バイト戦士ことね   作:夜琥

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34. 鏡の森のアリスたち

「――以上が、本日付で更新された、ナナイロの包括的活動計画書、バージョン1.2です。各メンバーは、記載されたタスクの優先順位と期限を厳守し、遅延が発生した場合は、速やかに私に報告してください。何かわからない点、あるいはリスクとして懸念される事項はありますか?」

 

「The Roar」の事務所。ホワイトボードにびっしりと書き込まれたマイルストーンとガントチャートを前に、橘は一切の感情を排した声で言った。

 

彼女がナナイロの暫定マネージャーとして加入してから、バンドの練習風景は一変した。

 

「……あの、キョーコさん」

 

最初に、その息苦しさに耐えかねたように手を挙げたのは、美咲だった。

 

「この、『Bメロにおけるグルーヴの最適化、所要時間30分』ってやつ、もっとこう、フィーリングで、ガーッとやっちゃダメなんですか?なんか、タイムカード押してるみたいで、楽しくないっていうか…」

 

その言葉に、響子は眼鏡の位置をミリ単位で調整しながら、冷静に答える。

 

「美咲さんの仰る『フィーリング』という不確定要素は、現時点での課題解決において、非効率かつ再現性に欠けると判断します。まずは論理的に課題点を洗い出し、解決への道筋を明確にすることが、プロジェクト全体の成功確率を向上させると認識しています」

 

「うぐぐ……」

 

正論で返され、美咲が言葉に詰まる。隣で拓也も、「まあ、理屈はわかるけどよ…ロックじゃねえよな…」と、苦笑しながらぼやいている。

 

そんな二人を横目に、静は「……合理的。私は好き」と、静かに響子のやり方を評価していた。

 

そしてことねは。

 

(響子さんがいてくれるから、あたしは安心して、舞台の稽古にも行けるんだ……)

 

この、徹底した管理と論理。それは、情熱だけで突っ走って、何度も道を踏み外しそうになった自分にとって、何より心強い「お守り」のように感じられた。

 

ぎこちないながらも、新しい形。

ナナイロは、響子という「論理の盾」を得て、プロのチームとして、着実に、しかし、確実に前進を始めていた。

 

「では時間ですので、私はこれで。ことねさん、くれぐれも無理はしないように。契約書に記載の通り、あなたの心身の健康が、最優先事項ですから」

 

響子はそう言い残すと、足音もなく事務所を出ていった。

その背中を見送り、ことねは、ぎゅっと拳を握りしめる。

 

「――よし!行ってきます!」

 

仲間たちにそう告げ、ことねは、もう一つの戦場である、劇団「月蝕」の稽古場へと、その一歩を踏み出した。

 

彼女が、これから迷い込むことになる、鏡の森。

 

その入り口は、もう、すぐそこにあった。

 

---

 

劇団「月蝕」の稽古場は、ことねが今まで知るどの世界とも、全く違う法則で動いていた。

 

ライブハウス「The Roar」のような、熱狂とアルコールが渦巻く祝祭の空気はない。

 

初星学園のレッスンスタジオのような、未来への希望と、きらびやかなライバル心に満ちた空気とも違う。

 

そこにあるのは、コンクリート剥き出しの壁、壁一面に貼られた巨大な鏡、そして床に染み付いた、汗と、情熱と、数え切れないほどの涙の匂い。

 

そこは、表現者のための、静かで求道的な「道場」だった。

 

法務のプロである橘が、笹川との間に、ことねの権利と健康を守るための、契約書を締結してくれたおかげで、ことねは正式に、舞台『誰かのためのソナタ』の稽古に参加する権利を得た。

 

ナナイロの活動も、響子が作成した緻密なスケジュール管理表のもと、稽古と両立できる形で続けられる。環境は整えられた。あとは、この新しい世界に、飛び込むだけ。

 

「――では、始めようか」

 

笹川の静かな一言が、稽古場に響く。

 

その瞬間、先ほどまで和やかに談笑していた役者たちの顔から、すっと表情が消え、プロの「器」へと切り替わった。

 

その緊張の伝播を、ことねは肌で感じ、背筋が伸びる。

 

最初の稽古は、基礎訓練から始まった。

 

「『あえいうえおあお』!もっと腹から!」

 

「背骨の一つ一つを意識して!指の先まで、神経を通せ!」

 

笹川の的確な指示が、矢のように飛ぶ。

 

ことねは、そのレベルの高さに圧倒されながらも、必死に食らいついていった。

 

「――では、本読みを始めよう」

 

数時間の基礎訓練の後、笹川が告げた。

 

「今日は、第一幕第一場。主人公ノアが、その『特異性』を観客に見せつける、最も重要な場面だ」

 

笹川は戯曲のコンセプトを語り始める。

 

主人公ノアは、アンドロイドではない。

 

自己を持たず、目の前の人間の人格を、完璧に模倣(コピー)してしまう、「がらんどう」の人間であること。

 

その神業的な能力故の、悲劇の物語であること。

 

そして彼は、劇団員全員に向かって、静かに、しかし爆弾を投下するように告げた。

 

「このあまりに難解な役、ノアを、今回は城崎アヤカと藤田ことね。この二人によるダブルキャストで行うことに決めた」

 

周囲がざわつく。劇団員たちの間に、明らかに動揺と、そして、ことねに対する値踏みするような視線が走る。

 

「……え?」

「ダブルキャスト…?アヤカさんと?」

「藤田ことねって…あの新しく入ってきた子か?」

「笹川さん、何を考えてるんだ…?」

 

劇団員たちが驚きと動揺の目で、笹川とアヤカ、そして素人であるはずのことねを、交互に見る。

 

看板女優であるアヤカの顔から、すっと血の気が引いた。自分が、この、どこの馬の骨とも知れない素人の少女と、同じ役で、並び称された。その事実が、彼女のプロとしてのプライドを、深く、静かに、傷つけた。

 

「まず城崎くん。君のノアを見せてくれ」

 

「はい」

 

アヤカが、静かに一歩、前に出る。

 

相手役となる劇団員が、快活な宅配員の役として、ノアの部屋のドアをノックする仕草をした。

 

宅配員役:「お届け物でーす!ノアさん、いらっしゃいますかー?今日もいい天気っすね!」

 

その瞬間、アヤカが演じるノアは、完璧に「宅配員」を映す鏡となった。

 

アヤカのノア:「はい、いますよー!本当に、気持ちのいい朝ですね!」

 

声のトーン、少し跳ねるような語尾、太陽のような快活な笑顔。

 

それは、ただの物真似ではない。相手の人格を完璧に分析し、そのエッセンスを自らの技術で再構築した、見事な演技だった。

 

続いて、神経質な隣人の老婆役が、ノアに話しかける。

 

老婆役:「……お隣のノアさん?また、変な音が聞こえたんだけど…夜中に、何をやってるのかしらねぇ…?」

 

ノアの表情が一変する。

 

アヤカのノア:「……何の音でしょう…?私も、何も聞いていませんけれど…?」

 

不安げに揺れる瞳、疑り深くひそめられた眉、少し裏返る声。

 

彼女は、マリオネットのように、瞬時に別の人格を完璧に演じきってみせた。

 

劇団員たちは、その神業的な技術に感嘆のため息を漏らす。

 

「すげえ……完璧だ」

「寸分の狂いもない。これぞ城崎アヤカ…!」

 

アヤカのノアは、観る者に、その異常性を理解させつつも、どこか安心して「鑑賞」できる、美しいガラス細工のようだった。

 

「……どうだい、藤田くん。これが、城崎アヤカという女優が、長年かけて築き上げてきた、技術の結晶だ」

 

笹川は、満足そうに頷くと、今度はことねに、残酷なまでの視線を向けた。

 

「では、藤田くん。君のノアを見せてくれるかな」

 

ことねは、震える足で、アヤカが立っていた場所へと、歩みを進める。背中に、劇団員たちの、値踏みするような視線が突き刺さる。

 

(がらんどうに、ならなくちゃ……)

 

そう、自分に言い聞かせる。宅配員役の役者が、再び快活に声をかける。

 

宅配員役:「お届け物でーす!ノアさん、いらっしゃいますかー?今日もいい天気っすね!」

 

ことねは、必死に彼の快活さを「模倣」しようとする。

 

ことねのノア:「は、はい!います!いい天気ですね!」

 

だが、それは、アヤカのような洗練された演技ではない。

 

彼の魂が放つ「陽」の気に、無防備に汚染されるかのように、ただ、ぎこちなく、彼の動きをなぞるだけ。

 

その笑顔は、ナナイロのライブで仲間と笑い合う時の、彼女自身の「楽しい」という感情が滲み出てしまい、ただの「元気な女の子」になってしまっていた。

 

次に、老婆役が疑いの目を向ける。

 

老婆役:「……お隣のノアさん?また、変な音が聞こえたんだけど…夜中に、何をやってるのかしらねぇ…?」

 

その、刺すような視線。その瞬間、ことねの脳裏に、初星学園のオーディションで、冷たい目で自分を見下ろしていた審査員の顔が、フラッシュバックした。

 

ことねのノア:「な、何の……音、ですか……?あ、あたしは、何も……」

 

声が本物の恐怖で震え、上ずる。瞳が潤み視線が泳ぐ。それは演技ではなく、ただの「恐怖反応」だった。

 

「危なっかしいな…見てるこっちがヒヤヒヤする」

「でも……今の目、演技じゃなかったぞ。本気で怯えてた…」

 

劇団員たちの、困惑と僅かな憐れみが混じった囁き声が、ことねの耳に痛いほど届いた。

 

笹川は何も言わなかった。

 

ただ、その沈黙が、どんな厳しい言葉よりも、ことねの心を抉った。

 

そして、アヤカの唇の端に、微かな、しかし、明確な嘲笑が浮かんでいるのを、ことねは見てしまった。

 

稽古が終わり、劇団員たちが去っていく。アヤカはことねに見向きもせず、静かに稽古場を後にした。

 

一人、残されたことねに、笹川が静かに近づいてきた。

 

「……どうだい、藤田くん。これが、君がこれから登らなくてはならない、壁の高さだ」

 

その言葉は、優しく、しかし、絶対的な真理として、ことねに突きつけられた。

 

「君は満たされすぎている。ナナイロという光を知り、仲間という温かさを知ってしまった。その充実感が、今の君を輝かせている。だが、それがノアを演じる上での、最大の足枷になっているんだ」

 

「城崎くんは技術で『がらんどう』を構築する。だが、君にはその技術がない。君がノアになるためには、君自身の心が、本当に『がらんどう』に近づくしかない。それは、とても、危険な道で無理強いはできないが、物にできれば、君の表現は一気に広がる」

 

笹川は噛みしめるように、しかし、期待の眼差しをことねに向ける。

 

「どう演じるかは君に任せよう。どちらを選んだとしても、君の成長につながるはずだ」

 

---

 

一方その頃。

バンド「ナナイロ」のスタジオでもまた、不協和音が鳴り響いていた。

 

「……なんか、違うんだよな」

 

拓也が、ギターを置き、深くため息をついた。

 

新曲のリフは、以前よりもテクニカルで、エモーショナルになった。だが、そこに、かつてのような「魂の叫び」はなかった。

 

「ビートが、走っちゃう…。ことねちゃんの歌がないと、どこに向かって叩けばいいのか、わかんなくなっちゃうんだよ…」

 

美咲のドラムも、力強くはあれど、空回りしている。

 

静は、何も言わず、ただ、ベースの弦を指でなぞっていた。

 

彼女のベースラインは、より芸術的に、複雑に進化した。しかし、それは、他の音と交わることを拒むかのように、孤高を保っていた。

 

三人の音は、それぞれが、確実に進化している。

 

だが、ことねという、絶対的な「太陽」を失った惑星のように、その軌道を見失い、一つのグルーヴとして、結びつかない。

 

「ことねが、今、向こうで、一人で戦ってる」

 

拓也の言葉に、美咲も、静も、黙って俯くしかなかった。

 

彼女が帰ってくる、最高の「居場所」を作ってやりたい。そう、思っているのに。

 

ことねの迷いが、バンドの迷いとなって、重くのしかかっていた。

 

舞台とバンド。

 

二つの世界で、藤田ことねとナナイロの試練が始まっていた。

 

鏡の森に迷い込んだアリスは、まだ、出口を見つけられずにいた。

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