街の灯りが滲んでいる。
ことねはフラつく足取りで、自転車を押しながら帰路を進んでいた。道の端を歩くたび、揺れる街灯が視界の端で歪んで見える。体は重い。頭はぼんやりとしている。寒くもないのに、指先だけが妙に冷たい。
「まだ……いける……」
そう言い聞かせた矢先、膝が折れた。
力が抜けたわけではない。ただ、自分でも気づかないうちに、限界を超えていたのだ。
全身の重力に抗えず、視界がゆっくりと傾いていく。
**
目を覚ますと、ギターの音が響いていた。
「お前、マジで倒れるかと思ったぞ。」
聞き慣れた声に目を開けると、そこにはバイト仲間の拓也がいた。
ことねは薄く笑い、口を開く。
「いや、いけると思ったんだけどな……。」
「無理すんなよ。マジでヤバかったぞ。倒れた瞬間、みんな慌ててたからな。」
拓也はそう言いながら、古びたギターをつま弾いている。指が弦を撫でるたび、くぐもった音が小さな部屋の壁に吸い込まれていく。
「俺もさ、昔は夢あったんだよな。プロになって、でっかいライブやって――それで飯食えると思ってた。」
ことねはぼんやりとその言葉を聞き流していた。目を閉じて、ギターの音だけに耳を澄ませる。
しかし、次の一言が、彼女の胸の奥に鋭く刺さる。
「でもさ、現実はそう甘くねぇ。夢だけじゃ食っていけなかったよ。」
少しの間を置いて、ことねは呟くように言った。
「……それでも、音楽はやめてないんだね。」
拓也は小さく笑い、ことねの方へ視線を向ける。
「まぁな。好きだからな。」
ことねはギターの音に耳を傾けながら、心の奥に引っかかった疑問を言葉にする。
「でもさ、それって……今の生活、楽しいの?」
拓也は指を止めた。
「楽しい、か。」
ギターのネックを指でなぞりながら、彼は天井をぼんやりと見上げる。
「音楽は、今でも好きだよ。でもな、昔みたいに音楽だけに集中できるわけじゃない。昼も夜も働いて、ようやく少し弾ける時間を作ってる。」
ことねはその言葉を噛み締めながら、静かに問い返す。
「じゃあ、それでも続けてるのは……好きだから?」
「そうだな。……好きだから、っていうか……もう、好きで居続けるしかなかったって感じかな。」
拓也はふっと笑う。
「理想通りじゃないけど、それでも弾いてると落ち着くし、楽しいと思える瞬間もある。それで十分だと思えるようになった。」
ことねは、ふとスマホを開いた。画面の中には、かつての学園アイドルの同期たちの姿がある。彼女たちは今もステージで輝いている。笑顔で、楽しそうで、まるで夢の中にいるように見えた。
そこに、あたしはいない。
「夢なんか持ってても、どうせ、こうなるんでしょ……」
拓也は苦笑しながらギターを弾き続ける。
「それでも、好きだからやってる。それだけだよ。」
ことねは、その言葉にどこか引っかかるものを感じた。
夢を追って、壊れて、それでも――好きだと言えることがある。
彼は夢を失っても、音楽を手放さなかった。あきらめたはずのものを、まだ大切に持ち続けている。
そんな気持ち、ことねにはわからなかった。
「ことね、お前はどうなんだよ?」
拓也の問いが、じかに心に響く。
「今の生活……お前は、本当に楽しいのか?」
ことねは、答えられなかった。
楽しいなんて、考えたこともなかった。
ただ、生きるために働くだけ。そう思っていたし、それしか選べないと思っていた。
でも――それって、本当なの?
胸の奥で、何かが軋むような音がした。
**
翌日、ことねは再びバイト先に向かった。いつも通りの作業、いつも通りの接客。繰り返される一日。
でも、頭のどこかで、拓也の言葉がずっと残っていた。
「楽しいって……なんだろう?」
ことねは、稼ぐために働いてきた。家族の負担が少しでも減るなら、とアイドルを夢に見たこともあったが、才能がない、なれる保証なんてない。
もし続けたとしても、それが負担になってしまうのなら、夢なんて諦めたほうが良いと、ずっと思い込んできた。
でも、それは――本当に自分の気持ちだったのか?
その疑問が、ことねの中に、静かに芽を出していた。
それはやがて、彼女の未来を変える一歩になるのかもしれない。