バイト戦士ことね   作:夜琥

28 / 36
対バンライブことねちゃん

【挿絵表示】



28. 赤の咆哮

『さあ、続いてのバンドを呼び込もうぜ!オープンナイトで伝説を残したメンバー達が今日!正式なバンドとして登場だ!まだ名前もねえ、荒削りなダイヤモンドの原石たちだ!』

 

司会の、陽気な声が響き渡る。

 

ことねたちは、顔を見合わせた。恐怖は、もうない。あるのは、自分たちの音楽を、魂を、叩きつける覚悟だけ。

 

四人は、円陣を組むように、互いの拳を、そっと突き合わせた。

 

「あたしたちの音楽を、証明しに行こう!」

 

ことねの言葉を合図に、彼らは、青い静寂が残るステージへと、その一歩を踏み出した。

 

ステージに上がった瞬間、フロアを埋め尽くす観客の視線が、津波のように押し寄せる。

 

しかし、ことねは、怯まなかった。その視線の先に、自分たちの音楽を待っている人々の、期待の色が見えたから。

 

ステージの照明が、一瞬、暗転する。

 

先ほどまで「Cyanotype」が作り上げていた、知的で、冷たい「青の静寂」が、フロアを支配していた。

 

観客たちは、まだ完璧な音響体験の余韻に浸り、次の演者を静かに待っている。あまりにも静かで、あまりにも高い壁。

 

その静寂の真ん中に、ことねの、挑発的な声が、一本の赤い光線のように突き刺さった。

 

「The Roar!踊る準備は、できてるかー!」

 

瞬間、静寂は破壊された。

ステージが、血のように熱い、赤色の光で染め上げられる

 

あまりに挑発的な第一声に、まだ「Cyanotype」の余韻に浸っていたフロアが、ざわめく。

 

---

 

1曲目『シュガーソングとビターステップ』

 

「ワン、ツー、ワン、ツー、スリー、フォー!」

 

美咲の、衝動の塊のようなカウント。それは、メトロノームのような正確さからは程遠い、早く行こうぜ、と仲間を、そしてフロアを煽り立てる、生々しい合図だった。

 

それを合図に、拓也のテレキャスターが、空間を切り裂くような、ファンキーでドライブ感のあるリフを掻き鳴らした。

 

ジャキッ、と鋭く、乾いていながら、どこか人間臭いブルージーな響き。

 

それは、Cyanotypeのギタリストが奏でた、寸分の狂いもない、クリスタルのような音とは全く違う、心がざわつくような「ノイズ」を含んだ、最高のロックサウンドだった。

 

静のベースが、そのリフに絡みつくように、弾むような、しかし、どこまでも骨太なビートを刻み始める。

 

彼女の指先が、フレットボードの上を、まるで生き物のように駆け巡る。

 

正確でありながら、その一音一音には、明らかに「揺れ」と「うねり」があった。

 

それは、フロアにいる全ての人間たちの、心臓の鼓動を掴み、強制的に自分たちのリズムに同期させていくような、強力な引力を持っていた。

 

そして、美咲のドラム。ハイハットの刻む性急なリズム、スネアの突き抜けるような音、バスドラムの力強い四つ打ち。

 

その全てが、一つの巨大な「楽しい」の塊となって、観客に襲いかかった。

 

彼女は、満面の笑みで、髪を振り乱しながら、心の底から楽しそうにビートを叩き出している。

 

その姿そのものが、このバンドの音楽性を、何よりも雄弁に物語っていた。

 

その、ハッピーで、めちゃくちゃな音の洪水の上を、ことねの歌声が、弾けるように駆け抜けていく。

 

『超天変地異みたいな狂騒にも慣れて こんな日常を平和と見間違う』

『rambling coaster揺さぶられながら 見失えないものは何だ?』

 

彼女は、ステージの端から端まで駆け回り、飛び跳ね、踊り狂う。

計算された振り付けではない。ただ、音楽が、彼女をそうさせている。

 

上手く見せようとか、可愛く見せようとか、そんな自意識は、もうどこにもない。

 

ただ、この音が、この仲間たちが、この空間が、楽しくて、嬉しくて、仕方がない。その、純粋な喜びの発露としてのダンス。

 

クールに腕を組んでCyanotypeの演奏を「鑑賞」していた客たちも、そのあまりに楽しそうな姿に、思わず顔をほころばせ、戸惑いながらも、その身体を揺らし始めていた。

 

(すごい…!音が、あたしを引っ張ってくれる!)

 

ことねは、背後で鳴り響く、仲間たちの音を、全身で感じていた。

拓也さんのギターは、自由奔放に、しかし的確に、歌の隙間を彩っていく。

 

彼の音が「行け!」と叫べば、あたしの足は自然と前に出る。彼の音が「泣け!」と歌えば、あたしの表情は自然と切なくなる。

 

静さんのベースは、どんなにカオスな状況になっても、絶対に揺らがない、このバンドの心臓になってくれている。

 

この太いグルーヴがあるから、あたしは安心して、どこまでも飛べる。

 

そして、美咲さんのドラム!その笑顔と、力強いビートが、あたしに、もっと前へ、もっと高く飛べと、背中を押してくれている。

 

『平等性原理主義の概念に飲まれて 心までがまるでエトセトラ』

『大嫌い 大好き ちゃんと喋らなきゃ 人形とさして変わらないし』

 

そうだ。初星学園で、ずっとそうだった。正しい答え、完璧なパフォーマンス。

 

その概念に飲まれて、あたしは、自分の心を殺して、ただの、出来の悪い人形になろうとしていた。

 

でも、もう違う。あたしは、あたしの言葉で、ちゃんと喋るんだ。

 

『宵街を行く人だかりは 嬉しそうだったり 寂しそうだったり』

『コントラストが五線譜を飛び回り 歌とリズムになる』

 

フロアを見渡す。

 

楽しそうに身体を揺らしている人、まだ戸惑っている人、腕を組んで、厳しい顔でこちらを見ている人。

 

いろんな人がいる。でも、それでいい。

 

その、バラバラな感情のコントラスト全部を、あたしたちの音楽で、一つの大きな歌にしてやる。

 

そして、サビ。

美咲が、シンバルを割れんばかりに叩きつけた。

 

『ママレード&シュガーソング、ピーナッツ&ビターステップ』

『甘くて苦くて目が回りそうです』

 

その瞬間、フロアの空気が、完全に変わった。

戸惑いは消え、純粋な「熱狂」が、そこにあった。

数人が、思わず、というように拳を突き上げる。その熱が、連鎖していく。

 

『南南西を目指してパーティを続けよう 世界中を驚かせてしまう夜になる』

『I feel上々 連鎖になってリフレクト』

 

ことねは、ステージの最前線に飛び出し、客席に向かって、満面の笑みで手を振った。

その瞬間、最前列の観客と、確かに目が合った。

その瞳に、驚きと、そして、確かな「楽しい」の色が宿っているのを、ことねは見た。

 

(届いてる…!あたしたちの音、ちゃんと、届いてる!)

 

その確信が、彼女のパフォーマンスを、さらに加速させていく。理屈じゃない。ただ、楽しい。

その純粋な感情が、青い静寂に支配されていたフロアの空気を、鮮やかな赤色へと、急速に塗り替えていく。

 

ギターソロ。拓也が一歩前に出る。

彼がテレキャスターから弾き出すフレーズは、Cyanotypeの凛が奏でた、寸分の狂いもない、完璧な音階の羅列ではなかった。

 

音が、叫んでいた。ギターが、歌っていた。チョーキングの音程は、僅かに揺らぎ、それが、機械には決して出せない、人間的な「泣き」を生んでいた。彼は、楽しそうに、そして、少しだけ、苦しそうに、ギターを弾き倒す。

 

それは、かつて夢に破れ、それでも音楽を捨てきれなかった、彼の魂の咆哮そのものだった。

 

間奏に入り、全ての楽器が、目まぐるしくフレーズを交わし合う。美咲のドラムが、予測不能なフィルインを叩き込み、静のベースが、その隙間を縫うように、ファンキーなスラップを叩き込む。

 

拓也のギターが、それに呼応して、カッティングの嵐を巻き起こす。

 

それは、緻密なアンサンブルとは程遠い、まるで、じゃれ合う獣たちのような、危険で、興奮するようなセッションだった。

 

『最高だってシュガーソング 幸せってビターステップ』

『死ねない理由をそこに映し出せ』

 

フロアの熱気は、最高潮に達していた。もう、誰も腕を組んではいない。誰もが、こぶしを突き上げ、飛び跳ね、声を上げている。

 

「Cyanotype」の作り上げた、美しいだけの虚無の世界は、この、めちゃくちゃで、ハッピーなカオスによって、完全に破壊されていた。

 

『someday 狂騒が息を潜めても』

『someday 正論に意味がなくなっても』

『feeling song & step 鳴らし続けることだけが』

『僕たちを僕たちたらしめる証明になる、QED!』

 

そうだ。いつか、この熱狂が終わる日が来ても。いつか、誰かに「お前たちの音楽は間違っている」と言われても。

 

あたしたちは、この音を、この衝動を、鳴らし続ける。それだけが、あたしたちが、あたしたちでいられる、唯一の証明なんだから。

 

『I feel上々 連鎖になってリフレクション』

『goes on 一興去って一難去ってまた一興』

 

ラスサビ。最後のフレーズを歌い終え、ジャーン!と、バンドの音が、一つになって、鳴り響いた。

 

一瞬の静寂。

 

そして、フロアは、割れんばかりの、地鳴りのような歓声に包まれた。

 

それは、もう、感嘆のため息や、知的な拍手ではない。心の底からの、純粋な「楽しい」の爆発だった。

 

ステージ袖で、Cyanotypeのメンバーたちが、信じられないものを見るような目で、その光景をただ、見つめていた。

 

---

 

2曲目『秒針を噛む』

 

『goes on 一興去って一難去ってまた一興』

 

ジャーン!と、バンドの音が、一つになって、鳴り響いた。

 

一瞬の静寂。

 

そして、フロアは、割れんばかりの、地鳴りのような歓声に包まれた。それは、もう、感嘆のため息や、知的な拍手ではない。心の底からの、純粋な「楽しい」の爆発だった。

 

「最高!」「もう一回!」そんな声が、フロアのあちこちから飛び交う。

 

ステージの上で、四人は、汗だくのまま、肩で息をしていた。

 

ことねは、客席に向かって、満面の笑みで手を振っている。フロアの熱気は最高潮。

 

このまま、もう一曲、アップテンポな曲で畳み掛ければ、このライブハウスは完全に彼らのものになるだろう。

 

誰もがそう思った。

 

しかし、ことねは、くるりと背後を振り返り、仲間たちと、一瞬だけ視線を交わした。

拓也が、美咲が、そして静が、静かに、しかし、力強く頷き返す。

そうだ。あたしたちは、ただのパーティーバンドじゃない。

 

ことねは、再びフロアに向き直った。

さっきまでの、太陽のような笑顔が、すっと消える。

代わりに、その表情に浮かんだのは、どこか遠くを見つめるような、切なくて、冷たい影だった。

 

フロアの歓声が、戸惑いのざわめきへと変わっていく。

 

「……あれ?どうしたんだ?」

「なんか、雰囲気、変わった…?」

 

その、ざわめきを切り裂くように。

静寂の中から、一つの音が、産声を上げた。

 

ブォン、と低く、しかし、あまりにも印象的なベースの音が、フロアの空気を震わせた。

静の、指先から放たれた、あのフレーズ。

 

ループする、焦燥感に満ちた、一度聴いたら耳から離れない、天才的なベースリフ。

 

その、たった一つの音だけで、ライブハウスの空気は、一瞬にして塗り替えられた。熱狂の「赤」は、急速に色を失い、内省的で、どこか危険な香りのする、深い「藍色」へと沈んでいく。

 

そこへ、美咲のドラムが、そっと寄り添うように入ってきた。

ハイハットが、チ、チ、チ、と、時計の秒針のように、神経質で、正確なリズムを刻み始める。

 

バスドラムとスネアが、複雑に絡み合い、跳ねるような、しかし、どこか息苦しいグルーヴを生み出していく。

 

さっきまでの、満面の笑顔は、もうない。

 

ことねは、目を伏せ、唇を固く結び、ただ、ひたすらに、この曲の持つ、独特の焦燥感を、ビートへと変換していく。

 

拓也のテレキャスターが、クリーンで、鋭い、ガラスの破片のようなカッティングを奏で始めた。

 

それは、リフというよりは、リズム楽器の一部。空間を切り裂き、聴く者の不安を煽る、鋭利な音のナイフ。

 

そして、ことねの歌が、始まった。

 

『生活の偽造 いつも通り 通り過ぎて』

『1回言った「わかった。」戻らない』

 

その声は、さっきまでの、弾けるような明るさとは全く違う、吐息交じりの、か細く、しかし、心の芯を直接掴むような、不思議な響きを持っていた。

 

彼女のダンスも、完全に変貌していた。

 

笑顔はない。ステージを駆け回ることもない。

 

ただ、ステージの中央で、まるで自分自身の見えない檻の中でもがくように、身体を捩り、縮こませ、時に、何もない空間を、強く、拒絶するように突き放す。

 

それは、バイトに明け暮れ、夢を諦め、心を殺して「いつも通り」を演じていた、かつての自分自身の、痛々しい記憶の再現。

 

『確信犯でしょ? 夕食中に泣いた後 君は笑ってた』

 

そのフレーズで、ことねは、自分の顔を両手で覆い、そして、ゆっくりと、その指の隙間から、凍てつくような、空っぽの笑顔を、客席に向けた。

 

フロアが、息をのむ。

 

誰もが、そのパフォーマンスが、ただの演技ではないことを、直感的に理解していた。これは、彼女の、魂の告白だ。

 

『「私もそうだよ。」って 偽りの気持ち合算して』

『吐いて 黙って ずっと溜まってく』

『何が何でも 面と向かって「さよなら」』

『する資格もないまま 僕は』

 

歌いながら、ことねは、自分の胸を、何度も、何度も、強く叩いた。

そこに溜まった、言葉にならない感情を、無理やり吐き出そうとするかのように。

その姿は、痛々しく、しかし、あまりにも、美しかった。

 

客席の後方で、十王星南は、その光景を、信じられないものを見るような目で見つめていた。

 

(……嘘。なんなの、この子は……)

 

彼女の視界に映る「アイドルパワー」の数値が、異常な挙動を示し始める。

 

(感情の高ぶりに合わせて、Vocal値とDance値が、瞬間的に、爆発的に上昇している…。でも、それだけじゃない。曲の世界観に合わせて、パラメータの性質そのものが、リアルタイムで書き換わっていく…?『太陽』の属性だったはずの輝きが、今は、冷たい『月』の属性に…!?こんなこと、ありえない…!理論上、説明がつかないわ…!)

 

『灰に潜り 秒針を噛み』

『白昼夢の中で ガンガン砕いた』

『でも壊れない 止まってくれない』

『「本当」を知らないまま 進むのさ』

 

(すごい…!すごい!すごいわ!ことね…!)

 

星南は、自分がアイドルであることも忘れ、一人のファンとして、そのパフォーマンスに、心を完全に奪われていた。

 

(ただの原石なんかじゃない!あなたは、カッティングによって、その輝きを無限に変える、伝説のダイヤモンド…!ますますあなたが欲しくなってきてたわ!)

 

『このまま奪って 隠して 忘れたい』

『分かり合う○ 1つもなくても』

『会って「ごめん。」って返さないでね』

『形のない言葉は いらないから』

 

サビ。静のベースが、さらにうねりを増し、美咲のドラムが、焦燥感を叩きつけるように、複雑なフィルインを叩き込む。

 

拓也のギターが、鋭いアルペジオで、その空間を切り裂く。

 

そして、ことねのダンスが、静から動へと、爆発的に転じた。

 

彼女は、まるで自分自身を破壊するかのように、頭を振り、身体を激しく回転させ、床に倒れ込みそうになるほどの、激しい動きを見せる。

 

だが、その全ての動きは、音楽と完璧にシンクロし、一つの、痛切な芸術作品となっていた。

 

曲が、再び、静かなパートへと移行する。

 

フロアは、完全に、沈黙していた。誰もが、息をすることさえ忘れ、ステージ上の、その儚くも、激しい魂の物語に、ただ、引きずり込まれていた。

 

ブリッジ。

 

『縋って 叫んで 朝はない』

『笑って 転んで 情けない』

『誰のせいでも ないこと 誰かのせいに したくて』

『「僕って いるのかな?」』

 

ことねは、ステージに、くずおれるように膝をついた。

マイクを、両手で、強く、強く、握りしめる。

その、か細い肩が、小刻みに震えている。

そして、絞り出すような、ほとんど囁きに近い声で、歌った。

 

『本当は わかってるんだ』

『見放されても 信じてしまうよ』

 

その瞬間、PAブースでステージを見ていたミコの、常に険しい表情が、ほんの少しだけ、揺らいだ。

 

(……馬鹿野郎が。お前はもう、一人じゃねえんだよ)

 

そして、最後のサビ。

演奏が、これまでのどのサビとも違う、静かな、しかし、最も激しい感情の昂りを見せる。

 

『このまま 奪って 隠して 話したい』

『分かり合う○ 1つもなくても』

 

ことねの声が、裏返る。それは、ミスではない。

抑えきれない感情の、リアルな音だった。

 

彼女は、天を仰ぎ、まるで誰かに、あるいは、何かに、必死に語りかけるように、言葉を紡いでいく。

 

『会って「ごめん。」って返さないでね』

『「疑うだけの 僕をどうして?」』

『救いきれない 嘘はいらないから』

 

その、あまりに痛切で、あまりに矛盾した、魂の叫び。

フロアの誰もが、その言葉の意味を理解できたわけではないだろう。

 

だが、そこに込められた、どうしようもないほどの「人間」の感情は、理屈を超えて、全ての者の胸を、強く、強く、締め付けた。

 

星南は、唇を噛み締めていた。

 

(違う…!あなたは、そんな顔をするべきじゃないわ!私が、私が、あなたを、そんなものから、救い出してあげる…!)

 

最後のフレーズ。

ことねは、ゆっくりと立ち上がった。

その瞳には、涙が浮かんでいた。だが、その奥には、絶望ではない、全てを受け入れたような、静かな、再生の光が宿っていた。

 

『ハレタ レイラ』

 

その、意味のわからない、しかし、祈りのような言葉と共に、全ての音が、ぴたり、と止んだ。

ステージは、再び、深い、藍色の静寂に包まれた。

 

フロアは、まだ、動けない。

誰もが、今、自分たちが目撃したものの、意味を、測りかねていた。

それは、熱狂ではない。感動、という言葉でも、足りない。

もっと、根源的な、魂を直接揺さぶられたような、衝撃。

 

その、張り詰めた静寂を、最初に破ったのは、誰かの、堰を切ったような、嗚咽の声だった。

 

そして、それは、一人、また一人と、伝染していった。

やがて、フロアは、熱狂の歓声ではない、万雷の、そして、温かい拍手の音に、包まれていった。

 

---

 

3曲目『ツバサ』

 

万雷の、そして、どこまでも温かい拍手が、ゆっくりと、ゆっくりと、藍色の静寂に溶けていく。

フロアの誰もが、まだ、先ほどの衝撃から抜け出せずにいた。すすり泣く声が、あちこちから聞こえる。

 

それは、悲しいというよりは、自分の心の、普段は決して開けることのない引き出しを、無理やりこじ開けられてしまったような、そんな、どうしようもない感情の現れだった。

 

ステージの上で、ことねは、まだ膝をついたまま、俯いていた。その肩は、小刻みに震えている。

 

美咲は、ドラムスツールの上で、自分のスティックを、ただじっと見つめている。

静は、ベースを抱えたまま、目を閉じ、この異様なまでの静寂を、全身で受け止めているようだった。

 

そして、拓也。

 

彼は、ステージの照明が、ゆっくりと、藍色から、温かいオレンジ色へと変わっていくのを、ただ、黙って見ていた。

 

(……すげえな、ことね。お前は、たった一曲で、このハコの空気を、完全に自分のものにしちまった)

 

フロアの熱気は、一度、完全にリセットされた。だが、それは、Cyanotypeが作り上げた「冷たい静寂」ではない。

 

もっと、人間臭くて、温かくて、そして、どこか切ない「優しい静寂」だった。

 

この空気の中で、次に何を鳴らすべきか。

答えは、もう、決まっている。

 

拓也は、ギターのボリュームを少し絞り、ピックアップを、リアからフロントへと切り替えた。

そして、ゆっくりと、息を吸い込んだ。

 

ポロロン、と。

あまりにも、か細く、しかし、透き通った、一本の音が、静寂の中に、そっと置かれた。

拓也のテレキャスターが奏でる、泣きのギターアルペジオ。

 

それは、Cyanotypeのギタリストが奏でた、完璧で、無機質なアルペジオとは、全く違う。

そこには、技術的な正確さを超えた、不器用で、人間的な「揺らぎ」があった。

その揺らぎこそが、聴く者の心を、優しく、撫でるように、慰める。

 

フロアが、息をのむ。

さっきまでの、痛切な焦燥感とは、全く違う、新しい物語が始まろうとしているのを、誰もが、予感していた。

 

ことねが、ゆっくりと顔を上げる。その目には、まだ涙の跡が残っている。

だが、その表情は、もう、苦しんではいなかった。

彼女は、マイクを、そっと、両手で包み込むように握りしめた。

 

そして、歌い出した。

 

『明け方過ぎの国道までの細い抜け道 君が呟く』

『「恐いものなど何も無いよ」と見送る為の言葉に涙流れた』

 

それは、弱さを隠さない、不器用で、でも、どこまでも真っ直ぐな歌声だった。

「秒針を噛む」の時のような、吐息交じりの声ではない。もっと、芯のある、しかし、どこまでも優しい、語りかけるような声。

 

その歌声に、静のベースが、そっと寄り添う。

 

一音、また一音と、ルート音を、慈しむように、置いていく。

それは、まるで、夜道を一人で歩く者の、一歩、一歩を、照らし出す、月明かりのようだった。

 

美咲は、スティックを、ブラシに持ち替えていた。

スネアドラムの上を、サー、サー、と、優しく撫でるような音。

ハイハットではなく、ライドシンバルのカップを、チーン、と、か細く、しかし、どこまでも遠くまで響くように、鳴らす。

 

それは、バラードにおける「引き算のドラム」という、彼女がこの一ヶ月で身につけた、新しい武器だった。

 

『つまらぬ事で話は絶えず 散らかる部屋で笑いあえてた』

『夢追う事に恐れは無くて 生まれた街とサヨナラ決めた』

 

その歌詞は、かつてアイドルとして成功をを夢見ていた自分自身の姿そのものだった。

そして、きっと、このフロアにいる、多くの人々の物語でもあった。

 

夢を追いかけて、地元を離れた人。大切な誰かと、別れを経験した人。先の見えない未来に、不安を抱えている人。

ことねの歌は、そんな、一人ひとりの、個人的な記憶の扉を、そっと、ノックしていた。

 

『「いつか会いに来る」と 「いつも忘れない」と』

『手を振る君の瞳も 言えずにココロの中で誓う』

 

リフレイン。ことねの声に、少しだけ、力がこもる。

PAブースで、ミコが、その声を聞きながら、静かに目を伏せた。

 

その不器用な歌声は、どんな完璧な歌よりも、強く、深く、客の心に突き刺さっていた。フロアのあちこちで、そっと涙を拭う客の姿があった。

 

そして、サビ。

 

美咲のドラムが、ブラシから、スティックへと持ち替えられる。

シンバルが、シャーン!と、夜明けの光のように、鳴り響いた。

 

『旅立つ空に 出会いと別れ 青春の日々 全てを描き』

『いつか互いに大きな花を 綺麗な花を咲かせまた共に笑おう』

 

演奏の熱量が、一段、上がる。だが、それは「シュガーソング」のような、カオスな爆発ではない。

もっと、希望に満ちた、温かい、上昇気流のような高揚感。

 

ことねの歌声も、力強さを増す。彼女は、客席の、一番後ろにいる、たった一人の誰かに届けるように、まっすぐに、前を向いて歌う。

その姿は、もう、ただの少女ではなかった。

人々の弱さや、悲しみを、その歌声で、温かく包み込む、一人の、表現者だった。

 

二番。

 

『あの日を胸に あて無く続く道は眠れぬ夜と連なる』

拓也のギターが、オクターブ奏法で、切ないメロディを奏でる。

それは、彼の心の、最も柔らかい部分から、溢れ出した音だった。

 

『叶いかけた夢と 紡ぎだした文字の』

『狭間で揺れるのは 気紛れ 日替わり 時計の針』

 

そうだ。俺たちだって、そうだ。

 

夢を掴みかけては、するりと指の間からこぼれ落ちていく。

やっと見つけたはずの自分たちの音が、次の日には、もう、わからなくなっている。そんな、不安定な毎日。

 

でも、それでも。

 

『流れる雲に 明日を誓えど 置いてかれてる不安はよぎる』

『その度君を 君の言葉を 思い返して 涙集め声枯らす』

 

ことねは、歌いながら、仲間たちの顔を、一人ひとり、見つめた。

拓也さん。美咲さん。静さん。店長。そして、ミコさん。

 

この人たちが、いなかったら。

あたしは、きっと、今も、あの狭い部屋で、一人で、泣いていた。

感謝の気持ちが、メロディに乗って、溢れ出していく。

 

ギターソロ。

拓也が、一歩、前に出る。

 

彼は、目を閉じたまま、ギターを、天に掲げるように、弾き始めた。

それは、Cyanotypeの凛が奏でた、完璧で、無機質なフレーズとは、全く違う。

音が、泣いていた。ギターが、叫んでいた。

 

チョーキングの音程は、僅かに揺らぎ、それが、機械には決して出せない、人間的な「嗚咽」を生んでいた。

それは、ただ悲しいだけのソロではない。

悲しみの、その先にある、かすかな光を、必死に、手繰り寄せようとするような、祈りのようなソロだった。

 

その音色に、フロアの誰もが、息をのんで、聴き入っていた。

 

ブリッジ。

演奏が、再び、静かになる。

ことねは、マイクを、両手で、強く、握りしめた。

そして、まるで、このフロアにいる、一人ひとりに、語りかけるように、歌った。

 

『今も信じているよ いつも忘れないよ』

『手を振る君の瞳を 帰らぬ儚き蒼き日々を』

 

最後のサビ。

全ての感情が、一つの、大きな、温かい光となって、解き放たれる。

 

『旅立つ空に 出会いと別れ 青春の日々 全てを描き』

『いつか互いに大きな花を 綺麗な花を咲かすと決めた』

 

フロアのあちこちで、スマホのライトが、無数に、灯り始めた。それは、誰かが始めたわけではない。一人、また一人と、自然発生的に、その光の輪が、広がっていったのだ。

 

まるで、満天の星空のようだった。

 

『変わらぬ空に 君を映して 上手く飛べたら 高く飛べたら』

『ツバサ広げて 秋風越えて 夢を手にして 会えたなら』

 

ことねは、その、あまりに美しい光景を、涙で滲む目で、見つめていた。

そして、最後の力を、振り絞るように、歌った。

 

『共に笑おう』

 

その、たった一言が、どんな大歓声よりも、大きく、力強く、ライブハウス全体を、優しく、温かく、包み込んだ。

音が、静かに、消えていく。

 

残されたのは、無数の光の星と、そして、どこまでも、どこまでも、温かい、拍手の音だけだった。

 

---

 

4曲目『the cute!!!』

 

「ツバサ」の最後の音が、祈りのように、静寂の中に溶けていく。

フロアに灯った、無数のスマートフォンの光が、まるで満天の星空のように、ステージの上の四人を、優しく、照らし出していた。

 

万雷の拍手。すすり泣く声。温かい、優しい空気が、ライブハウス全体を包み込んでいる。

 

このままでも、きっと、このライブは成功だったと、誰もが思うだろう。

だが、彼らの物語は、まだ、終わらない。

 

「ありがとうございます」

 

マイクを通して、ことねの、少し掠れた、しかし、凛とした声が響いた。

「……次が、最後の曲です」

 

フロアから、「えー!」という、名残惜しそうな声が上がる。

ことねは、一度、深く、息を吸い込んだ。そして、仲間たちの顔を、一人ひとり、見渡した。

拓也さんが、静さんが、美咲さんが、力強く、頷き返す。

大丈夫。あたしたちは、一人じゃない。

 

「これは、あたしたちの物語を紡ぐ、あたしたちの最初の歌です」

 

ことねは、再びフロアに向き直った。

その表情から、先ほどまでの、切ない色は、完全に消えていた。

代わりに、そこに浮かんでいたのは、挑戦者の、不敵な笑み。

 

「――聴いてください!あたしたちの、宣戦布告です!」

 

その瞬間、全ての照明が、落ちた。

完全な、漆黒の闇。

観客たちが、何が起こったのかと、息をのむ。

 

その、闇の中心から、ことねの、アカペラの歌声が、産声を上げた。

 

『自信もない 上手でもない』

 

それは、あまりにも、か細く、あまりにも、無防備な声だった。

初星学園で、誰にも認められず、自分の才能のなさに、打ちひしがれてきた頃の、あの、小さな、小さな声。

 

『でも「やめた。」は言わない』

 

声に、僅かな、しかし、確かな意志の光が灯る。

アイドルは諦めた。でも、ダンスだけは、配信だけは、やめなかった。誰に評価されなくても、ただ好きだから。

 

『私はここにいる』

 

静寂の中に、ぽつり、と置かれた、その言葉。

それを合図に、ステージが、再び、赤い光で、爆発した。

 

拓也のギターが、美咲のドラムが、静のベースが、一斉に、咆哮を上げる。

だが、それは、これまでのどの曲とも違う、もっと、シンプルで、もっと、衝動的で、もっと、ぐちゃぐちゃな、感情の塊のような音だった。

 

『全力で走った どんどんすり減った』

『転んでも 無様でも 替えのない私なんだ』

 

ことねのダンスが、炸裂する。

バイトを掛け持ちして、倒れそうになって。あの夜、ステージでふらついて。かっこ悪い姿、いっぱい見せちゃった。

 

でも、それも全部、必死に生きてきた、かけがえのない「あたし」なんだ。

その、無様だったはずのステップが、今、このステージの上で、誰よりも力強い、表現へと変わる。

 

『わかってる 私が私にできること』

『証明 革命 簡単じゃない でもなんで』

『私ならって思えたの』

 

そうだ。心のどこかで、ずっと信じてた。あたしなら、まだ何かできるって。

ファンのみんなが、仲間たちが、ミコさんが、家族が。そう思わせてくれたから。

 

『傷跡と同じ数の やりたい理由がある』

 

そのフレーズと共に、演奏が、一瞬、ブレイクする。

フロアの視線が、全て、ことね一人に、突き刺さるように集中する。

そして、サビ。

 

『自信もない 上手でもない』

『でも「やめた。」は言わない』

『私はここにいる』

 

全ての音が、再び、爆発する。

拓也のギターリフは、もはやフレーズではない。感情の、奔流だ。

美咲のドラムは、ビートを刻むのではない。心臓を、直接、叩いている。

静のベースは、アンサンブルを支えるのではない。地の底から、魂を、揺さぶっている。

 

『だから見てて 見てくれなくちゃ』

『私 私たり得ない』

 

(見てて。あたしが、あたしになる瞬間を)

 

ことねの脳裏に、初星学園の、あの、眩しすぎたステージが蘇る。

あの頃、あたしにとって「アイドル」とは、あのステージに立つことだった。選ばれた人間だけが手にできる、特別な「称号」だと思ってた。だから、そこに立てなかったあたしは、アイドルじゃない、ただの落ちこぼれなんだって、ずっと思い込んできた。

 

でも。

 

『それがねアイドルだ』

 

(違うんだ)

 

ことねの心の中で、確かな、しかし、静かな革命が起こっていた。

アイドルって、初星学園にいることじゃない。大きなステージに立つことでもない。誰かに「あなたはアイドルです」って、認められることでもない。

 

(あたしが、あたしでいるために。この、どうしようもなく不器用で、かっこ悪くて、でも、必死な、今のあたしの全部を、あたし自身が、心の底から『これが、あたしだ!』って叫ぶこと。誰にも認められなくたっていい。あたし自身が、この瞬間のあたしを、アイドルにしてあげる。それこそが、あたしの、本当の――)

 

『それが私だ そう 可愛いんだ』

 

最後のフレーズを叫んだ時、ことねは、泣きながら、最高の笑顔で、客席に向かってピースサインを突きつけていた。

 

その、あまりに矛盾した、あまりに人間的な、剥き出しの表情に、フロアは、もはや、声も出せずに、ただ、圧倒されていた。

 

『届くような気がしてた 遠くの輝きは』

『歩むほど 駆けるほど アコガレに変わってゆく』

 

二番。曲は、少しだけ、テンポを落とす。

初星学園で見た、十王星南の、あの、手の届かない輝き。同期たちの活躍。憧れは、いつしか、劣等感に変わっていた。

 

『わかってる わからないほど馬鹿じゃない』

『「でも」「だけど」悪足掻きだったとしても』

『私ならって思えたから』

 

でも、今は違う。憧れは、憧れのままでいい。あたしは、あたしのやり方で、輝けばいいんだ。

 

『残酷とは思わない だけど だけど 言わせて』

『こんなもんじゃない 私、悔しい』

 

ことねの歌声が、シャウトに変わる。

その叫びに、拓也のギターが、応えた。

 

ギターソロ。それは、ことねの悔しさを、悲しみを、全部、受け止めて、それでも、前に進めと、背中を押すような、祈りのようなソロだった。

 

『好きとか嫌いとかじゃない』

『やるやらないの次元じゃない』

『ただの私で終われるわけない 終わりたくない』

 

演奏が、再び、静かになる。

ことねの、ほとんど呟きに近い、切実な声だけが、響き渡る。

 

『痛いけど (怖いけど) 見せない』

『可愛くないとこなんて』

 

PAブースで、ミコが、その声を聞きながら、静かに、煙草の火を消した。

(……てめえの、その、一番かっこ悪くて、一番可愛いところを、みんな、見に来てんだよ)

 

そして、最後のサビ。

全ての音が、これまでの、どの瞬間よりも、大きく、力強く、一つになる。

 

『だっていくつも もらったから』

『本物にするため 私はここにいる』

 

ファンのみんながくれた、温かい言葉。

拓也さんが、美咲さんが、静さんがくれた、信頼。

ミコさんがくれた、道標。

お母さんや、妹たちがくれた、無償の愛。

もらったもの全部、この歌で、この音で、本物にしなくちゃ。

 

『だから見てて 見てくれなくちゃ』

『私 私たり得ない それがねアイドルだ』

 

『それが私だ そう 可愛いんだ』

『そう 可愛いんだ』

『そう 可愛いんだ』

 

最後のフレーズを、ことねは、叫び、歌い、宣言する。

それは、もう、誰かに向けた言葉ではない。自分自身の魂に、言い聞かせる、最強の呪文だった。

 

アウトロ。

『全力で走って どんどんすり減って』

『転んでも 無様でも』

『可愛い私が好き』

 

最後のフレーズを歌い終え、ジャーン!と、バンドの音が、一つになって、この日一番の音量で、ライブハウスの空間そのものを震わせた。

 

一瞬の、耳鳴りのような静寂。

 

ことねは、肩で息をしながら、両膝に手をつき、俯いていた。汗が、滝のように顎を伝って、ステージの上に、小さな染みを作っていく。もう、一歩も、動けない。身体中の、全てのエネルギーを、この曲に、燃やし尽くしてしまった。

 

次の瞬間、フロアは、もはや拍手ではない、地鳴りのような「歓声」と「熱狂」で、爆発した。

 

「うおおおおおおおおっ!!」

「最高だったぞ!」

「泣いた!マジで泣いた!」

 

アンコールの声が、割れんばかりに響き渡る。

その、音のシャワーを、ことねは、ただ、全身で浴びていた。

 

ゆっくりと、顔を上げる。

涙で、視界が、ぐにゃりと滲んでいる。

客席は、もう、誰も座っていない。全員が、総立ちで、拳を突き上げ、こちらに、満面の笑顔を向けてくれていた。スマホのライトが、無数に揺れて、まるで、地上の天の川のようだった。

 

(ああ、そっか……)

 

ことねの心の中に、温かい、確かな感情が、静かに、満ちていく。

 

(これが、あたしが本当に、欲しかったものなんだ)

 

対バンライブの、勝ち負けじゃない。

十王星南という、巨大な存在への、対抗心でもない。

上手いとか、下手とか、そんな評価でもない。

 

ただ、この人たちと。

拓也さんの、不器用だけど、誰よりも優しいギターと。

美咲さんの、太陽みたいに明るい、心臓のドラムと。

静さんの、静かで、でも、誰よりも熱い、魂のベースと。

 

あたしたちの音を、あたしたちの物語を、誰かの心に届け、楽しんでもらえること。

 

(……届いたんだ)

 

涙が、また、溢れてきた。でも、それは、悔しさでも、悲しさでもない。ただ、どうしようもなく、嬉しかった。

 

ことねは、仲間たちの顔を見渡した。

拓也さんが、汗まみれの顔で、最高の笑顔で、こちらを見て、親指を立てている。

 

美咲さんが、ドラムセットの後ろで、スティックを握りしめたまま、もう、ぐしゃぐしゃに、泣きじゃくっている。

 

そして、あの、いつもクールで、表情を変えなかった静さんが、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ、その口元を綻ばせ、美しい、泣きそうな笑顔で、こちらを見ていた。

 

もう、言葉は、いらなかった。

 

ことねは、拓也に、美咲に、静に、駆け寄る。

そして、ステージの中央で、四人は、言葉もなく、互いの肩を、強く、強く、抱きしめ合った。

 

鳴りやまぬ歓声と、アンコールの声。

その全てが、今の、あたしたちへの、祝福の歌に聞こえた。

 

ことねは、顔を上げ、仲間たちと、もう一度、頷き合う。

そして、四人で、横一列に並び、繋いだ手を、高く、高く、掲げた。

 

ライトに照らされたその手は、まだ、震えていたかもしれない。

でも、その手は、確かに、自分たちの未来を、掴んでいた。

 

四人は、深く、長く、頭を下げた。

熱狂の赤い光と、鳴りやまぬ優しい轟音に包まれて。

この、奇跡のような瞬間の、全ての音と、光と、熱を、永遠に忘れないように、その身体に、魂に、刻み込むように。

 

彼らの、物語は、今、この瞬間、高らかに、産声を上げたのだった。

 


使用楽曲コード:11812761,71254391,72318813,N01623213

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。