劇団「月蝕」の殺風景な事務所。
そこに置かれた、一台の安価な会議テーブルを挟んで、演出家・笹川カイトと、ナナイロの暫定マネージャー・橘響子は、週に一度の定例ミーティングを行っていた。
その空気は、まるで手術室のように冷たく、張り詰めている。
「――以上が、今週の藤田ことねに関する稼働報告と、契約条項の遵守状況です」
響子は手元のタブレットに表示された、ことねの睡眠時間、移動時間、食事内容までが記録されたデータを、一切の感情を排した声で読み上げる。
「心拍数の平均値、および睡眠の質に関しては、契約上の規定値をクリア。クリティカルな問題は、現時点では発生しておりません。しかし――」
響子は一度言葉を切り、グラフの一点を指でなぞった。
「唾液中のコルチゾール値、及び、週二回のリモートカウンセリングにおけるストレス指標が、契約締結時と比較して、37%上昇しています。これは、明確な心身的負荷の増大を示唆するデータです。現時点で契約違反には該当しませんが、この数値が閾値である50%を超えた場合、弊社はタレント保護の観点から、稼働の即時停止を含む、然るべき措置を講じる権利を有します」
その橘の隣には、劇団の若手女優・若月ひかりが、借りてきた猫のように小さくなって座っていた。
彼女は、快活で、少しミーハーな部分もあるが、演劇に対しては誰よりも真摯な情熱を抱いている、ごく普通の若手女優だ。
ナナイロのライブに笹川を誘った張本人であり、その功績と、ことねと同年代の役者という立場から、笹川の計らいでこのミーティングへの同席を許されていた。
だが、今、目の前で繰り広げられているプロの世界のやり取りは、彼女の想像を遥かに超えていた。
(すごい……橘さんって人、本当に、ことねちゃんのこと、全部管理してるんだ……。ストレス値まで……。これがプロのマネージャー……)
笹川はその報告を、面白そうに聞いていた。カップの中の、冷めきったコーヒーを一口すする。
「結構です、橘さん。あなたの管理能力には、心から敬意を表しますよ。実に合理的だ」
彼はふっと息を吐いた。
「ですがね、芸術とは時に、魂を燃やして、心臓が規定値を超えるほどの熱量を放って、初めて生まれるものだ。コルチゾール値が安定している役者の演技など、わたしは一秒たりとも見たいとは思わない」
「その、笹川さんの仰る『魂の燃焼』という現象ですが」
橘は少しも怯まず、眼鏡の位置をミリ単位で調整しながら、冷静に切り返す。
「ビジネスの観点から分析するに、それはタレントの精神的リソースを不可逆的に消費する、極めてハイリスクな状態と定義できます。短期的には高いパフォーマンスを発揮するかもしれませんが、中長期的には『燃え尽き症候群(バーンアウト)』へと繋がり、結果として、タレントの資産価値を著しく毀損させる。それは、この『誰かのためのソナタ』というプロジェクト全体にとって、許容できるリスクであるとお考えですか?」
「……非合理的、か」
笹川は楽しそうに喉を鳴らした。
「あなたの世界では、そうなのでしょう。だが、芸術とは、いつだって、その非合理的なリスクの側にこそ、宿るのですよ」
(うわぁ……全然、話が噛み合ってない……)
ひかりは、二人の間に流れる、静かだが、あまりに鋭利な火花に、生きた心地がしなかった。自分が憧れる芸術の世界が、いかに冷徹な論理とビジネスの上で成り立っているかを、今、肌で感じていた。
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稽古は、進めば進むほど、ことねを深い森の奥へと迷い込ませていった。
「役作り」という、プロの世界では当たり前の概念が、彼女にはどうしても理解できない。
台本を読み込み、ノアの経歴をなぞり、感情を分析し、頭で理解しようとすればするほど、身体が、声が、どんどん固くなっていく。
稽古場では、城崎アヤカの「完璧なノア」と、ことねの「ぎこちないノア」が、無慈悲に比べられた。
アヤカのノアは、まさに芸術品だった。彼女は、ノアという「がらんどう」の人間を、完璧な技術で、観客の前に構築してみせる。その声、仕草、呼吸。全てが計算され尽くし、寸分の狂いもない。
劇団員たちは、その圧倒的な技術力に、日々、感嘆のため息を漏らしていた。
「今日も完璧だったな、アヤカさんのノアは」
「ああ。あの、人格が切り替わる瞬間の、目の動き。鳥肌が立つよ」
「あれこそ、本当のプロだ。俺たちも、あれを目指さなきゃな」
そんな賞賛の声が、ことねの心を、じわじわと蝕んでいく。
彼女は日に日に口数を失い、稽古場の隅で、小さくなっていく。
「……あのっ!」
ある日の稽古の休憩中、ひかりが、意を決したように、そんなことねに駆け寄ってきた。
「私、あなたのファンなんです!ナナイロの初ワンマン、本当に、最高でした!」
その瞳は、純粋な憧憬で、キラキラと輝いていた。
「え、あ、ありがとうございます……!」
思いがけない言葉に、ことねは戸惑いながらも、久しぶりに、心からの笑みを浮かべた。
「あの時の、『the cute!!』で、泣きながら、でも、すっごく楽しそうに笑ってた顔…!あれ、どうやってるんですか!?私、どんなに頑張っても、あんな顔、できなくて…!台本に『泣きながら笑う』って書いてあっても、嘘っぽくなっちゃうんです!」
ひかりの、あまりに無邪気で、純粋な問いかけ。
それは、ことねの心を少しだけ軽くしたが、同時に、鋭い刃となって、胸に突き刺さった。
(あの時の、あたし……)
そうだ。あの時、あたしは、何も考えていなかった。ただ、心のままに、音に乗せていただけ。
でも、今はどうだ。頭で考えて、考えて、考えて、何も、出てこない。
「……わ、わからないです。あたしも、どうやってたのか……」
そう言って、力なく笑うことねの顔を見て、ひかりは、自分がことねを傷つけてしまったことに気づき、「あ、ご、ごめんなさい!」と慌てて謝った。
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その夜、稽古で心身ともに疲れ果てたことねは、吸い寄せられるように、一人、自室の鏡の前に立っていた。
鏡の中の自分は、ひどく、見慣れない顔をしていた。
(あたしの、空っぽ……)
笹川に言われた言葉が、頭の中で反響する。
ナナイロの光で満たされた今の自分には、ノアの孤独は演じられない。
(だったら……)
ことねの心に、一つの、あまりにも鮮明な物語が、産声を上げた。
それは、誰かに教わったわけではない。彼女の表現者としての本能が、生き残るために見つけ出した、唯一の、そして、あまりにも危険な道だった。
彼女は、鏡の中の、疲れ果てた自分に、語りかけた。
『もしも』
「もしも、あたしが、あの居酒屋で、倒れたまま、起き上がれなかったら?」
「もしも、店長が、拓也さんが、あたしに声をかけてくれなかったら?」
「もしも、ミコさんが、あたしの歌を、ただ、笑い飛ばしていたら?」
「もしも、美咲さんが、静さんが、一緒にバンドを組もうなんて、言ってくれなかったら?」
もしも、ナナイロという光に、出会えなかったら。
その、あり得たかもしれない、もう一つの絶望的な物語(IF)
それを想像した瞬間、ナナイロの光で満たされていたはずの心に、冷たい、暗い水が、静かに、満ちていくのを感じた。
「……あたしは、きっと、今も、バイトを掛け持ちしてる。朝も、昼も、夜も。でも、誰も、あたしのことなんて気にしてくれない。疲れてるね、なんて、誰も言ってくれない。だって、それが、当たり前だから」
「ある日、あたしは、過労で倒れる。でも、あのときみたいに、店長が他のバイト先に連絡なんてしてくれない。無断欠勤。そのまま、クビになる」
「収入が減って、家の電気も、ガスも、止まる。お母さんにも、妹たちにも、申し訳なくて、顔が見れない。あたしが、もっと、頑張らなかったからだって、自分を責める」
「そんなあたしに、ダンスを踊る資格なんて、ある……?」
鏡の中の、もう一人の自分が、冷たく、問いかける。
「ない。そんな暇があるなら、新しいバイトを探せ。一円でも、稼げ。ダンスなんて、金にならない。ただの、自己満足だろ。お前が、一番、よくわかってるじゃないか」
そうだ。
好きだったはずのダンスが、憎しみの対象に変わっていく。
それでも、身体は、覚えてる。疲労困憊の身体に鞭打って、狭い部屋で音もなく踊る。
でも、そこに、喜びはない。ただ、心を無にするための、儀式。
魂が、すり減っていく音だけが、する。
「……ああ」
ことねの口から、乾いた、声にならない声が漏れた。
鏡の中の自分は、もう、笑っていなかった。
光のない、空っぽの瞳で、ただ、こちらを見つめている。
「これが、あたしの『がらんどう』……」
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翌日の稽古。
笹川がノアの、最も重要な長いモノローグのシーンを、ことねに命じた。
アヤカの完璧な見本の直後だった。稽古場に、憐れみと好奇の視線が混じる。
ことねは、静かに目を閉じた。
そして、心の中で、あの、独りぼっちの自分の物語の、再生ボタンを押した。
――ステージが開演する。
彼女が目を開けた時、その瞳の奥の光は、完全に消えていた。
「……わたしは、鏡。わたしには、何もない。だから、あなたの色をください。あなたの形をください。あなたの痛みで、わたしを満たして。そうすれば、わたしは、ほんの少しだけ、ここにいても、いいような気がするから……」
それは、もはや演技ではなかった。
独りぼっちだったかもしれない自分の、痛切な魂の叫びそのものだった。
声はか細く、しかし、聴く者の心を直接掴んで離さない、異様なほどのリアリティを帯びている。
その、あまりに生々しい感情の奔流に、稽古場の空気は、完全に凍りついた。
「…………」
誰一人、声を発せない。ただ、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく耳に響く。
笹川は恍惚とした表情で、その姿を見つめていた。
(そうだ、これだ!この魂の亀裂から漏れ出す光!城崎くんの完璧な器では、この生々しい輝きは決して生まれない!これこそが、わたしの『ソナタ』だ!)
その一方で、ひかりは、両手で口を覆い、カタカタと震えていた。憧れの人の、あまりに壮絶な姿に、言葉を失っていた。
(違う…違う、こんなの、私が見たかったことねちゃんじゃない…!ライブの時の、あの太陽みたいな笑顔はどこに行ったの…?なんで、こんなに苦しそうな顔をしてるの…?これが、演技…?嘘だ…あんなの、演技なわけない…!)
ファンとして見ていた、光り輝くステージ上の姿と、今、目の前で魂を削っている、壊れそうな少女の姿。
その、あまりにも大きすぎるギャップが、彼女の心を激しく揺さぶっていた。
やがて、凍りついていた空気を破るように、他の劇団員たちの、ひそやかな囁きが、ざわめきとなって広がっていく。
「……おい、今の、なんだよ……。演技、なのか……?」
「……わからない。でも、息ができなかった。心臓を、直接掴まれたみたいだ……」
「アヤカさんのノアとは、全く違う…。どっちが、本当の『ノア』なんだ…?」
劇団のベテラン俳優の一人が、険しい顔で呟いた。
「……あれは、芝居じゃないな。あの子、何かを『降ろした』ぞ。自分の身を削って、何か別のものを…。あんなやり方、長くは続かん」
最も衝撃を受け、そして、誰よりも早くその危険性の本質に気づいていたのは、アヤカだった。
プロの役者としての、長年の経験と知識が、けたたましく警鐘を鳴らす。
これは違う。
通常の役作りとは、全く異なるアプローチだ。
役と自分を切り離すのではなく、自分自身を、物語の生贄に捧げている。メソッド演技にすら近い、あまりにも危険な領域。
稽古が終わり、呆然と立ち尽くすことねの元へ、アヤカが震える足で歩み寄った。
そして、その細い腕を、強く掴んだ。
「……あなた、今、何を考えて演じていたの」
その声は、いつものような、冷たい響きではなかった。
ことねが、虚ろな目でアヤカを見返す。まだ、役から、あのIFの物語から、完全に戻ってきていない。
「答えなさい。あれは、ノアの言葉じゃない。あなたの言葉でしょう」
アヤカは、さらに強く問い詰める。
「ふざけないで。あなたは役を演じているんじゃない。役に喰われているのよ」
彼女の言葉は熱を帯びていく。
それは、ことねが当然自分と同じ「プロの役者」を目指しているという前提に基づいた、先輩としての、プロとしての、真摯な、しかし、一方的な忠告だった。
「もし、あなたが本気でこの世界で生きていくつもりなら、そんなやり方は今すぐ捨てなさい。あなたは、自分自身を燃料にして、一度きりの輝きを放っているだけ。そんなものは表現じゃない。ただの自傷行為よ」
(この世界で、生きていく……?)
ことねは、アヤカの言葉に、恐怖とは別の、奇妙な違和感を覚えていた。
「いいこと? プロの役者は、自分を完璧にコントロールして、いつでも最高の演技を『再現』できなければならないの。感情に呑まれて自分を見失うのは、ただのアマチュアの感傷。そんな人間が、何十年もこの舞台に立ち続けられるわけがない」
(舞台に、立ち続ける……?)
アヤカの言葉は正論だった。だが、その正論は、ことねがここにいる目的とは、致命的にすれ違っていた。
あたしは、プロの役者になりたいわけじゃない。ただ、ナナイロのために、新しい表現という武器が、欲しかっただけだ。
「……あんなやり方……心が、壊れるわよ」
その瞳には、初めて、侮蔑ではない、同じ表現者として、相手の心を案じる、切実な色が宿っていた。
しかし、その切実な思いもまた、ことねの心には、まだ、届かない。
二人のアリスは、同じ鏡の森にいながら、全く違う景色を見ていた。その、致命的なすれ違いに、まだ、誰も気づいてはいなかった。