「君、舞台に、興味はないかい?」
演出家・笹川から投げかけられた、あまりに唐突な言葉。
初ワンマンライブの成功という、人生で最高の熱狂の直後に訪れた、その静かな問いかけは、楽屋の浮かれた空気を、一瞬で凍りつかせた。
ことねは、差し出された名刺を、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。
舞台?演劇?あたしが?
バンドとして、やっとあたし達の音を見つけられたばかりなのに。
「……あの、すみません」
最初にその沈黙を破ったのは拓也だった。
彼はことねを守るように、一歩前に出る。
「うちのボーカルに何か御用でしょうか。話なら俺が聞きます」
その声には明らかな警戒の色が滲んでいた。
笹川は、その拓也を一瞥すると、少しも悪びれることなく、言葉を続けた。
「いや用があるのは、藤田さん、君一人だ。君たちの演奏も悪くはなかった。だが、わたしが心惹かれたのは、彼女のあの『物語を語る力』だけだ」
「物語を……語る力?」
拓也が怪訝な顔で問い返す。
「そうだ」
笹川は、拓也の警戒など意にも介さず、再び、その熱に浮かされたような目でことねを見つめた。
「君のパフォーマンスは、もはや、歌という枠に収まるものではない。あれは、独白であり、告白であり、一つの人生を体現する、極上の演劇だ。君は、無意識のうちに、歌に込められた物語の主人公に『憑依』している。その才能は、もっと君という存在そのものを媒介にして、語られるべきだ」
「なっ……!」
美咲が、カチンと来て、何かを言い返そうとする。
それを、ことねがそっと手で制した。
「……ありがとうございます」
ことねは、笹川に向かって、深く頭を下げた。
「でもあたしは、バンドのボーカルなので。お芝居なんてやったことありませんから」
それは精一杯の、丁寧な、しかし、明確な拒絶の言葉だった。
「だろうな。やったことがないから、あんな、化け物じみたことができるんだ」
笹川は、ふ、と息を吐くと、名刺をことねの手に、半ば押し付けるように握らせた。
「気が変わったら連絡してくれ。わたしは、君という才能を本気で欲している」
そう言い残し、彼は嵐のように楽屋を去っていった。
残されたのは、一枚の名刺と、四人の間の、ぎこちない沈黙だけだった。
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その夜、ことねは、自室のベッドの上で笹川から渡された名刺を、ただ、じっと見つめていた。
劇団「月蝕」:演出家・笹川カイト。
(物語を語る力……)
初星学園では、いつも言われていた。「技術がない」「感情に任せすぎだ」と。
でも、ミコさんは言ってくれた。「てめえの魂を、どうやって客に叩きつけるか。ただ、それだけだ」と。
あたしは、ミコさんの言葉を信じて、ただ、感情のままに、魂のままに、歌ってきた。
それを、あの人は「演劇だ」と言った。
嬉しい、というよりも、戸惑いの方が大きかった。
バンドとして、最高のスタートを切ったばかりなのに。やっと、自分の居場所を見つけられたと思ったのに。
なぜ、今、別の道を、提示されなければならないのだろうか。
スマホを開くと、バンドのグループチャットが、賑やかに動いていた。
『美咲:今日の打ち上げ、最高だったね!店長の唐揚げ、神!』
『拓也:飲みすぎだ、お前は。でも、まあ、楽しかったな』
『静:……私も。楽しかった』
その温かいやり取り。
ことねは、胸が、きゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
あたしは、この三人と一緒にいたい。この三人と音楽をやりたい。
その気持ちに嘘はない。
でも。
笹川の、あの、熱を帯びた瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
あたしの歌は、歌じゃないんだろうか。ただの、演劇なんだろうか。
そんなはずはない。これは、ナナイロの音楽なのに。
ぐるぐると、答えの出ない問いが、頭の中を回り続ける。
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翌日の夜。
「The Roar」の事務所の扉を、ことねは、おずおずとノックした。
「……ミコさん、今、いいですか?」
ミコはデスクで、煙草をふかしながら、分厚いファイルに目を通していた。
「……なんだ」
ことねは、昨夜の出来事を正直にミコに打ち明けた。
笹川という演出家が現れたこと。
舞台に誘われたこと。
そして、自分の歌が「演劇だ」と言われ、心がどうしようもなく、かき乱されていること。
話を聞き終えたミコは、しばらく何も言わなかった。
ただ、紫煙を、ゆっくりと、天井に向かって吐き出すだけだった。
やがて、煙草を灰皿に押し付け、静かに口を開いた。
「……私に聞くな。てめえの人生だろ」
その、あまりに突き放したような言葉に、ことねは思わず顔を上げた。
「だが、一つだけ言っとく」
ミコは、ことねの目を、まっすぐに見据えた。
「歌も、ダンスも、芝居も、根っこは全部同じだ。てめえの魂を、どうやって客に叩きつけるか。ただ、それだけだ」
「……」
「その、舞台とやらが、お前の『咆哮』を、もっとデカくするもんなのか。それとも、ただの、中途半端な雑音にしちまうのか。それは、誰にもわからねえ。てめえ自身にもな」
「だから、てめえの腹で決めろ。どっちの道が、てめえの魂を、一番、燃やしてくれるのかをな」
その言葉は、厳しく、しかし、不思議なほど、温かかった。
そうだ。これは、あたしの問題だ。あたしが、決めなくちゃいけないんだ。
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その数日後。
ライブハウスのカウンターで、ミコが電話を受けていた。その表情は、いつになく、険しい。
「……ああ、そうだ。うちのボーカルに何か用か」
相手は、笹川だった。
「しつこい男は嫌われるぜ。あいつは、お前の誘いには乗らねえ。そう言ったはずだ」
電話の向こうで、笹川が、冷静な、しかし熱を帯びた声で答える。
『わたしは、彼女という才能を諦めるつもりはありません。ミコさん、あなたは音楽のプロだ。わたしは演劇のプロだ。畑は違うが、本物を見抜く目だけは、互いに信じられるはずだ』
「……何が言いてえ」
『彼女の叫びは、一つの楽曲の世界に留めておくには、あまりに豊かすぎる。彼女の身体を通して、もっと多くの物語が生まれるのを、あなたは見たいとは思わないか?シェイクスピアを、チェーホフを、彼女がどう解釈し、どう叫ぶのか。その表現が、巡り巡って、彼女のバンドに、どれほどの深みをもたらすことになるか……』
「……」
ミコの脳裏に、ことねが初めて「The cute!!!」を歌った時のあの剥き出しの魂が蘇る。あれは確かに、彼女自身の物語の咆哮だった。
『わたしは、彼女を奪うつもりはない。むしろ、彼女に新しい武器を渡したい。あなたの育てたその『咆哮』を、さらに鋭く、さらに遠くまで届くものにするために、力を貸したいだけだ』
ミコは、しばらく、黙っていた。そして、長く、細く、息を吐き出した。
「……わかった。話だけは聞いてやる。だが、最終的に決めるのは、あいつ自身だ。てめえの理屈で、あいつの心を縛るような真似をしてみろ。その時は、本気で叩き出す」
ミコは、ことねの師として、そして彼女の未来の可能性を信じる者として、異分野のプロとの対話の席に着くことを決意した。
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そして週末。
再び、バンドミーティングのために集まった四人の前で、ことねは、自分の決意をメンバーに打ち明けた。
「……あたし、やってみようと、思います。舞台」
その言葉に、スタジオの空気が、一瞬、凍りつく。
「え、ええええっ!?マジで!?ことねちゃん、女優デビュー!?サインもらっとこ!」
美咲が、目をキラキラさせながら、手放しで驚きの声を上げる。
「落ち着け、美咲」
拓也がそれを制しつつも、ことねから視線を外さずに、慎重に言葉を選ぶ。
「……すげえチャンスなのは、間違いない。でもバンドの活動はどうなる?練習とか、ライブとか……両立は、正直、かなり厳しいと思うぞ」
静は何も言わず、ただことねの顔をじっと見つめていた。
その瞳は、ことねの言葉の奥にある、本当の気持ちを探るように、深く澄んでいた。そして、静かに問いかけた。
「……ことねさんは、どうしたいの?バンドと舞台、どっちが大事なの?」
そのあまりにストレートな問いかけ。
ことねは、仲間たちの顔を、一人ひとり、見渡した。
そして、最高の笑顔で、答えた。
「どっちも、です!」
「え?」
「あたしは、どっちも、やりたい。どっちも、捨てたくない。だって、どっちも、今の、あたしだから」
ことねは、立ち上がった。
「ミコさんが言ってくれました。歌も、ダンスも、芝居も、根っこは同じだって。だったら、あたし、舞台で、もっと、もっと、たくさんのことを学びたい。人の心を動かす、表現の方法を。そして、それを、全部、このバンドに、ナナイロに、持ち帰りたいんです!」
彼女は、深く頭を下げた。
「だから、お願いです!あたしに、少しだけ、時間をください!」
その、あまりに真っ直ぐで、力強い言葉。
拓也と、美咲と、静は、顔を見合わせ、そして、誰からともなく、笑い出した。
「……なんだよ。そんなこと当たり前だろ。お前が、ナナイロのボーカルだってことに、変わりはねえんだから」
拓也が、ぶっきらぼうに、しかし、その声には確かな信頼を込めて言った。
「そうだよ!ことねちゃんが、スーパー女優になって、ナナイロが、もっと、もっと、すごいバンドになるんだったら、大歓迎だよ!あたしたちも、負けてらんないね!」
美咲が、力強く、ガッツポーズをする。
静も、静かに、しかし、温かい眼差しで、ことねを見つめていた。
「……待ってる。あなたの、新しい『咆哮』を」
仲間たちの、温かい言葉。
ことねは、再び、涙が溢れそうになるのを、必死でこらえた。
数日後。
ことねは、ミコと共に笹川の待つ、劇団「月蝕」の稽古場へと、その一歩を、踏み出していた。
バンドとしての、そして一人の表現者としての、彼女の全く新しい物語が、今、静かに、幕を開けようとしていた。