バイト戦士ことね   作:夜琥

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27. 青の静寂

決戦の日。「The Roar」の楽屋は、開演前の独特な熱気と、張り詰めた沈黙に支配されていた。

 

フロアから壁を隔てて聞こえてくる、開場を待つ客たちのざわめき。低く唸るようなベースアンプの音。

 

時折、PAチェックで鳴らされる、鋭いスネアドラムの音。そのすべてが、四人の心臓の鼓動を、嫌でも早めていく。

 

拓也は、無言でギターの弦を、何度も何度も確かめている。その指先は、いつもより少しだけ白い。

 

ドラムスツールに座った美咲は、スティックを軽快に回しながら、無理に明るく振る舞っているが、その笑顔は、僅かに引きつっていた。

 

静は、目を閉じ、壁に寄りかかったまま、精神を集中させている。その姿は、まるで戦いの前の武士のようだった。

 

そして、ことねは、そんな仲間たちの姿を見て、自分の心臓も早鐘を打っているのを感じていた。

 

一ヶ月、死ぬ気で練習した。自分たちが作り上げた30分間の「物語」に、自信がないわけじゃない。でも、怖い。

 

コン、コン、と控えめなノックの音と共に、楽屋の扉が静かに開いた。

そこに立っていたのは、今日の対戦相手、「Cyanotype」のメンバーたちだった。

 

全員が黒い、ミニマルなデザインの衣装に身を包み、その表情からは、一切の感情が読み取れない。

中央に立つギターボーカルの青年――深月 霖(みづき りん)が、代表して、丁寧すぎるほどに、しかし、どこか体温の感じられない声で言った。

 

「はじめまして。Cyanotypeです。本日は、よろしくお願いいたします」

 

彼の隣では、クールな女性ベーシストの鳴海 玲(なるみ れい)と、彫像のように動かないドラマーの一条 蓮(いちじょう れん)が、軽く会釈した。

 

その完璧な礼儀正しさが、逆に、不気味なほどのプレッシャーを放っていた。

 

「あ、はい!こちらこそ、よろしくお願いします!」

 

ことねが、慌てて立ち上がり、頭を下げる。

 

深月は、そのことねを、まるで珍しい標本でも観察するかのように、じっと見つめた。

 

「あなたが、藤田ことねさん、ですね。動画、拝見しました。非常に興味深いパフォーマンスでした。感情の振れ幅(ヴァリアビリティ)が、予測不能な数値を叩き出す。我々の音楽とは、対極にある」

 

その、分析するような物言いに、美咲が、カチンと来たように口を挟んだ。

 

「そりゃどうも!私たちの音楽は、理屈じゃなくて、心で聴くもんですから!」

 

「心、ですか」

 

深月は、少しも表情を変えずに続ける。

 

「不確定で、非効率なパラメータですね。我々は、音楽とは、無数の音の組み合わせから、たった一つの『正解』を導き出す、美しい数式だと考えています」

 

ベーシストの鳴海が、静の足元に置かれたエフェクターボードに、ちらりと視線をやった。

 

「……ずいぶん、アナログな機材を使っているんですね。私たちは、効率を重視するので、すべてデジタルで統一していますが」

 

その言葉は、静の音楽性そのものへの、静かな挑戦状だった。静は、何も答えず、ただ、鳴海の目をじっと見つめ返した。

 

深月は、再びことねに向き直ると、完璧な笑みを浮かべた。

 

「では、我々は、先にステージで、我々の『解』を提示させていただきます。あなたたちの、その非効率な『心』の答えも、楽しみにしていますよ」

 

そう言い残し、彼らは、静かに楽屋を去っていった。

 

嵐のような、静かな訪問。残された四人の間には、以前にも増して、重い緊張感が漂っていた。

 

「……なんなの、アイツら!」

 

美咲が、悔しそうに叫ぶ。

 

そこへ、ミコが、いつものようにふらりと楽屋に姿を現した。

 

「てめえら、ションベンちびりそうなツラしてんな」

 

彼女は、憎まれ口を叩きながらも、四人に、キンキンに冷えたペットボトルの水を、一本ずつ手渡した。

 

「いいか、よく聞け。上手くやろうなんて思うな。アイツらみてえに、綺麗に鳴らそうなんても思うな」

 

ミコは、四人の顔を順番に睨みつける。

 

「ただ、お前らの心臓の音を、今までで一番デカい音で、客に叩きつけてこい。あとは知るか」

 

その、あまりにもミコらしい激励の言葉に、四人の顔から、ふっと力が抜けた。

 

そうだ。あたしたちは、あたしたちのやり方で、戦うだけだ。

 

『さあ、お待ちかね!今夜最初のアーティストは、クールなテクニックでフロアを支配する、このバンドだ!Cyanotype!』

 

司会の声と共に、フロアから、期待に満ちた大きな歓声が上がる。

 

「……始まるな」

 

拓也が、呟いた。四人は、ステージ袖の暗がりへと、息をのんで移動した。

 

---

 

ステージは、その名の通り、冷たい青色の照明だけで、静かに照らし出されていた。

 

スモークが低く漂い、まるで深海のような、幻想的で、どこか非人間的な空間が広がっている。

現れた「Cyanotype」のメンバーは、ほとんど動かず、表情も変えない。

 

そんな中、深月が一歩前へ進み、マイク越しに呟く。

 

「よろしく」

 

その言葉を合図に、それぞれが楽器を構え、一瞬の静寂の後、音の奔流を解き放った。

 

一曲目『アルゴリズムの空』

 

それは、歌のない、インストゥルメンタルの楽曲だった。

 

最初に空気を切り裂いたのは、シンセサイザーの、無機質なシーケンスフレーズ。ピ、ピ、ピ、と、まるでグリッドが空間に描かれていくような、冷たく、数学的な音の羅列。

 

それは、これから始まる「完璧な世界」の設計図を、観客の脳内に直接インストールするかのようだった。

 

その、寸分の狂いもないグリッドの上に、一条のビートが、何の合図もなく、突如として起動した。

 

ドンッ、と、寸分の遅れも揺らぎもないバスドラムの一撃。

 

そして、ハイハットが、チキチキチキ、と、人間の手で刻まれているとは思えないほど正確無比な16分音符を、永遠に続くかのように奏で始めた。

 

ステージ袖で、美咲が息をのむ。

 

「……嘘。人間の手で、こんなビートが刻めるの…?一打のズレもない。機械みたい…いや、機械より正確だ…」

 

彼女は、自分のスティックを握る手に、じっとりと汗が滲むのを感じた。

 

自分の武器であるはずの、感情の昂りに合わせて加速したり、タメを作ったりする、あの人間臭い、情熱的なビート。

 

それが、この完璧なアルゴリズムの前では、あまりに稚拙で、ただの「ノイズ」にしか思えなかった。

 

自分の存在そのものが、否定されているような感覚に、背筋が凍る。

 

そこへ、鳴海のベースが、滑り込むように入ってきた。

 

彼女の指先は、フレットボードの上を、まるでプログラムされたアームのように、滑らかに、そして正確に動き回る。

 

だが、その音には、グルーヴという名の「うねり」が存在しない。

 

ただ、設計図通りに、音のブロックを、あるべき場所に、あるべきタイミングで、完璧に置いていくだけ。

 

その一音一音は、重く、鋭く、アンサンブルの基礎を、冷徹に、しかし盤石に支えていた。

 

静は、目を閉じ、その音の構造を、神経を集中させて聴いていた。

 

(……完璧。音楽理論の上では、これ以上ないくらい完璧な構築物。コードに対するアプローチ、スケールの選択、全てが正しい。でも……音が、前に出てこない。アンサンブルに徹しすぎている。ベースが、歌っていない。これは、ただの、役割)

 

そして、最後に、深月のギターが、その音の建築物の上に、最後のピースをはめるように、君臨した。

 

ギターとベースが、一音の狂いもなく、高速で複雑なフレーズをユニゾンで重ねてくる。

 

それは、まるで二匹の蛇が、互いに絡み合いながら、天へと駆け上っていくかのようだった。

 

ギターソロは、泣きも、叫びもしない。

 

ただ、無数の音が、まるでコンピュータが生成した美しいCGのように、完璧な秩序をもって、空間を埋め尽くしていく。

 

拓也は、そのギターの指の動きを、ただ呆然と見つめていた。

 

「……俺が一年かけて練習するフレーズを、あいつらは息をするように弾いてる。次元が、違うんだ…」

 

自分が、感情のままに、指癖で弾いてしまう、少しだけブルージーな、人間臭いフレーズ。

 

それが、この完璧な音の世界では、あまりにも不純で、異質なものに思えた。

自分の愛機であるテレキャスターが、急に、おもちゃのように思えてくる。

 

ことねは、その圧倒的な音圧の中で、フロアの客たちの様子を、じっと見ていた。

 

誰もが、その超絶技巧に、息をのんでいる。腕を組み、ステージを食い入るように見つめている。

それは、熱狂ではない。感嘆だ。知的な興奮だ。

誰も、騒がない。誰も、踊らない。誰も、歌わない。

 

完璧な音の洪水が、フロアを支配する。

だが、その洪水には、温度がなかった。

それは、どこまでも、どこまでも、冷たい、美しいだけの、青い奔流だった。

 

---

 

一曲目『アルゴリズムの空』の最後の音が、まるで真空に吸い込まれるように、ぴたり、と消えた。

 

フロアを支配していたのは、耳鳴りのような静寂と、観客たちの、呆然とした表情。

 

その静寂を破ったのは、誰かの「すげえ…」という、かすれた呟きだった。

それを合図に、フロアは感嘆のため息と、知的な興奮に満ちた、割れんばかりの拍手に包まれた。

 

その拍手が鳴りやまぬうちに、ステージ上の三人は、次の「数式」の構築を始めていた。

MCも、曲間の煽りも、一切ない。ただ、淡々と、次のプログラムを起動させるかのように。

 

一条のハイハットが、再び、チキ、チキ、と、冷徹なビートを刻み始める。

 

しかし、そのリズムは、先ほどまでの攻撃的なものではない。

 

もっと、ミニマルで、無機質で、どこか息苦しい。まるで、巨大なサーバー室で、無数のハードディスクが回転する音のようだった。

 

鳴海のベースが、そのビートの上に、静かな、しかし、不安を煽るような低音を、そっと重ねる。

それは、脈動ではない。ただ、規則正しく繰り返される、無機質な振動。

 

そして、深月のギターが、氷の結晶のような、透明で、美しいアルペジオを奏で始めた。

一音一音が、完璧な粒立ちで、深いリバーブの海の中へと、静かに、そして冷たく、沈んでいく。

 

その、完璧に構築された音の空間に、彼の歌声が、響き渡った。

 

二曲目『硝子の心臓』

 

その声は、クリスタルのように透き通っていた。あまりにも、完璧なピッチ。あまりにも、完璧な発声。

 

だが、そこには、一切の感情が、人間的な揺らぎが、存在しなかった。

それは、美しいが、まるでかつてのボーカロイドのように、どこまでも平坦な声だった。

 

『零と壱で紡がれた 完璧な世界の片隅で』

 

ステージ袖で、拓也は、そのギターの指の動きを、ただ呆然と見つめていた。

 

深月の指は、フレットボードの上を、まるでプログラムされた機械のように、滑らかに、そして正確に動き回る。

 

エコノミーピッキングを駆使した、高速で、しかし、一音も濁りのない、クリアなフレーズ。

 

(……人間が、こんなギターを弾けるのか…?)

 

その音は、あまりにも完璧すぎた。ピッキングの強弱、チョーキングの揺らぎ、ビブラートの震え。

 

拓也が「心」だと信じてきた、人間的な「ノイズ」が、そこには一切存在しない。

ただ、ひたすらに、正しい音が、正しいタイミングで、正しい場所に置かれていくだけ。

 

『脈を打たない硝子の心臓が ただ静かに、きみを視ている』

 

ことねは、その歌声と、歌詞の世界観に、背筋がぞっとするような感覚を覚えていた。

 

硝子の心臓。零と壱。それは、まるで、彼ら自身のことを歌っているかのようだった。

感情を捨て、完璧な理論と技術だけで構築された、美しいだけの、空っぽの心臓。

 

(すごい…。すごい、けど…怖い)

 

ことねは、フロアの観客を見た。誰もが、ステージに釘付けになっている。だが、その表情は、楽しそうではない。

 

まるで、難解な現代アートを、必死に理解しようとしているかのような、真剣で、少しだけ、苦しそうな顔をしていた。

 

ギターソロ。

 

深月の指が、さらに加速する。だが、それは、泣きも、叫びもしない。

 

ただ、無数の音が、まるでコンピュータが生成した美しいCGのように、完璧な秩序をもって、空間を埋め尽くしていく。

 

スウィープピッキング、タッピング、スキッピング。

あらゆる超絶技巧が、何の感情もなく、ただ、正確に、淡々と、繰り出されていく。

 

拓也は、自分の愛機であるテレキャスターを、強く、握りしめた。

 

その、温かい木の感触だけが、今の、自分の唯一の心の拠り所だった。

のギターは、もはや、ギターではない。音を出すための、完璧な「装置」だ。

 

それに比べて、自分の、この、傷だらけで、じゃじゃ馬で、感情のままにしか鳴ってくれないギターは、なんて、非効率で、人間臭いんだろう。

 

(……でも、俺は、こいつの音が、好きだ)

 

曲の最後の音が、深いリバーブの中に、静かに消えていく。

再び、フロアは、割れんばかりの拍手に包まれた。

 

だが、その拍手には、やはり、熱がなかった。

 

それは、素晴らしいパフォーマンスに対する、賞賛と、尊敬の音。

だが、共に、心を一つにして、熱狂するような、そんな種類の音では、決してなかった。

 

---

 

二曲目『硝子の心臓』の最後の音が、深いリバーブの中に静かに消えていく。

 

再び、フロアは割れんばかりの拍手に包まれた。だが、その拍手には、やはり熱がなかった。

素晴らしいパフォーマンスに対する、賞賛と尊敬の音。

 

しかし、共に心を一つにして熱狂するような、そんな種類の音では、決してなかった。

 

そして、三度目の静寂。

 

これまで無表情を貫いていたギターボーカルの深月が、ここで初めて、ふ、と息を吐いた。

 

それは、溜息とも、深呼吸ともつかない、ただの、空気の振動。

 

しかし、その僅かな「人間らしさ」が、逆に、これから始まる音楽の非人間性を、不気味なほどに際立たせていた。

 

彼が、ギターのネックにそっと指を滑らせる。

 

三曲目『青写真の庭』

 

ポロロン、と。

あまりにも澄み切った、一粒の音が、静寂の中に、そっと落とされた。

 

それは、静かな、インストゥルメンタルのバラードだった。だが、そこに「ツバサ」のような、人間的な温かみはない。

 

凛のギターが奏でる、精巧なアルペジオ。

 

一音一音が、寸分の狂いもないタイミングと、完璧な音量で、空間に配置されていく。

それは、もはや音楽というよりは、音の粒子で描かれた、緻密な点描画のようだった。

 

鳴海のベースは、ルート音を静かに刻むだけではない。

 

アルペジオの隙間を縫うように、美しいハーモニクスを、まるで星屑のように、散りばめていく。

その音は、きらびやかで、しかし、どこまでも冷たい。

 

(すごい……。音が、キラキラしてる。でも……寒い)

 

ことねは、ステージから放たれる、その美しくも冷たい音の空気に、思わず自分の腕をさすっていた。

 

一条のドラムは、ここでは、ビートを刻むことをやめていた。ブラシでスネアを撫でる、サー、という音。

 

時折、シンバルを、マレットで、ゴーン、と鳴らすだけ。

 

その、極限まで削ぎ落とされた音数が、逆に、広大で、何もない、空虚な空間を、聴く者の頭の中に作り上げていく。

 

ディレイとリバーブが、深く、青く、空間を染め上げる。

 

それは、美しい夢のようであり、同時に、出口のない悪夢のようでもあった。

完璧に美しすぎるが故に、どこか現実感がなく、孤独を感じさせる音の庭。

 

客席で、腕を組んで聴いていた音楽ライター風の男が、隣の連れに、小声で囁いた。

 

「……ポストロックか。いや、それとも、マスロックのバラード解釈…?ジャンル分けが無意味なレベルだ。とにかく、一つだけ言える。これは、とんでもない」

 

静は、目を閉じ、その音の構造を、神経を集中させて聴いていた。

 

「……全てのパラメータが、最大公約数で鳴っている。音響工学的には、これが最も効率的で、美しい響き」

 

彼女は、自分の音楽的知識と技術の、遥か上空を飛んでいく、その圧倒的な知性に、戦慄していた。

 

「でも、だからこそ、違和感がある。心臓の音がしない。この音楽には、血が通ってない。これは、庭師がいない、完璧なだけの、青写真の庭だ」

 

その庭には、人が入り込む余地が、どこにもなかった。

 

「音楽は、そんなに単純な数式じゃない」

 

---

 

三曲目『青写真の庭』が作り出した、美しくも冷たい、巨大な音響空間。

 

その余韻が、まだフロアを支配している。観客たちは、まるで金縛りにあったかのように、身じろぎもせず、ステージを見つめていた。

 

その、張り詰めた静寂を、切り裂いたのは、一条のたった一発のスネアドラムだった。

 

「パンッ!」

 

乾いて、硬質で、一切の感情を排した、銃声のような音。

それを合図に、ステージは、再び、動き出す。

 

そして、最後の曲、『世界の解』

 

これまでの三曲で提示された全ての要素が、一つの壮大なクライマックスへと収束していく。

 

一条のドラムは、複雑なポリリズムを、恐ろしいほどの精度で叩き出し始める。

 

鳴海のベースは、そのリズムの隙間を縫うように、高速で、しかし、一音も粒立ちを失わない、正確無比なフレーズを奏でる。

 

そして、深月のギターは、これまで以上に、テクニカルで、攻撃的なリフを繰り出してきた。

 

ステージ袖で、拓也は、その音の奔流に、ただ、圧倒されていた。

 

(……なんだよ、これ。俺たちが、一ヶ月かけて、必死で作り上げてきた音楽が、まるで、子供の遊びみたいじゃないか…)

 

これまで、ことねの言葉を信じ、自分たちの「熱」こそが武器だと思ってきた。

 

だが、この、あまりにも完璧で、あまりにも知的な「力」の前では、そんなものは、ただの、独りよがりな幻想に過ぎないのではないか。

 

彼の心に、再び、絶望的な無力感が、暗い影を落とし始めていた。

 

その、音の壁の中心で、凛が、再び、静かに、しかし、絶対的な真理のように歌い始めた。

 

『全ての変数に意味を与え 世界の解を導き出せば』

 

彼の声は、もはや、人間の声ではなかった。

それは、世界の真理を語る、神託のようであり、あるいは、全てを諦観した、哲学者の呟きのようでもあった。

 

『そこに感情の入る隙はなく 美しいだけの虚無が残る』

 

演奏は、徐々に、徐々に、熱を帯び、全ての楽器が、その技術の限界を見せつけるように、激しく、複雑に、絡み合っていく。

 

音の壁が、津波のように、フロアを飲み込んでいく。

 

ことねは、その音の津波に飲み込まれそうになりながら、フロアの光景を焼き付けていた。

 

観客たちは、もはや身じろぎ一つしない。

 

ただ、差し出された完璧すぎる「解」を前に、思考を停止させ、その絶対的な正しさの中に、魂ごと浸っているかのようだった。

熱狂の入り込む余地など、そこには一欠片もなかった。

 

ただ、その完璧な「解」を、それぞれの脳内で、必死に、処理している。

 

客席の後方で、お忍びでライブを見ていた十王星南は、その光景に、満足げな、しかし、どこか物足りないような、複雑な表情を浮かべていた。

 

(素晴らしいわ、Cyanotype。あなたの音楽は、完璧な理論に裏打ちされた、芸術の域に達している。でも……)

 

彼女の脳裏に、あの夜の、ことねの、荒削りで、めちゃくちゃで、でも、どうしようもなく心を揺さぶった、あのパフォーマンスが、鮮明に蘇る。

 

(でも、人の心を本当に震わせるのは、正解だけではないのよ)

 

演奏が、クライマックスへと達する。

全ての音が、一つの、巨大な轟音となって、フロアに叩きつけられた。

そして、その音が、完全に消え去った時。

 

30分間の、完璧な演奏が終わった。

 

「Cyanotype」のメンバーは、一糸乱れぬ動きで、深々と、一度だけ頭を下げた。

 

「ありがとう」

 

深月は一言つぶやき、「Cyanotype」のメンバー静かにステージを去っていった。

 

残されたフロアには、大きな、大きな拍手と、そして、どこか冷たい、静寂の余韻だけが残っていた。

 

---

 

ステージ袖に戻ってきた四人の間には、重い、重い沈黙が流れていた。

突きつけられた、圧倒的な実力差。自分たちの未熟さ。

 

この、完璧な静寂の後で、自分たちの、あの、荒削りで、ぐちゃぐちゃな音楽を、観客は受け入れてくれるのだろうか。

 

「……こんなの、勝てっこないよ」

 

思わずCyanotypeのライブ映像を見たときに吐いた弱音が、再び、美咲の口から漏れた。

その声は、いつもの太陽のような明るさを失い、か細く震えている。

彼女は、自分のスティックを、ただ、力なく握りしめていた。

 

拓也も、悔しそうに唇を噛んだまま、俯いている。

 

(あれが、プロの世界なのか…?俺たちが、これから目指そうとしている場所は、あんな、化け物みたいな奴らがうじゃうじゃいるのか…?)

 

初めて目の当たりにした、あまりにも高い壁。

自分たちの信じてきた音楽が、その壁の前で、ひどくちっぽけで、無力なものに感じられていた。

 

静も、壁に寄りかかったまま、固く目を閉じていた。

彼女の頭の中では、先ほどの音の洪水が、まだ鳴り響いている。

 

その、あまりに完璧な音響構築物の前では、自分たちの音楽が、まるで、子供の落書きのように思えてならなかった。

 

このまま、飲み込まれてしまう。

あの、青い静寂に。

 

その、沈黙を破ったのは、それまで黙ってフロアを見つめていた、ことねの声だった。

 

「……うん。すごい。本当に、完璧な演奏でした」

 

彼女は、仲間たちの顔を、一人ひとり、ゆっくりと見渡した。

その瞳には、もう、恐怖の色はなかった。

あるのは、自分たちの武器を見つけた、狩人のような、鋭い光だった。

 

「でも」

 

ことねは、にこり、と笑った。それは、いつもの元気な笑顔だった。

 

「でも、あたし、勝てないとは思いません。みんなも本当は気づいているはずです」

 

その一言に、全員が、はっとしたように顔を上げる。

 

ことねは、確信を込めて言った。その声は、震えていない。

 

「あたしたちは、完璧じゃなくていいんです。完璧な演奏は、ぜんぶ、Cyanotypeさんがやってくれましたから。あたしたちは、ただ、あたしたちの、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃな、最高の楽しいを、お客さんに見せつける。それだけです!」

 

そうだ。戦う土俵が、そもそも違うのだ。

 

彼らが、静寂と完璧の「青」なら、あたしたちは、熱狂と衝動の「赤」。

 

青に、赤を、ぶつけるだけだ。

 

その言葉が、凍りついていた三人の心を、溶かした。

そうだ。俺たちは、あいつらになろうとしていたんじゃない。

俺たちは、俺たちの音楽を、やりに来たんだ。

 

拓也の目に、力が戻る。彼は、自分のテレキャスターを、強く、握りしめた。

美咲が、顔を上げ、涙の跡が残る顔で、しかし、力強く、スティックを握り直す。

静が、ゆっくりと目を開け、静かに、しかし、確かに、頷いた。

 

『さあ、続いてのバンドを呼び込もうぜ!今日が、このメンバーでの初ライブ!まだ名前もねえ、荒削りなダイヤモンドの原石たちだ!』

 

司会の、陽気な声が響き渡る。

 

ことねたちは、顔を見合わせた。恐怖は、もうない。あるのは、自分たちの音楽を、魂を、叩きつける覚悟だけ。

 

四人は、円陣を組むように、互いの拳を、そっと突き合わせた。

 

「あたしたちの音楽を、証明しに行こう!」

 

ことねの言葉を合図に、彼らは、青い静寂が残るステージへと、その一歩を踏み出した。

 

ここから先は、あたしたちの、赤く、燃えるような、咆哮の時間だ。

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