あなたのこと、好きだよ。そう言った次の日、彼女は死んだ。 作:ルヴレ
目が、離せなくなった。彼女の本の小さな手の動きからも、小さな発言からも。何もかも目が離せなくて、笑われるたびに嬉しくなって。
今思えば、きっとこれは、彼女に恋をしたのだ。
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「あおー、ちょっとどうしたの? 珍しくぼーっとして」
「────あ? え……。いや、何がって。え?」
私は、周りを見回した。
蝉の声が、耳を塞ごうとも意味がないほどに、鳴り響いている。空は、これ以上とない快晴。夏の強い日差しが痛く、風は湿っぽく暑い。
「ねぇ、今日って、天気予報だと雨だったよね」
「え? あお、何言ってんの? 今日は晴れ予報じゃん。ほんと最悪だよねー。ちょっとくらい曇ってくんないかなー」
私は、隣にいる友人に、試しに聞いてみる。けれど、返ってくる返答は、私の記憶と反していた。
私は、急いでスマートフォンをポケットから取り出そうとする。けれど、ポケットにスマホがない。さっきまで、ポケットにあったはずだと言うのに。
必死に探している私に、友人は困惑した様子で聞く。
「ほんとどうしたの? やっぱおかしいよ」
「……悪いけどさ、今日って何日? てか、何曜日?」
「え? 今日は六月三十日でしょ? で、金曜日。明日からお休みだし、早く帰ろーよ」
「は?」
私は思わず聞き返した。
心臓が意味もわからないのに、警報のようにバクバクと鳴り響く。
私の記憶は、日曜日で止まっている。けれど、今は金曜日らしい。友人が勘違いしているとも思ったが、帰宅部の私が制服を着ているのだ。少なくとも、平日であることに違いはない。もしかして、一時的な記憶を無くしてるのか?
でも、そうだとしたら、おかしいことがある。私は確かに、七月になったことで、夏休みを楽しみに思った覚えがあるのだ。けれど、今は六月。七月になるには、あと二日必要。
もしかして、私はタイムリープしているのではないか。そんな非現実的な考えが脳裏に浮かぶ。私は、予想を確信に変えるため、一つ質問をした。
「しづってさ、生きてるよね」
「しづ? 誰だっけ? ……あー、もしかして、海上さんのこと? 生きてるに決まってんじゃん。死んでたらそもそも、うちらに学校から連絡来てるでしょ」
「そう……だよね。うん、変なこと聞いてごめん」
私は、一つ重大なことを覚えている。
それは、海上しづが、死ぬ、と言うこと。
海上しづは、同級生だ。一応、私の隣の席の女の子で、ほんの少しだけ話したこともある。大人しくて、生真面目で、結構優しそうな女の子。多分、優しすぎて、損をしてそうなくらいに、人に気を使う子だ。
私が知っていたのは、このくらいの情報だけだった。ただし、土曜日までは、と言う枕詞が付くが。
彼女が死ぬ1日前。彼女は、突然私の家のポストに手紙を入れて、呼び出してきた。そして、不思議に思いながら彼女が指定した場所へ行くと、いきなり、こう言われたのだ。
「あおのことが、好きだよ」
私は、驚きのあまり、答えを返せなかった。呆然として固まった私に小さく微笑んで、彼女は私に背を向けた。そして、私の返事すら待たずに、一人で来た道を戻っていったのだ。
その次の日、彼女は死んだ。死因は不明。分かっているのは、日曜日の朝早くに死体が発見されたことだけ。
私は、その日に何をしていたかを覚えていない。大したこともしていなかったし、海上しづの死を、そこまで重く受け止めてもいなかった。覚えていることと言ったら、ベッドの中でスマホを見ていて、12時になったのを眺めていたら、ふと意識が切れたことだけ。
そして、気づいたら、今の六月三十日にいて、友人と話をしていた……というわけだ。
今、海上しづが生きているということは、やはり私はタイムリープしたのだろう。
私にとって、これは好機だった。海上しづは、私に告白した翌日に亡くなった。学校からは、他殺であると連絡が来たが、果たしてそれは本当なのだろうか。
私が返事を返せなかったから、死んだのではないか。日曜日は、そんな憶測が常に頭の中にあった。
そんな中、やり直せる機会が訪れた。それなら、やることはひとつだった。
どうせ、三日前に戻ったところで、暇なのだから、彼女を助けない手はない。
「ごめん、ちょっと私用事思い出した。先帰ってて」
「は? え、ちょ……あお! 何? 海上さんに会いに行くつもり!? やめときなよ! あお、海上さんの家知らないでしょ……」
私は、必死に止めてくる友人を置き去りにして、学校へ走りながら戻った。久しぶりに全力で走るせいで、すぐに息が上がる。今は夏だから、全身が火に包まれたように暑くなった。
今の距離だと、高校までは、五分もかからない。けれど、海上しづが既に家に帰っている可能性も、なくはない。これは、賭けだった。
そして、校門前まで走ったところ、海上しづの後ろ姿を偶然見かけた。
私は荒くなった息を整えながら、なんとか海上しづに話しかける。
「はぁ……はぁ……。あの、う、海が……みさん。ちょっと……まって……」
「え? あ、あおちゃん!? ど、どうしたの?」
「いや……うみがみさんと……土曜に……遊びた……」
「落ち着いて! 落ち着いてからでいいから!」
海上さんに諭され、私は一度言葉を止めた。どうやら、海上さんは、私を待ってくれるらしい。私なら、そっと用事でもこじつけて逃げるに決まっているのに、海上さんは優しい。
そう思ったが、心配そうにこちらを見る海上さんの目に、甘い目線が混ざっているのを見て、どきりとした。
そうだ、海上さんは、なぜか私が好きらしいのだった。嘘かと思ったが、この砂糖を吐きそうなくらいに甘い目で見つめてくる様子を見るに、本当なのだろう。どうして今まで、気づけなかったのだろうか。ここまであからさまなのに。
「……ふぅ。待っててくれてありがと。ところで、明日って空いてたりする?」
「え? 空いているけど……どうして?」
「いや、なんか海上さんと遊びたい気分でさ。ダメ?」
「そ、そんなことない! そんなことないわ! 遊びましょう! 私もあおちゃんと遊びたい!」
海上さんは、激しく首を横に振った。ものすごい勢いだ。どれだけ私と遊びたいのだろうか。
よく考えてみたら、好きな人から突然遊びに誘われるなんて、遊びたいに決まってるか。まぁ、私は好きな人が一人もできたことがないのだが。
私は、必死な海上さんの様子をみて、内心で納得する。
私は汗をハンカチで拭ってから、海上さんにそっと手を差し出した。
「──ん」
「え? な、何の手?」
「手、繋ご? 潔癖症とかなら無理しなくていいから」
「……い、いいの?」
「いいって言ってるじゃん」
海上さんは、遠慮がちに私の手を握った。海上さんの手は、華奢で枝のように細かった。力を入れたら壊してしまいそうで、ほんの少しドキドキする。けれど、何よりも、海上さんの手は、冷たかった。夏とは思えないくらいに、氷のような温度を持っている。
私は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
海上さんがもし、誘拐とかで死ぬんだったら、私が引っ張って逃がせるかな、なんて思って手を繋いでみたけれど、海上さんの手が冷たいお陰でほてっている体が冷やされた。
「冷たいね。手」
「そうかな。あ、さっきまで冷房で体が冷えてたからかも。職員室って、妙に冷えてるから」
「あ、職員室にいたんだ。それなら、冷たいのも納得かも」
「あと、私もともと冷え性だから、夏でも普通の人よりは体温が低いのもあると思う」
少し照れた様子で、海上さんが話す。私の目をまっすぐ見れないのか、少し私の顔から目が逸れている。頰は、手が冷たいにも関わらず、ほんの少し赤い。たぶん、私と触れているせいだろう。
「そういえば、海上さんって、家どこなの?」
当たり障りない話題を口にすれば、海上さんは、少し考えるように目を上のほうへやって、それからようやく口を開いた。
「えっと……南禅の方っていえばわかる?」
「あー、そこら辺か。私もそこらへんだし、一緒に帰ろ」
「も、もちろん!」
海上さんは、頬を赤らめながら、心から嬉しそうに頷いた。
海上さんを遊びに誘ったのはいいものの、どこに行くかを決めていない。海上さんとは、連絡先すら交換していないくらいの仲だから、今のうちに話し合っておくべきだろう。そう思って、一緒に帰ろうと誘ったのだが、海上さんは理解していないようだ。
「海上さんってさ、どこに行きたいとかある?」
「え? どこって……うーん。特にないけど」
一番困る返答が返ってきた。
まぁ、それもそうだろう。誘ったのは、私なのだ。いきなり誘われた海上さんに、行きたい場所なんてあるわけがない。
けれど、私も行きたい場所なんてあるわけがない。遊ぼう、と言ったのは、海上さんの死を止めるための口実だからだ。
学校から連絡が入ったのは、日曜日。ということは、恐らく土曜日か日曜日に、海上さんが死んだはずだ。それなら、その日海上さんと一緒に過ごしたら、運命を変えられるんじゃないか。そんな、単純な発想で、私は海上さんを誘った。
私は行きたい場所を、なんとか考えようとする。けれど、この暑い時期に、わざわざ屋外に行きたいとはどうしても思えない。私が悩んでいるのを見兼ねてか、海上さんは、控えめに意見を出した。
「あ、でもあおちゃんが他に行きたい場所がないなら、海に行きたいかも」
「確かに、せっかく夏なんだし、海に行くのもありだね。泳いだりする?」
「……私、泳ぐのは苦手だから、浅いとこだけしか行けないかもだけど、せっかくだから、泳ごう?」
「それもそうだな。私、浮き輪とか持ってるし、持ってくるよ」
海ならば、まだ涼しくてありかもしれない。そう思った私は、海上さんの意見に賛同する。
二人で家に着くまで、軽く話し込んでいると、あっという間に海上さんの家がある駅にたどり着いた。
「南禅、南禅です」
車掌の声と共に、カラスの声がこだまする。海上さんは、席を立ち上がって、私に笑いかけながら軽く手を振った。
「あ、私の家この駅だから、もう行くね。またあした」
「ちょっと待って」
一人で電車を降りようとする海上さんを、私は呼び止める。海上さんは、特に呼び止められる理由が思いつかなかったのか、小さく首を横に傾げた。
「私も家の前までついて行っていいかな。せっかくだから、海上さんの家が知りたいと思って」
「え? いいけど、見ての通りド田舎だよ? 面白いものなんてないけど」
「ただ海上さんの家が見たいだけなんだ。それ以上は求めてないから、問題はない」
もし、海上さんに何かあれば、すぐにでも駆けつけられるように。私は、海上さんの家の場所を把握しておく必要があると、考えた。そのために、海上さんの家の前まで、ついて行くつもりだ。
海上さんが、困った顔で頷きかけると、電車のドアが、出発のために、閉じかける。私たちは、慌てて電車から外に出た。外に出た途端、夏のむわんとした熱気に包まれる。
海上さんの住んでいる場所は、本人も言う通りのど田舎だった。ほとんど、山と小さな一軒家しか見当たらない。駅も当然ながら、無人駅だ。
改札を通り抜けると、ポツンポツンと何軒か家が点在していた。そのうちの一件から、煙のようなものが出ている。しかも、変な匂いがした。私は、思わず眉間に皺を寄せる。
「あの家、火事でも起きてるの? 変な煙出てるけど」
「あー……。あそこは、私の近所の西田さんの家だよ。時々趣味で、焚き火でもしてるみたいで、いつもあんな感じ。西田さんは……なんと言うか、危険、だから。あんまり近づかないほうがいいと思う」
「危険? それは、迷惑だからって意味? それとも、彼の人格に大きな問題があるってこと?」
「えっと……性格がちょっと、その、よくないかも? だから、なるべく話しかけないで」
優しい海上さんがそう言うなんて、よほど性格が良くないのだろう。私は、西田に近づかないことを心に決める。と言っても、おそらくここにくることは、これからないかもしれないが。
そんな話をしながら、海上さんの家まで歩いていると、誰かに声をかけられた。
「君、ここら辺で見ない顔だね。……なんでこんなところにきたのか?」
声をかけてきたのは、中年の男だった。目つきが見たことないほどに、悪い人だが、それ以外には特に特徴はないような人だ。
「え? 見たらわかると思うけど、って……何」
私が海上さんの同級生だ、と説明しようとしたら、海上さんに制服の袖を引っ張られる。
海上さんは、長い黒髪を振り回しながら、首を無言で横に振っている。本当のことを言うな、と言う意味だろうか。
もしや、この人がさっき話していた、西田? そう思い当たり、海上さんをちらりと見る。すると、海上さんは、私の考えていることがわかったのか、控えめに首を縦に振った。
「ただの、観光客だけど。ここら辺に心霊スポットがあるって聞いたから来たんです。どこにあるか知ってます? 迷っちゃって」
「ああ……心霊スポットを見にきたのか。それなら、ここをまっすぐ行けば、着くよ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
私が適当に礼を言って、早足で立ち去ると、海上さんは、安心したように小さく息をついた。
海上さんの顔色が、悪い。よほど、あの男が嫌いなのだろう。私には、普通のおじさんにしか見えなかったのだが、人とは顔だけで判断できるものではない。
「あのくらいの話でも止めてくるなんて、よっぽどなんだね。海上さん、あの人に何かされたの?」
「うん、まぁ、ちょっとだけ。でも、心配はしなくていいから」
「そう? 私にはちょっとなんてレベルじゃないくらい、怖がっているように見えたけど。それも気のせいってわけ。別に海上さんがなんとも思わないならいいけど」
「だ、大丈夫。大袈裟だよ」
海上さんは、眉を下げながら、ふるふると首を緩く横に振る。私は、呆れて小さく息をつく。お人よしにも程がある。この感じだと、あの人に何か嫌なことを言われたに決まってる。
ただ、私が何かできるかと言うと、残念なことに、そうではない。私にできることは、海上さんの命を救うことだけ。本当に、それだけだ。
私が軽く手を握りしめながら歩いていたら、ふと海上さんが家の前で、足を止めた。小さくて、古そうな家だ。もしかして、ここが海上さんの家なのだろうか。
「あおちゃん、その、ここが私の家だよ。今、家の中汚いと思うから……中には入れれないけど。暑いのにごめん」
「謝ることはない。謝るべきは、私の方だよ。突然押しかけてきたんだから、文句を言える立場ではない。なんなら、海上さんが文句を言える立場だと思うけど」
「ふふ……」
私がそう言ってみせると、海上さんは、小さく笑った。何が面白いことを言っただろうか。私は、特に思い当たる節がなく、「何?」と聞いてみた。
「あおちゃんって、無表情だし、ちょっと無愛想なのに、結構気を遣ってくれるよね」
「何? 喧嘩売ってるわけ」
「そんなことはないよ。ただ、優しくて、嬉しかったから、つい笑っちゃったの」
「海上さんに言われると、嫌味にしか聞こえないが」
「それって、私を優しい人って思ってくれてるの? ────嬉しい」
海上さんは、ほんの少し地面の方に、視線を動かした。その頰が熟れたリンゴのように赤いのは、きっと夏の暑さのせいではないのだろう。上目遣いで、身長がやや高い私を見つめる海上さんの目は、やはり砂糖のように甘い。
その目で見られると、なんだかくすぐったく感じる。私は、無意識に海上さんの目から、目線を逸らした。
「私、帰るから。またあした」
「うん。また明日ね。楽しみにしてる」
「──そ」
私は、小さく手を振る海上さんに、軽く手を振りかえして、海上さんの家に、背を向けた。
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次の日は、猛暑日だった。まだ七月に入ってすらいないのに、その暑さと言ったら、七月中旬のそれと等しい。
普段だったら、顔を顰めて冷房を強くするだろうが、今回ばかりは違う。海に行くなら、このくらい暑いのが、ちょうど良いだろうと、逆に上機嫌だ。
朝早くから、空気の抜けた浮き輪などが入ったバッグを背負い、集合場所の駅まで向かう。私の住んでいる県には、海がなかった。だから必然的に、隣の県まで移動する必要がある。
集合場所にしていた駅に着くと、朝なせいか、はたまた田舎なせいか、人はほとんど居らず、そのおかげで海上さんのいる場所がすぐに分かった。長い黒髪が、少し出ている太陽に照らされ、輝いている。
私が近づけば、海上さんは、すぐに私に気づいた。そして、とろけそうなくらいに優しい笑顔で、言う。
「あおちゃん、おはよう」
「ん、海上さん。おはよ」
私は、軽く片手を上げて、挨拶を返す。
そのついでに、手の甲で額に流れる汗を軽く拭った。そんな私の仕草一つにも、海上さんは目を離さない。私は恋なんてしたことはないからよくわからないけど、好きな人からは目が離せなくなるのは、本当なのだろう。なんだかそこまでじっとみられると、少し照れる。
私がやり返しだとばかりに、海上さんをじっと見れば、案の定海上さんは目を逸らした。そして、ついでに何かを思いついたのか、口を開く。
「あの、その、あおちゃん。私のことは、しづって呼んでくれないかな。苗字で呼ばれるの、ちょっと違和感があって」
「苗字嫌いなの? 海上ってカッコいいと思うけど」
「嫌いというか──思い入れがないというか。でも、名前の方が気に入ってるから。あおちゃんにはしづって呼んで欲しいの」
「そ。それなら遠慮なく、しづって呼ぶよ」
私はそれらしく頷いたが、やはりせっかくそれなりにかっこいい苗字だけに、もったいないとも思う。
彼女がそれでいいなら、異論はないが。
「……あ、え、う、うん」
「挙動不審になったがどうしたんだ。しづ」
「……う」
しづは、あちらこちらに目を動かしながら、ぎこちなく頷く。突然の挙動不審だ。
問い詰めてみるが、余計に挙動不審になるばかり。私がしたことといえば、ただしづの名前を呼んだくらいだが……そこまで考えて、ようやく気づく。
もしかして、名前を呼んだせいで、照れている? そうだとしたら、名前を呼ばれるくらいで、ここまで照れられるのも困る。どうしたものか、と考えてみる。
「しづ」
「……う」
「しづ」
「な、何?」
「しづ」
「ほ、本当になんなの?」
何度も名前を呼んでみせたら、照れていたしづの顔も、どんどん困惑に変わっていく。私は面白くて、つい小さく吹き出した。
そんな私を見て、しばらくしづは呆然としていたが、私が揶揄っていたことに気づいたらしい。柔らかな頰をぷくっと膨らませた。
「わ、私のこと、揶揄ってるでしょ!」
「……はは……ふふ。そこまで照れられると、面白くて、つい」
私が小さく笑えば、しづが未確認生物を見るような目で私を見てきたので、今度は私が不機嫌になる。
「何? その目」
「いや……あおちゃんも笑うんだなーって」
「はぁ、昨日も似たことを言ってたけど、しづは、私のことをなんだと思ってるの?」
「えっと……完璧な彫刻?」
「なんだ、それ」
意味がわからない。私は、呆れてものも言えなかった。多分、私の表情が変わらないのと、私の顔が綺麗だからだろうけれど。自分の顔がいいのは、我ながら自覚していた。私の顔だけを見て、私に告白してきた人も、少なくはない。
しづも、私の顔を見て、好きになったのだろうか。そう考えると、なんだか寂しい気もした。でも、そうとしか考えられない。私の性格は、お世辞にも万人受けするものではないからだ。大して優しくもなく、それどころかそっけなく、無愛想で無関心で、冷たい。
そんな私の性格を好きな人なんて、いるわけがない。私は、期待してしまう気持ちを掻き消すように、ペットボトルを鞄から取り出して、中身を一気に取り込んだ。
「あおちゃん、見て。こっち海だよ!」
私が水を飲み終えたら、しづがぴょこんとジャンプでもしそうなくらいのテンションで、海を指差した。
私は横目で海を見て、無言で頷いた。口の中にまだ、水が入っているせいで話せない。水を一息で飲み込んで、ようやく話せるようになる。
「……ん、そうだね。さっさと着替えに行って、泳ごう」
そうして、私たちは、海で泳ぐため、着替えることにした。そう、したのだが。
しづは、着替え終えた私の体をじっと見て、突如ポツンと呟いた。
「……平面だ」
「おい、うるさい。何か文句でもあるわけ」
一応悪態を吐くが、自分でも分かっている。しづが呟くのも、仕方がないことだということを。
あまりにも、スタイルの差がすごいのだ。私は少しの盛り上がりもない自分の体と、女の子らしいしづの体を見比べ、ため息をついた。私は女子らしいというよりも、率直に言えば、ゴツい。筋トレが趣味なせいなのと、骨格が太いせいだ。
「ふふ……でも、カッコよくて、私は好きだな」
「はいはい、お世辞はいいから。早く泳ごうよ」
しづがふわふわと微笑みながら、称賛してくる。褒められるのは、慣れていない。私は、そっと話を逸らした。しづは、それに気づいているのか、いないのか、楽しそうに笑っている。
私は、浮き輪に空気を入れながら、小さな息をついた。ここで、素直にありがとうと言える人間になりたいものだ。せっかく気を遣ってくれたというのに、申し訳ないことをしてしまった。
そのお詫びをするように、私は空気を入れ終えた浮き輪を、しづに押し付けた。
「浮き輪。空気入れたから、使って。泳げないんでしょ」
「あ、浅いところなら、ちょっとは泳げるもん。でも、海で泳ぐとなると、溺れそうで怖いし助かるよ。持ってきてくれて、ありがとう」
「それを泳げないって言うんじゃない?」
「泳げないと、泳ぐのが苦手は違うの!」
「あー、ごめんごめん」
むすっと言う音が聞こえてきそうなくらい、しづは分かりやすく頬を膨らませて拗ねた。
泳げる私にはわからないが、どうやら泳げないことにコンプレックスを抱いているようだ。私は、適当に謝りながら、そっと砂浜に足を運ぶ。
ざらりとした砂が、足にまとわりつく。大きく息を吸えば、海の潮の匂いが、鼻を刺激した。
まだ六月ではあるが、夏が来たことを強く実感する。
そして、こんな清々しい日の一日後。今、目の前にいる海上しづは、死んだ。
そう考えると、目の前にしづがいて、一緒に海に来ていることが、奇跡のことのように感じる。そもそも、タイムリープしたことが、奇跡だけれど。
「あおちゃん。どうしたの?」
「いや……なんでもない。ぼーっとしてただけ」
考え込んでいると、しづが心配そうに、私の顔を覗き込んできた。ぼーっとするなんて、らしくない。私は、ぼんやりとする頭を冷やすように、海水に足先をつける。
今日が猛暑日なおかげで、ひんやりとした水が、気持ちいい。足先が冷えた途端、思考も徐々にクリアになっていく。
そのまま、膝、背中、肩……と徐々に体を沈ませて、そして海面に背を向けて浮かんだ。その一連の動きを見て、しづは感心するような息をついた。
「背泳ぎできるんだ。すごいなぁ」
「そんなに難しくない。慣れればしづでもできるよ」
「そ、そうなの?」
「うん。どうせなら教えるけど、やる?」
浮き輪の浮力で海面にぷかぷかと浮かんでいるしづは、難しい顔をして、下を向いた。やってみたい気持ちもあるが、怖い気持ちもあるのだろう。
だが、決意を固めたらしい。拳を固めて、上を向いてきた。彼女の、まっすぐな瞳と、視線が絡み合う。
「背泳ぎ、やってみたいかも!」
「分かった。じゃあ、一旦やってみて」
「い、いきなり?」
「どのくらい泳げるか、把握しておかないと、教えられないだろ」
私が、そう言えば、しづは納得して恐る恐る海面に背を向けた。しかし、水が怖いのか、力が入っている。浮かぼうと考えるほど、力んでしまうのだろう。
私は、しづが沈まないように、しづの体をそっと持ち上げた。
「力、入りすぎ。別に、浮かぼうなんて思わなくていい。ただ、空を見てるだけでいいから」
「う、うん」
私のアドバイス通りにこなそうとしていることは伝わってくるが、恐怖というものは、簡単に打ち消せない。やはり、しづの体は沈み込んでしまう。
しづは、何度も沈みかけた恐怖からか、小さく小動物のように震えていた。それを見かけて、私はひとつ提案をする。
「……怖いなら、辞めてもいいけど」
「ううん、私、背泳ぎしてみたいの。運動苦手なのが、コンプレックスだったから、ちょっとでもチャレンジしたくて」
「ふぅん、じゃ、このまま教えるよ」
しづの決意は固いようだった。それなら、特に私から言うことはない。
私は、数時間ほど、しづに背泳ぎを教え続けた。結局、しづは泳げるようにならなかったけれど、最後にはなぜか満足げな顔をしていた。もう少し、しづは泳ぎたそうだったけれど、長い間海にいたせいで、私がもうクタクタだ。これ以上泳げそうになかった。
「疲れたし、そろそろご飯食べよ」
「ふぅ、それもそうだね」
しづは、滴り落ちる水滴を、タオルで拭いながら、頷く。この辺りには、コンビニがあったし、そこで適当に買えばいいだろう。そう思っての提案だったが、思っていたよりも、しづは考えて来ていたらしい。しづは、カバンから、お弁当箱を取り出した。見る感じ、二人分あるようだ。
「私、お弁当作って来たから、一緒に食べない?」
「……いいの?」
「うん。その、あ、あおちゃんに食べてほしくて」
ほんのり色づいた頰を、なぜか一瞬頬張りたいと思った。私は、邪な心を打ち消すために、軽く首を横に振る。好きな人のために、弁当を作ってくる……まるで、少女漫画だ。私は、しづが差し出して来た弁当を、頬張りながら思う。私の好きな卵焼きは、私の作るものと反して、甘かった。けれど、これがまた美味しい。しょっぱい派だった私が、甘い派に転換してしまいそうだ。
「美味しい。しづって、料理得意なんだ」
「あ……うん。小さい時から、一人でご飯作ってるから」
「ん? お母さんは、忙しかったってこと」
「あ、い、いや。そうじゃなくて……」
しづは、後ろめたそうに、目を逸らした。どこか、目が寂しそうな気がする。何か様子が変だ。私は眉を顰めて、しづに問い続ける。
もしかして、しづが死んだのって、家庭に根本的な問題があるんじゃないか。ふと、そんな考えが思いつく。一度気になってしまったら、聞かない選択肢は私の中に存在していなかった。
「そうじゃないなら、なんなわけ。しづのお母さんってさ、もしかして……」
「──あおちゃんが何を考えてるのかは、だいたいわかる。でも、虐待ではないし、お母さんは、何も悪くないから。大丈夫だよ」
しづは、ふんわりと困ったように笑った。少し、踏み込み過ぎてしまったかもしれない。しづとの間に、小さな壁が出来てしまった気がした。
私は、これ以上何も言えず、無言でしづの作った弁当を食べ進める。しづの作った弁当は、丁寧に作られていて、しづの生真面目で几帳面な性格を、よく表していた。
おかずをある程度食べて、次はサンドイッチに齧り付く。けれど、私はこういうものを食べるのが苦手だ。トマトやらマヨネーズやらがパンの端から飛び出して、ビチャリと手を汚す。私は顔を顰めて、鞄からティッシュを取りだして軽く拭いた。
そんなことをしていたら、ふと横から視線を感じて、私は目を横にやった。
「……何」
「あおちゃんって、意外に食べるのが、下手なんだなぁ」
笑いにも似たその声に、私はパチパチと目を瞬かせる。
どうやら、なぜか私の食べる姿がツボにハマったらしい。肩を震わせて、くすくすと笑っていた。
今にも笑い転げそうな、そんな様子に、私はツボがよくわからずに、無表情で不器用にサンドイッチを食べ続けた。
「……ん。おいしかった。ご馳走さま」
「え、もう食べたの!? あおちゃん、食べるの早いね」
「そう? しづが遅いだけだと思うけど。ま、私は遅くても気にしないから。自分のペースで食べて」
十分もしないうちに、私はサンドイッチを食べ終えた。それに対してしづは、まだ半分以上残っている。少食なのだろうか。ひとくちが小さくて、まるで小動物みたいだ。
弁当を食べているしづを眺めていたら、首筋に虫刺されの赤い跡が付いているのに気づいた。最近、蚊も増えている。このまま放置して、炎症したら面倒だろう。そう思って、鞄から虫刺され用の薬を取り出した。
「しづ。蚊に刺されてるから、薬塗っとくね」
「え、あ、う、うん。いいの? ありがとう」
私は、しづの首筋に手を添えて、薬を塗った。海水浴をしたせいか、しづの体はひんやりとしている。海から出て、何分も経ったというのに、まだ温まっていないようだ。本人が、冷えやすいと言っていたから、そのせいなのだろうけれど。
私は、そっとしづにタオルを掛けて、体を温めようとした。あまり変わらないだろうが、無いよりはマシだろう。
そこまで終えたが、他にやることは思いつかなかった。しづの様子からして、食べ終えるにはあと何十分もかかりそうだ。暇つぶしに、何か出来ないだろうか。そう思ったところで、偶然海岸に目が行く。
ひとりでこの辺りを散歩してみるのも、いいかもしれない。
「食べ終えるまで、私散歩してるから。食べ終わったら、連絡して」
「で、でも……。いや、うん。わかった」
しづが、何か言いたそうにしていた気もするが、私は大して気にせず、しづの隣から、離れる。
そしてしばらく、人が少なそうなところに出るところに着くまで、歩き続けることにした。意外にも、少し歩いただけで、人がどんどんと少なくなった。やがて、人が全く居なくなった頃、ようやく足を止める。
その辺にあった流木に腰を下ろし、ぼんやりと波を立てながら太陽の光を受けて輝く、海を見つめた。
太陽は早くも傾き始めている。ふと、腕時計を見てみれば、午後四時過ぎを指していた。どうやら、背泳ぎに熱中し過ぎていたらしいと、今更ながら気づく。
「ん? ドラム缶だ。海から流れて来たのかな」
流木の近くに、ドラム缶が落ちていることに、私はようやく気づく。ドラム缶が落ちていることなんて、本当にあるんだ、と私は興味本位でそのドラム缶に近づいた。
なぜか、そのドラム缶は黒っぽかった。まるで……炭で焼かれたような、そんな色。だれか、ドラム缶風呂でもしたのだろうか。そうとしか思えない色をしている。
「……中になんか入ってるかな」
私は、ドラム缶の中身を覗こうと、しゃがんだ。けれど、しゃがんだ途端に、冷たい手が突然頰に触れて来た。私は驚いて動きを止める。
「あおちゃん、こんなところに居たんだね」
「……ああ、しづか。いちいちこんなところに来なくてもよかったのに」
「私も散歩したくなっちゃって」
目尻を下げたしづは、私の頬から手を離した。私は、その場からそっと立ち上がって、流木に座り込んだ。
しづも、拳ひとつ分くらい空いたところに、座ってくる。その位置を、もどかしく思った。私に近づきたいのか、普通の友達よりは距離が近い。けれど、恋人の距離かと問われたら、そこまでではなくて。
「……しづは、さ」
私は、拳ひとつ分くらい開いていた距離を、勢いよく詰めた。しづは、目をぱちぱちと瞬かせている。
「私のこと、好きでしょ」
気づいたら、私はそう口にしていた。
しづは、顔を赤くさせることもなく、恥ずかしげにすることもなく、ただただ穏やかに笑った。
「うん、好きだよ」
しづは、正直に答えた。なんでわかったの、と聞いてくることはなかった。私が聞いて来たことを、意外に思う様子もなかった。ただ、まっすぐな目で、私のことを愛おしげに見つめてくるだけだった。
「なんで。私になんか好きになる要素なんてあった? 性格も冷たいし、そっけないし、しづにしてあげたことなんて、何もないけど」
「あなたなんか、じゃない。あなただからだよ。そんなに自分を卑下することは、言わないで」
タイムリープする前、しづは私に告白した。そして、好きになった理由すらも告げずに、亡くなった。
私はしづの死が学校から知らされたときから、私はずっと考えていた。自分にしづが恋をする要素なんて、あったかと。けれど、いくら考えても、たどり着くのは顔がいい、くらいだけで、他に好きになる要素なんてなくて。
自己満足だけど、聞きたかった。しづが、私のことを好きになった、理由を。
「私ね、あおちゃんの不器用な優しさが、好きだよ。そっけなく見えて、さりげなく気遣ってくれるところも好き。それにね、あおちゃんは私を変えてくれたから。自覚はなかったかもしれないし、忘れてるかもしれない。でも、あおちゃんの何気ないひとことで、私は救われたの」
しづは、心から私のことが好き、だと言わんばかりの甘い瞳で、そう言い切った。
しづが言い終えた途端に、嬉しさと共に、罪悪感が心の中を埋め尽くす。しづはこんなにもまっすぐ、私のことを好きでいてくれているのに、私は、しづを恋愛的な目で見れない。
「私、しづのことは嫌いじゃない。でも、恋愛対象として見れるかって言われたら、見れないな。……ごめん」
「謝らないで。私、両思いになりたいとかは、考えてないから。ただ、勝手に私があおちゃんのことが好きなだけ。気持ち悪いよね、勝手に好きになられて」
しづは、寂しそうに笑った。割り切ろうとしているけど、どこか割り切れてない、そんな笑顔だった。そんな笑顔を見せられたら、何も言わないわけにはいかなかった。
「……私、嬉しかったよ。普通はさ、体が拒否反応を示す、とか困る、とかそんなんだろうけど。しづに好きって言われて、なんかわからないけど、嬉しかった」
あの日。しづが死ぬ一日前。しづに告白されて、私の感情を埋め尽くしたのは、歓喜だった。さっき、また好きだと言われた時も、私の気持ちは変わらなかった。満たされたような、そんな気持ちになる。これまで、男子には何度も告白されたのに、その度に湧き上がってくるのは、ただただ嫌悪感でしかなかった。
なぜ、しづだけ違うのか。この感情をなんと呼ぶのか、私にはまだわからない。嬉しい、と感情に名をつけてみても、しっくり来ないのだ。
けれど、マイナスの感情を抱いていないのは、確かなことだった。
しづは、私の顔を見て、一瞬だけ目を大きくさせて、それから、泣きそうな顔で笑った。
「よかったぁ」
心から安心した声だった。
私も、しづのその顔を見て、安心する。なぜか、しづの傷ついた顔を見るのは、本当にもやもやした気分になるから。
沈みかけた太陽が、青い海を、赤く染め上げていく。しづは、そんな海に向かって突如走り始める。
あっと驚いて、私が立ち上がるのを待たず、しづは海に飛び込んだ。
私は、しづが自殺をするんじゃないか、そう思って、流木から立ち上がる。そして、私まで海に飛び込んだ。
ひんやりとした海が、体温を奪う。私は、焦燥感に駆られてしづを探すが、見当たらない。絶望しかけたところで、くすくすと笑い声が聞こえた。
隣を見る。しづの黒い髪が、海面に広がっていた。しづは楽しそうに笑いながら、海面に背を向けて浮かび上がっている。
「ふふ……見て、あおちゃん。背泳ぎ、できたよ」
「……はぁ。まともに泳げない人が、目の前で海の中に飛び込むのを見せられた私の気持ち、わかってるわけ。そもそも、そんなふうに初心者が飛び込んだら、危険なんだよ。溺れる可能性だって、十分に……何?」
「ふふ」
しづは、楽しそうに笑いながら、またあの砂糖を吐きそうなくらい、甘い目で、私を見た。
私はその目に引き寄せられるように、じっと見つめてしまう。一瞬時間が止まったようだった。
「やっぱり、あおはずっと、優しいね」
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朝。休日だと言うのに、思いの外早く目が覚める。時計の針はまだ、八時を指している。
早く目が覚めた原因で思い当たるのは、もちろんしづのこと。昨日、あれから体も冷えたし、すっかり疲れてしまったから、すぐに解散した。けれど、昨日解散した後から、しづがどうなったかは全くわからない。
「……確か、この前は、こんなふうにメールから来たんだっけ」
私は、心配になり、メールを何度もスクロールして、連絡が来ていないか、確かめる。
けれど、連絡は来ていないようだった。私は、ひと安心して、着替えてから、朝ごはんを食べようと、自分の部屋から出る。
「お母さん、目玉焼き作ってもい……。あれ、お母さん、寝てんの?」
リビングに出ても、珍しくお母さんの姿は見当たらない。いつもなら、休日でもこの早い時間に起きて、朝ごはんを作っているところなのに。
私は怪訝に思いながら、目玉焼きのための卵をひとつ、冷蔵庫から取り出す。そして、フライパンに軽く油を敷いてから、卵を落とした。
じゅう、と卵の焼ける音が広がる。私は少しずつ白身が白くなっていくのを、寝ぼけた頭でぼんやりと眺めていた。
「あお!」
私が呑気に卵を焼いていたら、お母さんが慌てた様子でなぜか玄関から飛び出して来た。何故いないのか、不思議に思っていたが、外にいたらしい。お母さんの慌てようからして、とんでもない出来事でも、起きたのだろうか。
「お母さん。何があったの」
「警察が……」
「警察?」
私は、一気に頭が覚醒するのを感じた。もしかして、いや、そうでないに決まっている。だって、昨日まで一緒に居たじゃないか。何もないと信じたいのに、どうしようもないくらいに、嫌な予感がした。
私は、忙しなく音を立てる心臓の音を、まるで他人事のように聞いた。
「海上しづちゃんに、何があったのか知っていたら教えてほしいって。本当は、警察署に行かなきゃダメなんだけど、お父さんが警察とよくしてるから、家でやってくれるんだって。ほら、あお、警察が玄関で待ってるから、話しておいで」
「え……。し、しづに、何か、あったの」
「その話も警察に聞いておいで。警察を待たせてるんだから、急いで」
私は、まるで世界の色を失ったような気分になった。けれど、詳しく話を聞かなければならないと言う一心で、玄関までふらふらと歩く。
玄関には、警察が確かに立っていた。私は、縋り付くように、警察に尋ねた。
「しづに、何があったんですか」
「昨日の夜、海岸で海上さんの死体が見つかりました。速水さんは、昨日の夕方まで、海上さんと海に居たという話を、お母様からお聞きしましたので、事情をお伺いに……速水さん?」
私は、ぺたんとその場に座り込んだ。全身の筋肉の力が抜けて、動けなくなる。
しづが、死んだ。
あんなに私と昨日話したしづが。私のことを、優しいと言ってくれたしづが。私のことを好きだと言ってくれた、しづが。
死ぬって、分かっていたのに、私は、しづを助けられなかった。悲しくて、悔しいのに、涙ひとつも出ない。自分の、薄い感情と表情を、恨めしく思った。
「大丈夫ですか?」
「──しづは、海で死んだんですか。溺死ってことですか」
「すみません、それを言うことはできません」
「──そうですか。そう、ですよね。すみません、いきなりこんなこと聞いて」
「いえ、いいですよ。それよりも、海上さんについて、詳しく……」
警察の人が、いろいろ聞いて来たけれど、全て答えた記憶がなかった。恐らく、表面上では、問題なく応答しているのだろう。けれど、頭の中は、しづのことでいっぱいだった。
「しづの死体すらも、見せてもらえないんですか。お葬式は、無いんですか」
「お葬式は、ご家族の希望で、行われません。今、検死をしている最中でもありますので、見せることはできません」
葬式すら、ないのか。
私は思わず目を見張った。しづは、誰にも見送られることなく、ひっそりと一人でこの世界から姿を消すのか。
私は、それを許せないと思った。私の、なけなしの正義感が、顔を出す。けれど、私が家族に口出しをする権利はない。私は、しづの友達ですらない。昨日、少し遊んだだけの、ただのクラスメイトだ。
「お話は、これで以上です。長い時間、ありがとうございました」
「……はい。分かりました」
警察の人が、話を終えて出ていく。私は、ぐっと唇を噛み締めた。
涙は、出なかった。いや、出てくれなかった。本当は泣きたいほど悔しいのに、私の表情はぴくとも動かない。
ポケットの中に入れていたお守りを、そっと握りしめる。ひんやりとした感触が、手のひらに伝わって、私の荒果てた感情を穏やかにしてくれた。
「海上しづの家に、行け!」きっと、過去の自分に叫べるなら、そう叫ぶだろう。今日の朝、しづが死ぬ前に、私がしづの家に行っていれば、少しは、変わったのだろうか。
「どうか、もう一回──やり直させて」
私は、願った。また、この奇跡が訪れて、しづが動いてくれないか。私に向かって、笑いかけてくれないか。
どうか、神というものが現実に居るならば、願いを叶えてくれ。私に、しづを、海上しづを助けさせてくれないか。私は、祈るように手を重ねる。
かちり。午後十二時に時計が動く。
続きます