その大蛇と相対した瞬間、森の空気が急にぬるりと濁ったようだった。
木々の陰から這い出る闇を纏う巨大なモノは、窮屈そうに体をよじらせながら、4人の前へと近づいた。
這う度に地が軋み、木が悲鳴を上げるかのように、騒々しく揺れる。
夜そのものを思わせる黒光りした鱗は、夕焼けの朱を照らし返す。
明確な殺意を隠そうともしない鮮血にも似た目玉は、4人をしかと見据えていた。
赤と黒の2色に塗られた怪物を見て、本能が叫んだ―――こいつは今まで戦ってきた、どの魔物より危険だと。
次第に風が止まり、鳥は鳴かなくなって、森は沈黙した。
圧倒的な威圧感と、悪辣さを滲ませる嘲笑うみたいに大きく開いた口。
〝災厄〟という言葉では形容しがたい、理に抗うかの如し混沌の具現。
「逃げるぞッ、みんな!」
コートが報せると、大蛇は人語を理解したのだろうか。
一鳴きした大蛇の頭上に浮かぶは―――暗黒の球体。
暗黒の球体の両の端からは炎の如き光の筋が伸び、まるで大蛇の瞳を想起させた。
黒炎が揺らめくと同時に、目の前の空間が異界と錯覚するほどに歪んでいく。
その巨体は言葉で語らず、視線と行動でこう告げる。
「生きて帰さぬ」
と。
「怖気つくなよ、コート! おまえにはこの俺、ツァイツォの名サポートがついてるんだからな!」
大蛇や仲間より先に動いたのは、落ち着きのない少年ツァイツォ。
そして大蛇に向かって駆けていき、跳び、注意を引くのに徹した。
傭兵だが一切の攻撃の手段は持たず、ただ自らを囮として戦場で貢献する。
彼が軽やかに舞う度にひらり、ひらりと、蝶の翅を模した外套が揺れた。
動く物を追ってしまう習性のある人間からすれば、これほど鬱陶しい存在もいないだろう。
「きゃっー! なんでいつもこうなるのぉ!」
ヴェファはというと、当人が望むと望まざると。
肉体のどこかから飛び出した糸により、風に翻弄された彼女は空の彼方へと飛翔した。
戦場にいながら戦力としての数に入らず、大きな戦果をあげるか、まったく役に立たないか……活躍の波が激しい。
それはもはや毎度のことで、もう彼女に突っ込む気にもならなかった。
彼女自身も制御しきれぬ異能だ、仕方あるまい。
「……私も加勢します、コートさん」
ゾンネが腰の短剣を握り締め、啖呵を切った。
だが鍛えられたわけでもない彼女が中途半端に戦っても、気が散って煩わしいだけだ。
それに護衛の対象を生きて、王都まで送り届けるのが傭兵団の最優先事項。
厳しいようだが彼女には自分自身の価値を、もっと理解してもらわねば困る。
「ゾンネさまは木の陰に隠れてくださいまし、戦闘は我々が!」
これほどの敵に自分とツァイツォだけで勝てるのか……?
コートは歯噛みした。
逃げるべきか、戦うべきか。
まだどちらも選べたが、どちらに進んでも崖縁に立たされ、追い詰められた危うい状況だ。
だがツァイツォの叫び声が響き、思考を遮った。
「迷ってるヒマねえよ、コート! こいつ、俺ら全員丸呑みにする気だぜ!」
「……みたいだな! 腹を括るしかない」
コートは舌打ちし、迷いを斬り捨てて武器を構えた。
「ほらほら、黒蛇。どうよ、この外套は! ま、人様の美的感覚はおまえにゃ、わからないか? ハハッ!」
ツォイツァは愉快そうに笑い、大蛇の注意を引きつけて、細長い木々のあわいを跳ねるように駆け回った
奇抜な動作と絶妙な間合い、大蛇の動きを乱すには充分だった。
コートは大地に据えた棘の鉄球と、そして目の前で蠢く大蛇に狙いを定め
「―――今だ!」
蹴り飛ばされたそれは、風を切って唸りを上げる。
狙いはどこでもよかった。
巨体に似合わぬ俊敏さも攻撃が命中し、胴を骨折でもさせれば鳴りを潜める……はずだった。
地面を這うように飛んでいき、黒の大蛇に当たったように見えた、確かな手応えを感じた一撃。
「……?! 何故っ……!」
しかしながら、その打撃は巨躯を通り抜けていた。
捉えたと思っていた攻撃は、傷1つつけられていない。
まるで闇を何人たりとも掌握し、支配するのが叶わないように。
(今、対峙しているのはただの魔物じゃない!)
本能が絶えず警告音を鳴らし、背筋に悪寒が走る。
うっすらと感じていた恐怖は地から雲まで伸びる夜の深闇のごとく、コートの勝機や希望を暗闇で覆い隠す。
思わず後退したコートの視界の隅で、ツォイツァは諦めずに跳ね回った。
何をしているんだ、仲間は勝つ気でいるのに。
自らを鼓舞した時には、もう遅かった。
左右に移動して空を舞い、右右左、それから飛翔……これらの動作から、ある程度の規則性を察知したのだろう。
わざとらしく巨体をひねり、それを見てからツァイツォが大地を蹴って空中に体を預けた刹那―――無防備な彼を尾が薙ぎ払う。
土煙が舞い上がると常闇と相俟って、完全にこの場が闇の大蛇の独壇場だと知った。
どこだ、どこにいる……警戒したコートが周囲を見渡すと、鬼灯のような蛇(かか)の目が彼を射抜いた。
身動ぎすらできず立ちつくしていた次の瞬間、少年は地に叩きつけられる。
体にかすかな痺れを覚えつつも起き上がった彼を、獣の瞳が捉えると舌先を遊ばせる。
その所作は獲物を前にした悪党が、舌舐めずりをするようで……
悪辣な意思を汲み取ったコートは戦慄し、額から汗を垂らした。
それは、ただの獣ではなかった。
感情を持つ混沌と闇そのものだった。
ツァイツォは木に全身を強く打ち、頭から血を流していた。
ヴェファはどこかにいなくなっている。
2人は戦力として計算できない、頼れるのは自分だけだ。
魔物は他の傭兵を一瞥すらせず、宿敵に迫るようにコートへとにじりよる。
「まだだ、俺は戦える!」
己を奮い立たせたコートが再び鉄球を地面に落とすと、大蛇は再度巨躯をうねらせた。
地鳴りのような揺れに直立した少年の前には、視界を裂くほどの砂塵が散り、細長い闇の奔流が黒鎧を締め上げる。
「ぐっ……ぉぉ!」
握り潰される……!
骨に響く激痛が身体を襲い、彼は言葉にならない悲鳴をもらした。
ふと大蛇と視線が合うと、大きく口を開いて、少年の醜態を嘲った。
これは殺すための攻撃ではなく―――徹底的に玩び、苦しめるための責め苦。
「ゾンネさま、早く……」
死力を振り絞って彼は叫んだ、これ以上は体力も理性も持たない。
ゾンネはその呼びかけに応じず、闇に呑まれかけた日を眺めて踊りを始めた。
何をしているんだ、状況がわかっているのか?
苛立ちを募らせた少年がさらに激しく、叱責してやろうかと彼女を睨むと、空気が変わったのを肌で感じた。
少女の穏やかで、一切の迷いも、淀みもない、過去に幾度となく繰り返したであろう、優雅な舞踏。
神聖で、祝祭のようなその踊りは、天への祈りだった。
彼女の静寂なる演舞が一転、激しさを帯びていくと―――少年は背中が灼けつくような激痛に見舞われた。
「……がッ!」
肉体の深部を焼く、強大なる力。
なんだ、これは……少年の頭を疑問符が埋め尽くす。
かつてない体験に少年は、この踊りが窮地を脱する光か。
はたまた自らをも焦がす熱か。
……それさえも定かではなかった。