バイト戦士ことね   作:夜琥

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35. IFの物語と魂の値段

劇団「月蝕」の殺風景な事務所。

 

そこに置かれた、一台の安価な会議テーブルを挟んで、演出家・笹川カイトと、ナナイロの暫定マネージャー・橘響子は、週に一度の定例ミーティングを行っていた。

 

その空気は、まるで手術室のように冷たく、張り詰めている。

 

「――以上が、今週の藤田ことねに関する稼働報告と、契約条項の遵守状況です」

 

響子は手元のタブレットに表示された、ことねの睡眠時間、移動時間、食事内容までが記録されたデータを、一切の感情を排した声で読み上げる。

 

「心拍数の平均値、および睡眠の質に関しては、契約上の規定値をクリア。クリティカルな問題は、現時点では発生しておりません。しかし――」

 

響子は一度言葉を切り、グラフの一点を指でなぞった。

 

「唾液中のコルチゾール値、及び、週二回のリモートカウンセリングにおけるストレス指標が、契約締結時と比較して、37%上昇しています。これは、明確な心身的負荷の増大を示唆するデータです。現時点で契約違反には該当しませんが、この数値が閾値である50%を超えた場合、弊社はタレント保護の観点から、稼働の即時停止を含む、然るべき措置を講じる権利を有します」

 

その橘の隣には、劇団の若手女優・若月ひかりが、借りてきた猫のように小さくなって座っていた。

 

彼女は、快活で、少しミーハーな部分もあるが、演劇に対しては誰よりも真摯な情熱を抱いている、ごく普通の若手女優だ。

 

ナナイロのライブに笹川を誘った張本人であり、その功績と、ことねと同年代の役者という立場から、笹川の計らいでこのミーティングへの同席を許されていた。

 

だが、今、目の前で繰り広げられているプロの世界のやり取りは、彼女の想像を遥かに超えていた。

 

(すごい……橘さんって人、本当に、ことねちゃんのこと、全部管理してるんだ……。ストレス値まで……。これがプロのマネージャー……)

 

笹川はその報告を、面白そうに聞いていた。カップの中の、冷めきったコーヒーを一口すする。

 

「結構です、橘さん。あなたの管理能力には、心から敬意を表しますよ。実に合理的だ」

 

彼はふっと息を吐いた。

 

「ですがね、芸術とは時に、魂を燃やして、心臓が規定値を超えるほどの熱量を放って、初めて生まれるものだ。コルチゾール値が安定している役者の演技など、わたしは一秒たりとも見たいとは思わない」

 

「その、笹川さんの仰る『魂の燃焼』という現象ですが」

 

橘は少しも怯まず、眼鏡の位置をミリ単位で調整しながら、冷静に切り返す。

 

「ビジネスの観点から分析するに、それはタレントの精神的リソースを不可逆的に消費する、極めてハイリスクな状態と定義できます。短期的には高いパフォーマンスを発揮するかもしれませんが、中長期的には『燃え尽き症候群(バーンアウト)』へと繋がり、結果として、タレントの資産価値を著しく毀損させる。それは、この『誰かのためのソナタ』というプロジェクト全体にとって、許容できるリスクであるとお考えですか?」

 

「……非合理的、か」

 

笹川は楽しそうに喉を鳴らした。

 

「あなたの世界では、そうなのでしょう。だが、芸術とは、いつだって、その非合理的なリスクの側にこそ、宿るのですよ」

 

(うわぁ……全然、話が噛み合ってない……)

 

ひかりは、二人の間に流れる、静かだが、あまりに鋭利な火花に、生きた心地がしなかった。自分が憧れる芸術の世界が、いかに冷徹な論理とビジネスの上で成り立っているかを、今、肌で感じていた。

 

---

 

稽古は、進めば進むほど、ことねを深い森の奥へと迷い込ませていった。

 

「役作り」という、プロの世界では当たり前の概念が、彼女にはどうしても理解できない。

 

台本を読み込み、ノアの経歴をなぞり、感情を分析し、頭で理解しようとすればするほど、身体が、声が、どんどん固くなっていく。

 

稽古場では、城崎アヤカの「完璧なノア」と、ことねの「ぎこちないノア」が、無慈悲に比べられた。

 

アヤカのノアは、まさに芸術品だった。彼女は、ノアという「がらんどう」の人間を、完璧な技術で、観客の前に構築してみせる。その声、仕草、呼吸。全てが計算され尽くし、寸分の狂いもない。

 

劇団員たちは、その圧倒的な技術力に、日々、感嘆のため息を漏らしていた。

 

「今日も完璧だったな、アヤカさんのノアは」

「ああ。あの、人格が切り替わる瞬間の、目の動き。鳥肌が立つよ」

「あれこそ、本当のプロだ。俺たちも、あれを目指さなきゃな」

 

そんな賞賛の声が、ことねの心を、じわじわと蝕んでいく。

 

彼女は日に日に口数を失い、稽古場の隅で、小さくなっていく。

 

「……あのっ!」

 

ある日の稽古の休憩中、ひかりが、意を決したように、そんなことねに駆け寄ってきた。

 

「私、あなたのファンなんです!ナナイロの初ワンマン、本当に、最高でした!」

 

その瞳は、純粋な憧憬で、キラキラと輝いていた。

 

「え、あ、ありがとうございます……!」

 

思いがけない言葉に、ことねは戸惑いながらも、久しぶりに、心からの笑みを浮かべた。

 

「あの時の、『the cute!!』で、泣きながら、でも、すっごく楽しそうに笑ってた顔…!あれ、どうやってるんですか!?私、どんなに頑張っても、あんな顔、できなくて…!台本に『泣きながら笑う』って書いてあっても、嘘っぽくなっちゃうんです!」

 

ひかりの、あまりに無邪気で、純粋な問いかけ。

 

それは、ことねの心を少しだけ軽くしたが、同時に、鋭い刃となって、胸に突き刺さった。

 

(あの時の、あたし……)

 

そうだ。あの時、あたしは、何も考えていなかった。ただ、心のままに、音に乗せていただけ。

 

でも、今はどうだ。頭で考えて、考えて、考えて、何も、出てこない。

 

「……わ、わからないです。あたしも、どうやってたのか……」

 

そう言って、力なく笑うことねの顔を見て、ひかりは、自分がことねを傷つけてしまったことに気づき、「あ、ご、ごめんなさい!」と慌てて謝った。

 

---

 

その夜、稽古で心身ともに疲れ果てたことねは、吸い寄せられるように、一人、自室の鏡の前に立っていた。

 

鏡の中の自分は、ひどく、見慣れない顔をしていた。

 

(あたしの、空っぽ……)

 

笹川に言われた言葉が、頭の中で反響する。

ナナイロの光で満たされた今の自分には、ノアの孤独は演じられない。

 

(だったら……)

 

ことねの心に、一つの、あまりにも鮮明な物語が、産声を上げた。

 

それは、誰かに教わったわけではない。彼女の表現者としての本能が、生き残るために見つけ出した、唯一の、そして、あまりにも危険な道だった。

 

彼女は、鏡の中の、疲れ果てた自分に、語りかけた。

 

『もしも』

 

「もしも、あたしが、あの居酒屋で、倒れたまま、起き上がれなかったら?」

 

「もしも、店長が、拓也さんが、あたしに声をかけてくれなかったら?」

 

「もしも、ミコさんが、あたしの歌を、ただ、笑い飛ばしていたら?」

 

「もしも、美咲さんが、静さんが、一緒にバンドを組もうなんて、言ってくれなかったら?」

 

もしも、ナナイロという光に、出会えなかったら。

 

その、あり得たかもしれない、もう一つの絶望的な物語(IF)

 

それを想像した瞬間、ナナイロの光で満たされていたはずの心に、冷たい、暗い水が、静かに、満ちていくのを感じた。

 

「……あたしは、きっと、今も、バイトを掛け持ちしてる。朝も、昼も、夜も。でも、誰も、あたしのことなんて気にしてくれない。疲れてるね、なんて、誰も言ってくれない。だって、それが、当たり前だから」

 

「ある日、あたしは、過労で倒れる。でも、あのときみたいに、店長が他のバイト先に連絡なんてしてくれない。無断欠勤。そのまま、クビになる」

 

「収入が減って、家の電気も、ガスも、止まる。お母さんにも、妹たちにも、申し訳なくて、顔が見れない。あたしが、もっと、頑張らなかったからだって、自分を責める」

 

「そんなあたしに、ダンスを踊る資格なんて、ある……?」

 

鏡の中の、もう一人の自分が、冷たく、問いかける。

 

「ない。そんな暇があるなら、新しいバイトを探せ。一円でも、稼げ。ダンスなんて、金にならない。ただの、自己満足だろ。お前が、一番、よくわかってるじゃないか」

 

そうだ。

 

好きだったはずのダンスが、憎しみの対象に変わっていく。

 

それでも、身体は、覚えてる。疲労困憊の身体に鞭打って、狭い部屋で音もなく踊る。

 

でも、そこに、喜びはない。ただ、心を無にするための、儀式。

 

魂が、すり減っていく音だけが、する。

 

「……ああ」

 

ことねの口から、乾いた、声にならない声が漏れた。

 

鏡の中の自分は、もう、笑っていなかった。

 

光のない、空っぽの瞳で、ただ、こちらを見つめている。

 

「これが、あたしの『がらんどう』……」

 

---

 

翌日の稽古。

 

笹川がノアの、最も重要な長いモノローグのシーンを、ことねに命じた。

 

アヤカの完璧な見本の直後だった。稽古場に、憐れみと好奇の視線が混じる。

 

ことねは、静かに目を閉じた。

 

そして、心の中で、あの、独りぼっちの自分の物語の、再生ボタンを押した。

 

――ステージが開演する。

 

彼女が目を開けた時、その瞳の奥の光は、完全に消えていた。

 

「……わたしは、鏡。わたしには、何もない。だから、あなたの色をください。あなたの形をください。あなたの痛みで、わたしを満たして。そうすれば、わたしは、ほんの少しだけ、ここにいても、いいような気がするから……」

 

それは、もはや演技ではなかった。

 

独りぼっちだったかもしれない自分の、痛切な魂の叫びそのものだった。

 

声はか細く、しかし、聴く者の心を直接掴んで離さない、異様なほどのリアリティを帯びている。

 

その、あまりに生々しい感情の奔流に、稽古場の空気は、完全に凍りついた。

 

「…………」

 

誰一人、声を発せない。ただ、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく耳に響く。

 

笹川は恍惚とした表情で、その姿を見つめていた。

 

(そうだ、これだ!この魂の亀裂から漏れ出す光!城崎くんの完璧な器では、この生々しい輝きは決して生まれない!これこそが、わたしの『ソナタ』だ!)

 

その一方で、ひかりは、両手で口を覆い、カタカタと震えていた。憧れの人の、あまりに壮絶な姿に、言葉を失っていた。

 

(違う…違う、こんなの、私が見たかったことねちゃんじゃない…!ライブの時の、あの太陽みたいな笑顔はどこに行ったの…?なんで、こんなに苦しそうな顔をしてるの…?これが、演技…?嘘だ…あんなの、演技なわけない…!)

 

ファンとして見ていた、光り輝くステージ上の姿と、今、目の前で魂を削っている、壊れそうな少女の姿。

 

その、あまりにも大きすぎるギャップが、彼女の心を激しく揺さぶっていた。

 

やがて、凍りついていた空気を破るように、他の劇団員たちの、ひそやかな囁きが、ざわめきとなって広がっていく。

 

「……おい、今の、なんだよ……。演技、なのか……?」

 

「……わからない。でも、息ができなかった。心臓を、直接掴まれたみたいだ……」

 

「アヤカさんのノアとは、全く違う…。どっちが、本当の『ノア』なんだ…?」

 

劇団のベテラン俳優の一人が、険しい顔で呟いた。

 

「……あれは、芝居じゃないな。あの子、何かを『降ろした』ぞ。自分の身を削って、何か別のものを…。あんなやり方、長くは続かん」

 

最も衝撃を受け、そして、誰よりも早くその危険性の本質に気づいていたのは、アヤカだった。

 

プロの役者としての、長年の経験と知識が、けたたましく警鐘を鳴らす。

 

これは違う。

 

通常の役作りとは、全く異なるアプローチだ。

 

役と自分を切り離すのではなく、自分自身を、物語の生贄に捧げている。メソッド演技にすら近い、あまりにも危険な領域。

 

稽古が終わり、呆然と立ち尽くすことねの元へ、アヤカが震える足で歩み寄った。

 

そして、その細い腕を、強く掴んだ。

 

「……あなた、今、何を考えて演じていたの」

 

その声は、いつものような、冷たい響きではなかった。

 

ことねが、虚ろな目でアヤカを見返す。まだ、役から、あのIFの物語から、完全に戻ってきていない。

 

「答えなさい。あれは、ノアの言葉じゃない。あなたの言葉でしょう」

 

アヤカは、さらに強く問い詰める。

 

「ふざけないで。あなたは役を演じているんじゃない。役に喰われているのよ」

 

彼女の言葉は熱を帯びていく。

 

それは、ことねが当然自分と同じ「プロの役者」を目指しているという前提に基づいた、先輩としての、プロとしての、真摯な、しかし、一方的な忠告だった。

 

「もし、あなたが本気でこの世界で生きていくつもりなら、そんなやり方は今すぐ捨てなさい。あなたは、自分自身を燃料にして、一度きりの輝きを放っているだけ。そんなものは表現じゃない。ただの自傷行為よ」

 

(この世界で、生きていく……?)

 

ことねは、アヤカの言葉に、恐怖とは別の、奇妙な違和感を覚えていた。

 

「いいこと? プロの役者は、自分を完璧にコントロールして、いつでも最高の演技を『再現』できなければならないの。感情に呑まれて自分を見失うのは、ただのアマチュアの感傷。そんな人間が、何十年もこの舞台に立ち続けられるわけがない」

 

(舞台に、立ち続ける……?)

 

アヤカの言葉は正論だった。だが、その正論は、ことねがここにいる目的とは、致命的にすれ違っていた。

 

あたしは、プロの役者になりたいわけじゃない。ただ、ナナイロのために、新しい表現という武器が、欲しかっただけだ。

 

「……あんなやり方……心が、壊れるわよ」

 

その瞳には、初めて、侮蔑ではない、同じ表現者として、相手の心を案じる、切実な色が宿っていた。

 

しかし、その切実な思いもまた、ことねの心には、まだ、届かない。

 

二人のアリスは、同じ鏡の森にいながら、全く違う景色を見ていた。その、致命的なすれ違いに、まだ、誰も気づいてはいなかった。

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