一番星・十王星南との邂逅という、あまりに現実離れした嵐が過ぎ去った翌日の夜。
「The Roar」の営業終了後、フロアの喧騒が嘘のような静寂の中、あの夜の仲間たちが、再び顔を揃えていた。
これは、先日バンド結成を決めた彼らの、記念すべき第一回の公式ミーティングだった。
しかし、テーブルを囲む四人の間には、未来への希望だけではない、新たな緊張感が漂っていた。
ことねが、昨夜の出来事を、まだ三人に詳しく話せていなかったからだ。
「……それで、断ったんだな。あの十王星南のスカウトを」
重い沈黙を破ったのは、拓也だった。ことねは、昨夜の一部始終を、包み隠さず三人に共有していた。
星南の圧倒的な存在感、初星学園への甘い誘い、そして、自分がそれをはっきりと断ったこと。
「はい」
ことねは、まっすぐに三人の顔を見つめ返し、力強く頷いた。
「あたしは、この四人でやっていきたいって、ちゃんと言いました」
その言葉に、美咲が「ことねちゃーん!」と叫びながら、感極まったようにテーブルに突っ伏した。
「かっこよすぎるよ…!あの十王星南に、正面からノーを突きつけるなんて!少女漫画の主人公だって、もうちょっと迷うよ!」
その目には、感動の涙が浮かんでいる。
「……正しい判断」
静が、穏やかに、しかし確信を込めて呟く。
「あの人のやり方は、おそらく、個の力を極限まで引き上げる。でも、それはバンドじゃない。今の私たちに必要なのは、そういうものじゃないから」
静の言葉に、全員が頷く。そうだ。私たちは、もうただの寄せ集めじゃない。
「やり方がどうであれ、ことね、お前自身の言葉で、俺たちを選んでくれた。それが、何より嬉しいよ」
拓也が、照れくさそうに、だが心からの笑顔で言った。
「ありがとうな、ことね」
「こ、こちらこそ、ありがとうございます!」
仲間たちの温かい言葉に、ことねの胸が熱くなる。自分の選択は、きっと間違っていなかった。
この人たちとなら、きっとどこまでも行ける。この手で、未来を掴める。
「よし!」
美咲が、顔を上げてバン、とテーブルを叩いた。その目には、涙の跡と、それ以上の決意の光が宿っている。
「私たちの答えは、もう決まった!だったら、まず形から入ろう!」
彼女は、ドラムスティックを指揮棒のように振りかざし、高らかに宣言した。
「第一回!バンドミーティングを始めます!最初の議題は、もちろん、私たちの名前!バンド名がないと、始まらないっしょ!」
その言葉を皮切りに、四人の、手探りの冒険が始まった。
「やっぱ、英語のかっこいいのがいいよな」
拓也が、少し照れくさそうに切り出した。
「俺たちがやってるのは、結局ロックだと思うし。衝動とか、反逆とか、そういうニュアンスのあるやつ。『アンネームド・シグナル』(Unnamed Signal)とか、『ストレイライト・リベリオン』(Straylight Rebellion)とかさ」
「えー、ちょっと中二っぽくない?」
美咲が、遠慮なく突っ込む。
「拓也さん、そういうの好きそうだもんねー!もっとこう、可愛くてキャッチーなのがいいよ!お客さんが、一発で覚えられるようなやつ!例えば、『ことねタイフーン!』とか!」
「それじゃ、俺らがことねのバックバンドみたいだろ」
拓也が、苦笑しながら返す。
「それに、台風って…」
「じゃあ、『ミラクループ』は!?この前の私たちのライブ、奇跡みたいだったし!」
二人の、正反対な意見が飛び交う。その様子を、ことねは微笑ましく見ていた。すると、それまで黙って聞いていた静が、ぽつりと呟いた。
「……『境界線上のノイズ』」
「え?」
「あるいは、『黎明と残響』(れいめいとざんきょう)。……とか」
静が提案したのは、まるで現代詩のタイトルのような、概念的で、アーティスティックな名前だった。その意外すぎるセンスに、今度はスタジオ全員がきょとんとする。
「……ぷっ、あはははは!」
最初に吹き出したのは、美咲だった。
「静ちゃん、相変わらずだね!でも、なんかかっこいいかも!意味はよくわからないけど!」
「意味なら、ある」と、静が少しだけムキになって反論する。
ロック。ポップ。アート。
三者三様の、確固たる音楽性と美学。
どれも素敵で、どれも「らしい」気がした。だが、そのどれか一つに、自分たちを当てはめることは、まだできなかった。
「……なんか、まだ、決められないですね」
ことねが、困ったように笑う。
「そうだな」と拓也も頷いた。
「多分、俺たちがどんな音を出していくのか、まだ、俺たち自身がわかってないからだ。自分たちのことがわからないのに、名前だけ決めても、しっくりこないよな」
「じゃあ、音で決めようよ!」
美咲がスティックを握り直し、スタジオへと全員を促した。
「そうだな、スタジオに行くか」
拓也のその一言を合図に、四人はスタジオへと移動した。
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向き合い、それぞれの楽器を構える。あの夜のステージの高揚感が、まだ身体の芯に残っていた。
今なら、どんな音だって出せる。そんな無敵感に、誰もが包まれていた。
拓也が、衝動のままに、力強いロックリフを弾き始める。
その音に導かれるように、静もベースを抱え、美咲もスティックを握る。
だが、いざ音を合わせようとすると、途端に歯車が噛み合わなくなる。
拓也のギターは、物語を語るように、複雑な感情を奏でる。
しかし、美咲のドラムは、もっとシンプルに、身体を揺らす衝動を叩きつける。
静のベースは、その二つの間を行き来するように、難解で美しいフレーズを紡ぎ出す。
誰もが、自分の信じる「かっこいい」を全力で表現しようとしている。その熱量は本物だ。
だが、それらは、まだ一つの川となって流れることなく、それぞれの水源から溢れ出す、三つの激流のようだった。
ことねは、その音の渦の中心で、立ち尽くすしかなかった。
(おかしい…。あのライブの時は、こんな風に迷わなかったのに…)
みんな、本気だ。拓也さんのギターは、胸を締め付けるような切ない刃となって、心の奥に突き刺さってくる。
美咲さんのドラムは、理屈抜きで身体を躍らせる、太陽みたいな心臓の音。
静さんのベースは、知恵の輪のように複雑で、どこに連れていかれるかわからない、知的な迷宮のようだった。
三つの音は、どれもが抗いがたいほどに魅力的で、そして、あまりにも違う方向を向いていた。
(この音の上で、あたしは、どう歌えばいいんだろう…?どう、踊れば…?)
拓也さんの音に合わせれば、あたしのダンスはきっと、もっと内省的で、感情的になる。
でも、美咲さんのビートがそれを許さない。美咲さんの音に乗れば、あたしは笑顔で、ただ楽しく踊れる。
ただ、そうすれば拓也さんと静さんの音が持つ深い物語が、ただの背景になってしまう。
静さんの音を道標にすれば、あたしの表現はもっとアーティスティックになるかもしれないけど、それは、あの夜フロアを揺らした熱狂とは、きっと違う。
(あの時は、何も考えていなかった。ただ、音と、熱と、みんなの視線があって…身体が勝手に動いた。でも、今は…頭で考えれば考えるほど、身体が動かなくなる。あの時みたいな衝動が、どこにも見つからない。どうして、あんな風に歌えたんだろう。どうして、あんな風に踊れたんだろう…)
どの音も、あたしたちの一部のはずなのに、どの音に身を委ねればいいのか、わからない。
身体が、声が、進むべき方向を見失って、金縛りにあったように動けなかった。
「……おかしいな」
何度かセッションを繰り返した後、最初に手を止めたのは拓也だった。
「オープンマイクの時は、あんなに息が合ったのに。何も考えなくても、ピタッとはまった感じがしたんだが…」
「だよね!」と美咲も続く。「あの時は、なんかもう、勝手に身体が動いたっていうか!ことねちゃんが歌い出した瞬間、叩くべきビートが、空から降ってくる感じだったもん!」
二人の言葉に、それまで黙って全体の音を聴いていた静が、ぽつりと言った。
「……あの時は、藤田さんのパフォーマンスが、私たちの中心にあったから」
その静かな声に、全員がはっとする。
「彼女の、あの獣みたいな熱量が、私たちのバラバラな音を、無理やり一つに束ねていた。私たちは、彼女の感情の嵐に、ただ必死についていくだけでよかった。でも、今は……」
静は、言葉を切った。だが、その意味は、全員に痛いほど伝わっていた。
今は、その嵐の中心がない。
羅針盤のない船のように、それぞれが、ただ自分の信じる方角へ、全力でオールを漕いでいるだけだった。
「……そっか。俺たちは、まだ、本当の意味でバンドになってなかったんだな」
拓也が、悔しそうに呟いた。
重い空気が、スタジオに満ちる。
成功の熱狂から一転、突きつけられた、厳しい現実。
これが、ゼロから何かを生み出すことの、難しさ。
四人の間には、初めての、そしてあまりに高い「壁」が、静かにそびえ立っていた。
誰もが俯き、言葉を失った、その時だった。
「そっか!」
沈黙を破ったのは、美咲の、いつもの太陽のような声だった。
彼女は、ことねの顔をまっすぐに見つめ、にっと笑った。
「わかった!私たちに、今、必要なもの!」
「名前でも、音の方向性でもない!もっと、根本的なもの!」
「――私たちの物語だ!」
彼女は、高らかに宣言した。
「私たちの物語を、私たちの歌を作ればいいんだ!ことねちゃんの、あの嵐みたいな感情を、今度は、私たちが支えるための設計図を!そしたら、私たちの音も、きっと、一つになれるよ!」
その言葉に、全員が、はっとしたように顔を上げる。
そうだ。道標がないから、迷っていたんだ。
自分たちの魂を乗せる、一曲の歌。
それさえあれば。
全員の視線が、自然と、ことねへと集まる。
この物語の、そして、このバンドの中心である、彼女へと。
ことねは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
その視線は、あまりにも重く、そして、あまりにも温かかった。
名前のないあたしたちが、本当の意味で一つのバンドになるための、巨大で、しかし、最高の挑戦が、今、始まろうとしていた。