バイト戦士ことね   作:夜琥

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31. 舞台への序曲

「The Roar」のフロアは、開演前から、異様なまでの熱気に包まれていた。

 

一ヶ月前、伝説の対バンライブで、彗星の如く現れたバンド「ナナイロ」

 

その待望の初ワンマンライブ。

 

キャパシティ200人強の、この決して大きくはないライブハウスのチケットは、発売開始から、わずか数分で売り切れたという。

 

フロアを埋め尽くす観客たちの、肌と肌が触れ合うほどの密度。

 

誰もが、今か今かと、まだ見ぬヒーローの登場を、期待に満ちた、紅潮した顔で待ちわびている。

 

フロアの後方、壁に寄りかかるようにして、一人の男が、その喧騒を、冷めた目で観察していた。

 

男の名前は笹川(ささがわ)。下北沢の小劇場を拠点に活動する、新進気鋭の舞台演出家だ。

その手には、ほとんど興味もなさそうに、一枚のドリンクチケットが握られている。

 

(……やれやれ。アイドルの、お遊戯ライブに付き合わされる羽目になるとはな)

 

笹川が今日、ここにいる理由は一つだけ。

 

彼の劇団の若手女優の一人が、最近この「ナナイロ」というバンドに、狂ったようにハマっているのだ。

 

「笹川さん!絶対に見てください!ナナイロのボーカルは、ただの歌手じゃありません!あの子は、天才役者です!」

 

そう言って、半ば無理やりこのチケットを押し付けてきたのだ。

 

(役者、ねえ…)

 

笹川は鼻で笑った。

 

歌って踊るのが上手いアイドルなど、掃いて捨てるほどいる。

 

だが、彼女たちが舞台の上で、その他大勢の観客の心を、たった一人で掴み取り、物語の世界へと引きずり込む、「本物の役者」であった試しなど、一度もない。

 

アイドルという存在は、あくまで虚像だ。

 

作られたキャラクターを、上手に演じているに過ぎない。

 

笹川が求めるのは、そんな薄っぺらな演技ではない。人間のどうしようもない、矛盾した剥き出しの「魂」そのものだ。

 

そんなものが、こんな熱狂と信仰だけで構成されたような、宗教的な空間にあるはずがない。

 

やがて、客電が落ち、フロアが期待に満ちた割れんばかりの歓声に包まれる。

 

ステージが、赤い光で染め上げられた。

 

---

 

ライブが始まって、30分。

笹川は、自分が、ここに連れてこられた理由を、嫌というほど、理解させられていた。

 

彼らが最初に披露したのは、対バンライブでは見せなかった、新たなカバー曲だった。

ジャズやファンクの要素を取り入れた、テクニカルで、リズムが心地よくノリの良い楽曲。

 

(ほう、ただの勢いだけのバンドではない、か。演奏技術も、悪くない)

 

笹川は、少しだけ、見方を変えた。

 

そして、バンド名を冠した新曲『ナナイロ』。

 

この曲は、「The cute!!」がことねの個人的な「魂の叫び」であったのに対し、四人が「バンド」として、これからどこへ向かうのかを歌った、希望に満ちた楽曲だった。

 

歌詞には、赤、青、黄色といった、メンバーそれぞれの個性を象徴するような言葉が散りばめられ、そのサウンドは、四つの異なる色が混じり合った、美しい虹のようだった。

 

笹川はこの二曲で、彼らがたった一ヶ月で、音楽的にそしてバンドとして、驚異的な成長を遂げていることを、認めざるを得なかった。

 

だが、笹川の心を本当に揺さぶったのは、その次からだった。

 

ライブ中盤、彼らは、対バンライブでも披露した「ツバサ」や「秒針を噛む」を演奏し始めた。

 

しかし、その表現は、一ヶ月前とは、明らかに深みを増していた。

 

「ツバサ」では、彼女は、故郷を旅立つ、一人の少年になっていた。

 

その歌声には、未来への希望と、過去への郷愁が、あまりにもリアルに、同居していた。

歌詞の様子を表現するとき、彼女の瞳は、確かに、遠い空を見ていた。

 

「秒針を噛む」では、彼女は、心を閉ざした、一人の少女になっていた。

 

『生活の偽造 いつも通り 通り過ぎて』

 

そのフレーズを歌う時の、彼女の、全てを諦めたような、空虚な瞳。

 

そして、『灰に潜り 秒針を噛み』と叫ぶ時の、自分自身を破壊するような、激しいダンス。

 

それは、もはや、歌ではない。演技だ。演劇だ。

 

笹川の目には、彼女が、ただ歌を歌っているのではなく、その曲の持つ「物語の主人公」を、完全に演じきっているように見えた。

 

その、恐ろしいほどの憑依的なパフォーマンスに、笹川は、自分が、本当に優れた役者と出会った時にだけ感じる、あの、背筋が凍るような、芸術的な戦慄を感じていた。

 

そして、ライブのクライマックス。

 

彼らの原点である「The cute!!」が、満を持して、披露された。

 

様々な「役」を演じた後で、最後に、彼女は「藤田ことね」という、ありのままの自分自身を、全ての不完全さを含めて、高らかに、肯定してみせる。

 

『自信もない 上手でもない』

 

『転んでも 無様でも 替えのない私なんだ』

 

その、あまりに痛切で、あまりに力強い、自己肯定の物語。

 

その姿に、笹川は完全に心を奪われていた。

 

(……なんだあの子は。歌い手であり、踊り手であり、そして、何よりも完璧な『役者』じゃないか)

 

彼の頭の中に、一つの、ずっと実現不可能だと思っていた戯曲のタイトルが、鮮明に浮かび上がっていた。

 

それは、彼自身が書き上げた、あまりに難解で、あまりに矛盾した感情を要求されるが故に、これまで、どんな優れた役者も、演じきることができなかった、最高傑作。

 

(彼女なら、演じられるかもしれない。いや、彼女しかいない)

 

笹川の中で、藤田ことねは、単なる「興味深いアイドル」から、「自らの芸術を完成させるために、不可欠な人物」へと、その存在価値を、決定的に変えたのだった。

 

---

 

最後の曲が終わり、フロアが、地鳴りのようなアンコールの声に包まれる。

笹川は、その熱狂の渦から、そっと抜け出し、楽屋へと向かった。

 

心臓が、早鐘を打っている。

 

こんな感覚は、何年ぶりだろうか。

最高の才能を、見つけてしまった。

 

コン、コン、と、控えめなノックの音。

アンコールの対応でバタバタとしていた楽屋の扉が、バンドメンバーの一人によって開かれた。

 

「……あの、どちら様ですか?」

 

笹川は楽屋の中を一瞥すると、その視線を汗だくのまま、しかし充実感に満ちた表情を浮かべている、ことね一人に固定した。

 

そして、名刺を一枚差し出した。

 

「突然申し訳ない。わたしは笹川という者です。下北沢で小さな劇団の演出家をやっています」

 

「え、演出家…?」

 

ことねは、きょとんとして、その名刺を受け取った。

 

笹川は、一度ごくりと唾を飲み込むと、単刀直入に切り出した。

 

「藤田ことねさん。あなたの今日のステージ拝見しました」

 

その目は値踏みするような、それでいて熱に浮かされたような、異様な輝きを放っていた。

 

「……素晴らしいパフォーマンスだった。いや、あれは、もはや、演劇だった」

 

彼は、ことねの目を、まっすぐに、射抜いた。

 

「単刀直入に言おう。君、舞台に興味はないかい?」

 

その、あまりに唐突な問いかけ。

 

ことねの、そして、仲間たちの時間が、ぴたりと止まる。

 

「舞台……ですか?」

 

「ああ。君のその全身全霊で物語を表現する才能。それをもっと、大きな世界で試してみる気はないか?」

 

バンドとしての、最高の成功を手にした、まさにその夜。

 

ことねの前に、全く新しい「表現」の世界への扉が、今、音を立てて、開かれようとしていた。

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