藤田ことねが初星学園の門をくぐったのは、中学の制服がまだ体に馴染んでいない頃だった。春風が吹いて、遠くの桜が揺れていた。
足元ばかりを見ながら、ことねは小さくつぶやいた。
「ここからあたしのアイドル生活が始まるんだ……」
「あたし、アイドルとして絶対に稼ぐからね!」
誰に向けるでもない言葉だった。でも、口にすれば、ほんの少しだけ現実味を帯びるような気がした。
初星学園での日々は、ことねにとって「可能性への挑戦」だった。
ダンスには自信があった。場を盛り上げる空気も読める。でも、歌はずっと苦手だった。
音を外すたびに、周囲と自分との差を感じる。
努力はした。それでも、オーディションに受かるのはいつも他の子たちだった。
「努力すれば変われるよ!」
仲間はそう言ってくれた。先生も励ましてくれた。
だけど、ことねの胸には小さな疑問が残り続けた。
――あたしなんかが、ほんとに変われるの?
落ちたオーディションのあと、誰もいない練習室で鏡の前に立つと、自分の姿がぼやけて見えた。
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季節は流れ、進路を決める時期。
机の上に広げた願書を前に、ことねは唇を噛んだ。
「また学校に行っても、結局ダメだったら意味ないじゃん……」
少し強めの言い回し。でも、それは自分を鼓舞するための呪文のようなものだった。
どうせ「そこそこ」で終わる未来なら、早めに稼げる道を選んだほうがいい。
通信制なら、通学に縛られず働けるし、家の負担も減らせる。
「働ける時間が増えるし、家族のためにもなるし……それでいいじゃん」
ことねは、そう言って願書を封筒に入れた。
夢を捨てたつもりはなかった。
ただ、夢を見る力が、自分にはなかっただけだ。
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高校生活が始まると、ことねは空いている時間をすべてバイトにあてた。
昼はコンビニ、夕方はファミレス、夜は居酒屋や夜間清掃。
未成年が働ける範囲で、ギリギリのスケジュールを組んだ。制度やルールを調べて、自分で動いた。
「家族を支えるには、昼だけじゃ足りないし」
それは言い訳ではなく、現実を淡々と見つめた言葉だった。
夜の街で出会う人たちは、かつて夢を見たことのある大人たちだった。
「昔、役者目指してたんだけどさ」
「歌手になりたかったけど、やっぱ現実だよね」
そんな言葉を聞くたび、ことねの胸の奥に、言葉にならない何かが積もっていく。
「夢って、そんなに大事?」
そう思ったとしても、それを誰かに問う気にはなれなかった。
アイドルにならなかった自分には、語る資格すらないような気がした。
スマホの画面には、今も活動を続けている同期たち。
舞台の上で笑っている彼女たちは、遠くて、まぶしくて、別の世界の住人のようだった。
画面を閉じて、ことねは小さく息を吐いた。
「あたしは、才能のない人間だったし」
その言葉に、感情はほとんど込められていなかった。
ただの事実として、そこにあった。
夢よりも、現実を選んだ。ただそれだけのこと。
こうして、彼女は「アイドルにならない道」を歩き始めた。