バイト戦士ことね   作:夜琥

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23. 名前のないあたしたち

一番星・十王星南との邂逅という、あまりに現実離れした嵐が過ぎ去った翌日の夜。

「The Roar」の営業終了後、フロアの喧騒が嘘のような静寂の中、あの夜の仲間たちが、再び顔を揃えていた。

 

これは、先日バンド結成を決めた彼らの、記念すべき第一回の公式ミーティングだった。

しかし、テーブルを囲む四人の間には、未来への希望だけではない、新たな緊張感が漂っていた。

ことねが、昨夜の出来事を、まだ三人に詳しく話せていなかったからだ。

 

「……それで、断ったんだな。あの十王星南のスカウトを」

 

重い沈黙を破ったのは、拓也だった。ことねは、昨夜の一部始終を、包み隠さず三人に共有していた。

星南の圧倒的な存在感、初星学園への甘い誘い、そして、自分がそれをはっきりと断ったこと。

 

「はい」

 

ことねは、まっすぐに三人の顔を見つめ返し、力強く頷いた。

 

「あたしは、この四人でやっていきたいって、ちゃんと言いました」

 

その言葉に、美咲が「ことねちゃーん!」と叫びながら、感極まったようにテーブルに突っ伏した。

 

「かっこよすぎるよ…!あの十王星南に、正面からノーを突きつけるなんて!少女漫画の主人公だって、もうちょっと迷うよ!」

 

その目には、感動の涙が浮かんでいる。

 

「……正しい判断」

 

静が、穏やかに、しかし確信を込めて呟く。

 

「あの人のやり方は、おそらく、個の力を極限まで引き上げる。でも、それはバンドじゃない。今の私たちに必要なのは、そういうものじゃないから」

 

静の言葉に、全員が頷く。そうだ。私たちは、もうただの寄せ集めじゃない。

 

「やり方がどうであれ、ことね、お前自身の言葉で、俺たちを選んでくれた。それが、何より嬉しいよ」

 

拓也が、照れくさそうに、だが心からの笑顔で言った。

 

「ありがとうな、ことね」

 

「こ、こちらこそ、ありがとうございます!」

 

仲間たちの温かい言葉に、ことねの胸が熱くなる。自分の選択は、きっと間違っていなかった。

この人たちとなら、きっとどこまでも行ける。この手で、未来を掴める。

 

「よし!」

 

美咲が、顔を上げてバン、とテーブルを叩いた。その目には、涙の跡と、それ以上の決意の光が宿っている。

 

「私たちの答えは、もう決まった!だったら、まず形から入ろう!」

 

彼女は、ドラムスティックを指揮棒のように振りかざし、高らかに宣言した。

 

「第一回!バンドミーティングを始めます!最初の議題は、もちろん、私たちの名前!バンド名がないと、始まらないっしょ!」

 

その言葉を皮切りに、四人の、手探りの冒険が始まった。

 

「やっぱ、英語のかっこいいのがいいよな」

 

拓也が、少し照れくさそうに切り出した。

 

「俺たちがやってるのは、結局ロックだと思うし。衝動とか、反逆とか、そういうニュアンスのあるやつ。『アンネームド・シグナル』(Unnamed Signal)とか、『ストレイライト・リベリオン』(Straylight Rebellion)とかさ」

 

「えー、ちょっと中二っぽくない?」

 

美咲が、遠慮なく突っ込む。

 

「拓也さん、そういうの好きそうだもんねー!もっとこう、可愛くてキャッチーなのがいいよ!お客さんが、一発で覚えられるようなやつ!例えば、『ことねタイフーン!』とか!」

 

「それじゃ、俺らがことねのバックバンドみたいだろ」

 

拓也が、苦笑しながら返す。

 

「それに、台風って…」

 

「じゃあ、『ミラクループ』は!?この前の私たちのライブ、奇跡みたいだったし!」

 

二人の、正反対な意見が飛び交う。その様子を、ことねは微笑ましく見ていた。すると、それまで黙って聞いていた静が、ぽつりと呟いた。

 

「……『境界線上のノイズ』」

 

「え?」

 

「あるいは、『黎明と残響』(れいめいとざんきょう)。……とか」

 

静が提案したのは、まるで現代詩のタイトルのような、概念的で、アーティスティックな名前だった。その意外すぎるセンスに、今度はスタジオ全員がきょとんとする。

 

「……ぷっ、あはははは!」

 

最初に吹き出したのは、美咲だった。

 

「静ちゃん、相変わらずだね!でも、なんかかっこいいかも!意味はよくわからないけど!」

 

「意味なら、ある」と、静が少しだけムキになって反論する。

 

ロック。ポップ。アート。

 

三者三様の、確固たる音楽性と美学。

どれも素敵で、どれも「らしい」気がした。だが、そのどれか一つに、自分たちを当てはめることは、まだできなかった。

 

「……なんか、まだ、決められないですね」

 

ことねが、困ったように笑う。

 

「そうだな」と拓也も頷いた。

 

「多分、俺たちがどんな音を出していくのか、まだ、俺たち自身がわかってないからだ。自分たちのことがわからないのに、名前だけ決めても、しっくりこないよな」

 

「じゃあ、音で決めようよ!」

 

美咲がスティックを握り直し、スタジオへと全員を促した。

 

「そうだな、スタジオに行くか」

 

拓也のその一言を合図に、四人はスタジオへと移動した。

 

---

 

向き合い、それぞれの楽器を構える。あの夜のステージの高揚感が、まだ身体の芯に残っていた。

今なら、どんな音だって出せる。そんな無敵感に、誰もが包まれていた。

 

拓也が、衝動のままに、力強いロックリフを弾き始める。

その音に導かれるように、静もベースを抱え、美咲もスティックを握る。

だが、いざ音を合わせようとすると、途端に歯車が噛み合わなくなる。

 

拓也のギターは、物語を語るように、複雑な感情を奏でる。

しかし、美咲のドラムは、もっとシンプルに、身体を揺らす衝動を叩きつける。

静のベースは、その二つの間を行き来するように、難解で美しいフレーズを紡ぎ出す。

 

誰もが、自分の信じる「かっこいい」を全力で表現しようとしている。その熱量は本物だ。

だが、それらは、まだ一つの川となって流れることなく、それぞれの水源から溢れ出す、三つの激流のようだった。

 

ことねは、その音の渦の中心で、立ち尽くすしかなかった。

 

(おかしい…。あのライブの時は、こんな風に迷わなかったのに…)

 

みんな、本気だ。拓也さんのギターは、胸を締め付けるような切ない刃となって、心の奥に突き刺さってくる。

 

美咲さんのドラムは、理屈抜きで身体を躍らせる、太陽みたいな心臓の音。

 

静さんのベースは、知恵の輪のように複雑で、どこに連れていかれるかわからない、知的な迷宮のようだった。

 

三つの音は、どれもが抗いがたいほどに魅力的で、そして、あまりにも違う方向を向いていた。

 

(この音の上で、あたしは、どう歌えばいいんだろう…?どう、踊れば…?)

 

拓也さんの音に合わせれば、あたしのダンスはきっと、もっと内省的で、感情的になる。

 

でも、美咲さんのビートがそれを許さない。美咲さんの音に乗れば、あたしは笑顔で、ただ楽しく踊れる。

 

ただ、そうすれば拓也さんと静さんの音が持つ深い物語が、ただの背景になってしまう。

 

静さんの音を道標にすれば、あたしの表現はもっとアーティスティックになるかもしれないけど、それは、あの夜フロアを揺らした熱狂とは、きっと違う。

 

(あの時は、何も考えていなかった。ただ、音と、熱と、みんなの視線があって…身体が勝手に動いた。でも、今は…頭で考えれば考えるほど、身体が動かなくなる。あの時みたいな衝動が、どこにも見つからない。どうして、あんな風に歌えたんだろう。どうして、あんな風に踊れたんだろう…)

 

どの音も、あたしたちの一部のはずなのに、どの音に身を委ねればいいのか、わからない。

身体が、声が、進むべき方向を見失って、金縛りにあったように動けなかった。

 

「……おかしいな」

 

何度かセッションを繰り返した後、最初に手を止めたのは拓也だった。

 

「オープンマイクの時は、あんなに息が合ったのに。何も考えなくても、ピタッとはまった感じがしたんだが…」

 

「だよね!」と美咲も続く。「あの時は、なんかもう、勝手に身体が動いたっていうか!ことねちゃんが歌い出した瞬間、叩くべきビートが、空から降ってくる感じだったもん!」

 

二人の言葉に、それまで黙って全体の音を聴いていた静が、ぽつりと言った。

 

「……あの時は、藤田さんのパフォーマンスが、私たちの中心にあったから」

その静かな声に、全員がはっとする。

 

「彼女の、あの獣みたいな熱量が、私たちのバラバラな音を、無理やり一つに束ねていた。私たちは、彼女の感情の嵐に、ただ必死についていくだけでよかった。でも、今は……」

 

静は、言葉を切った。だが、その意味は、全員に痛いほど伝わっていた。

 

今は、その嵐の中心がない。

 

羅針盤のない船のように、それぞれが、ただ自分の信じる方角へ、全力でオールを漕いでいるだけだった。

 

「……そっか。俺たちは、まだ、本当の意味でバンドになってなかったんだな」

 

拓也が、悔しそうに呟いた。

 

重い空気が、スタジオに満ちる。

成功の熱狂から一転、突きつけられた、厳しい現実。

これが、ゼロから何かを生み出すことの、難しさ。

四人の間には、初めての、そしてあまりに高い「壁」が、静かにそびえ立っていた。

 

誰もが俯き、言葉を失った、その時だった。

 

「そっか!」

 

沈黙を破ったのは、美咲の、いつもの太陽のような声だった。

彼女は、ことねの顔をまっすぐに見つめ、にっと笑った。

 

「わかった!私たちに、今、必要なもの!」

「名前でも、音の方向性でもない!もっと、根本的なもの!」

 

「――私たちの物語だ!」

 

彼女は、高らかに宣言した。

 

「私たちの物語を、私たちの歌を作ればいいんだ!ことねちゃんの、あの嵐みたいな感情を、今度は、私たちが支えるための設計図を!そしたら、私たちの音も、きっと、一つになれるよ!」

 

その言葉に、全員が、はっとしたように顔を上げる。

そうだ。道標がないから、迷っていたんだ。

自分たちの魂を乗せる、一曲の歌。

それさえあれば。

 

全員の視線が、自然と、ことねへと集まる。

この物語の、そして、このバンドの中心である、彼女へと。

 

ことねは、ゴクリと唾を飲み込んだ。

その視線は、あまりにも重く、そして、あまりにも温かかった。

 

名前のないあたしたちが、本当の意味で一つのバンドになるための、巨大で、しかし、最高の挑戦が、今、始まろうとしていた。

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