バイト戦士ことね   作:夜琥

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16. 新しい風と、学び舎のステージ

ライブハウス「The Roar(ザ・ロアー)」の重厚な扉の向こう側に、藤田ことねの新しい日常が始まって、早くも一ヶ月が過ぎようとしていた。

 

あの決意の日から、世界はまるで違う色彩を帯びて見えた。

 

目覚まし時計の音ですら、以前のような絶望的な響きではなく、どこか軽やかな期待感を伴って耳に届くようになったのだ。

 

ことねの足取りは軽く、毎朝「The Roar」へ向かう道すがら、鼻歌交じりになることも珍しくなかった。

 

---

 

朝は、開店準備から始まる。

 

まだ誰もいない薄暗いフロアに一番乗りし、換気のために窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が流れ込み、昨夜のライブの熱気を心地よく押し出していく。

 

この瞬間が、ことねは好きだった。新しい一日が始まる、という清々しい感覚。

 

モップで丁寧に床を磨き上げ、テーブルを一つひとつ拭き清め、カウンターの中ではグラスをピカピカに磨き上げる。

 

それは地味な作業の連続だったが、ことねにとってはどれも新鮮で、この場所の一員としてステージを支えているという実感が、じんわりと胸に湧いてくる大切な時間だった。

 

「今日も一日、頑張るぞ!」と心の中で小さくガッツポーズを作る。

 

「おはよう、ことね。早いね」

「おはようございます、ミコさん! 今日も一日、よろしくお願いします!」

 

ことねは、太陽のような笑顔で振り返る。

 

少し遅れて出勤してくるミコに元気よく挨拶をすると、彼女はいつものようにぶっきらぼうな口調で「おう」と返しつつも、その目にはことねの仕事ぶりを認めるような、そしてどこか期待するような複雑な色が微かに宿る。

 

それが、ことねにとっては朝一番の、何より嬉しい小さな勲章だった。

 

ドリンクカウンターの中は、ことねにとって刺激的な新しい戦場であり、宝の山のような学び舎でもあった。

 

壁一面に並ぶ無数のリキュール瓶は、まるで魔法の薬のようで、最初はカクテルの名前とレシピを覚えるだけで頭がパンクしそうだったが、持ち前の記憶力の良さと、何より「お客さんに美味しいものを飲んでほしい」という一心で、スポンジのように吸収していった。

 

シェイカーを振る手つきも最初はぎこちなく、注文が立て続けに入るとテンパってしまい、先輩バーテンダーの浩二に助けられることも一度や二度ではなかった。

 

「ことね、落ち着け。一杯ずつ、心を込めてだ。あんたならできる」

 

そんな時、浩二の静かな励ましや、ミコ自身の的確な指示が飛ぶ。

 

失敗して落ち込むことももちろんあったが、ことねはそれを引きずらない。

 

「よし、次は絶対もっと上手くやる!」とすぐに気持ちを切り替え、前を向ける強さが、今の彼女にはあった。

 

このライブハウスの温かく、プロフェッショナルな雰囲気が、彼女のそんな前向きさを後押ししてくれていた。

 

常連客も少しずつことねの顔と名前を覚えてくれた。

 

「よう、ことねちゃん! 今日も元気印だな!」

 

強面のいかつい風貌をしたロックバンドのリーダーらしき男性客が、見た目とは裏腹に人懐っこい笑顔で声をかけてくれる。

 

「いつものハイボール、頼むよ。あ、今日はことねちゃんのスマイル割りで、ちょっと濃いめにしてくれ!」

 

別の品の良さそうな年配のジャズ好きの紳士は、ことねに昔のジャズミュージシャンの面白いエピソードを語り聞かせながら、彼女が最近覚えたばかりのオリジナルノンアルコールカクテルを「今日の君の気分でアレンジしてごらん」と注文してくれるようになった。

 

「ことねちゃんが作ってくれるレモンスカッシュはね、なんかこう、元気が湧いてくる特別な味がするんだよねぇ」

 

そんな何気ない一言、お客さんのふとした笑顔が、ことねの心をふわりと温め、頬を自然と幸せなピンク色に染めた。

 

ネットの向こうの不特定多数から受ける賞賛やコメントとはまた違う、もっと手触りのある、温かい喜びだった。

 

ホール業務では、ライブが始まるとフロアを軽快に動き回り、ドリンクを運び、空いたグラスを笑顔で片付ける。

 

ステージから叩きつけられるような大音量のギターリフ、身体の芯までビリビリと震わせるドラムのビート、そして、時に囁くように甘く、時に魂ごと絞り出すようにシャウトするボーカル。

 

その全てが、ことねの五感をダイレクトに、そして強烈に刺激した。

 

ダンス配信をしていた頃は、イヤホン越しに音楽を聴き、小さなカメラのレンズの向こう側を意識していた。

 

しかし、ここでは違う。目の前で繰り広げられるのは、編集も加工もされていない、剥き出しの「生」のパフォーマンス。

 

アーティストたちの息遣い、飛び散る汗、そして何よりも、観客と一体となって瞬時に作り上げられていく、二度とは再現できない熱狂的なグルーヴ。

 

その渦の中に自分の身を置くことで、ことねはパフォーマンスというものの本質的なエネルギーと、その底知れない奥深さを、毎晩のように肌で感じ、学んでいた。

 

「ことねちゃん、今のバンドのボーカルさん、すごかったね! なんかもう、全身全霊で歌ってるって感じで、見てるこっちまで熱くなっちゃった!」

 

休憩時間、同じくバイトスタッフで音楽系の専門学校に通う大学生の美咲が、興奮冷めやらぬ様子で話しかけてきた。彼女自身もガールズバンドを組んでおり、音楽への情熱は人一倍だ。

 

「はい! もう、鳥肌が止まりませんでした! 特にあの、最後のロングトーンからのシャウト! あんな声、どうやったら出るんでしょうか!?」

 

ことねも目をキラキラと輝かせて応じる。スタッフ同士でのこんな熱のこもった音楽談義も、今では日常の、そして何より楽しい一コマだ。

 

美咲からは最新の音楽シーンのトレンドや、専門的な音楽理論の基礎を教えてもらうこともあり、無口な浩二からは様々なジャンルの、ことねが今まで知らなかったような隠れた名盤を時折そっと教えてもらうこともあった。

 

「The Roar」は、ことねにとって最高の音楽学校であり、刺激に満ちた遊び場でもあったのだ。

 

出演するバンドのジャンルは、それこそ万華鏡のように多種多様だった。

 

フロア全体が盛り上がり、ファン同士が激しくぶつかり合う激しいヘヴィメタルが轟く夜もあれば、ピアノ一本と歌声だけで、しっとりとしたアコースティックなバラードが心地よく空間を満たす夜もある。

 

超絶技巧の応酬に度肝を抜かれる、ジャズフュージョンバンドに圧倒されることもあれば、素朴だが心に染みるシンプルな言葉で綴られたフォークソングに、思わず涙腺を刺激されることもあった。

 

最初は馴染みのないジャンルの音楽に「どうやって楽しめばいいんだろう?」と戸惑うこともあったが、毎日違う音楽のシャワーを浴び続けるうちに、ことねの音楽に対する好奇心と許容範囲は、まるで乾いたスポンジが水を吸うように、ぐんぐんと広がっていった。

 

それぞれの音楽に、それぞれの魅力があり、それぞれの魂があり、そして、それぞれのファンを熱狂させる情熱が込められている。

 

その当たり前の、しかし見過ごしがちな事実に、ことねは改めて深く気づかされた。

 

中でも特に印象に残り、ことねの心に強い衝撃を与えたのは、あるインディーズの三人組女性ロックバンドだった。

 

ボーカル兼ギターの女性はことねと同じくらいの小柄な体格だったが、ステージに立った瞬間に放つ存在感とカリスマ性は圧倒的で、その歌声はハスキーながらもどこまでもパワフルで、それでいて囁くような繊細な感情表現もぞくっとするほど巧みだった。

 

MCでは飾らない言葉でユーモラスにお客さんを爆笑の渦に巻き込み、次の瞬間には獣のような激しいシャウトとギターリフで観客を狂騒の坩堝へと叩き込む。

 

その変幻自在で、予測不可能なパフォーマンスに、ことねは完全に心を鷲掴みにされた。

 

(すごい……! あんな風に、お客さんみんなの心を一つにして、一緒に最高の瞬間を作り上げてる……! あたしも、あんな風に、みんなを巻き込んで、最高の笑顔を引き出せるようなパフォーマンスがしたい!)

 

漠然とではあるが、自分の目指すべきアーティスト像、その一つの鮮烈な理想形が、その時、ことねの心に強く、そしてはっきりと輪郭を帯び始めた気がした。

 

もちろん、プロとして第一線で活動しているバンドだけでなく、結成したばかりの荒削りな若いバンドや、仕事の合間を縫って趣味で音楽を続けている社会人バンドのステージからも、学ぶことは星の数ほどあった。

 

技術的にはまだまだ未熟でも、彼らが音楽にかける純粋な情熱や、不器用でも何かを伝えたいという必死な思いは、時にどんな有名バンドの完璧に計算された演奏よりも、強く、ダイレクトに心を打つことがあった。

 

「音楽って、本当に上手い下手だけじゃないんだ……拓也さんの言ってた通りだ……」

 

かつて、拓也が言ってくれた「ことねの歌は、下手とか上手いとかじゃなくて、一生懸命さが伝わってくるから好きだ」という言葉の本当の意味が、今なら痛いほどよく分かる気がした。

 

そんな刺激に満ちたエキサイティングな毎日と並行して、ミコとのマンツーマンレッスンも、より熱を帯びて着実に進んでいた。

 

基礎的な腹式呼吸や発声練習は、もはやことねの日常の一部として体に染み付いてきたが、ミコの要求はそこにとどまらず、さらに高く、そして深くなっていた。

 

「ことね、声はだいぶ安定して出るようになった。だがな、それだけじゃカラオケの上手い奴と変わらん。ただの拡声器だ。その声に、あんた自身の魂を乗せるんだ。あんたが歌うことで、どんな景色を、どんな感情を、観客の心に見せたいんだ?」

 

ミコは、ただ歌の技術を教えるのではなく、歌詞の解釈を徹底的にことねに問いかけ、議論を促した。

 

言葉の一つひとつに込められた意味や背景、行間に隠された感情を深く掘り下げ、それを自分の経験や感性と結びつけて、自分の声で、自分の言葉としてどう表現するのか。

 

それはまるで、国語の読解と演劇の役作りを同時に行っているような作業だった。

 

「あんたの最大の強みは、その『目』の良さ、感受性の鋭さだ。ダンスで他の優れたパフォーマーの動きを一瞬で盗んで自分のものにしてきたように、歌でも一流のボーカリストの表現を、骨の髄まで徹底的に観察しろ。息遣いのタイミング、声の強弱、間の取り方、声色の微妙な変化、視線の配り方……盗めるもんは根こそぎ全部盗んで、それをあんた自身のフィルターを通して、あんただけの表現として再構築するんだ。模倣から入って、創造に至る。それが一番の近道だ」

 

ミコの指導は、単なる歌唱技術の伝達というよりは、ことねというまだ未知数の可能性を秘めた原石を、どう磨き上げ、どうカットすれば最も輝くのかを見極めようとする、熟練の職人のような鋭さと愛情に満ちていた。

 

ことねの飲み込みの早さ、そして時折見せる既存の枠にとらわれない自由な発想や、ダンスで培われたリズム感・表現力を歌に応用しようとする独自のセンスには、ミコ自身も内心舌を巻くことがあった。

 

「こいつ、思った以上のモン持ってるかもしれん……」という期待が、彼女の厳しい表情の裏に隠れた確かな手応えとして膨らんでいくのを感じていた。

 

それは、ことねにはまだ伝えられていない、ミコだけの密かな楽しみでもあった。

 

時には、ミコのあまりに的確で容赦ないダメ出しに、ぐうの音も出ないほど落ち込み、自分の才能のなさに本気で涙が滲むこともあった。

 

かつて初星学園で味わったような無力感や劣等感が、黒い影のようにふと胸をよぎる瞬間も、残念ながら皆無ではなかった。

 

しかし、今のことねには、あの頃とは決定的に違う強さがあった。ミコの厳しさの奥底にある、不器用だが深い愛情と、自分への揺るぎない信頼を、肌で感じることができたからだ。

 

そして何よりも、歌うことへの純粋な「楽しい!」「もっと知りたい!」「もっと上手くなりたい!」という、マグマのように熱い探求心が、どんな困難な壁をも打ち破り、前へ前へと突き進むための強力なエンジンとなっていた。

 

「……はいっ! 悔しいですけど、絶対次はもっと上手く歌ってみせます! もう一回、お願いします!」

 

涙で濡れた頬を手の甲でぐいっと拭い、ミコを真っ直ぐに見つめ返すことねの瞳には、ダイヤモンドのように強く、確かな意志の光が宿っていた。

 

その姿に、ミコはまた一つ、ことねの成長と可能性を確信するのだった。

 

ライブハウス「The Roar」での様々な刺激的な経験、多様なジャンルの音楽との出会い、そしてミコとの魂をぶつけ合うような濃密なレッスン。

 

それら全てが、ことねの内面に、そして彼女の放つオーラにさえ、大きな、そして確実な変化をもたらしていた。

 

以前は、自分の声に対する根深いコンプレックスが大きな壁となり、人前で歌うことに強い抵抗感と恐怖心を抱いていた。

 

しかし今は、自分の声の持つユニークな特性を客観的に理解し、それをどう活かせばもっと魅力的に響かせられるか、という前向きでクリエイティブな課題意識へと変わっていた。

 

「あたしが心から楽しむことが、巡り巡って、誰かの笑顔や元気に繋がるんだ!」

 

あの、人生の価値観を変えるほどの大きな気づきは、今もことねの活動の揺るぎない根幹にあったが、それに加えて、「自分のこの声で、自分のこの表現で、誰かの心を震わせたい!」「もっと深く、もっと直接的に、音楽と、そして聴いてくれる人たちと繋がりたい!」という、より能動的で、本質的なアーティストとしての強い欲求が、日増しに彼女の中で大きく育ち始めていた。

 

ある日のこと、いつものようにライブハウスのバックヤードの掲示板を何気なく眺めていたことねの目に、一枚のカラフルなポスターが鮮やかに飛び込んできた。

 

『The Roar Presents OPEN MIC NIGHT! – Next Sunday! 参加者大募集!ジャンル一切不問!初心者大歓迎!君の秘めた音を、このステージで解き放て!』

 

オープンマイクナイト。誰でも、どんな形でも、ステージに立てるチャンス。

 

ほんの数ヶ月前の自分なら、きっと見向きもせず、他人事として通り過ぎていただろう。

 

しかし、今のことねは、その躍るような文字と、ステージで楽しそうにパフォーマンスするイラストから、目が離せなかった。胸の奥が、トクン、トクンと、小さく、しかし確実に期待に満ちた音を立ててざわめくのを感じた。

 

(あたしの歌……直接みんなに、届けたい……!)

 

まだそれは、具体的な形にはなっていない、ぼんやりとした、しかし熱を帯びた憧憬に過ぎなかった。

 

今すぐステージに立つ具体的なプランも、ましてやそれを実行に移すだけの確固たる勇気も、まだ持ち合わせてはいなかったかもしれない。

 

それでも、そのポスターの前で数秒間、夢見るような表情で立ち尽くしたことねの横顔には、新しい目標の、そして輝かしい未来への萌芽が、確かに、そして力強く見て取れた。

 

---

 

その日の営業終了後、最後の客を見送り、フロアの喧騒が嘘のような深い静寂に包まれた時、ことねは一人、ステージの前に立っていた。

 

スポットライトは消えているが、そこには確かに、数え切れないほどの音楽の魂と、熱い情熱の残滓が、まるでオーラのように漂っているのを感じられた。

 

ことねは吸い寄せられるように、ゆっくりとステージの階段を上がり、中央に立った。

 

手には、見えないマイク。

 

目の前には、いないはずの観客たちの熱い視線。

 

それでも、彼女の胸には、今日一日で出会った様々な音楽の鮮烈な余韻が渦巻き、ミコから受けた厳しいながらも愛情に満ちた指導の言葉が何度も反芻され、そして、まだ見ぬ未来への漠然とした、しかし確かな期待感が、まるで生まれたての星のようにキラキラと込み上げてきていた。

 

(あたし、少しは……ううん、結構、変われたかも……!)

 

数ヶ月前の、過労と絶望感に打ちひしがれ、未来なんて何も見えなかった自分を思う。

 

あの頃の自分には、今のこの場所に立っていることなんて、想像もできなかっただろう。

 

それは、たくさんの人の優しさと支え、そして自分自身のほんの少しの勇気が、手繰り寄せ、繋いでくれた、奇跡のような道だった。

 

(もっともっと上手くなりたい。もっともっとたくさんの人に、あたしの元気と、あたしの今の気持ちを、この声で、この歌で、届けられるようになりたい!)

 

その純粋で、ひたむきな想いが、まるで美しいメロディのように、夜の静寂の中に優しく溶けていく。

 

新しい風が、いつも心地よく吹き抜けるライブハウス「The Roar」で、藤田ことねの学びと成長の日々は、まだ始まったばかりだった。

 

彼女の心には、これから紡がれていくであろう未来への、希望に満ちたファンファーレが、微かに、しかし確かに、高らかに響き始めていた。




評価・コメントありがとうございます。とても励みになっております。
今後も執筆を続けていきますのでどうぞよろしくお願いします。
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