オープンマイクでの伝説的なステージから、数日が過ぎた。
あの夜、自分たちが放った熱狂は、まるで遠い夢の出来事のようだった。
しかし、ことねの日常は、静かに、だが確実にその形を変え始めていた。
「The Roar」でのバイトと、ミコとのレッスン。
繰り返されるはずだった日常は、スマートフォンの鳴りやまない通知音によって、絶えずそのリズムを乱された。
SNSを開けば、あの日を境に数万人にまで膨れ上がったフォロワーからのコメントが、滝のように流れ落ちてくる。
『最高のライブをありがとう!』
『あなたの歌で、明日も頑張れます』
『Please come to Brazil!』
世界中からの、温かい言葉の洪水。胸が熱くなると同時に、まだどこか現実感が伴わない。
バイト帰りに立ち寄ったコンビニで、「あの、もしかして…動画の…」と高校生のグループに声をかけられた時には、心臓が口から飛び出るかと思った。
ことねはとっさに人差し指を唇に当てて「しーっ」というポーズを取ると、いたずらっぽく笑って会釈し、逃げるように店を出てしまった。
嬉しい。けれど、少し怖い。
注目されることへの戸惑いが、大きな波のように押し寄せてくる。
だが、そんな戸惑いとは裏腹に、ことねの身体と心は、次なる表現を渇望していた。
部屋で一人、鏡の前に立つ。スマホで音楽を流せば、無意識のうちに身体が動き出す。
あの夜のステージで感じた、音楽と一体になる全能感。もっと上手くなりたい。もっと凄いものを見せたい。
もっと、あの仲間たちと音を出したい。
心の奥で、静かだが、決して消えることのない炎が、より一層強く燃え盛っているのを、ことね自身、はっきりと感じていた。
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その日の夜、営業が終わり、客もまばらになった「The Roar」のフロアに、約束したかのように、あの夜の仲間たちが顔を揃えた。
「よっ、ことね。スターは今日も働くなあ」
ギターケースを背負った拓也が、軽口を叩きながら現れる。
「ことねちゃーん!ヤッホー!」
大きなドラムのスティックケースを肩から下げた美咲が、太陽のような笑顔で手を振る。
その後ろから、静が、愛用のベースケースを抱え、静かに会釈した。
あの夜以来、初めて四人が顔を合わせる。
最初は、どこか照れくさいような、それでいて誇らしいような、不思議な空気が流れた。
「……すごかったね、私たち」
最初に沈黙を破ったのは、美咲だった。その一言で、張り詰めていた空気が一気に弾ける。
「本当ですよ!拓也さんのギター、鬼気迫るものがありました!」
「いやいや、ことねのボーカルとダンスこそだろ。俺ら全員、お前に引っ張られたんだ」
「美咲のドラムも、静のベースも、最高だった…」
互いを称え合う言葉が、自然と溢れ出す。
最高のステージを共に作り上げた者だけが分かち合える、特別な連帯感が、そこにはあった。
一頻り興奮が落ち着いた頃、美咲が、真剣な顔でテーブルに身を乗り出した。
「ねえ、みんな。私、思ったんだけど……このまま終わるの、もったいなくない!?」
その瞳は、まっすぐに三人を射抜いていた。
「正式に、この四人で、バンド、組もうよ!」
その言葉に、拓也が少しだけ躊躇うように口を開いた。
「でも、美咲は自分のバンドがあるだろ?ガールズバンド、大事にしてるって言ってたじゃん」
以前、美咲は自分のバンドについて、楽しそうに話していた。専門学校の仲間と組んだ、大切なバンドのはずだ。
しかし、美咲は首を大きく横に振った。
「うん、あっちももちろん大事だよ!でも、このバンドは、全然別腹っていうか…!あのステージの上で、自分でも知らない音が出たんだよ!だから一緒に続けたらもっと高みに行ける気がするんだ!」
彼女は、ことねに向き直り、熱っぽく語り始める。
「ことねちゃんのパフォーマンス見てて、私、思い出したんだ。音楽って、こんなにスリリングで、何が起こるか分からなくて、だから最高に楽しいんだって!正直、うちのバンド、今ちょっと停滞気味でさ…。だから、ことねちゃんたちとやると、すっごく刺激もらえるんだよね!お願い、私にもやらせて!」
美咲の情熱的な言葉に、拓也も覚悟を決めたように笑った。
「俺も、またお前らと本気で音を出したい。こんな気持ち、もう二度と味わえないと思ってた」
二人の視線が、そして美咲の期待に満ちた視線が、静へと注がれる。それまで黙って皆の言葉を聞いていた静は、ゆっくりと顔を上げた。
「……私も、やりたい」
静かな、しかし、芯の通った声だった。
「この四人で鳴らす音の、続きが聴きたいから。それに……」
静は、ことねをまっすぐに見つめた。
「あなたの歌の隣でなら、私のベースは、もっと遠くまで行ける気がする」
口数が少ない彼女だからこそ、その一言は、誰よりも雄弁に彼女の決意を物語っていた。
三人の視線が、ことねに集まる。
一人で始めた、ほんの小さなダンス配信。それが、いつの間にか、こんなにも素敵で、最高にかっこいい仲間を連れてきてくれた。
胸がいっぱいで、視界が滲む。
「……はいっ!」
ことねは、涙をこらえながら、最高の笑顔で頷いた。
「あたしも、この四人で、もっと先に行きたいです!よろしくお願いします!」
こうして、あの日限りのスペシャルバンドは、名前もまだない、正式なバンドとしての第一歩を踏み出した。
「じゃあ、まずバンド名決めなきゃ!」「次のライブどうする?」「てか、オリジナル曲、作りたくない!?」
未来に向けた希望に満ちた話し合いが、深夜のライブハウスに、いつまでも明るく響き渡っていた。
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一方、その頃。
ライブハウスの事務所では、ミコが、うんざりした顔で受話器を叩きつけるように置いた。
「……だから、うちはそういう窓口じゃねえって言ってんだろ!」
あの夜以来、ミコの電話は鳴りっぱなしだった。
SNSでの動画の拡散力は想像を絶するもので、大手を含む、ありとあらゆるプロダクションやレコード会社から、問い合わせが殺到していたのだ。
『藤田ことねさんのマネジメントについてですが、一度お話を…』
『破格の契約金を用意させていただきます』
『うちのレーベルなら、彼女を必ずスターに…』
聞こえのいい、甘い言葉の数々。
だが、その裏に透けて見える、才能を商品としてしか見ていないハイエナのような大人たちの顔に、ミコは吐き気を覚えていた。
(冗談じゃねえ。あいつは、お前らの金儲けの道具じゃねえんだよ)
全てのオファーを、ミコは冷たく、しかし毅然と断り続けていた。ことねを、この業界の汚い部分から守る、鉄壁の防波堤として。
そんな中、一本の、これまでとは毛色の違う電話が鳴った。
『私、初星学園でプロデューサーをしております、〇〇〇と申します』
静かで、丁寧で、しかし、有無を言わせぬ威圧感を放つ男性の声。
『私がプロデュースしております十王星南が、藤田ことねさんと是非一度、話をしたいと申しておりまして。ご都合のよろしい日時を、いくつかお教えいただけますでしょうか』
ミコは、舌打ちしそうになるのを、寸前でこらえた。
(……来やがったか。一番、厄介なのが)
「あいにくだが、本人にその気はないと伝えてくれ。うちはもう、あんたらのいる世界とは無関係なんでね」
そう言って電話を切ろうとしたミコを、相手の言葉が制した。
『藤田さんの考えも聞かず、そのような判断をするのは、導く者として失格ではないでしょうか。藤田さんのやりたいことを尊重し、その道のりを示せなければ、ただご自身の理想を押し付けているだけではありませんか?』
プロデューサーの冷静な、しかし核心を突くその言葉に、ミコの眉間に深い皺が刻まれる。
「……ガキが。言ってくれるじゃねえか」
数秒間の沈黙の後、ミコは吐き捨てるように答えた。
「……いいだろう。だが、会うときは私も同席させてもらう。でなけりゃ、この話はなしだ」
『ええ、それで構いません。藤田さんにも、よろしくお伝えください』
そう言って、電話は切れた。ミコは受話器を握りしめたまま、険しい顔で宙を睨んだ。本格的な「戦い」が、もう始まっている。
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バンドの未来に胸を躍らせ、仲間たちと別れたことねが、ライブハウスの出口の扉を開ける。
ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よい。最高の夜だった。明日から、また頑張れる。
そう思った、その瞬間だった。
目の前の路上に、一台の黒塗りの高級車が、まるで空間から染み出すように、音もなく滑るように停車した。
後部座席のドアが静かに開き、すらりとした長い脚が現れる。そして、ゆっくりと姿を現したのは、雑誌やテレビで何度も見た、この世の光を独り占めしたかのような、完璧な美貌とオーラを纏った少女――。
「……星南……会長?」
初星学園のトップアイドル。一番星。ことねにとっては、あまりにも遠い、天の上の存在。
時間が、止まる。街の喧騒が、遠のいていく。
星南は、驚きで声も出せずに固まっていることねの目の前まで、優雅な足取りで歩み寄ると、夜空の星々さえ霞ませるような、完璧な笑みを浮かべた。
「やっと会えたわね、ことね」
その声は、後輩を慈しむように優しく、しかし、獲物を見つけた狩人のように、抗いがたい響きを帯びていた。
「あの夜のあなたの輝き、しかとこの目に焼き付けたわ。やはり、私の目に狂いはなかった」
星南はうっとりとした表情で続ける。
「私のモノになりなさい。あなたを、最高の『一番星』にしてあげる」
圧倒的なカリスマ。抗うことのできない、絶対的な引力。ことねは、何も言えない。
ただ、そのダイヤモンドのように輝く瞳に、吸い込まれそうになる。
その時、背後のライブハウスの扉が、ギィ、と音を立てて開いた。
厳しい顔をしたミコが、ことねの肩を抱くようにして、静かに立っていた。
嵐の前の、息詰まるような静寂。
ことねの未来を巡る、二つの異なる光が、深夜の路上で、静かに、しかし激しく、火花を散らした。
物語は、新たな局面へと、その扉を開けようとしていた。