喧騒の居酒屋、飛び交う笑い声とジョッキの音。 ことねはいつもと同じように忙しく動き回っていた。注文を取り、皿を運び、客の軽口に適当に合わせる。仕事は慣れたものだ。だが、今夜は少し違った雰囲気が漂っていた。
「誰か、盛り上げてくれよ!パフォーマンスできる奴いないのか?」 客の一人がそう言いながら、場の熱気を煽る。ことねは他のスタッフと顔を見合わせたが、誰も動こうとはしない。
「……仕方ないなぁ」
ことねは深いため息をつき、前へと踏み出した。
**
ことねが音楽に合わせて即興のダンスを披露すると、店内の空気が一瞬で変わった。ステップは軽やかで、リズムを刻む動きにはどこかプロの片鱗が見える。笑顔を絶やさず、観客を引き込む彼女のパフォーマンスは、まるでステージのようだった。
「すげぇ!お姉さん、プロか?」 「こんな居酒屋で踊ってる場合じゃねえだろ!」
ことねは苦笑しながら答える。
「いやいや、ただのバイトですよ~!」
しかし、その場にいたある男の視線がことねに釘付けになっていた。
**
ダンスを終え、厨房へ戻ろうとした瞬間、その男がことねの前に立った。
「……君、本気でアイドルをやってみる気はないか?」
ことねは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を引き締めた。
「アイドル?それは勘弁してください。あたしはただ稼ぐために働いてるだけです。」
男は驚いたように目を瞬かせる。
「そんな動きができる子が、ただバイトして終わるのは惜しいと思うんだ。」
ことねは笑いながら頭を振る。
「いやいや、夢なんか持ってもしょうがないですよ。あたしは働いて、稼いで、それで十分なんで。」
彼女の言葉は強く、はっきりとしたものだった。しかし、胸の奥でわずかな違和感が生まれていた。
**
その夜、帰宅後にことねはスマホを開き、初星学園時代の写真をぼんやりと眺めた。 ステージに立つ同期の姿。楽しそうな笑顔。彼女たちの輝く未来。
「もし、あたしがアイドルになってたら……?」
その考えを、ことねはすぐに振り払った。
「ありえないよね。」
しかし、一度芽生えた疑問は心のどこかに残り続けていた。
**
夜風が、肌にまとわりつくように生暖かかった。
ことねは自転車を押しながら、街灯に照らされた道を歩いていた。
疲れたはずなのに、頭の奥がざわついて眠気がこない。
居酒屋での出来事が、繰り返し頭を巡っていた。
「君、本気でアイドルをやってみる気はないか?」
まるで何かのドラマみたいな一言だった。
でも、それを聞いたとき、ことねの心は少しだけ揺れた。
心の奥の、ずっとフタをしていた部分が、小さく震えた気がした。
**
家に着くと、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込む。
天井を見つめながら、ため息が漏れた。
「……今さら、何を夢見てんの。」
スマホを取り出し、画面をスワイプする手が自然とSNSへと向かう。
初星学園時代の同期たちのアカウント。
輝くステージ、ライトを浴びて踊る笑顔。
もう、手の届かない世界。
ことねは目を閉じた。思い出すのは、中学の頃の自分だ。
ステージの上で、ダンスに打ち込んでいた日々。
コンテストにも出た。練習は苦しかったけど、それ以上に楽しかった。
——でも、結果は出なかった。
上には上がいて、自分の限界を思い知らされた。
「才能がないなら、もう終わりだよな……って、あの時は思ったんだよね。」
もし、あの頃、誰かが——今回みたいに声をかけてくれていたら?
「君のダンス、いいね」って言ってくれる大人がいたら。
そしたら、自分はもっと前を向けていたのかもしれない。
「……なんで今なんだよ。」
どうして今さらそんな夢を見せるんだ。
中学のときにスカウトが来てくれてたら、あたしはもっと夢を信じられたのに。
あの頃なら、まだ傷つくことも、怖がることもなかった。
今さら夢なんか見たって、どうせまた挫折するだけだ。
それでも——なぜか、心は完全には否定できなかった。
**
ことねは体を起こし、スマホの画面を見つめ直した。
初星学園の公式サイト。学生ではなく、練習生の募集ページ。
「……見るだけ。どうせ私には無理だし。」
自分に言い訳しながら、要項に目を通す。
年齢制限は、問題なし。
必要な動画、写真、経歴——。
読めば読むほど、自分には縁がない世界に思えた。
「やっぱり、もう終わった話だよ。」
でも、本当にそうだろうか?
たしかに、今さらアイドルになるなんて現実的じゃない。3年やって無理だったんだ。
だけど——ことねには、ダンスがある。
踊ることなら、まだ体が覚えている。
ステージに立って輝くことだけが、夢じゃないはずだ。
ダンスを活かして、自分なりに表現する道だってあるんじゃないか?
**
夜が明ける頃、ことねはもう一度スマホを手に取った。
今度は動画サイトを開き、「ダンス」「振付」「パフォーマー」などのキーワードで検索を始める。
アイドルじゃなくても、ダンスを仕事にしている人たちがいた。
フリーで活動するダンサー、振付師、舞台演出——。
「……あたしにも、何かできるかもしれない。」
不安はある。でも、何もしなければ何も変わらない。
あの日感じた悔しさも、羨望も、全部抱えて、今の自分にできることを探してみたい。
それが、ことねの中で小さな決意となって灯った。