決戦の日。「The Roar」の楽屋は、開演前の独特な熱気と、張り詰めた沈黙に支配されていた。
フロアから壁を隔てて聞こえてくる、開場を待つ客たちのざわめき。低く唸るようなベースアンプの音。
時折、PAチェックで鳴らされる、鋭いスネアドラムの音。そのすべてが、四人の心臓の鼓動を、嫌でも早めていく。
拓也は、無言でギターの弦を、何度も何度も確かめている。その指先は、いつもより少しだけ白い。
ドラムスツールに座った美咲は、スティックを軽快に回しながら、無理に明るく振る舞っているが、その笑顔は、僅かに引きつっていた。
静は、目を閉じ、壁に寄りかかったまま、精神を集中させている。その姿は、まるで戦いの前の武士のようだった。
そして、ことねは、そんな仲間たちの姿を見て、自分の心臓も早鐘を打っているのを感じていた。
一ヶ月、死ぬ気で練習した。自分たちが作り上げた30分間の「物語」に、自信がないわけじゃない。でも、怖い。
コン、コン、と控えめなノックの音と共に、楽屋の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、今日の対戦相手、「Cyanotype」のメンバーたちだった。
全員が黒い、ミニマルなデザインの衣装に身を包み、その表情からは、一切の感情が読み取れない。
中央に立つギターボーカルの青年――深月 霖(みづき りん)が、代表して、丁寧すぎるほどに、しかし、どこか体温の感じられない声で言った。
「はじめまして。Cyanotypeです。本日は、よろしくお願いいたします」
彼の隣では、クールな女性ベーシストの鳴海 玲(なるみ れい)と、彫像のように動かないドラマーの一条 蓮(いちじょう れん)が、軽く会釈した。
その完璧な礼儀正しさが、逆に、不気味なほどのプレッシャーを放っていた。
「あ、はい!こちらこそ、よろしくお願いします!」
ことねが、慌てて立ち上がり、頭を下げる。
深月は、そのことねを、まるで珍しい標本でも観察するかのように、じっと見つめた。
「あなたが、藤田ことねさん、ですね。動画、拝見しました。非常に興味深いパフォーマンスでした。感情の振れ幅(ヴァリアビリティ)が、予測不能な数値を叩き出す。我々の音楽とは、対極にある」
その、分析するような物言いに、美咲が、カチンと来たように口を挟んだ。
「そりゃどうも!私たちの音楽は、理屈じゃなくて、心で聴くもんですから!」
「心、ですか」
深月は、少しも表情を変えずに続ける。
「不確定で、非効率なパラメータですね。我々は、音楽とは、無数の音の組み合わせから、たった一つの『正解』を導き出す、美しい数式だと考えています」
ベーシストの鳴海が、静の足元に置かれたエフェクターボードに、ちらりと視線をやった。
「……ずいぶん、アナログな機材を使っているんですね。私たちは、効率を重視するので、すべてデジタルで統一していますが」
その言葉は、静の音楽性そのものへの、静かな挑戦状だった。静は、何も答えず、ただ、鳴海の目をじっと見つめ返した。
深月は、再びことねに向き直ると、完璧な笑みを浮かべた。
「では、我々は、先にステージで、我々の『解』を提示させていただきます。あなたたちの、その非効率な『心』の答えも、楽しみにしていますよ」
そう言い残し、彼らは、静かに楽屋を去っていった。
嵐のような、静かな訪問。残された四人の間には、以前にも増して、重い緊張感が漂っていた。
「……なんなの、アイツら!」
美咲が、悔しそうに叫ぶ。
そこへ、ミコが、いつものようにふらりと楽屋に姿を現した。
「てめえら、ションベンちびりそうなツラしてんな」
彼女は、憎まれ口を叩きながらも、四人に、キンキンに冷えたペットボトルの水を、一本ずつ手渡した。
「いいか、よく聞け。上手くやろうなんて思うな。アイツらみてえに、綺麗に鳴らそうなんても思うな」
ミコは、四人の顔を順番に睨みつける。
「ただ、お前らの心臓の音を、今までで一番デカい音で、客に叩きつけてこい。あとは知るか」
その、あまりにもミコらしい激励の言葉に、四人の顔から、ふっと力が抜けた。
そうだ。あたしたちは、あたしたちのやり方で、戦うだけだ。
『さあ、お待ちかね!今夜最初のアーティストは、クールなテクニックでフロアを支配する、このバンドだ!Cyanotype!』
司会の声と共に、フロアから、期待に満ちた大きな歓声が上がる。
「……始まるな」
拓也が、呟いた。四人は、ステージ袖の暗がりへと、息をのんで移動した。
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ステージは、その名の通り、冷たい青色の照明だけで、静かに照らし出されていた。
スモークが低く漂い、まるで深海のような、幻想的で、どこか非人間的な空間が広がっている。
現れた「Cyanotype」のメンバーは、ほとんど動かず、表情も変えない。
そんな中、深月が一歩前へ進み、マイク越しに呟く。
「よろしく」
その言葉を合図に、それぞれが楽器を構え、一瞬の静寂の後、音の奔流を解き放った。
一曲目『アルゴリズムの空』
それは、歌のない、インストゥルメンタルの楽曲だった。
最初に空気を切り裂いたのは、シンセサイザーの、無機質なシーケンスフレーズ。ピ、ピ、ピ、と、まるでグリッドが空間に描かれていくような、冷たく、数学的な音の羅列。
それは、これから始まる「完璧な世界」の設計図を、観客の脳内に直接インストールするかのようだった。
その、寸分の狂いもないグリッドの上に、一条のビートが、何の合図もなく、突如として起動した。
ドンッ、と、寸分の遅れも揺らぎもないバスドラムの一撃。
そして、ハイハットが、チキチキチキ、と、人間の手で刻まれているとは思えないほど正確無比な16分音符を、永遠に続くかのように奏で始めた。
ステージ袖で、美咲が息をのむ。
「……嘘。人間の手で、こんなビートが刻めるの…?一打のズレもない。機械みたい…いや、機械より正確だ…」
彼女は、自分のスティックを握る手に、じっとりと汗が滲むのを感じた。
自分の武器であるはずの、感情の昂りに合わせて加速したり、タメを作ったりする、あの人間臭い、情熱的なビート。
それが、この完璧なアルゴリズムの前では、あまりに稚拙で、ただの「ノイズ」にしか思えなかった。
自分の存在そのものが、否定されているような感覚に、背筋が凍る。
そこへ、鳴海のベースが、滑り込むように入ってきた。
彼女の指先は、フレットボードの上を、まるでプログラムされたアームのように、滑らかに、そして正確に動き回る。
だが、その音には、グルーヴという名の「うねり」が存在しない。
ただ、設計図通りに、音のブロックを、あるべき場所に、あるべきタイミングで、完璧に置いていくだけ。
その一音一音は、重く、鋭く、アンサンブルの基礎を、冷徹に、しかし盤石に支えていた。
静は、目を閉じ、その音の構造を、神経を集中させて聴いていた。
(……完璧。音楽理論の上では、これ以上ないくらい完璧な構築物。コードに対するアプローチ、スケールの選択、全てが正しい。でも……音が、前に出てこない。アンサンブルに徹しすぎている。ベースが、歌っていない。これは、ただの、役割)
そして、最後に、深月のギターが、その音の建築物の上に、最後のピースをはめるように、君臨した。
ギターとベースが、一音の狂いもなく、高速で複雑なフレーズをユニゾンで重ねてくる。
それは、まるで二匹の蛇が、互いに絡み合いながら、天へと駆け上っていくかのようだった。
ギターソロは、泣きも、叫びもしない。
ただ、無数の音が、まるでコンピュータが生成した美しいCGのように、完璧な秩序をもって、空間を埋め尽くしていく。
拓也は、そのギターの指の動きを、ただ呆然と見つめていた。
「……俺が一年かけて練習するフレーズを、あいつらは息をするように弾いてる。次元が、違うんだ…」
自分が、感情のままに、指癖で弾いてしまう、少しだけブルージーな、人間臭いフレーズ。
それが、この完璧な音の世界では、あまりにも不純で、異質なものに思えた。
自分の愛機であるテレキャスターが、急に、おもちゃのように思えてくる。
ことねは、その圧倒的な音圧の中で、フロアの客たちの様子を、じっと見ていた。
誰もが、その超絶技巧に、息をのんでいる。腕を組み、ステージを食い入るように見つめている。
それは、熱狂ではない。感嘆だ。知的な興奮だ。
誰も、騒がない。誰も、踊らない。誰も、歌わない。
完璧な音の洪水が、フロアを支配する。
だが、その洪水には、温度がなかった。
それは、どこまでも、どこまでも、冷たい、美しいだけの、青い奔流だった。
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一曲目『アルゴリズムの空』の最後の音が、まるで真空に吸い込まれるように、ぴたり、と消えた。
フロアを支配していたのは、耳鳴りのような静寂と、観客たちの、呆然とした表情。
その静寂を破ったのは、誰かの「すげえ…」という、かすれた呟きだった。
それを合図に、フロアは感嘆のため息と、知的な興奮に満ちた、割れんばかりの拍手に包まれた。
その拍手が鳴りやまぬうちに、ステージ上の三人は、次の「数式」の構築を始めていた。
MCも、曲間の煽りも、一切ない。ただ、淡々と、次のプログラムを起動させるかのように。
一条のハイハットが、再び、チキ、チキ、と、冷徹なビートを刻み始める。
しかし、そのリズムは、先ほどまでの攻撃的なものではない。
もっと、ミニマルで、無機質で、どこか息苦しい。まるで、巨大なサーバー室で、無数のハードディスクが回転する音のようだった。
鳴海のベースが、そのビートの上に、静かな、しかし、不安を煽るような低音を、そっと重ねる。
それは、脈動ではない。ただ、規則正しく繰り返される、無機質な振動。
そして、深月のギターが、氷の結晶のような、透明で、美しいアルペジオを奏で始めた。
一音一音が、完璧な粒立ちで、深いリバーブの海の中へと、静かに、そして冷たく、沈んでいく。
その、完璧に構築された音の空間に、彼の歌声が、響き渡った。
二曲目『硝子の心臓』
その声は、クリスタルのように透き通っていた。あまりにも、完璧なピッチ。あまりにも、完璧な発声。
だが、そこには、一切の感情が、人間的な揺らぎが、存在しなかった。
それは、美しいが、まるでかつてのボーカロイドのように、どこまでも平坦な声だった。
『零と壱で紡がれた 完璧な世界の片隅で』
ステージ袖で、拓也は、そのギターの指の動きを、ただ呆然と見つめていた。
深月の指は、フレットボードの上を、まるでプログラムされた機械のように、滑らかに、そして正確に動き回る。
エコノミーピッキングを駆使した、高速で、しかし、一音も濁りのない、クリアなフレーズ。
(……人間が、こんなギターを弾けるのか…?)
その音は、あまりにも完璧すぎた。ピッキングの強弱、チョーキングの揺らぎ、ビブラートの震え。
拓也が「心」だと信じてきた、人間的な「ノイズ」が、そこには一切存在しない。
ただ、ひたすらに、正しい音が、正しいタイミングで、正しい場所に置かれていくだけ。
『脈を打たない硝子の心臓が ただ静かに、きみを視ている』
ことねは、その歌声と、歌詞の世界観に、背筋がぞっとするような感覚を覚えていた。
硝子の心臓。零と壱。それは、まるで、彼ら自身のことを歌っているかのようだった。
感情を捨て、完璧な理論と技術だけで構築された、美しいだけの、空っぽの心臓。
(すごい…。すごい、けど…怖い)
ことねは、フロアの観客を見た。誰もが、ステージに釘付けになっている。だが、その表情は、楽しそうではない。
まるで、難解な現代アートを、必死に理解しようとしているかのような、真剣で、少しだけ、苦しそうな顔をしていた。
ギターソロ。
深月の指が、さらに加速する。だが、それは、泣きも、叫びもしない。
ただ、無数の音が、まるでコンピュータが生成した美しいCGのように、完璧な秩序をもって、空間を埋め尽くしていく。
スウィープピッキング、タッピング、スキッピング。
あらゆる超絶技巧が、何の感情もなく、ただ、正確に、淡々と、繰り出されていく。
拓也は、自分の愛機であるテレキャスターを、強く、握りしめた。
その、温かい木の感触だけが、今の、自分の唯一の心の拠り所だった。
のギターは、もはや、ギターではない。音を出すための、完璧な「装置」だ。
それに比べて、自分の、この、傷だらけで、じゃじゃ馬で、感情のままにしか鳴ってくれないギターは、なんて、非効率で、人間臭いんだろう。
(……でも、俺は、こいつの音が、好きだ)
曲の最後の音が、深いリバーブの中に、静かに消えていく。
再び、フロアは、割れんばかりの拍手に包まれた。
だが、その拍手には、やはり、熱がなかった。
それは、素晴らしいパフォーマンスに対する、賞賛と、尊敬の音。
だが、共に、心を一つにして、熱狂するような、そんな種類の音では、決してなかった。
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二曲目『硝子の心臓』の最後の音が、深いリバーブの中に静かに消えていく。
再び、フロアは割れんばかりの拍手に包まれた。だが、その拍手には、やはり熱がなかった。
素晴らしいパフォーマンスに対する、賞賛と尊敬の音。
しかし、共に心を一つにして熱狂するような、そんな種類の音では、決してなかった。
そして、三度目の静寂。
これまで無表情を貫いていたギターボーカルの深月が、ここで初めて、ふ、と息を吐いた。
それは、溜息とも、深呼吸ともつかない、ただの、空気の振動。
しかし、その僅かな「人間らしさ」が、逆に、これから始まる音楽の非人間性を、不気味なほどに際立たせていた。
彼が、ギターのネックにそっと指を滑らせる。
三曲目『青写真の庭』
ポロロン、と。
あまりにも澄み切った、一粒の音が、静寂の中に、そっと落とされた。
それは、静かな、インストゥルメンタルのバラードだった。だが、そこに「ツバサ」のような、人間的な温かみはない。
凛のギターが奏でる、精巧なアルペジオ。
一音一音が、寸分の狂いもないタイミングと、完璧な音量で、空間に配置されていく。
それは、もはや音楽というよりは、音の粒子で描かれた、緻密な点描画のようだった。
鳴海のベースは、ルート音を静かに刻むだけではない。
アルペジオの隙間を縫うように、美しいハーモニクスを、まるで星屑のように、散りばめていく。
その音は、きらびやかで、しかし、どこまでも冷たい。
(すごい……。音が、キラキラしてる。でも……寒い)
ことねは、ステージから放たれる、その美しくも冷たい音の空気に、思わず自分の腕をさすっていた。
一条のドラムは、ここでは、ビートを刻むことをやめていた。ブラシでスネアを撫でる、サー、という音。
時折、シンバルを、マレットで、ゴーン、と鳴らすだけ。
その、極限まで削ぎ落とされた音数が、逆に、広大で、何もない、空虚な空間を、聴く者の頭の中に作り上げていく。
ディレイとリバーブが、深く、青く、空間を染め上げる。
それは、美しい夢のようであり、同時に、出口のない悪夢のようでもあった。
完璧に美しすぎるが故に、どこか現実感がなく、孤独を感じさせる音の庭。
客席で、腕を組んで聴いていた音楽ライター風の男が、隣の連れに、小声で囁いた。
「……ポストロックか。いや、それとも、マスロックのバラード解釈…?ジャンル分けが無意味なレベルだ。とにかく、一つだけ言える。これは、とんでもない」
静は、目を閉じ、その音の構造を、神経を集中させて聴いていた。
「……全てのパラメータが、最大公約数で鳴っている。音響工学的には、これが最も効率的で、美しい響き」
彼女は、自分の音楽的知識と技術の、遥か上空を飛んでいく、その圧倒的な知性に、戦慄していた。
「でも、だからこそ、違和感がある。心臓の音がしない。この音楽には、血が通ってない。これは、庭師がいない、完璧なだけの、青写真の庭だ」
その庭には、人が入り込む余地が、どこにもなかった。
「音楽は、そんなに単純な数式じゃない」
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三曲目『青写真の庭』が作り出した、美しくも冷たい、巨大な音響空間。
その余韻が、まだフロアを支配している。観客たちは、まるで金縛りにあったかのように、身じろぎもせず、ステージを見つめていた。
その、張り詰めた静寂を、切り裂いたのは、一条のたった一発のスネアドラムだった。
「パンッ!」
乾いて、硬質で、一切の感情を排した、銃声のような音。
それを合図に、ステージは、再び、動き出す。
そして、最後の曲、『世界の解』
これまでの三曲で提示された全ての要素が、一つの壮大なクライマックスへと収束していく。
一条のドラムは、複雑なポリリズムを、恐ろしいほどの精度で叩き出し始める。
鳴海のベースは、そのリズムの隙間を縫うように、高速で、しかし、一音も粒立ちを失わない、正確無比なフレーズを奏でる。
そして、深月のギターは、これまで以上に、テクニカルで、攻撃的なリフを繰り出してきた。
ステージ袖で、拓也は、その音の奔流に、ただ、圧倒されていた。
(……なんだよ、これ。俺たちが、一ヶ月かけて、必死で作り上げてきた音楽が、まるで、子供の遊びみたいじゃないか…)
これまで、ことねの言葉を信じ、自分たちの「熱」こそが武器だと思ってきた。
だが、この、あまりにも完璧で、あまりにも知的な「力」の前では、そんなものは、ただの、独りよがりな幻想に過ぎないのではないか。
彼の心に、再び、絶望的な無力感が、暗い影を落とし始めていた。
その、音の壁の中心で、凛が、再び、静かに、しかし、絶対的な真理のように歌い始めた。
『全ての変数に意味を与え 世界の解を導き出せば』
彼の声は、もはや、人間の声ではなかった。
それは、世界の真理を語る、神託のようであり、あるいは、全てを諦観した、哲学者の呟きのようでもあった。
『そこに感情の入る隙はなく 美しいだけの虚無が残る』
演奏は、徐々に、徐々に、熱を帯び、全ての楽器が、その技術の限界を見せつけるように、激しく、複雑に、絡み合っていく。
音の壁が、津波のように、フロアを飲み込んでいく。
ことねは、その音の津波に飲み込まれそうになりながら、フロアの光景を焼き付けていた。
観客たちは、もはや身じろぎ一つしない。
ただ、差し出された完璧すぎる「解」を前に、思考を停止させ、その絶対的な正しさの中に、魂ごと浸っているかのようだった。
熱狂の入り込む余地など、そこには一欠片もなかった。
ただ、その完璧な「解」を、それぞれの脳内で、必死に、処理している。
客席の後方で、お忍びでライブを見ていた十王星南は、その光景に、満足げな、しかし、どこか物足りないような、複雑な表情を浮かべていた。
(素晴らしいわ、Cyanotype。あなたの音楽は、完璧な理論に裏打ちされた、芸術の域に達している。でも……)
彼女の脳裏に、あの夜の、ことねの、荒削りで、めちゃくちゃで、でも、どうしようもなく心を揺さぶった、あのパフォーマンスが、鮮明に蘇る。
(でも、人の心を本当に震わせるのは、正解だけではないのよ)
演奏が、クライマックスへと達する。
全ての音が、一つの、巨大な轟音となって、フロアに叩きつけられた。
そして、その音が、完全に消え去った時。
30分間の、完璧な演奏が終わった。
「Cyanotype」のメンバーは、一糸乱れぬ動きで、深々と、一度だけ頭を下げた。
「ありがとう」
深月は一言つぶやき、「Cyanotype」のメンバー静かにステージを去っていった。
残されたフロアには、大きな、大きな拍手と、そして、どこか冷たい、静寂の余韻だけが残っていた。
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ステージ袖に戻ってきた四人の間には、重い、重い沈黙が流れていた。
突きつけられた、圧倒的な実力差。自分たちの未熟さ。
この、完璧な静寂の後で、自分たちの、あの、荒削りで、ぐちゃぐちゃな音楽を、観客は受け入れてくれるのだろうか。
「……こんなの、勝てっこないよ」
思わずCyanotypeのライブ映像を見たときに吐いた弱音が、再び、美咲の口から漏れた。
その声は、いつもの太陽のような明るさを失い、か細く震えている。
彼女は、自分のスティックを、ただ、力なく握りしめていた。
拓也も、悔しそうに唇を噛んだまま、俯いている。
(あれが、プロの世界なのか…?俺たちが、これから目指そうとしている場所は、あんな、化け物みたいな奴らがうじゃうじゃいるのか…?)
初めて目の当たりにした、あまりにも高い壁。
自分たちの信じてきた音楽が、その壁の前で、ひどくちっぽけで、無力なものに感じられていた。
静も、壁に寄りかかったまま、固く目を閉じていた。
彼女の頭の中では、先ほどの音の洪水が、まだ鳴り響いている。
その、あまりに完璧な音響構築物の前では、自分たちの音楽が、まるで、子供の落書きのように思えてならなかった。
このまま、飲み込まれてしまう。
あの、青い静寂に。
その、沈黙を破ったのは、それまで黙ってフロアを見つめていた、ことねの声だった。
「……うん。すごい。本当に、完璧な演奏でした」
彼女は、仲間たちの顔を、一人ひとり、ゆっくりと見渡した。
その瞳には、もう、恐怖の色はなかった。
あるのは、自分たちの武器を見つけた、狩人のような、鋭い光だった。
「でも」
ことねは、にこり、と笑った。それは、いつもの元気な笑顔だった。
「でも、あたし、勝てないとは思いません。みんなも本当は気づいているはずです」
その一言に、全員が、はっとしたように顔を上げる。
ことねは、確信を込めて言った。その声は、震えていない。
「あたしたちは、完璧じゃなくていいんです。完璧な演奏は、ぜんぶ、Cyanotypeさんがやってくれましたから。あたしたちは、ただ、あたしたちの、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃな、最高の楽しいを、お客さんに見せつける。それだけです!」
そうだ。戦う土俵が、そもそも違うのだ。
彼らが、静寂と完璧の「青」なら、あたしたちは、熱狂と衝動の「赤」。
青に、赤を、ぶつけるだけだ。
その言葉が、凍りついていた三人の心を、溶かした。
そうだ。俺たちは、あいつらになろうとしていたんじゃない。
俺たちは、俺たちの音楽を、やりに来たんだ。
拓也の目に、力が戻る。彼は、自分のテレキャスターを、強く、握りしめた。
美咲が、顔を上げ、涙の跡が残る顔で、しかし、力強く、スティックを握り直す。
静が、ゆっくりと目を開け、静かに、しかし、確かに、頷いた。
『さあ、続いてのバンドを呼び込もうぜ!今日が、このメンバーでの初ライブ!まだ名前もねえ、荒削りなダイヤモンドの原石たちだ!』
司会の、陽気な声が響き渡る。
ことねたちは、顔を見合わせた。恐怖は、もうない。あるのは、自分たちの音楽を、魂を、叩きつける覚悟だけ。
四人は、円陣を組むように、互いの拳を、そっと突き合わせた。
「あたしたちの音楽を、証明しに行こう!」
ことねの言葉を合図に、彼らは、青い静寂が残るステージへと、その一歩を踏み出した。
ここから先は、あたしたちの、赤く、燃えるような、咆哮の時間だ。