朝焼けが、灰色に沈んだ街にじんわりと溶け込んでいく。まだ眠たげなビルの影を縫うようにして、藤田ことねは自転車を必死に漕いでいた。タイヤが濡れたアスファルトを鳴らす音が、やけに大きく耳に響く。
「やっば……またギリギリ……!」
頬を切るような朝の冷たい風が、まどろんだ意識を無理やり覚まさせる。手はかじかんでブレーキにうまく力が入らず、何度かカクンと揺れた。けれど、そんなこと気にしてる暇はない。遅れたら、シフトを減らされるかもしれない。給料が減れば、電気も止まる。生活が、崩れる。
裏口の鉄のドアを叩くように開けると、油の匂いと共に店長の眉間のシワが飛び込んできた。
「藤田さん、またギリギリじゃんか。これじゃ……」
「セーフっすよ、セーフ! ほら、もう入ってるし!」
笑ってエプロンを身につける。息は上がっていたが、それもレジのカウンターに立つ頃には、作り物の笑顔と一緒に押し込めた。
「いらっしゃいませー!」
声を張る。声だけは元気よく。
目の前の客は、いつもの缶コーヒーを手にしながら微笑んだ。
「朝から元気だねぇ、助かるよ」
「お金のためなら、何でも頑張れますから~」
冗談めかして言いながらも、心の奥底では否定できないものがあった。ほんとうに、そうなのかもしれない。
数時間後、外に出たときには朝日がすっかり昇っていた。空は晴れているのに、ことねの身体はずっしりと重い。制服の下のTシャツは汗で冷たくなっていて、背中に張りついていた。
「さて、次は……居酒屋か」
缶コーヒーを一気に流し込み、自転車にまたがる。味なんてわからなかった。ただ、目を覚まさせるためのルーティン。
**
「いらっしゃいませっ!」
夜の居酒屋は明るい喧騒に包まれていた。焼き鳥の香ばしい匂い、油が弾ける音、酔客の笑い声。ことねはその渦の中で、何も考えずに体を動かしていた。グラスを下げ、皿を運び、オーダーを叫ぶ。思考を止めれば、疲れも感じない——そんなふうに自分に言い聞かせていた。
「お前、いつ寝てんの?」
厨房で皿を洗いながら、バイト仲間である大学生の拓也がぼそっと呟いた。
「んー、電車の中とか? それか、信号待ちの間とか?」
笑って返すと、拓也は「マジかよ」と顔をしかめた。けれどことねは、そのリアクションがちょっと嬉しかった。誰かが自分を気にしてくれるって、それだけで少し救われる気がする。
でも、足は痛い。腰も重い。喉も乾いてるのに、水を飲む暇すら惜しい。けれど、止まれない。ことねが止まったら、誰が家の光を守るんだろう。
深夜。帰り道。街灯の下でふと足を止めた。
スマホの電池は赤く点滅している。薄暗い画面に映っていたのは、SNSで流れてきた動画だった。笑顔でステージに立つ、同い年くらいのアイドルたち。明るいライトに照らされ、手を振っている。夢みたいな世界。
ことねは画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「でも、あたしはこれで……いいんだよね?」
誰に向けたのかわからない問い。
風が強く吹いて、画面がブラックアウトする。スマホをポケットにしまい、再びペダルを踏む。
「あたしは、戦い続ける……それがあたしだから」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるように。あるいは、まだ見ぬ何かへの宣言のように。