バイト戦士ことね   作:夜琥

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13. 五線譜の向こう側

休息を経て数日、ことねの体調はすっかり回復していた。無理なく、自分のペースでバイトのシフトも調整してもらい、心身ともに充実した日々を送っていた。動画編集に熱中し、ライブ配信も継続。視聴者からのコメントは常にことねの活動を後押ししていた。

 

そんなある日、ライブ配信を終え、コメント欄を眺めていたことねの視線は、再びある一言に釘付けになった。

「ことねちゃんの歌、聞いてみたいな!」

そのコメントは、以前にもあったが、今回は特に心に深く刺さった。

 

(歌……か)

 

歌は、ことねにとって、中学時代に夢を諦めるきっかけとなった、苦い記憶の塊だった。初星学園でアイドルを目指した日々、ダンスには自信があったものの、歌唱力だけは周囲との差を感じ続け、何度努力しても音を外してしまう自分に絶望した経験がある。才能がないと悟り、夢を捨てたはずの「歌」。今さら、また向き合うなんて。

 

だが、画面の向こうには、期待に満ちた視聴者の声がある。そして、何よりも、今のことねには「新しい挑戦」への好奇心が芽生えていた。

 

「よし……ちょっと、やってみるか」

 

ことねは、意を決してスマホを手に取った。慣れない歌唱アプリをダウンロードし、イヤホンを装着する。マイクに向かって声を出すと、自分の声が、練習室で聞いていたあの頃と同じように、不安定に揺れる。

 

(うわ、下手くそ……)

 

歌詞を追いながら歌ってみるが、リズムがずれたり、高音が出なかったり。何度やっても、過去の自分と寸分違わない、不恰好な歌声がスピーカーから流れ出す。悔しさが込み上げてくる。昔の自分が、「やっぱりあたしには無理だ」と諦めた理由が、鮮明に蘇ってきた。

 

「くそぉ……!」

 

思わずスマホを投げ出しそうになるが、寸前で思いとどまる。あの頃とは違う。今は、誰にも評価されない練習室で、ただ一人絶望する自分ではない。画面の向こうには、自分のダンスを応援し、今度は歌を聞きたいと言ってくれる人がいる。

 

(このまま、逃げたら前と同じだ)

 

ことねは、再びマイクを握りしめた。

 

---

 

翌日の居酒屋でのバイト中、休憩時間。ことねは厨房の隅で、こっそり歌唱アプリを開いていた。ヘッドホンからは、自分の下手な歌声が漏れ聞こえる。

 

「……何やってんだ、お前」

 

背後からの声に、ことねは飛び上がった。振り向くと、そこにはバイト仲間の拓也が立っていた。古びたギターを抱え、少し呆れたような顔をしている。

 

「拓也さぁん!急に声かけないでくださ~い!」

 

慌ててイヤホンを外し、何もしていないと弁明することねに、拓也はにやつきながら近づいてきた。

 

「いや、丸聞こえだったぞ。お前、歌の練習してんのか?」

「うぅ……そうですけど……下手くそでしょ」

 

ことねが恥ずかしそうに顔を伏せると、拓也はフッと笑った。

 

「下手なのは否定しねえな」

「……でしょうね」

「でも努力してることは伝わってくる」

 

拓也はことねの隣に腰を下ろし、ギターを軽くつま弾いた。心地よい音が厨房に響く。

 

「前にも話したけどさ、俺も、昔はプロのギタリスト目指してたんだよ。でも、現実は甘くなくて、食っていけなくて諦めた」

 

ことねは静かに耳を傾けた。拓也がこの話をするのは、以前出勤中に倒れそうになったとき以来だ。

 

「でもさ、それでも俺、ギターは手放さなかったんだ。好きだから。理想通りじゃなくても、弾いてると落ち着くし、楽しいと思える瞬間もある。それで十分だと思えるようになったんだ」

 

拓也の言葉に、ことねの胸の奥がじんわりと温かくなる。以前は分からなかったが、配信を始め、ファンに見てもらえることで、自分が「楽しい」と思えるものが何かを自覚していた。

 

「前に話してくれたことですよね。あたしもやっとその気持ちが分かったような気がします」

「だからこそ、この気持ちに気づかせてくれた人達に恩返しがしたいんです。楽しいって思ってもらいたいんです」

 

ことねの中に燻っていた感情が溢れ、言葉になっていく

 

「あたし、本当は……歌を歌うのが、すごく怖いんです。みんなに、今のあたしの歌を聞かせて、失望されるのが」

 

それはことねの本音だった。3年間認められてこなかった経験が、完璧にしなければという強迫観念を生み出していたのだ。

拓也はことねの言葉を遮るように言った。

 

「さっきも言ったけど、好きだからやってるんだ。ことねだってダンスは「楽しく」「好き」でやってるんだろ?そこに失望されたくないっていう気持ちがあるのか?」

 

「それは、ない、ですけど」

 

「だったら、歌もそうじゃねえの?誰かに言われたからってのがきっかけでも、お前自身も、ちょっとは歌ってみたかったんじゃないか?下手とか上手いとか関係なしに」

 

ことねはハッとした。拓也の言う通りだった。苦手だから、諦めたから、と蓋をしてきただけで、心の奥底では、もう一度歌ってみたいという気持ちが確かにあったのだ。

 

「……歌は、正直、怖いです。昔、散々ダメだって言われてきたから」

「そりゃそうだろ。人には向き不向きがある。でも、今のお前には、昔のお前にはなかったものがあるじゃん。ことねを応援してくれる人がたくさんいる。それに、ことね自身も変わった。無理して倒れるようなことも減ったしな」

 

拓也は優しく微笑んだ。

「完璧じゃなくていいんだよ。お前が歌いたい、って思ってるなら、それで十分なんじゃねえかな。それに、お前が楽しんで歌ってる姿を見たら、きっとファンも喜ぶと思うぜ」

 

拓也の言葉は、ことねの心に深く響いた。彼は、かつての自分と同じように夢に挫折しながらも、自分の「好き」を手放さなかった。そして、楽しむことの意味を教えてくれた。

 

「ありがとうございます。ちょっとだけ元気が出ました」

「そりゃ良かった。そろそろ休憩時間終わるから、動けるようにしとけよ」

 

そういって拓也はその場を後にしようとする。

 

「拓也さん!あたし今日も配信するので、時間があればあたしの挑戦を見ていてください!」

 

拓也はニヤッと笑い、「楽しみにしてる」と伝えその場を後にした。

 

---

 

 

バイトが終わったその日の夜、人通りの少ない土手でことねは配信を始めた。いつものようにダンスを披露し、視聴者とのコメント交流も楽しんだ。そして、配信の終盤。

 

「えっと……今日は、ちょっとだけ、いつもと違うことをやってみようかなって思います」

 

コメント欄が一瞬ざわめき、「何?」「まさか歌!?」といった声が流れる。ことねは緊張で口が渇くのを感じたが、拓也の言葉を思い出した。完璧じゃなくていい。楽しむことが大事。

 

「……歌、ちょっとだけ、歌ってみます」

 

深呼吸をして、ことねは小さな声で歌い始めた。途中で音を外したり、歌詞が飛んだりもしたが、彼女は最後まで歌いきった。息を切らしながらスマホの画面を見ると、コメント欄は驚きと、そして温かい応援の声で埋め尽くされていた。

 

「え、歌!?」「ことねちゃん歌うんだ!」「頑張った!」「無理しないでね!でも感動した!」「意外と悪くないかも?」「挑戦する姿勢が最高!」「ことねちゃんならもっと歌えるようになるよ!」

 

批判的なコメントは、ほとんど見当たらない。それどころか、彼女の挑戦を称賛し、今後の成長を期待する声ばかりだった。

 

(みんな、こんなあたしでも、受け入れてくれるんだ……)

 

---

 

配信を終え、帰る準備をしているとスマホが鳴った。母からだった。

 

「ことね今日もお疲れ様。最近楽しそうだね。声に元気があるよ」

「え?そうかな?」

「うん。前にことねが言ってた配信、あれ、妹たちが毎日見てるんだよ。あんたが楽しそうに踊ってるの見て、みんなで真似してるんだから」

 

ことねは驚いて目を見開いた。チビどもが自分の配信を、そんな風に見ていたなんて。

 

「歌もさ、練習してるんでしょう?こないだ、ことねが鼻歌歌ってるの、妹たちが真似してたよ。お姉ちゃん下手だけど、なんか元気出るって」

 

「へ、下手って……」

 

苦笑しながらも、ことねの胸には温かいものが込み上げてきた。家族のために頑張る自分が、楽しんで活動すること自体が、こんなにも家族に喜びを与えているなんて、思ってもみなかった。

 

(お金だけじゃないんだ……あたしが楽しむことが、みんなの笑顔に繋がるんだ)

 

「もう夜も遅いし、人通りも少ないようだから気を付けて帰ってきてね」

 

夜空を見上げ、ことねは深呼吸した。歌への挑戦は、まだ始まったばかり。でも、もう一人で抱え込む必要はない。自分の「好き」を信じ、応援してくれる人々と共に、一歩ずつ進んでいけばいい。

 

その決心は、かつて夢見た『アイドル』の輝きとは異なる、ことね自身の『好き』と、誰かの笑顔が紡ぎ出す、新しい未来への確かな光となって胸に灯った。

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