ミコとの出会いは、ことねにとってまさに干天の慈雨だった。あの日以来、ことねは週に数回、バイトの合間を縫って、あの古びたライブハウスの重い扉を叩くようになっていた。
ミコのレッスンは、かつてことねが初星学園で経験したものとは全く異なっていた。
「いいか、ことね。歌はスポーツと一緒だ。正しいフォームと体幹、そして何よりメンタルが重要だ」
ミコは口癖のようにそう言った。
最初の数週間は、ひたすら腹式呼吸と発声練習の繰り返しだった。地味で、すぐに効果が見えるものではない。
しかし、ことねは食らいついた。ミコの言葉の一つひとつには、経験に裏打ちされた確信のようなものがこもっており、それはことねに「この人についていけば大丈夫だ」という安心感を与えてくれた。
「もっと腹から声出せ! 猫の鳴き声みたいな声出すな!」
「肩に力入りすぎだ、リラックスしろ! ダンスの時の伸びやかな動きを思い出せ!」
ミコの指導は厳しく、容赦ない。けれど、その言葉の端々には、ことねの「声」そのものへの興味と、成長への期待が滲んでいるのをことねは感じ取っていた。
そして何より、ミコはことねが初星学園で植え付けられた「歌はダメだ」という自己否定を、根気強く、しかし力強く上書きしようとしてくれていた。
「あんたの声は、磨けば光る原石だ。今はまだ泥だらけだけどな。その泥を落とすのは、他の誰でもない、あんた自身だ」
時折見せるそんな優しい眼差しが、ことねの心を奮い立たせた。
ダンスで培った体幹とリズム感は、意外なほど歌に役立った。
ミコに言われた通り、身体全体を楽器のように共鳴させるイメージで声を出す練習を続けるうちに、以前は出なかった音域が少しずつ広がり、声量も増してきた。
何よりも、歌うことへの恐怖心が薄れ、純粋な「楽しさ」を感じられる瞬間が増えてきたことが、ことねにとって最大の収穫だった。
「いいか、ことね。技術ってのは、感情を伝えるための道具だ。道具がなけりゃ何も伝えられんが、道具だけ立派でも、伝えるもんがなけりゃ意味がねえ。あんたは何を伝えたい?」
レッスン中、ミコはしばしばそんな問いを投げかけた。そのたびに、ことねは自分の心と向き合った。
家族への感謝、視聴者への思い、そして、自分自身が輝きたいという切実な願い。それらが、彼女の歌に少しずつ深みを与えていった。
配信でも、その変化は現れ始めていた。
「あれ? ことねちゃん、最近声のトーン変わった?」
「なんか、前より声が通るようになった気がする!」
視聴者からのそんなコメントに、ことねは密かに頬を緩めた。まだ本格的に歌を披露する勇気はないものの、雑談の中でのふとした声の響きが、彼女の成長を物語っていた。
妹たちも、ことねの変化に気づいていた。
「こと姉、最近楽しそうだね、歌の練習!」
「なんか、前よりキラキラしてる!」
母もまた、嬉しそうにことねを見守っていた。「無理だけはしないでね」という言葉と共に渡される温かいお茶が、ことねの疲れた身体に染み渡った。
拓也にも、居酒屋バイトの際にレッスンの進捗を報告していた。
「ミコさん、すっごく厳しいんですけど、でも、なんかすごいんです! ちょっとずつですけど、声が出るようになってきて!」
興奮気味に話すことねに、拓也は穏やかに相槌を打ち、励ましてくれた。
「そりゃ良かった。ミコさんなら間違いないと思ってたよ。でも、あんまり根詰めすぎるなよ」
「だいじょうぶですよ!いまのあたしはきちんと引き際を心得てるんで!」
ことねは胸を張って答えた。以前、過労で倒れかけた際に拓也たちに「迷惑だ」と言われた経験から、休息の重要性は理解しているつもりだった。
実際に、以前よりはシフトの数を減らし、睡眠時間も少しは確保するようになっていた。
しかし、ことねの「休息」の認識には、大きな落とし穴があった。
彼女にとって「休息」とは、過密なバイトのシフトから解放される時間のことであり、その確保された時間で配信活動をしたり、ミコのレッスンを受けたりすることは、彼女の中では「やりたいこと」であり「充実した時間」であって、心身を休めることとはイコールではなかったのだ。
「楽しい」という感情が、疲労感を覆い隠していた。レッスンも配信も、今の彼女にとっては生き甲斐であり、アドレナリンが常に出ているような状態だった。
だが、それは薄氷の上を歩くような危ういバランスの上に成り立っていた。身体を動かし、脳をフル回転させ、常に誰かの視線を意識する生活は、彼女が自覚している以上に心身を蝕んでいた。
その歪みは、誰よりもことねを間近で見ているミコの目には、よりはっきりと映っていた。
ある日のレッスン中、新しい課題曲に取り組んでいたことねの声が、不意にかすれた。そして次の瞬間、彼女の身体がぐらりと傾ぎ、慌てて壁に手をついた。
「おい、どうした? 顔色、真っ青だぞ」
ミコの鋭く、そして心配を色濃く含んだ声がスタジオに響いた。
「だ、大丈夫です! ちょっと、立ちくらみが……昨日の夜、少し配信が長引いちゃって……」
ことねは取り繕うように笑顔を作ったが、その額には脂汗が滲み、呼吸も浅くなっている。
ミコは厳しい表情でことねを見据えた。最近のことねは、確かに歌の技術は向上し、表現力も豊かになってきた。
しかし、それに反比例するように、レッスン中の集中力が散漫になったり、ふとした瞬間に虚ろな目をしていたりすることが増えていたのだ。
最初は新しいことに挑戦する中での純粋な疲労や、練習の熱が入りすぎているのだろうと思っていた。
だが、今日の様子は明らかにそれだけでは済まされない、危険な兆候を感じさせた。
「ことね、お前、ちゃんと飯食ってるのか? 本当に寝てるのか?」
ミコの低い声には、有無を言わせぬ迫力があった。
ことねは一瞬言葉に詰まったが、やがて自分でもその内容の曖昧さに気づかないまま、こう答えた。
「はい、食べてますし、眠れていると思います。夜更かしすることもあるんですけど、でも前よりもちゃんと休息は取れていると思います」
その言葉は、ことね自身にとっては真実のつもりだった。以前の、まさに過労死寸前だった頃に比べれば、確かに「マシ」にはなっていたからだ。
しかし、ミコから見れば、それは根本的な解決には程遠い、自己欺瞞に近い楽観だった。
その曖昧で、どこか他人事のような返事が、ミコの長年の経験からくる警鐘を激しく鳴らした。
「……そうか。レッスン、今日はもう終わりにする。少し休め」
「え、でも、まだ今日の課題も……!」
「いいから。顔洗って、そこのソファで少し横になってろ」
ミコの有無を言わせぬ口調と、普段とは違う真剣な眼差しに、ことねは反論する言葉を失い、しぶしぶ頷くと、ふらつく足取りでスタジオの隅にあるソファへと向かった。
一人残されたスタジオで、ミコは腕を組み、深く長い溜息をついた。
拓也から、ことねが家族を支えるために身を粉にしてバイトに明け暮れているという話は、最初の頃に聞いていた。
だが、レッスンが本格化し、ことね自身が歌うことの楽しさに目覚めてきた今もなお、その根本的な生活構造が変わっていないどころか、そこに新たな「情熱」という名の負荷が加わっている。
あの小さな身体のどこに、そんな無理を重ね続ける余地があるというのか。
いや、余地など既になく、もはや意地と責任感、そして夢への渇望だけで無理やり動いているのだろう。
(……あいつ、昔のあたしにそっくりどころか、もっと危なっかしいな)
ミコは脳裏に、過去の自分自身の姿を重ねていた。
音楽で成功することを夢見て、生活の全てを切り詰め、いくつもの仕事を文字通り命を削るように掛け持ちしながらバンド活動に明け暮れていた日々。
その無理が祟り、喉を壊しかけ、一度は歌うことすら諦めかけた苦い経験。
そして何より、夢を追う純粋な情熱が、生活の重圧と過労によって徐々に黒く淀み、すり減っていくあの恐怖にも似た感覚も、痛いほどよく知っていた。ことねには、そうなってほしくなかった。
ことねがソファで少し落ち着いたのを見計らい、ミコは彼女の傍らに腰を下ろした。
顔色は少し戻ったように見えたが、目の下に深く刻まれた隈は、彼女の言葉とは裏腹な過酷な日常を雄弁に物語っていた。
「ミコさん、すみません……ご心配おかけして……」
「いや、いい。それよりことね、正直に言え。お前、今メインのバイト、いくつやってるんだ?」
ミコの真剣な眼差しに射抜かれ、ことねは観念したように小さな声で答えた。
「……メインの居酒屋と、コンビニと、ファミレスを掛け持ちしていて……あと、たまに単発でイベントスタッフとかも……」
その数と組み合わせに、ミコは言葉を失った。想像以上だった。これでは、どんなに「休息を取っているつもり」でも、焼け石に水だ。
「……馬鹿野郎。そんな生活続けてたら、本当に身体を壊すぞ。歌いたいっていうあんたの気持ちは本物だって分かってる。だからこそ言うんだ。その夢、掴む前にあんた自身がぶっ倒れたら、元も子もないだろうが」
ミコの言葉は厳しかったが、その声は微かに震えていた。それは怒りだけでなく、ことねの身を案じる切実な思いからだった。
「でも、そうしないと、家のことも……レッスンのお金だって……それに、配信も……やりたいことが、たくさんあって……」
ことねの声はか細く、消え入りそうだ。潤んだ瞳には、どうしようもない現実への焦りと、それでも夢を諦めたくないという必死さが痛々しいほどに滲んでいた。
ミコは、胸が締め付けられるような思いだった。この純粋で、不器用なまでに真っ直ぐな才能の芽が、過酷な現実に押し潰されようとしている。
それを黙って見過ごすことは、今のミコには到底できなかった。それは、かつて助けを求められなかった過去の自分を見捨てるような行為に思えたからだ。
「……少し、話がある。事務所に来い」
ミコはことねの手を引くように促し、ライブハウスの事務所へと向かった。
事務所の古びたソファにことねを座らせ、ミコは自動販売機で買った温かい缶コーヒーを無言で差し出した。
ことねは小さな手でそれを受け取り、こくこくと喉に流し込む。
「拓也から、お前の家の事情は大体聞いてる。お前がどれだけ頑張り屋で、責任感が強いかも、痛いほどわかる。だがな、今のやり方は明らかに間違ってる。このままじゃ、あんた、本当に潰れるぞ。歌が好きで、上手くなりたくて、誰かに届けたいっていうその気持ち、あたしは全力で応援したいと思ってる。だから……これは、お節介だと分かってるが、提案がある」
そう前置きして、ミコはまっすぐにことねの目を見て切り出した。
「うちのライブハウスで、バイトしてみないか?」
「え……?」
ことねは虚を突かれたように目を丸くした。予想もしなかった言葉だった。
「ちょうど今、ホールスタッフが一人辞めてな、人手が足りてないんだ。主な仕事は受付とか、ドリンク作ったりとか、ステージ転換の簡単な手伝いとか……色々ある。ここなら、あんたの大好きなダンスや音楽、少しジャンルは違うが、ライブパフォーマンスに四六時中触れていられるし、レッスンの時間も今よりずっと調整しやすい。もちろん、給料だってちゃんと出す。今のあんたの状況を考えれば、決して悪い話じゃないはずだ」
ミコは、事前にライブハウスのオーナーにも相談し、内諾を得ていた。
オーナーも、ことねが配信で活動していることや「居酒屋ダンサー」の噂はネットニュースなどで耳にしており、そのパフォーマンス力と、何より彼女の持つ人を惹きつける明るさやひたむきな頑張りを伝え聞いて、好感触を示していたのだ。
「どうだ? もちろん、無理にとは言わん。だが、少なくとも、今のあんたの無茶苦茶な生活よりは、ずっとマシな環境を提供できる自信がある。それに……」
ミコは少し言葉を区切り、諭すように、しかし熱を込めて続けた。
「ここで働けば、毎日、プロのミュージシャンたちの生演奏を間近で見られる。リハーサルの音漏れどころか、ちゃんと許可を取れば見学だってできるかもしれない。それは、どんな高価なレッスンよりも刺激的で、実践的な学びになるはずだ。お前の夢にとって、絶対に、絶対にプラスになる」
ことねは、ミコの言葉を一言一句聞き漏らさないように、食い入るように聞いていた。ライブハウスでのバイト。それは、今まで考えたこともなかった選択肢だった。
しかし、ミコの言う通り、常に音楽に囲まれた環境で働けることは、今の自分にとって何よりも魅力的で、理想的に思えた。
そして何より、ミコの「お前の夢を応援したい」という、飾り気のないストレートな言葉が、ことねの疲弊しきった心に温かく、そして力強く響いた。
「……でも、今のバイト先に、急に辞めるなんて言ったら迷惑がかかりますし……それに、居酒屋のバイトは、店長にも、拓也さんにも、すごくお世話になってて……簡単には……」
それでも、ことねの心はすぐには決断できなかった。
ミコの提案は願ってもないものに聞こえたが、これまで世話になった人たちへの義理や、新しい環境へ飛び込むことへの漠然とした不安も大きかった。
何より、収入が減ってしまうのではないかという現実的な心配も頭をよぎる。
「馬鹿正直で、不器用なやつだな、あんたは本当に」
ミコは呆れたように、しかしどこか愛おしげに苦笑した。
「迷惑かけるのが怖いとか、そんなこと気にしてる場合か? これは、あんたの人生で、あんたの夢だろうが。それに、本当に世話になったと思ってるんなら、あんたが中途半端に今の生活を続けて体調を崩したり、夢を諦めたりする方が、よっぽどその人たちをガッカリさせるんじゃないのか? あんたが胸を張って夢を叶えて、その姿を見せることこそが、一番の恩返しになるはずだ」
ミコの言葉は、まるで固く閉ざされていたことねの心の扉をこじ開けるような力強さを持っていた。
そうだ、いつまでも現状維持という名のぬるま湯に浸かっていては、何も変わらない。
自分自身の未来のために、家族の笑顔のために、そして応援してくれる全ての人たちのために、今こそ勇気を出して一歩踏み出さなければならないのだ。
「……少し、考えさせてください。家族にも、ちゃんと相談したいので」
絞り出すような声でそう告げると、ことねはミコの目をまっすぐに見つめ返した。
「ああ、もちろんだ。焦らず、よく考えて決めろ。あんたの人生なんだからな」
ミコは静かに頷き、ことねの肩を軽く叩いた。
その夜、ことねは母にミコからの提案を詳細に話した。
母は最初こそ驚いたものの、ことねの顔つきが、ただ疲れているだけでなく、その奥に確かな希望と決意を宿しているのを見て、静かに、しかし力強く背中を押してくれた。
「ことねが決めたことなら、お母さんはいつだって応援するよ。ただ、絶対に無理だけはしないで、自分の身体を一番に考えて行動しなさいね。それが、お母さんとの約束よ」
妹たちも、「お姉ちゃん、ライブハウスで働くの!? カッコイイ! 毎日音楽聴けるなんて最高じゃん!」と、まるで自分のことのように目を輝かせて喜んだ。
拓也にも、居酒屋のバイトの休憩中に相談した。
「ミコさんが、そんなこと言ってくれたのか。それは、ことねにとって間違いなく大きなチャンスだと思うよ。あそこなら、本当に色んなジャンルの音楽に触れられるし、何よりミコさんがすぐ近くにいてくれる。不安なのは当然だけど、今の状況を考えたら、飛び込んでみる価値は十分すぎるほどあるんじゃないか?」
拓也の理性的で、かつ温かい言葉は、ことねの最後の迷いを吹き飛ばすのに十分だった。
数日後、ことねは決意を固め、ミコに自分の答えを伝えた。
「ミコさん、色々と考えました。そして、決めました。ライブハウスで、働かせてください!よろしくお願いします!」
深々と、力強く頭を下げることねに、ミコは満足そうに、そして少し安堵したように頷いた。
「ああ、よく決断したな。歓迎する。ここからが、あんたの新しいスタートだ。一緒に、このライブハウスを、そしてあんたの夢を、ガンガン盛り上げていこうぜ」
その笑顔は、いつものぶっきらぼうな表情とは違い、心からの喜びと期待に満ちているように、ことねには見えた。
それから数週間、ことねは新しい生活に向けて、バイトの整理に奔走した。
コンビニやファミレスの各バイト先には、丁寧に事情を説明し、これまでの感謝と共に頭を下げ、円満に退職の合意を得た。
特に負担の大きかった補導ギリギリのバイトや、不規則な単発のイベントスタッフの仕事を辞めることができたのは、精神的にも肉体的にも大きな救いとなった。
居酒屋のバイトは、店長に正直に全てを話した。店長は、誰よりもことねの過労と夢への情熱を理解し、心配していた一人だった。
「そうか、藤田さん。ライブハウスか……。それは、君にとっては最高の環境だろうな。うちの看板娘がいなくなるのは正直寂しいけど、君の夢のためなら、喜んで送り出してやらなきゃな。うちのバイトは、入れる時だけでいいからさ、たまには元気な顔、見せに来いよ。みんな待ってるからな」
店長の温かい言葉と、他のスタッフからの激励に、ことねは涙が止まらなかった。人の優しさが、こんなにも心に染みるとは思わなかった。
そして、ついにライブハウスでの初バイトの日がやってきた。
支給されたシックな黒いTシャツにエプロンというシンプルな制服に身を包み、ことねは期待と緊張が入り混じった面持ちで、開店準備中のカウンターの内側に立った。
「おはようございます! 今日からよろしくお願いします!」
まだ少しぎこちない笑顔だったが、その声には新しい環境への希望が満ち溢れていた。
ライブハウスの仕事は、居酒屋とはまた違う種類の忙しさと、覚えるべき専門知識がたくさんあった。
多種多様なドリンクのレシピ、複雑な音響機材の基本的な扱い方、お客さんのスムーズな誘導と対応。
最初は戸惑うことばかりだったが、ミコはもちろん、他の少し年上の先輩スタッフたちが、皆親切に、そして根気強く教えてくれた。
何より、リハーサル中のバンドの迫力ある演奏が壁越しに聞こえてきたり、ステージを終えたばかりの興奮冷めやらぬ出演者たちと直接言葉を交わしたりするたびに、ことねの胸はかつてないほど高鳴った。
ここは、本当に音楽が生まれ、音楽を愛する人々が集う場所なのだ。
仕事の合間や休憩時間には、ミコの特別な計らいで、様々なジャンルのインディーズバンドや、時には名の知れたアーティストのリハーサルを、ステージ袖から見学させてもらうこともあった。
プロのミュージシャンたちが音楽に懸ける情熱、研ぎ澄まされた技術、そして何よりも心の底から音楽を楽しんでいるその姿は、ことねにとってどんな高価な教科書よりも刺激的で、生きた教材となった。
「すごい……! かっけー……!」
ステージ袖の暗がりから、キラキラと目を輝かせて食い入るように見つめることねのその表情は、かつて初星学園のトップアイドルたちに向けていた遠い憧憬とはまた違う、
もっと身近で、もっと生々しい興奮と尊敬の色を帯びていた。
居酒屋のバイトは、店長の言葉に甘えて、週に数回、無理のない範囲でシフトを大幅に減らして継続することにした。
店長や常連客との温かい繋がりも、今のことねにとってはかけがえのない大切な心の支えだったからだ。
こうして、ライブハウスと居酒屋。二つの場所が、ことねの新しい日常の拠点となった。
生活は、以前の、いつ倒れてもおかしくないような過酷な状況に比べれば、格段に、そして劇的に改善された。
安定した収入と、ある程度まとまった睡眠時間も確保できるようになり、ミコのレッスンにもより集中して取り組めるようになった。
何よりも、精神的な余裕が生まれたことが大きかった。常に何かに追われているような焦燥感や、先の見えない不安が減り、純粋に歌やダンス、そして自分の夢と向き合える時間が増えたのだ。
ミコとの関係も、厳格な師弟でありながら、同じライブハウスで働く仕事仲間としての新たな連帯感のようなものが芽生え始めていた。
レッスンは相変わらず厳しく、一切の妥協を許さなかったが、バイト中にふと見せるミコの気さくな一面や、音楽に対する誰よりも真摯で熱い姿勢に触れるたび、ことねはますますミコへの尊敬の念を深めていった。
ある日のライブハウスの営業終了後、片付けも終わり、客もスタッフもいなくなった静かなフロアで、ミコがことねに不意に声をかけた。
「ことね、ちょっと付き合え」
そう言ってミコが向かったのは、スポットライトも消え、静まり返ったステージの上だった。
「ここで、一度歌ってみろ。客席には誰もいないが、そこに、いつもお前を応援してくれてるファンがびっしりいると思ってな」
突然の提案に一瞬戸惑うことねだったが、ミコの真剣な、そしてどこか優しい眼差しに促され、ゆっくりとステージ中央のマイクの前に立った。
深く、長く息を吸い込む。目の前には、がらんとした薄暗い客席が広がっている。
しかし、その一つひとつの空席に、いつも自分の配信を見て温かいコメントをくれる視聴者の顔を、一人ひとり思い浮かべた。
心配してくれる家族の笑顔、いつも背中を押してくれる拓也の励まし、そして、誰よりも自分の可能性を信じ、導いてくれるミコの期待のこもった眼差しを。
ことねは、ゆっくりと、そして確かによく響く声で歌い始めた。それは、ミコのレッスンで繰り返し練習し、今の自分の声と気持ちに一番正直になれる、彼女自身が選んだ大切な曲だった。
その歌声は、まだプロの歌手のように完璧ではなかったかもしれない。
けれど、そこには確かな熱が、届けたいという切実で強い思いが、そして歌えることへの純粋な喜びが、溢れんばかりに込められていた。
がらんとしたライブハウスの空間に、しかし豊かに響き渡る自分の声を聞きながら、ことねは、今まで感じたことのないような圧倒的な解放感と、魂が震えるような喜びに包まれていた。
(あたし、歌ってる……! この、本物のステージで!)
歌い終えたことねに、ミコはしばらく何も言わず、ただ静かにその余韻を味わうように目を閉じていた。
やがてゆっくりと目を開けると、いつものようにぶっきらぼうに、しかしその口元には紛れもない満足そうな笑みが浮かんでいるように見えた。
「……まあ、まだまだだが、悪くねえよ。声、ちゃんと前に出てたぜ」
それは、ミコなりの最大の賛辞だったのかもしれない。
窓の外は、もうすっかり真夜中の帳が下りていた。ライブハウスの喧騒も今は遠く、心地よい静寂が二人だけを包む。
ことねの心には、確かな手応えと、未来への大きな、そして力強い希望の光が満ち溢れていた。新しい生活、新しい挑戦。それはまだ始まったばかりだったが、彼女はもう、決して一人ではなかった。