劇団「月蝕」の稽古場は、都心にある古いビルの地下に、ひっそりと息づいていた。
コンクリートが剥き出しの高い天井、壁一面に貼られた鏡、そして、床に無数に刻まれた、役者たちの汗と涙の跡。
そこは、音楽の熱狂とは質の違う、静かで、張り詰めた、創造の匂いが満ち満ちていた。
「待っていたよ、藤田ことねさん」
笹川は、まるで旧知の友を迎えるように、穏やかな、しかし熱を帯びた瞳でことねとミコを迎え入れた。
「……ずいぶんと、年季の入ったハコだな。夢の残骸が、そこら中にこびりついてるみてえだ」
ミコが、事務所の壁を指でなぞりながら、笹川を牽制するように呟く。
「はは、違いない。ここは、数え切れないほどの魂が、燃えては消えていった場所だ。そして、新しい魂が生まれる場所でもある」
笹川は、ミコの皮肉を意にも介さず、ことねに、戯曲『誰かのためのソナタ』の台本を手渡した。
「これは、君という魂を、何年も待ち続けていた物語だ」
笹川は、演劇という表現の深淵を語り、主人公ノアの持つ「空虚」と「模倣」の悲劇を、詩人のように情熱的に解説した。
そして、ことねのライブパフォーマンスが、いかにこの戯曲の本質と共鳴しているかを。
「君に求めるのは、技術ではない。君の魂そのものだ。君がこれまで生きてきた中で感じた、痛み、喜び、そして孤独。その全てを、このノアという『器』を通して、解き放ってほしい」
その言葉は、ことねの心を強く揺さぶった。
あたしのままで、いいんだ。そう肯定された気がした。
しかし、笹川はプロとしての厳しさも隠さなかった。
週五日の、長時間の稽古。役と一体になるための、精神的な深い没入。そして、公演までの数ヶ月間、その全てを演劇に捧げる覚悟。
「もちろん、君のバンド活動を否定するつもりはない。だが、中途半端な覚悟では、君自身が壊れることになるだろう」
その言葉は、ことねに、演劇に挑戦できるという高揚感と同時に、かつて経験した「過労で倒れる」という、現実的な恐怖をありありと思い起こさせた。
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稽古場の見学を許可された二人が目にしたのは、プロフェッショナルの戦場だった。
看板女優である城崎アヤカが、戯曲『誰かのためのソナタ』の、主人公ノアが自らの「空虚」に絶望するモノローグを演じていた。
「……ここに、私はいない。鏡に映る、あの人は、誰?昨日、私だったはずの、あの人は、どこへ消えたの……?」
その声はマイクも通さずに、稽古場の隅々まで、鈴が鳴るようにクリアに響き渡る。完璧な発声。
観る者の胸を締め付ける、計算され尽くした悲しみの表情。
指先の微かな震え一つに至るまで、全てが「ノア」という役のために、緻密に構築されていた。
稽古場にいた他の役者たちは、息を呑んでその演技に見入っている。
誰もが、彼女の才能と努力に、畏敬の念を抱いていた。
「……すごい……」
ことねは、思わず声を漏らした。自分とは全く違う。あたしが、歌やダンスで、感情のままに動いてしまうのとは、正反対。
指の先から、声の響きまで、全部が、寸分の狂いもなくコントロールされている。これが、『役者』の世界……。
「……なるほどな。こりゃ、安心して見てられる、立派な『芝居』だ」
ミコはことねの隣で、腕を組みながら静かに、しかし、確信を込めて呟いた。その声には、称賛と、それ以上の、冷めた分析が含まれていた。
アヤカの演技が終わると、笹川が満足そうに頷いた。
「素晴らしい。アヤカ、君のノアは、また一つ、深みを増した。観客は、君の演技を見て、涙を流すだろう。まさに完璧な芸術品だ」
その、手放しの称賛に、アヤカはプロとしての自信に満ちた笑みを、僅かに浮かべた。
そして、笹川は、ことねへと向き直る。
「では、藤田君。君にも少しだけ、この物語の世界に触れてもらおうか」
笹川が示したのは、物語の終盤、全ての模倣から解放され、生まれて初めて、自分自身の言葉を発する、ノアの、たった一言のセリフだった。
『……ごめん、なさい』
「おい、笹川。いきなり素人に、この戯曲のクライマックスを演じさせる気か」
ミコが低い声で制する。
「心配はいらない、ミコさん。これはテストではない。ただの、対話だ」
笹川は笑みを崩さず、ことねを促した。
役者たちの、好奇と、それ以上に冷ややかな視線が、ことねに突き刺さる。
彼女は、ごくりと唾を飲み込み、震える唇を開いた。
「……ご、ごめんなさい」
その声は、か細く、上ずり、稽古場の広い空間に吸い込まれて、消えた。
「違う。もう一度」
笹川の声が、静かに響く。
「……ごめんなさい」
今度は、少し大きな声が出た。しかし、それは、ただの音の羅列で、魂が、全くこもっていない。
どうすればいい?ノアの気持ちって?わからない。歌なら、メロディが、仲間たちの音が、あたしを導いてくれるのに。
パニックに陥り、俯くことねの肩を、ミコが、そっと抱いた。
「……そこまでだ、笹川。こいつは、お前の人形じゃねえ」
ミコの鋭い声が、稽古場の空気を切り裂く。
しかし、笹川は、怒るでもなく、失望するのでもなく、ただ、恍惚とした表情で、立ち尽くすことねを見つめていた。
「……素晴らしい」
「は?」
ミコが、眉をひそめる。
「素晴らしいじゃないか!」
笹川は、興奮を隠しきれない様子で、アヤカと、ことねを交互に見つめた。
「アヤカ、君の演技は、寸分の狂いもない、完璧な芸術だ。だが、それは、君という優れた芸術家が、血の滲むような努力と分析の末に作り上げた『悲しみの肖像画』だ。観客は、その見事な絵を、安心して鑑賞できる」
「だが、この『誰かのためのソナタ』の主人公ノアは、肖像画であってはならないんだ!彼女は、鑑賞されるべき芸術品ではなく、観る者の魂を否応なく巻き込む、生々しい『現実』そのものでなければならない!」
笹川は、ことねを指差した。
「見ろ!彼女は、嘘がつけないんだ!自分の魂が共鳴しない言葉を、器用に『演じる』ことができない!だから、あんな、か細い、空っぽの声しか出ない。だが、それこそが、ノアなんだ!何もない、がらんどうの器!そのものじゃないか!」
「一度、彼女の魂が、役の魂と完全にシンクロした時――その時、彼女が発する言葉は、もはや『演技』ではない。抗うことのできない、『現実』になる!アヤカ、君が描くのが『完璧な悲劇の絵画』なら、彼女が体現するのは、『悲劇そのものの嵐』だ!そして、この戯曲に必要なのは、嵐なんだよ!」
笹川の、常人には理解しがたい芸術家としての感性が、アヤカの「完璧さ」を称賛した上で、ことねの「不器用さ」の中に、他の誰にも持ち得ない、絶対的な「才能の真実」を見出していた。
だが、その言葉は、今のことねには届かない。彼女は、ただ「何もできない」という挫折感に、打ちひしがれるしかなかった。
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深夜の「The Roar」
営業が終わり、静まり返った事務所で、ミコは一本の電話をかけていた。
相手は、彼女がこの世で数少ない、利害関係だけで繋がった、しかし、絶大な信頼を置く人物。
「……夜分に悪い、橘。急ぎの案件だ」
『ミコさん。ご無沙汰しております。急ぎ、ということは、また何か法的なトラブルですか』
受話器の向こうから聞こえるのは、落ち着き払った、体温の感じられない女性の声。橘響子。大手企業の法務部で、日々、無数の契約書とリスクを相手に戦う、法律のプロフェッショナルだ。
「ああ、トラブルだ。まだ表沙汰になってねえが、時間の問題だ。……あたしが、とんでもねえ才能を掘り起こしちまった」
ミコはことねのことを、包み隠さず話した。彼女の持つ、荒削りだが圧倒的な才能。
その魂の輝き。
そして、その輝きを支えるには、あまりにも危うい、彼女の自己犠牲的な生き方。演劇という新たな挑戦が、彼女をさらなる高みへ導く可能性と、同時に、心身を破壊しかねないリスクを孕んでいることを。
『……なるほど。状況は理解しました。それで、私への依頼内容は?その劇団との契約書レビュー、あるいは、その藤田ことねさんの、労働環境に関する法的アドバイス、といったところでしょうか』
響子の声は、あくまで冷静だ。
「どっちもだ。だが、それだけじゃ足りねえ」
ミコは、珍しく、言葉を選んでいた。
「……あいつ、馬鹿なんだ。自分の限界がわからねえ。夢のためなら、平気で自分の命を削る。あたしが昔、そうだったようにな」
『……』
「あたしは、あいつにそうなってほしくねえ。あいつには、あたしが見れなかった景色の、その先まで行ってほしい。だから……橘、てめえの力で、あいつを守ってやってくれ。てめえのその、クソ面倒な理屈と契約書で、がんじがらめにしてでも、あいつがぶっ壊れるのを、止めてやってくれ」
それは、ミコにとって、最大の弱音であり、最高の信頼の言葉だった。
響子は数秒、沈黙した。そして、静かに、しかし、プロとしての確信を込めて答えた。
『……面白い案件ですね。承知いたしました。成功報酬は、藤田ことねさんの才能が、正当な対価を得た際に、改めて算定させていただきます。まずは、現状のリスクアセスメントから始めましょう。明日、そちらへ伺います』
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翌日のバンドミーティング。「The Roar」のスタジオには、重い空気が流れていた。
ことねは、メンバーに稽古場での出来事を、正直に話した。
演劇への挑戦の喜びと、同時に、味わった「何もできない」という挫折感。そして、バンドと両立するための、あまりに過酷なスケジュール。
「……そっか。やっぱ、甘い世界じゃねえよな」
拓也が、静かに呟く。
「でも、ことねちゃんなら絶対できるって!あたし、信じてるから!」
美咲が、必死に励まそうとするが、その声にも不安の色は隠せない。
静は、黙ってことねの顔を見つめていた。
メンバーの温かい言葉が、逆にことねを苦しめた。
「ありがとうございます……。でも、もしあたしがお芝居の稽古で疲れちゃって、バンドの練習についていけなくなったら……みんなの足を、引っ張っちゃうかもしれない。それが、一番怖いんです」
かつて過労で倒れそうになった記憶と、その過ちを繰り返すことへの恐怖が、黒い影のように心を覆う。
最高の仲間たちと、最高の音楽をやりたい。だからこそ、自分のせいで、このバンドの勢いを止めたくなかった。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、ミコだった。
「……その問題、解決できる奴を呼んどいた」
ミコが呆れたように、しかし、どこか切り札を出すような口調で告げる。
コンコン、とスタジオの扉がノックされ、昨日、電話の向こうにいた、橘が入ってきた。
「はじめまして、橘響子と申します。ミコさんからの依頼で、本日よりバンド『ナナイロ』の法務及び、当面の間の暫定的なマネジメントを担当させていただきます」
スーツを隙なく着こなし、フレームの細い眼鏡の奥から、鋭く、冷静な光を放つ瞳。突然の出来事に、メンバーは呆気にとられる。
橘は、挨拶もそこそこに、持っていたタブレットをテーブルの中央に置いた。
「まず、藤田さんの現状のスケジュールを、お聞きした情報と公開情報に基づき、シミュレーションしました。このまま進行した場合、藤田さんの心身が、何らかの支障をきたすレベルまで疲弊する確率は、92.8%です」
橘は淡々と、しかし、一切の感情を排した声で、続けた。
「これは、制御可能なリスクであり、これを放置することは、チーム全体のマネジメントの放棄、及び、藤田さん個人に対する、安全配慮義務違反にあたる可能性があります。そのため、こちらで今後の活動におけるスケジュール案を立てました」
橘はことねたちの前に、2枚の紙を置く。
まずバンド「ナナイロ」全体の練習・ライブ・移動に関する大まかな時間管理。そしてもう1枚、別途用意されていたのは、藤田ことね個人のための、あまりにも詳細なタイムテーブルだった。
「……なに、これ……」
美咲が呆然と呟く。
そこには、起床時間から就寝時間まで、彼女の一日が分刻みで支配されていた。
バンドや演劇の稽古時間はもちろん、食事の時間と最低限の栄養摂取目標、移動時間、学習時間、そして何よりも『1日最低2時間の、電子機器に触れない完全な休息』という項目が、最重要タスクとして赤字で記載されていた。
「心が、死んじゃう……」
美咲の叫びがスタジオに響く。
「いくらなんでも、これじゃ、ことねちゃんがロボットみたいじゃない!」
「感情は、パフォーマンスにおける重要な要素であると認識しています」
「ですが、その感情を生み出す資本は、演者の心身の健康です。藤田さんの場合、その資本管理に重大な脆弱性が認められます。故に、最も集中的なリスクマネジメントが必要と判断しました。他の皆様については、現時点では、バンド活動に関するスケジュール管理に留めます」
橘は、美咲の感情的な反発を、完璧な正論でいなした。
拓也も、静も、そのあまりにドライな、しかし、ことねだけを想った、的確すぎる判断に、言葉を失う。
しかし、ことねだけは、そのスケジュール表を、食い入るように見つめていた。
過労で倒れそうになって、店長やバイト先の人達に迷惑を掛けたあのとき。
幸い倒れて動けなくなることはなかったけれど、もし倒れていたらバイト先にも家族にも迷惑をかけていた。
そんな『もしも』を考えると、あたしの中で無力感が沸き起こり、背筋が凍る。
そんな思いはしたくない。誰にもさせたくない。
「……お願いします」
ことねは、椅子から立ち上がると、橘に向かって、深く、深く、頭を下げた。
「橘さん。あたしを、管理してください」
その、震える声には、自分の未来とバンドの未来を託す、リーダーとしての、確かな覚悟が宿っていた。
そのことねの姿を見て、拓也も、美咲も、静も、自分たちの甘さを悟る。
そうだ。自分たちは、ただの仲良しバンドではない。本気で自分たちの音楽を証明していくと決めたじゃないか。
こうして、ナナイロは、橘響子という強力な「論理の盾」と、正式な業務委託契約を結ぶことを決めた。
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橘はその最初の業務として、提示された出演条件に対する指摘事項をまとめ、笹川の劇団に電話をかけた。
そして、法的な観点から、冷静に、しかし一切の妥協なく、修正案を要求し始めた。
そのプロフェッショナルな交渉を、メンバーは呆然と見守るしかない。
「――笹川様でいらっしゃいますね。わたくし、バンド『ナナイロ』のマネジメントを担当いたします、橘と申します。先般ご提示いただきました、藤田ことねの出演に関する覚え書きの件ですが、いくつか確認、及び、修正をお願いしたい事項がございます」
受話器の向こうで、笹川が、少し苛立ったような声で答える。
『……橘さん、と言ったかな。僕は芸術家で、ビジネスマンではない。細かい話は、稽古を始めながらでいいじゃないか。大事なのは、彼女の魂が、この作品と共鳴するかどうか、だ』
「お気持ちは理解いたします。ですが、素晴らしい芸術も、安定した基盤の上にあってこそ、その価値を最大化できるものです。まず、第3条の『稽古時間は、甲乙協議の上、柔軟に決定する』という条項。これは、実質的に、決定権が甲、つまり劇団側にあると解釈できます。これでは、弊社のクライアントである藤田の、労働安全衛生法上で保護されるべき権利が、担保されません。週あたりの最大稽古時間、及び、それを超えた場合の明確な補償規定を、追記していただく必要がございます」
『……君は、創造の現場を、工場か何かと勘違いしていないか?』
「いいえ。最高の作品を生み出すための、リスク管理です。続きまして、第7条の、映像化及び二次利用に関する著作隣接権の項目ですが、これは、あまりに劇団側に有利な、包括的な権利譲渡となっております。本契約は、あくまで、今回の舞台公演に関するものに限定させていただきます。将来的な映像化、配信、商品化などに関しては、その都度、別途協議の上、新たな契約を締結するものと、明記してください。もちろん、その際の最終的な許諾権は、藤田ことね、及び、弊社に帰属します」
『……面白い。君は守銭奴のようだ』
笹川の、皮肉とも、感嘆ともつかない声が、スピーカーから漏れる。
「いいえ。わたくしは、クライアントの『権利』と『未来』を守る、代理人です。修正案を、本日中にメールにてお送りいたしますので、ご査収の上、前向きにご検討いただけますよう、お願い申し上げます」
一方的に、しかし、完璧なほど丁寧に、橘は電話を切った。
「……すげえ」
拓也が呆然と呟いた。
ナナイロという「感情の矛」が、橘という「論理の盾」を手にした瞬間。
それは、彼らが本当の意味でプロの世界へと、その一歩を踏み出した、ぎこちなくも、決定的な船出の合図だった。