ライブハウス「The Roar」のバックヤードに貼られた一枚のポスター。
その色褪せた紙に躍る『OPEN MIC NIGHT!』の文字が、ここ数日、ことねの心の中心で、まるで消えないネオンサインのように明滅を繰り返していた。
それは、ただのイベント告知ではなかった。今の彼女にとっては、過去と未来を繋ぐための、たった一つの扉のように思えた。
過労で倒れ、自分の無力さに打ちひしがれていた数ヶ月前の自分では、きっと視界にすら入らなかっただろう。
だが、今は違う。ミコという師を得て、自分の声と向き合い、拓也やファン、そして家族という温かい繋がりの中で、ことねの心には、か細くも確かな光が灯り始めていた。
その光を、試してみたかった。このステージの上で。
営業終了後、客のいなくなったフロアでモップをかけながら、ことねは意を決して、カウンターでグラスを磨くミコの後ろ姿に声をかけた。
「ミコさん。あの……!」
自分でも驚くほど、声に芯が通った。振り返ったミコの射抜くような視線にも、今度は怯まない。一度固く決めた覚悟は、もう揺らがなかった。
「……なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。腹から声出すのは歌の基本だろ」
ぶっきらぼうな口調。
だが、その声色に以前のような刺々しさはなく、むしろ促すような響きが含まれているのを、ことねは感じ取っていた。
ことねは一度、ぐっと唇を噛み、そして腹の底から、レッスンで叩き込まれた呼吸法を意識して、もう一度口を開いた。
「次の、オープンマイクに……出たい、です!」
静まり返ったフロアに、その言葉は決意の響きを伴ってクリアに渡った。
ミコは磨いていたグラスを置き、ゆっくりとことねの方へ向き直る。その表情は読めない。
だが、断られるかもしれないという不安はなかった。今の自分にできる、最高の挑戦をしたい。その想いが、ことねの背筋をまっすぐに支えていた。
やがて、ミコの口元に、ふっと皮肉とも感心ともつかない笑みが浮かんだ。
「……ほう。随分と景気のいいことを言うようになったじゃないか」
ミコはカウンターから出てくると、ことねの目の前に立った。
小柄な彼女が見上げるその視線は、どんな大男のそれよりも強く、ことねの覚悟の純度を測っているようだった。
「いいだろう。今のあんたなら、好きにやってみな。だが、一つだけ言っておく。半端なもんは見せるなよ。このステージは、遊び場じゃねえ。あんたがこれから生きていく戦場だ。その覚悟があるなら、な」
「……はいっ!」
ことねは、背筋が伸びるようなその言葉に、力強く頷いた。許された。認められた。
その事実が、じわりと胸の奥を熱くする。その高揚感は、事務所のソファで一人になった時、挑戦者だけが感じる武者震いへと姿を変えた。
(ステージに、立つ……!)
その言葉の重みが、心地よいプレッシャーとして両肩にのしかかる。
(何を歌って、どう踊ろう?あたしだけのパフォーマンスを、作らなきゃ)
初星学園にいた頃は、常に課題があった。オーディションで歌う曲も、ダンスの振り付けも、すべて「与えられた」ものだった。
だが、今は違う。目の前には、無限の白紙が広がっている。
それは途方に暮れるようなものではなく、これからどんな色で、どんな絵を描いていこうかと胸が躍る、可能性そのものだった。
とはいえ、具体的なアイデアがすぐに湧き出るわけではない。
壁一面のCDライブラリから音源を聴き、歌詞を読み込む。
素晴らしい曲ばかりだが、今の自分の気持ちを、自分の言葉として代弁してくれる一曲を探すのは、宝探しにも似ていた。
「あたしは、何を伝えたいんだろう……」
歌への恐怖が完全に消えたわけではない。だが、それはもう、足を止める足枷ではなかった。
むしろ、その恐怖すらも今の自分の一部として表現に昇華したい、という前向きな欲求に変わっていた。
ダンスも同じだ。ただ可愛く見せるのではなく、歌と言葉と、自分の魂を繋ぐための、新しい表現を探したい。
答えを求める時間は、苦しくも充実していた。気がつけば窓の外が白み始めている。眠れなかったのではない。夢中になっていたら、朝が来てしまったのだ。
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その日の居酒屋バイトの休憩時間。
厨房の隅で、ことねはスマホのメモ帳に、パフォーマンスのアイデアを書き殴っていた。その顔は、真剣そのものだが、どこか楽しげだ。
「……随分と楽しそうじゃん。何か良いことでもあったか?」
聞き慣れた声に顔を上げると、ギターケースを傍らに置いた拓也が、にこやかに立っていた。
「拓也さん!聞いてください!」
ことねは目を輝かせながら、オープンマイクに出ることを告げた。拓也は「ミコさんからも聞いたぜ」と笑い、「おめでとう」と心から祝福してくれた。
「ありがとうございます。でも、すっごく悩んでて……あたしらしいパフォーマンスって、何なんだろうって」
拓也はことねの隣に腰を下ろすと、自分のギターケースを愛おしそうに撫でた。
「俺さ、昔バンド組んでた時、初めてのライブで大失敗したんだよ」
それは、ことねが初めて聞く話だった。
「緊張で練習の半分もできなくてさ。でも、そんなボロボロのライブでも、『お前ら、すっげえ楽しそうにギター弾くのな』って言ってくれた奴がいて、救われたんだ」
拓也はことねの目を見て、続けた。
「完璧じゃなくてもいい。ことねが、心の底から『楽しい』って思えること。それが一番伝わるんじゃないかって、俺は思うけどな」
「楽しい……」
その言葉が、ことねの心に灯っていた光を、さらに強く輝かせた。
そうだ、原点はそこだ。あたしが楽しむことが、みんなの笑顔に繋がる。その一番大事なことを、忘れるところだった。
「あの……拓也さん!」
ことねは顔を上げ、決意を秘めた瞳で拓也を見つめた。
「もし、もしよかったら……あたしの歌、ギターで、伴奏してもらえませんか?」
それは、自分でも驚くほど素直に出てきた言葉だった。誰かと一緒に音楽を作る。アイドルとしての自分ではない、新しい自分を表現するための、最高の仲間がいるじゃないか。
拓也は一瞬、目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに、そして少し照れくさそうに笑った。
「……俺でいいなら、喜んで。光栄だな、未来の大スターの初ステージに立ち会えるなんて」
その軽口が、ことねの心をさらに軽く、前へと押し出した。
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それから数日、ことねと拓也の二人三脚の練習が始まった。
場所は「The Roar」の営業終了後。選んだ曲は、フレデリックの「オドループ」。
聴いてくれる人と、そして何より自分たちが一緒に心の底から楽しめる、そんな未来を描ける曲だった。
拓也が爪弾くアコースティックギターの軽快なカッティングに合わせて、ことねが歌い、ステップを踏む。
二人の音と動きは、夜の静かなフロアに心地よく響いた。それはそれで、とても素敵な空間だった。
だが、数日練習を重ねるうちに、ことねの中に新たな欲求が芽生え始めた。
「拓也さんのギター、すごく素敵なんですけど……この曲、聴けば聴くほど、ベースラインがかっこよくて」
練習の合間に、ことねはぽつりと呟いた。
「ああ、わかる。このうねるようなベースと、タイトなドラムがあるから、この曲のグルーヴが生まれるんだよな」
拓也も頷く。
「ドラムが入ったら、きっと、もっと身体が動いちゃうんだろうな……なんて」
アコースティックなアレンジもいい。
でも、この曲の持つ本来の衝動、フロア全体を巻き込んで踊らせてしまうような爆発力を、どうしても表現してみたかった。
バンドサウンド。その言葉が、ことねの頭の中に鮮明に浮かび上がった。
「でも、いきなりドラムとベースなんて、探せないですよね……」
ことねが諦めかけた、その時だった。
脳裏に、太陽のような笑顔が浮かんだ。ライブハウスのバイト仲間。いつも音楽の話で目を輝かせている、年上の専門学生。
「……美咲さん」
そうだ、彼女は自分のバンドでドラムを叩いていると言っていた。
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翌日のバイトのシフトでは、ことねと美咲は一緒だった。
ホールでドリンクを運ぶ彼女の軽快な動きを目で追いながら、ことねはどう切り出すべきか、タイミングを計っていた。
休憩時間が、チャンスだ。
「美咲さん! あの、今ちょっといいですか?」
バックヤードでスマホをいじっていた美咲は、ことねの声にぱっと顔を上げた。
「お、ことねちゃんどうしたの? そんな真剣な顔して」
ことねは深呼吸を一つすると、思い切って全てを話した。オープンマイクに出ること。拓也さんと二人で練習していること。
そして、どうしてもバンドで、この曲を演奏したいこと。
「――それで、もし、もし美咲さんのご迷惑でなければ、ドラムを叩いてもらえないかなって……」
言い終える頃には、声が少し震えていた。断られても仕方ない。
彼女にだって、自分のバンドの練習があるはずだ。無理なお願いをしている自覚はあった。
しかし、美咲の反応は、ことねが想定していたよりも好感触だった。
「え、なにそれ! めっちゃ面白そうじゃん!」
美咲はスマホをポケットに突っ込むと、ことねの手を両手で握りしめた。その瞳は、好奇心と興奮でキラキラと輝いている。
「もちろん、やるよ! やろうよ! ことねちゃんの初ステージでしょ? そんな大事な瞬間に誘ってくれるなんて、光栄だよ!」
「ほ、ほんとですか!?」
「本当だって! あー、でもベースどうしよっか。うちのバンドのベース、今ちょっとテストで忙しくて……あ、でも一人、心当たりいる!」
美咲はそう言うと、どこかへ電話をかけ始めた。
早口で事情を説明する彼女の背中を見ながら、ことねは胸が熱くなるのを感じた。
こんなにも簡単に、世界は繋がっていくのか。勇気を出して一歩踏み出せば、手を差し伸べてくれる人が、こんなにも近くにいる。
電話を終えた美咲が、満面の笑みで振り返った。
「オッケー! うちの学校の同級生で、腕は確かだけどちょっと人見知りな子がいるんだけど、話したら『面白そう』だって! これでメンバー揃ったね!」
こうして、ことねの挑戦は、思いがけず「バンド」としての形を成し始めた。
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数日後、四人は初めて練習スタジオに集まった。
美咲に紹介されたベーシストは、小柄で、静かな佇まいの女の子だった。肩まで伸びた黒髪が表情を少し隠している。
「……ベースの、間宮 静(まみや しずか)です。よろしく」
ぼそり、と呟くように自己紹介した彼女に、ことねは少し緊張しながらも頭を下げた。
「藤田ことねです! よろしくお願いします!」
スタジオには、拓也のアコースティックギター、静が持ってきた年季の入ったジャズベース、そして美咲がスティックを握るドラムセットが並ぶ。異色の編成だ。
「じゃあ、とりあえず一回、音出してみよっか!」
美咲の元気なカウントで、演奏が始まった。
――それは、お世辞にも良い演奏とは言えなかった。
美咲が叩き出すパワフルなドラムと、静が刻む重いベースの音圧に、拓也のアコースティックギターの繊細な音色が、まるで嵐の中の木の葉のようにかき消されてしまう。
そして、その音の洪水の中で、ことねは自分の歌うべき場所を見失い、声が上ずってしまった。
「すまん、アコギじゃ、音が埋もれちまうな……」
何度目かの演奏を止めた後、拓也が悔しそうに呟いた。その表情に、ことねの胸がチクリと痛む。
「あたしが、バンドでやりたいなんて、無理言ったから……」
「いや、ことねのせいじゃない。俺の問題だ」
拓也は力なく首を振った。その時だった。それまで黙って弦を押さえていた静が、顔を上げて拓也を見た。
「……拓也さん。そのギター、すごく良い音する。でも、バンドでやるなら……本当は、違う武器、持ってるんじゃない?」
静の、静かだが芯のある言葉に、拓也だけでなく、ことねと美咲もはっとした。
拓也は一瞬、虚を突かれたように静を見つめ、それから、観念したように、ふっと息を吐いた。
「……バレてたか」
彼は少し照れくさそうに頭を掻くと、「ちょっと待ってろ」と言い残し、スタジオの隅に置いてあった、もう一つの年季の入ったハードケースへと歩み寄った。
彼がその留め金を外し、中から取り出したのは、使い込まれ、塗装の所々が剥げた、サンバーストカラーのエレキギターだった。
「うわ、テレキャス!渋い!」美咲が声を上げる。
「昔、本気でプロ目指してた時の相棒なんだ。もう弾くこともないと思って、ずっと眠らせてたんだけど……」
拓也はギターを肩にかけると、アンプのシールドをジャックに差し込んだ。
「お前らとやってたら、またコイツで、デカい音、鳴らしたくなった」
その横顔は、いつもの穏やかな彼とは違う、ロックバンドのギタリストの顔をしていた。
拓也がピックを振り下ろした瞬間、スタジオの空気が震えた。
アンプから飛び出したのは、鋭く歪んでいながらも、どこかブルージーで色気のある、魂の音だった。
キレのあるカッティングリフが、静のベースと美咲のドラムに、まるで最後のピースがはまるように完璧に絡み合う。
一気にドライブ感と熱量を増したサウンド。その音圧の波に、ことねの身体が自然と動き出す。
「――これだ!」
マイクを握りしめながら、ことねは心の底から叫んでいた。これだ。この音の真ん中で、あたしは歌いたかったんだ。
その一瞬を境に、四人の音が、急速に一つの生命体となった。
静が弾く、うねるように歌うベースライン。美咲が叩き出す、タイトでいながら遊び心に溢れたドラム。
その強力なグルーヴの上を、拓也のギターが、鳥のように、あるいは獣のように、自由に、そして情熱的に飛び回る。
そして、その中心で、ことねの歌声が、水を得た魚のように生き生きと躍動し始めた。
歌と同時に、ダンスの振り付けも、ゼロから作り直した。
初星学園で叩き込まれた「見せる」ためのアイドルダンスは、引き出しの奥にしまった。
鏡の前で、四人で作り上げたバンドサウンドを全身に浴びる。歌詞の世界に深く潜り、沸き上がってくる感情のままに、身体を動かしてみる。
喜び、焦燥、そして未来への希望。感情の波が、自然と身体を動かす。
それは洗練とは程遠い、剥き出しの動きだったが、そこには紛れもなく、藤田ことね自身の「魂」が宿っていた。
深夜のフロアで、ことねが没頭するように踊っていると、壁に寄りかかって見ていたミコが、ぼそりと言った。
「……悪くない。だが、まだ綺麗すぎるな」
「え……?」
「もっと自分の内側を、汚い部分も、弱い部分も、全部晒け出せ。あんたの身体は、あんたの心より、ずっと雄弁なはずだ。躊躇すんな。観客は、お前の作った綺麗な仮面を見に来るんじゃねえ。お前の剥き出しの心を見に来るんだ」
ミコの言葉は、辛辣だが、今のことねには最高の激励に聞こえた。そうだ、まだ足りない。もっと深く、もっと正直に。
その夜、ことねは久しぶりに初星学園の夢を見た。だが、以前とは違った。
輪から弾き出される自分を、もう一人の自分が客席から見ている。
『あなたは、本当にそれで楽しかったの?』かつてのあたしが、いまのあたしに問いかける。
目を覚ました時、頬は濡れていなかった。心は、澄み渡っていた。
(あたしは、あたしのままで。)
綺麗じゃなくても、完璧じゃなくてもいい。今のあたしの、このぐちゃぐちゃな感情のすべてを、歌とダンスに乗せて、届けよう。
練習最終日。四人の音と、ことねのパフォーマンスが、完璧に一つの生命体となった。その演奏を終えた時、スタジオには濃密な静寂と、熱気だけが満ちていた。
「……すげえ、今の……」
最初に沈黙を破ったのは、拓也だった。その目は、興奮で爛々と輝いていた。
「最高じゃん、私たち!」美咲がスティックを高く掲げる。静も、こくりと小さく、しかし力強く頷いた。
「少しフワフワしてますけど、全部出せた気がします……!」
ことねは、息を切らしながら、心からの笑顔で答えた。
それを見ていたミコが、スタジオの扉の影で、ふいと顔を背け、小さな声で「……上出来だ」と呟いた。
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オープンマイクナイト当日。
「The Roar」は、開場と同時に熱気と期待でむせ返るようだった。
楽屋に入ると、他の出演者たちのプロフェッショナルな空気に、一瞬だけ心臓が跳ねた。鏡に映る自分の顔が、少し強張っている。
(どうしよう……)
その不安は、すぐに別の感情に上書きされた。
(――じゃない。大丈夫。あたしは、一人じゃない)
『だからお前はダメなんだ』
ふいに、初星学園時代の幻聴が蘇る。かつての自分の声。だが、今のことねは、それに力強く心の中で言い返した。
(ううん。あの頃のあたしがいたから、今のあたしがいる。全部、無駄じゃなかった)
「ことね」
隣でチューニングしていた拓也が、エレキギターのネックを握りしめ、優しい目でこちらを見ていた。
「楽しもうぜ、一緒に」
「うん!」
スティックの最終チェックをしていた美咲が、ウィンクしてくる。
「ことねちゃんが主役なんだから、思いっきりやっちゃって!」
黙々と指をほぐしていた静も、ことねを見て、静かに言った。
「……後ろは、任せて」
そうだ。あたしは、一人じゃない。
恐怖はもうない。あるのは、最高のステージを届けたいという、燃えるような想いだけ。
そこへ、腕を組んだミコが、ぬっと現れた。
「おい、いつまで突っ立ってる。客を待たせるな」
ミコの声は、鋭く、厳しい。だが、その瞳の奥には、確かな信頼の色が宿っていた。
「あんたはもう、一人じゃないんだろ。なら、さっさと行って、お前たちの音を、叩きつけてこい」
ことねは、涙ではなく、闘志に燃える瞳でミコと、そしてバンドの仲間たちを見つめ返した。
「いってきます」
その声には、微塵の震えもなかった。あるのは、ステージに立つ者だけが持つ、清々しい覚悟だった。
『さあ、続いての出演者は、この日のために結成されたスペシャルバンドです! ボーカル&パフォーマンス、ことね! ギター、拓也! ドラム、美咲! そしてベース、静! 大きな拍手でお迎えください!』
司会の声が響き、割れるような拍手が四人を迎える。
ことねは仲間たちと視線を交わし、一つ、深く息を吸った。
そして、光が溢れるその場所へ。
自分の未来へと繋がる、黎明のステージへと、確かな一歩を踏み出した。