あのライブ配信で歌を披露してから、数日が経った。ことねの心には、これまで感じたことのない高揚感が満ちていた。過去の挫折の象徴だった歌が、今は自分にとっての新たな光になりつつある。視聴者からの温かい反応が、彼女の背中を強く押し続けた。
(歌……もっと、もっと上手くなりたい)
配信を終えるたびに、ことねはそう強く思うようになっていた。しかし、独学での練習にはすぐに限界を感じ始めた。スマホの歌唱アプリに向き合い、音源に合わせて声を出す。出ない高音、安定しない音程、どこか一本調子な表現。
ダンスのように、身体が自然と応えてくれる感覚は、歌にはまだない。特に、かつて初星学園で散々指摘された「音の不安定さ」は、今も彼女の前に立ちはだかる壁だった。過去のオーディションで味わった挫折感が、練習するたびに薄い膜のようにまとわりつく。
「はぁ……やっぱ、難しいなぁ……」
自分のかすれた声を再生する。何度やっても、上手くいかない部分が明確になるばかりで、改善の兆しが見えない。焦燥感が募り、時折、投げ出してしまいたくなる衝動に駆られた。
それでも、彼女の心を支えていたのは、雑談配信で寄せられた温かいコメントの数々だった。「ことねちゃんの歌良かった!」「無理しないでね!」「応援してるよ!」そして、妹たちが鼻歌を真似していたという母の言葉だった。
(下手でも、元気が出るって言ってくれたんだ……)
完璧じゃなくていい。まずは、自分自身が歌を楽しむこと。拓也の言葉が、ことねの頭の中で反芻される。だが、楽しむためには、ある程度の技術も必要だと、ことねは感覚的に理解していた。
---
「拓哉さん、相談があるんですけど」
ことねは拓哉にメッセージを送った。指先がわずかに震える。誰かに弱音を吐くのは得意ではない。ましてや、一度は諦めた歌のことだ。しかし、今の自分には、藁にもすがる思いがあった。
「いま、躓いていることがありまして、歌、なんですけど、どんなに練習しても音を外してしまってですね、コツとかがあったら教えてほしいです」
ことねは、拓哉がギターをやっていることから、バンドを組んでいたか、あるいは、ギターボーカルをやっていたのではないかと淡い希望を抱いて連絡をした。
彼が音楽に詳しければ、何かヒントくらいはもらえるかもしれない。そんな期待だった。
数分後、スマホが軽快な通知音を立てた。拓哉からの返信だった。意外なほど早いレスポンスに、ことねの心臓が小さく跳ねる。
「今から時間あるか?紹介できる人がいる」
メッセージは短く、簡潔だった。しかし、その内容はことねの予想を遥かに超えていた。「紹介できる人がいる」。
その言葉が、ことねの頭の中で何度も反響する。一体誰を? どんな人なんだろう? 期待と不安が入り混じった感情が、胸の中で渦を巻いた。
---
そうして拓哉から待ち合わせ場所に指定されたのは、電車で1時間ほど離れたライブハウスだった。古びた雑居ビルの地下へと続く階段。壁にはインディーズバンドのものと思われるフライヤーが無数に貼られ、独特な文化の匂いが漂っている。
ことねが普段足を運ぶような場所とは明らかに異質で、少しだけ気後れした。
ライブハウスはまだ開場前らしく、入り口の重厚な扉は固く閉ざされていた。集合時間よりも10分ほど早く到着したため、ことねは店先で拓哉を待つことにした。
手持ち無沙汰にスマホを取り出し、無意識のうちに初星学園のアイドル達の動向をチェックしていた。
学園の一番星(プリマステラ)である十王星南(じゅうおう せな)の最新の配信アーカイブ。圧倒的な歌唱力とカリスマ性。寸分の隙もないパフォーマンス。コメント欄は称賛の嵐だ。
「お、やっぱ会長はキラキラしてるな~、こっちは、あたしと同じ1年生ぇ!?ほわ~すげ~」
画面の中で躍動するのは、自分と同年代、あるいは年下のアイドルたち。彼女たちのパフォーマンスは眩しく、そして、ことね自身の現在地を否応なく突きつけてくる。
ダンスやルックスの可愛さであれば、自分も負けていないという自負はあった。しかし、ことねは冷静に自己分析する。アイドルとしてファンを楽しませる総合的な技量、そして何よりも歌唱力においては、現役で活躍する彼女たちに遠く及ばないことを痛感していた。
アイドルの夢を諦めたとはいえ、調子が良くなっていることねには、燻った闘争心に火を付けるきっかけになった。
「ここの振り付けはこうかな?もう少し迫力を出すんだったらこう?」
スマホの画面を食い入るように見つめながら、小さく身体を動かしてみる。動画編集をするようになってから、ことねは自分の動きを客観視する能力が格段に向上していた。
以前なら他人に指摘されるまで気づかなかったような細かな癖や改善点を、自分自身で見つけ出し、修正できるようになったのだ。
ことねは元々、「目」が良い。これは、彼女自身も自覚している強みだった。自分の可愛さを最大限にアピールするための表情や角度を本能的に理解し、ダンスの魅せ方にもその感覚は活かされていた。
それは幼い頃から無意識に培ってきたものだったが、動画編集という作業を通じて、その感覚を言語化し、意識的にコントロールできるようになったのは大きな成長だった。
画面の中のアイドルたちの動き、表情、視線の配り方。それらを観察し、分析し、自分のものとして吸収しようとする。それは、歌に悩む今の彼女にとって、数少ない能動的な自己研鑽の時間だった。
不意に、背後から声がかかった。
「よう、待たせたな」
聞き慣れた、少し低めの声。拓哉だった。ラフなパーカーにジーンズという、いつもと変わらない服装だが、ライブハウスという場所に妙に馴染んでいるように見える。
「拓哉さん!いえ、あたしが早く来すぎただけなので!」
ことねは慌ててスマホをしまい、向き直った。
「そっか。じゃ、入るか」
拓哉はそう言うと、慣れた手つきでライブハウスの扉を押し開けた。ギィ、と重たい金属音が響き、薄暗い空間が目の前に広がる。まだ照明は落とされ、ステージもおぼろげにしか見えない。
独特の、少し埃っぽいような、それでいてどこか甘いような匂いが鼻孔をくすぐった。それは、汗と情熱と、そしてたくさんの音楽が染みついた匂いなのかもしれない。
「あの、拓哉さん。紹介してくださる方って……」
ことねがおずおずと尋ねると、拓哉は「ああ」と頷き、奥の方を指差した。
「あの人だ。ちょっと偏屈だけど、腕は確かだから」
拓哉の視線の先、薄暗がりの中に、カウンターらしきものに肘をついて座っている人影が見えた。逆光になっていて顔はよく見えないが、小柄な女性のようだ。
「ミコさーん!連れてきたぜー!」
拓哉が気安い口調で呼びかけると、その人影がゆっくりとこちらを向いた。照明が落ちているため表情は窺えないが、鋭い視線だけがこちらを射抜いているような錯覚を覚える。ことねはゴクリと唾を飲み込んだ。
近づいていくと、その女性の姿が徐々にはっきりと見えてきた。年の頃は20代後半から30代前半だろうか。
黒髪のショートカットで、細身の体に黒いTシャツとダメージジーンズを身に着けている。腕にはタトゥーが覗き、耳には複数のピアスが光っていた。
その佇まいは、ことねが今まで出会ったことのないタイプの人種で、少し威圧感を感じる。
「……遅い」
女性は低い、ハスキーな声で呟いた。その声には、どこか気だるげな響きが含まれている。
「すみません、ちょっと道が混んでて。こいつが、藤田ことね。歌のことで相談があるって言ってた子です」
拓哉がことねを紹介する。ことねは緊張しながらも、深く頭を下げた。
「は、初めまして!藤田ことねです!よろしくお願いいたします!」
声が少し裏返ってしまった。
女性――ミコと呼ばれた彼女は、ことねを一瞥すると、ふいと視線を逸らし、カウンターに置いてあったグラスを一気に煽った。中身は水だったようだ。
「……で、何に困ってるって?」
ぶっきらぼうな口調。拓哉の言っていた「偏屈」という言葉が、ことねの脳裏をよぎる。しかし、ここまで来たのだ。引き返すわけにはいかない。
「あ、あの……!歌が、どうしても上手く歌えなくて……特に、音程が不安定で、高い声もうまく出なくて……」
ことねは必死に自分の悩みを訴えた。初星学園での挫折、独学の限界、それでも上手くなりたいという強い思い。言葉を選びながらも、正直な気持ちを伝えた。
ミコは黙ってことねの話を聞いていた。時折、ことねの顔をじっと見つめるが、表情は変わらない。
その視線は、まるでことねの心の奥底まで見透かしているかのようで、居心地の悪さを感じさせた。
一通り話し終えると、ことねは不安そうにミコの反応を待った。何か厳しいことを言われるのではないか。あるいは、一笑に付されるのではないか。そんなネガティブな想像が頭をよぎる。
沈黙が数秒続いた後、ミコは再びグラスに水を注ぎながら、静かに口を開いた。
「……拓哉から聞いてる。あんた、ダンスは得意なんだってな」
「え? あ、はい……一応……」
予想外の質問に、ことねは戸惑いながらも頷いた。
「ふーん。ダンスねぇ……」
ミコは何かを考えるように目を細め、それから、ことねに向き直った。
「じゃあ、ちょっと歌ってみな。なんでもいい」
「えっ!? い、今、ここでですか!?」
突然の要求に、ことねは狼狽した。心の準備もできていないし、何より、こんな実力者にいきなり歌を聴かせるなんて。
「なんだ、歌えないのか? 上手くなりたいんじゃなかったのか?」
ミコの言葉は、挑発的にも聞こえた。しかし、その奥には、ことねの本気度を試しているような響きも感じられた。
ことねは唇を噛んだ。確かにそうだ。上手くなりたい。そのためにここに来たのだ。恥ずかしいとか、自信がないとか、そんなことを言っている場合ではない。
「……わ、分かりました。歌います」
覚悟を決めたことねは、深呼吸を一つした。何を歌うか。頭の中でいくつかの曲が浮かんだが、一番練習していて、そして一番自分の気持ちを乗せやすい曲を選んだ。
それは、以前配信で歌った、少しアップテンポなJ-POPの曲だった。
アカペラで歌い始めたことねの声は、緊張で少し震えていた。ライブハウスの静寂の中に、ことねの声だけが響く。
出だしの音程は少し不安定で、高音に差し掛かると声がかすれた。自分でもわかる。上手くない。初星学園で指摘された「音の不安定さ」が、ここでも顔を出す。
それでも、ことねは最後まで歌い切った。歌い終えると、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
ミコは腕を組んだまま、黙ってことねの歌を聴いていた。その表情からは、何も読み取れない。拓哉も、心配そうな顔で二人を見守っている。
重苦しい沈黙が、ライブハウスの空気を支配する。ことねは、ミコの評価を待つ間、生きた心地がしなかった。
やがて、ミコはゆっくりと口を開いた。
「……なるほどな」
その一言は、肯定とも否定ともつかない、曖昧なものだった。
「あんた、自分の声、嫌いだろ?」
ミコの言葉は、矢のようにことねの胸に突き刺さった。図星だった。自分の声がコンプレックスだった。特に、歌っている時の、不安定で、か細い声が。
「そ、そんなことは……」
否定しようとしたが、声が震える。ミコはそんなことねの様子を冷めた目で見つめていた。
「嘘つかなくていい。声に出てる。あんたの歌には、自信のなさと、自分の声に対する拒絶がこびりついてる。それじゃあ、どんなに練習したって上手くはならない」
ミコの言葉は辛辣だった。しかし、それは的を射ていた。ことねは、ぐっと唇を噛みしめ、反論することができなかった。
「ダンスの時はどうだ? 自分の身体、嫌いか?」
ミコが続ける。
「い、いえ! ダンスは……好きです。身体が動くのも、表現するのも……」
「だろうな。あんたの配信、ちょっと見たけど、ダンスの時は別人みたいだ。楽しそうで、自信に満ち溢れてる。なんで歌になるとそうならない?」
「それは……歌は、昔から苦手で……初星学園でも……」
ことねの声が小さくなる。過去のトラウマが蘇りそうになる。
「初星学園ねぇ……あそこのやり方は知ってる。型にはめて、個性を潰す。まあ、アイドルとしては効率的なんだろうが」
ミコは吐き捨てるように言った。その言葉には、初星学園に対する明確な批判が含まれているように感じられた。
「あんたがそこで何を言われたか知らないが、忘れた方がいい。少なくとも、私の前ではな」
ミコの強い口調に、ことねはハッとした。
「いいか、歌ってのは、まず自分の声を好きになることから始まる。自分の声を受け入れて、その声で何を表現したいのか、それを明確にすることだ。技術なんてのは、その後からいくらでもついてくる」
ミコは立ち上がり、ことねの前に歩み寄った。その小柄な体からは想像もできないような、強いオーラが発せられている。
「あんたの声、別に悪くない。むしろ、特徴があって面白い。ただ、出し方を知らないだけだ。そして、それを活かす勇気がないだけだ」
「あたしの、声……?」
ことねは自分の喉に手を当てた。今まで散々コンプレックスだったこの声が、面白い?
「いいか、よく聞け。歌は喉だけで歌うもんじゃない。全身で歌うんだ。ダンスと同じだ。身体全体を共鳴させて、声を遠くまで届ける。イメージとしては、身体が一本の楽器になる感じだ」
ミコはそう言うと、突然、低い声を響かせた。
それは、オペラ歌手のような深く豊かな声ではなく、もっと原始的で、腹の底から絞り出すような、力強い声だった。
その声は、ライブハウスの隅々まで響き渡り、ことねの鼓膜を震わせた。
「うわ……」
ことねは思わず声を漏らした。ミコの小さな体のどこから、あんな声が出てくるのだろう。
「今の、腹式呼吸ってやつだ。基本中の基本だが、これができてないやつが多すぎる。あんたもそうだ。息が浅い。だから声が続かないし、不安定になる」
ミコはことねの腹部に軽く手を当てた。
「ここだ。ここに息を溜めて、それをコントロールしながら声を出す。やってみな」
「は、はい……!」
ことねは言われた通り、腹部に意識を集中して息を吸い込もうとした。しかし、なかなか上手くいかない。いつも通りの浅い呼吸になってしまう。
「違う。もっと深く。肩を上げるな。腹を膨らませるんだ」
ミコの的確な指示が飛ぶ。ことねは何度も試みるが、ぎこちない動きになるばかりだ。
「はぁ……こりゃあ、思ったより重症だな」
ミコはため息をついたが、その目には諦めの色はない。むしろ、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「まあ、いきなりは無理か。だが、感覚は掴んでおけ。ダンスの時の体幹の使い方と似てるはずだ。あんたなら、そっちからアプローチした方が早いかもしれん」
「ダンスと、同じ……?」
ことねにとって、それは意外な言葉だった。ダンスと歌は、全く別物だと思っていたからだ。
「そうだ。リズム感、体幹、表現力。共通するものはいくらでもある。あんたの強みはそこだ。それを歌にも活かせばいい」
ミコの言葉は、ことねの中に新しい視点を与えてくれた。苦手意識ばかりが先行していた歌に、自分の得意なダンスの要素を取り入れる。それは、考えもつかなかったアプローチだった。
「それから、もう一つ」
ミコはことねの目をじっと見つめた。
「あんた、さっき歌ってる時、下ばっかり見てたな。誰に歌ってるんだ? 床か?」
「あ……」
言われてみれば、確かにそうだった。自信のなさから、自然と視線が落ちていた。
「歌は、誰かに届けるもんだろ? だったら、ちゃんと相手の目を見て歌え。たとえ目の前にいなくても、画面の向こうの視聴者でもいい。届けたい相手を明確にイメージするんだ。それだけで、歌は変わる」
「届ける……」
その言葉は、ことねの胸に深く響いた。自分のパフォーマンスで誰かを元気づけたい。その思いは、ダンス配信を始めてからずっとことねの活動の根幹にあった。歌も、同じはずだ。
「今日のところはこれくらいにしとくか。あんまり一度に詰め込んでもパンクするだろうしな」
ミコはそう言うと、再びカウンターに戻り、水を一口飲んだ。
「あの……ミコさん……」
ことねは、何かお礼を言わなければと思ったが、言葉が出てこない。ただ、胸がいっぱいで、目の前が少し潤んでいるような気がした。
「なんだ?」
「あ、ありがとうございました!すごく……すごく、勉強になりました!」
ことねは再び深く頭を下げた。
ミコはふん、と鼻を鳴らした。
「礼を言うのはまだ早い。本当に上手くなりたきゃ、また来な。ただし、本気でやる気があるなら、な」
その言葉は、ことねにとって何よりの救いだった。
「は、はい!よろしくお願いします!」
ことねの声は、今度は少しも裏返らなかった。
拓哉が、ポン、とことねの肩を叩いた。
「よかったな、ことね」
その顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。
「拓哉さん……ありがとうございます。こんなすごい方を紹介していただいて……」
「ミコさんは、昔、俺がちょっと世話になった人でな。口は悪いけど、教えるのは確かだ。ことねなら、きっと何か掴めると思ったんだよ」
拓哉の言葉に、ことねは胸が熱くなった。彼の信頼に応えたい。その思いが、新たなモチベーションとなる。
ミコは、そんな二人を横目で見ながら、ぼそりと言った。
「拓哉、お前もたまにはギター弾きに来いよ。腕、鈍ってんじゃないのか?」
「はは、耳が痛いですね。最近はもっぱら裏方なんで」
拓哉は苦笑した。二人の間には、気心の知れた長い付き合いがあることが窺える。
ライブハウスを出ると、外の空気は少しひんやりとしていた。しかし、ことねの心は、先ほどまでの不安が嘘のように晴れやかで、熱く燃えていた。
「拓哉さん、ミコさんって、どんな方なんですか? 元々、歌手とか……?」
帰り道、ことねは拓哉に尋ねた。
「ああ、昔はインディーズで結構有名なバンドのボーカルやってたんだよ。ハスキーだけど、めちゃくちゃパワフルな声でさ。俺もファンの一人だった。色々あってバンドは解散しちゃったけど、今はこうして若いやつらにたまに教えたり、ライブハウスの手伝いしたりしてるみたいだ」
「そうだったんですね……」
ミコのあの鋭い眼光と、的確なアドバイス。そして、一瞬だけ聴いたあの力強い声。全てが腑に落ちた気がした。
「初星学園のこと、ミコさん何か言ってましたけど……拓哉さんも、何かご存知なんですか?」
ことねは、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。ミコの初星学園に対する否定的なニュアンス。それは、ことねが抱いていた疑問とどこか通じるものがあった。
拓哉は少しだけ表情を曇らせた。
「……まあ、色々あるんだよ、あの学園も。完璧に見えるかもしれないけどな」
それ以上は語らなかったが、その口調には、何か複雑な感情が込められているように感じられた。
「ことねは、初星にいた時、辛かったのか?」
拓哉が不意に尋ねた。
ことねは少し俯いた。初星学園での日々。それは、夢と希望に満ち溢れていた一方で、厳しい現実と挫折を突きつけられた場所でもあった。
「……はい。特に、歌のことは……ずっと、ダメだって言われ続けて。オーディションも、それで何度も落ちて……。だんだん、歌うのが怖くなっちゃったんです」
声が震える。あの頃の無力感と絶望感が、今でも鮮明に蘇る。
「みんなキラキラしてて、才能があって……あたしだけが、落ちこぼれで……」
「でも辛かった理由はダメだって言われることじゃなかったんです。あたしも最近自覚したんですけど、一番辛かったのは、【稼げるアイドルになれない】かもって思ったからなんです」
「あたし、ちゃんと言ってなかったんですけど、中等部の3年間、初星学園に通ってたんです」
「それで、もしそのまま進学してたら高等部に所属してたんですけど……家族に負担を掛けたくなくて、通信制の高校に進むことにしたんです」
ことねは過去を懐かしむように、しかしどこか寂しげな穏やかな表情で呟いた。
「家族は反対しなかったのか?ことねがアイドルになりたい夢を目指してる姿を見てたんだろ?」
「もし相談してたら、きっと反対されてたと思います。だから、何も言わずに進学先を決めました」
眉を下げながらことねは続ける。
「いろんな締切が過ぎた後、お母さんに、「なんで相談してくれなかったの」って、ものすごく叱られちゃいました」
拓哉は黙ってことねの話を聞いていた。そして、静かに言った。
「俺は、ことねの歌、好きだ。下手とか上手いとか、そういうのじゃなくて、なんか、一生懸命さが伝わってくるから」
「え!?な、なんですか急に!」
「ことねのダンスも好きだ。単に上手くてかっこいいからだけじゃなくて、俺らを楽しませてくれようと、いつも工夫してくれていることが伝わるから」
「あたしの配信追ってくれてたんですか!?っていうかやめてください!めちゃ恥ずいんですけど!」
「ファンだからな。そんでバイトしているときのことねはお客さんに対してもだが、俺ら同僚に対しても、気を遣ってくれてるのが分かる。一緒に働いてると元気をもらえるし、ことねのために何かしてあげたいって、自然とそう思えるんだ」
「それは拓哉さんが私を好き過ぎて目が曇ってるだけですぅ!」
拓哉の褒めはことねから、しんみりした気持ちを切り替えるのに十分な効力を発揮していた。
(何この人ぉ!恥ずかしいことめちゃ言ってくるんですけどぉ!!)
拓哉はことねの取り乱した様子を見ながら笑い、言葉を続けた。
「ことね、お前は自分に自信が無さすぎるんだよ。俺だけでもこんなにお前の良い所を言えるし、お前のことを知ってるやつなら、みんな言えると思うぜ」
「さっきのアイドルの話にしてもそうだ。たしかに歌はダメだって言われて、オーディションにも何度も落ちたのかもしれない。けど、褒めてくれる人や期待してくれてた人は絶対にいたはずだ」
拓哉のその言葉に、ことねははっと息をのむ。
たしかに、学園ではダメ出しされることのほうが多く、アイドルをやっていて褒められた記憶はほとんどない。でも一緒にレッスンを受けていた同期はなんと言っていた?トレーナーだって、単にダメな点を指摘するだけでなく、時折、良い点も言ってくれていたはずだ。
「そう、ですね。あたし、ダメな所ばかりに目を向けていましたけど、期待してくれていたトレーナーさんもいましたし、ダメダメなあたしを励ましてくれた同期もいました」
ことねは視界がじんわりと歪んでいくのを感じる。
「あたし、バカだなぁ。勝手に自分に見切りを付けて、あたしに期待してくれた人の言葉を正直に受け取れなかった」
「もし、あの時、誰かに相談していたら、アイドルを続けていたかもしれないですね」
ことねはあり得たかもしれない未来を想起する。しかし、すぐにその思いを振り払うように、決意を込めた表情で言葉を続けた。
「でも、それに気づけたのは、バイト先のみんな、視聴者のみんな、家族、そして拓哉さんとミコさんに出会えたからです。仮に当時相談しても、きっと自分に自信なんて持てなかったはずです」
「だから、いまのあたしで、あたしの好きなことで、現役アイドルに負けないくらいファンを楽しませて、ギャラを稼いでみせます!」
夕日に照らされたその決意と笑顔の表情には、これまでにないほど自信に輝いていた。
拓哉はその様子を見て、嬉しそうに微笑む。
「ならことねの古参ファンとして、今のうちにサインを貰っておくか。生活に困ったら売って生活費に出来そうだしな」
「なんてこと言うんですか!!売ってもいいですけど、最後の手段にしてくださいね!」
「いや売っても良いのかよ」
拓哉の先の言葉には、ことねが必ず花開くと信じている温かい気持ちが込められているように感じられた。それはどんな技術的なアドバイスよりも、ことねの心に深く、温かく染み渡り、そして新しい夢への挑戦に胸を躍らせてくれるものだった。
もう、下を向いてはいられない。
あたしに期待してくれている人のためにも。しっかりお金稼ぐためにも。
---
電車に揺られながら、ことねは今日の出来事を何度も反芻していた。ミコとの出会い。腹式呼吸。新しい夢。身体全体で歌うという感覚。そして、自分の声を好きになること。たくさんの課題と、それ以上の希望が見えた気がした。
(あたしの声、特徴があって面白い……か)
今までうまく歌えず、コンプレックスになっていた自分の声。それを肯定してくれる人がいた。それだけで、世界が少し違って見えた。
家に帰り着くと、リビングから妹たちの賑やかな声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、おかえりー!」
「こと姉、今日なんかいいことあった? 顔、赤いよ?」
妹たちが駆け寄ってくる。
ことねは、妹たちの頭を優しく撫でた。
「ぇえ~わかる?姉ちゃんめちゃ良いことあったよ。」
その笑顔は、ここ数日見せたことのないほど、晴れやかだった。
その夜、ことねは早速ミコに教わった腹式呼吸の練習を始めた。すぐには上手くいかない。それでも、焦りはなかった。
ミコの言葉を思い出しながら、自分の身体と向き合う。ダンスで培った体幹を意識し、呼吸をコントロールしようと試みる。
(身体が一本の楽器になる……)
それは、まだ掴みきれない感覚だったが、目指すべき方向が見えた気がした。
スマホには、視聴者からのコメントが届いていた。「次の配信楽しみにしてます!」「ことねちゃんの歌、また聴きたいな」
その一つ一つが、今のことねにとっては、大きな励みになる。
(待ってろよ、みんな。もっと、みんなを楽しませるからな~!)
過去の挫折は、まだ完全に消えたわけではない。初星学園での苦い記憶も、時折胸をよぎるだろう。
しかし、今のことねには、新しい道標ができた。信頼できる指導者との出会い。応援してくれる人々の存在。新しい夢。そして何より、自分自身を変えたいという強い意志。
(絶対に成り上がって見せるからな~!)
ことねは窓の外の夜空を見上げた。星は見えなかったが、心の中には、確かに新しい光が灯っていた。それは、か細くとも、決して消えることのない、希望の光だった。
拓哉の「好きを続ける価値観」という言葉が、以前よりもずっと深く、重みを持って感じられた。歌うことが「好き」だと、心の底から言えるようになるために。そして、その「好き」を通して、誰かを笑顔にするために。ことねの新たな挑戦は、今、確かな一歩を踏み出したのだった。
数日後、ことねは再びミコのいるライブハウスの扉を叩いた。その手には、使い古したノートとペン。そして、胸には揺るぎない決意を秘めて。
「ミコさん!今日も、よろしくお願いします!」
ことねの表情には、もう迷いはなかった。
10000字の執筆に挑戦してみました。