霧か煙か、それとも霞か。その人物は、それほど濃い真っ白な山霧の奥から不意にふらりと姿を現した。

 

「あの……? どちら様、でしょうか」

『おやあ、それは……ああ、そうだねえ。そういえば、これだと初対面になるのだしねえ」

 

藤色、紫。肉厚で特徴的な布地は花弁か笠雲のようにふわりと身を覆い、ゼンマイのようなくるりと巻かれた装飾が微風にちらちら揺れている。足取りは複雑で、一歩出ては立ち止まり、また歩み出ては半歩下がりと、どこか落ち着きがない様子だった。

菌糸類を思わせる大きな帽子に遮られ、その表情はまるで読めない。否、顔だけでなく髪や目の形も霞がかったように朧気で、印象を抱きにくい相手だった。

見覚えは、ない。だというのに、何故か向こうはノアを知った相手であるかのように話を振ってくる。雲羊鹿飼いの娘は困惑した。

 

「ごめんなさい、前にどこかでお会いしたことがありましたか」

「うん? まさか、そんなことないよ」

「いえ、でもさっきから」

「それより、ねえ、君。この村に『黒い髪の一本結びで、黒い眼をしたハンター』が寄りついたりはしていないかな」

 

心臓が跳ねた音がした……ような気がした。反射的に顔を跳ね上げさせたノアは、帽子の鍔の下にキョロリと動く不可思議な眼球を見出して息を呑む。

 

「いるんだね? そっかあ、手遅れだったかあ……そうだろうと思ってはいたんだけれどねえ」

「あの……あなた、誰なんですか。どうしてカシワさんのことを、」

「うん? 僕はその二足歩行のことを『カシワ』だなんて指定してやいなかったよ。君が自分からそう吐いただけなのじゃないかなあ」

 

藤色と、緑色を足して割ったような色彩だ。前に、どこかで見たことがあった気がする。

ぎくりとしてノアは肩を強張らせた――自分にはそんな記憶も覚えもない。眼前、ここまで個性的な姿をした相手なら忘れていられるはずがないというのに。

何故、どこかで会ったような気がするのだろう。どうして、こんなにも胸騒ぎがするのだろう。

ぐっと拳を握りしめ、大きく深呼吸して正面から睨めつける。藤色の人影は、驚いたように僅かに肩を跳ねさせた。

 

「なんの、御用ですか。カシワさんは今、大事なお仕事に出ているんです。言付けならわたしが……」

「ああ、いや、そうじゃない、そうじゃないんだよ。別に僕はね、その二足歩行に特別に用があるってわけじゃあないんだ」

 

「この人物はどこか危険だ」。思わず手近な農具を掴むと、ノアはさっと切っ先を藤色の人影に突きつける。

ムーファの餌や畜舎の敷物として扱う干し草を持ち運びするのに用いるホークだ。錆びないよう手入れを欠かさない叉は、霧の中でも鈍い光を放った。

 

「なら、なんです? カシワさんじゃないならクリノスさんですか、それともユカさんのお知り合いですか」

「や、やだなあ。君、ちょっとは落ち着きなよ。そんなもの振り回したら、危ないよ」

「まだ、振り回してませんっ」

「うーん。時間の問題なのじゃないかなあ……いや、そうじゃない、そうじゃないんだよ。なんて言ったらいいのかなあ」

 

意外にも。意外にも相手はたじろぎ、うろたえている。ホークが効いているのかしら、と首を傾ぐノアを尻目に、男はわざとらしく嘆息した。

 

「うーん、そんな大げさなことじゃあないんだよ。僕はただ、一度、様子を見にきたかったっていうだけで」

「様子見……? なんの話ですか」

「うーん、それは……ああ、そうそう、あのね。君には、そういう長いモノは合わないと思うなあ。どうせなら、ほら、こういうのがいいよ」

 

突如、丸みを帯びた膨らむ袖から鈍く輝く塊が取り出される。見慣れない、白に紫、緑色と、見る方向で色を変える鉱石だった。

結晶と呼ばれるもののようで、細やかな複数の六方晶がまばらに寄り添い合っている。左右両手に塊を乗せられて、ずしりとした重みにノアは一瞬よろめいた。

 

「いいかい、こうやって持つんだよ。これは素材って呼ばれる形だから、君の手には重いかもしれないけれど。動きを覚えておくだけでも違うからね」

「えっ、あの……な、なにっ、」

 

袖からぬるりと這い出された男の手は、何故か不思議と透き通っているように見える。血色の悪い肌だった。

手首を掴まれ、持ち上げられ、一定の高さで留めるよう促され……気がつけば、あの天色髪の女狩人が好んで用いる双振りの剣を持つ姿勢をとらされていた。ぐっと上から力強く手の甲を押さえられ、まるで草刈りの鎌を持つかのように手が下向きにコの字を描く。

わけが分からず目を白黒させるノアを見下ろして、藤色の人影はうっそりと静かに笑った。

 

「そうそう、その調子だよ。ちゃんと『爪』は『振り上げて左、右の順で内側に薙ぎ払って』使わないと」

「あ、あのっ。これは、一体……」

「まあまあ。護身術とでも思えばいいよ、覚えておいて損はないはずだからねえ」

「護身術って……そもそも、ハンターさんは武器を他人に向けてはいけないんですから。どうしてこんな……」

「うん? そうなのかい? うーん……けれどね、人間にも色んなのがいるからねえ。僕は、用心に越したことはないと思うよ』

 

それが心底楽しげに笑うと、直後、山霧が急激に濃く変化した。藤色の奇妙な服からして、男の存在は異質である。奇術師と名乗られたら納得しかねない。

あまりの疲労感にぺたりとへたり込んだノアの前で、相手の姿は次第に霧に紛れ、ぼんやりと霞んでいく。

「このまま彼を行かせてはいけない」、ふと何故かそのような気になった。慌てて手を伸ばしてみたが、指先は空しく宙を切るだけだ。

 

『慌てることはないよ。いつか、僕の気が向いたらまた話をしにここを訪ねることにしようじゃないか。それまで元気にしているんだよ』

(また!? またって、そんな……どうしてっ。どういうこと!?)

『黒髪の……カシワ、だったかなあ。もしその子に泣かされでもしたら僕に言うんだよ。「今度は」必ず助けてあげるから』

 

ざあっと、強烈な風が音を吹いた。立ち上がることもできず、ノアは呻きながらその場で身を丸くする。

はっと顔を上げると、すでに目の前から男の姿は消えていた。先の風が連れ去ったのか、周囲を覆い尽くしていたはずの深い霧もすっきりと晴れている。

 

「な、なんだったの? 今の……」

 

夜明けが訪れようとしていた。東の尾根に眩い光がちらりと瞬き、高原を柔らかく照らしていく。

ふらつきながらも立ち上がり、ノアははたと足元を見下ろした。霞に化かされたような一連の出来事はしかし、決して夢ではなかったのだ。

色とりどりに艷めく鉱石は、変わらずずしりと草の上に沈んでいる。困惑と疑問に眉根を寄せ、雲羊鹿飼いの娘は踏ん張って結晶を畜舎横にどかした。

……気に留めている暇はない。自分の仕事は生き物相手のものだ。少しでも手を抜けば、それこそムーファたちの命に関わる。

 

(でも……あのひと、前に、どこかで)

 

藤色、霞、蠢く眼。彼は何故、自分にあのような質問を投げかけたのだろう。どうして、カシワというハンターに微かな敵意を向けるのだろう。

雲羊鹿のミルクを絞り、餌をやり、小屋を掃除して……ふと気が抜けた瞬間に、ノアは大きく嘆息した。

 

「もしかしてカシワさんの知り合いなのかしら。あの夢には……あのひと、出てこなかったと思うんだけど……」

 

思考がまとまらない、結局ぐるぐると考え込んでしまっている。うぅん、と唸った瞬間、ふと腰のあたりに寄ってきたムーファがひと声鳴いてノアを呼んだ。

我に返った雲羊鹿飼いの娘は、導かれるようにして畜舎の外に出る。いつしか陽光が輝き、暖かな空気が牧草地に満ちていた。

いい天気だと、そう思う。しみじみと温かな気持ちを噛みしめ、さあ仕事の続きだときびすを返しかけたとき、ノアは己を呼び止める何者かの声を聞いた。

 

「ノア! そのっ……ええと……ひ、久しぶりだな!」

 

黒い髪の一本結びで、黒い眼をした見知ったハンター。カシワの元気な姿を目にした瞬間、ノアは胸が高鳴ったのを知覚する。

 

「カシワ……さん。お、おかえり、なさい……」

「あー、そうだった、うん、ただいま! その、なんだ……こ、この間は悪かった! 実は、君に頼みたいことがあるんだ。話だけでも聞いてくれないか」

 

「泣かされでもしたら僕に言え」、藤色の人影は確かにそう言っていた。

「泣かされでもしたら」。カシワに限ってそのようなことがあり得るのだろうか。不意にずきりと胸の内が痛みを訴え、ノアはたまらず首を振る。

 

「お話ですか。わたしに出来ることなら、なんなりと」

 

すべては、とうの昔に手遅れだ。ニカリと子どものような顔で笑う狩り人を招き入れながら、娘は黒瞳を柔く綻ばせた。

 

 





サイト掲載開始:2022/09/04

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