あなたのこと、好きだよ。そう言った次の日、彼女は死んだ。 作:ルヴレ
「あおー、ちょっとどうしたの?珍しくぼーっとして」
「……戻って来た」
「は?戻って来たってなんなの?」
私は、周りを見回した。
蝉の声が、耳を塞ごうとも意味がないほどに、鳴り響いている。空は、これ以上とない快晴。夏の強い日差しが痛く、風は湿っぽく暑い。タイムリープを最初にした時と、全く同じ。……ああ、奇跡は起きたのだ。
私は手を強く握りしめた。しづが、生きている世界に戻って来た。神様は、私に応えてくれた。
「ちょっと先に帰ってて。私、用事できたから」
「へ?な、何?用事って。ちょっと、あお、待ってよ!」
タイムリープしたと分かれば、やることはひとつ。
しづの家に、行く。この前は、しづと一緒に帰ったが、今回はしづと帰らずに、他のことをやろうと思う。
他のこと――それは、しづの両親を見に行くこと、だ。
一回目のタイムリープで、しづは両親について、はぐらかした。はぐらかすということは、やはり、両親に何があるのだ。私はしづの死因が、両親に関係するものだと踏んでいる。つまり、自殺か、両親による他殺か……そんなものだと思っている、というわけだが。
まだ確信は持てていない。ただの推測にしか過ぎない状態だ。だからこそ、一度しづの両親を見ることが、大切な気がしている。
私は、駅まで全力でダッシュをして、そのまましづの家の近くまで行ける電車に駆け込んだ。
電車は、もう出発しそうだったから、ギリギリだ。もう少し遅れたら、乗れなかっただろう。私は、人気の少ない電車の席に着きながら、景色を眺めて暇を潰した。
「南禅、南禅です。お出口は、左側です……」
数十分ほど乗って、ようやくしづの家のある駅に着く。私は、カバンを背負い景色を眺めながら、電車の外に出た。
相変わらず、田舎な町だ。前に来た時と同じで、一件だけ煙が出ている家があったけど、それ以外はほとんど見分けがつかないようなものばかりだ。そのせいで、しづの家がどの辺りだったかが思い出せない。私は改札を出てから、しづの家の場所を思い出しながら歩いてみるが、やはりあやふやだ。
「しづの家って、どこだっけな……ここら辺だった気がするんだけどな」
「おや、高校生かい?」
私が彷徨っていると、おじさんに声をかけられた。目つきの悪い顔。どこかで見たことがある、と考えて思い出したのは、しづの近所の人だ。
確か、西田、だったか。しづが妙なほどに怖がっていた人物。警戒しなくてはならない、と分かっていながらも、明らかにしづの家を知っていそうな人物だ。聞いた方が早くつけるのは、間違いがなかった。
「はい。海上さんと同じクラスなんですけど、家ってどこにあるか分かりますか」
「…………海上。それって、しづちゃんのことかい?」
私がしづの名前を出した途端に、西田は怖い顔になった。さっきの優しげな笑みはどこへやら。吊り上がった目は血走って、眉は機嫌悪げに皺を寄せている。私は、乾燥した喉に、唾液を流し込んだ。
「――はい。海上さんと遊ぶ約束、したくて」
私がそう言えば、西田はにっこりと笑った。さっきの怖い顔は、すっかり消えてなくなっている。
「そうかい、分かった。しづちゃんの家まで案内してあげるよ」
「そう、ですか。ありがとうございます」
あんなに怖い顔をされたら、ついていくのも嫌だ。場所を教えるだけで十分なのに。そう内心で毒づきながらも、人の善意を無下にするわけにはいかないと、渋々西田の後ろをついて行く。
あの顔を見たら、しづが西田に近づかないように言う理由も、分かった気がする。
会話も特になく、無言で西田の後ろを歩き続ける。変わり映えもしない景色を眺めながら、私はしづの家に着くその時を今か今かと待ち続けた。
そして、数分ほど暑い中歩き続け、ようやく西田は足を止めた。
そこは、記憶の中にある、しづの家と全く同じ家の前だった。本当に、しづの家の前まで連れて行ってくれたようだ。
「ほら、ここだ」
「……ありがとうございました、って、もういない」
西田は、私のお礼を聞く前に、背を向けて帰って行った。なんだか、不思議な人だ、と思いながら私は玄関のチャイムを鳴らす。
鳴らして少ししてから、家の中からドタバタと複数の足音が聞こえた。足音は少しずつこちらに近づいて来て、そしてドアが開いた。
出て来たのは、しづとそっくりな、女の人だった。続いて顔を出したのは、小さな男の子。
どこか、オドオドとした雰囲気のある子だった。小学校低学年と言ったところか。
「あら、何か、ご用ですか?」
「はじめまして。速水あおと言います。海上さんの同級生で、クラスメイトです。海上さんって、居ますか?遊ぶ約束をしたくて」
「まあ!しづちゃんにお友達が!ごめんね、まだしづはいないのだけど、そろそろ帰ってくるわ。
暑いでしょう?中に入って待っててちょうだい」
女の人――恐らく、しづの母親は人の良さそうな笑みを浮かべながら、私を家の中に入れてくれた。木造建築特有の、木の匂いが鼻に広がる。家の中は、几帳面そうなしづのお母さんの性格がよく現れていて、棚がたくさん並べられていた。
しづの母親は、私に座布団に座るように言って来て、よく冷えたお茶を出してくれた。
今のところ、しづの母親に対してマイナスイメージはない。逆に、理想のお母さん、と言った感じだ。
「暑い中、来てくれてありがとうね」
しづの母親は、ふんわりとしづとそっくりの笑みを浮かべた。
疑っているこちらが、申し訳なく思えるような、優しい笑みだ。
「いえ。こちらこそ、中に入れてくれてありがとうございます」
「ふふ、礼儀正しくていいわね。しづちゃんのお友達にぴったり。ちなみに、成績はどのくらいいいの?」
突然、成績の話をされて、私は一瞬顔を顰める。あまり、遠慮のない人のようだった。そこは、しづと間反対だ。
「クラスで二番目くらいにはいいと思いますけど」
「あら……ならよかった。頭に藁が詰まってるような女の子が来たらどうしようかと思ったけど。あなたはしづちゃんにふさわしそうね」
「……相応しい?そんなもの、しづが決めることなんじゃないですか。頭が悪くて、何か悪いことでもあるんですか」
頭に藁が詰まっている……つまり、頭が悪い子は、しづに相応しくない?その言い方に、カチンと来た。
私は、頭が悪いわけではないと自負しているけど、なぜ相応しいなんかを、母親が決めるのだろうか。私の成績が悪かったら、ここから追い出すつもりか。まるで、裁判にかけられているような、そんな居心地の悪い気分になる。
けれど、しづの母親は、少しも悪びれた様子はなかった。
「私、夫に浮気されちゃってね。人生をぐちゃぐちゃにされちゃったの。
だから、しづちゃんには、カンペキな人生を送って欲しいのよ!進学校に入学して、お料理も上手になって、気配りもできて、良い仕事に就いて、そして、素敵な人と結婚してほしい!私と違って、幸せな人生を歩んでほしいの!
そのために、あなたみたいな優秀な子が、友達になってくれると嬉しいわ!」
「…………親のエゴってやつか」
私はボソリと小声で呟いた。
植物は、水をあげ過ぎたら枯れてしまう。それと同じで、人間も愛情を与え過ぎたら、疲れて、最後には枯れてしまう。しづは、適量を遥かに超えた愛情を与えられていたのだ。自分のようになってほしくない。そんな一心で、しづは大切に、大切に、育て上げられた。
自分で料理をしたお弁当を私にくれた時の、しづの表情を思い出す。寂しそうな、あの顔。私は怒りを我慢するために、拳を握りしめた。
そんな私の様子に唯一気づいてくれたのは、母親ではなく、その近くにいた子供だった。男の子は、オドオドと怯えながら、恐る恐るしづの母親に話しかけた。
「おか、あさん。あの、しづお姉さんがまた困……」
「――あら。お母さんって、呼ばないでって、何回言ったと思ってんの?浮気相手の間にできた子供なんか、うちの子供じゃないわよ。あんたは、他人の家の子供なの!うちはあくまで預かってるだけ!あんたの引き取り手が見つかるまでね!何回言ったらわかるの!?」
しづの母親は、しづとそっくりの笑みを浮かべながら、息継ぎもせずにひと息で怒鳴る。男の子は、きゅっと小さく体を縮め込んで、逃げ出した。私はそれを呆然と眺める。
しづは、こんな家で過ごしているのか。これは、確かに自殺をしてしまうのも当たり前なくらいの、地獄だ。
「ごめん、なさい。体調悪くなったんで、帰ります」
「……あら、そう?大丈夫?ご両親に迎えに来てもらった方が、いいかしら」
「結構です。お邪魔しました」
私は、逃げるように勢いよく席を立つ。こんな家に、長居したくなかった。
せっかく出してくれたお茶も飲まずに、私は家を飛び出した。あの歪んだ愛情、浮気相手との間に作られた子供に対する、差別。こんな家で、どうしてしづが良い子に育ったのか、不思議で仕方がない。私はしづの家の前で、しゃがみ込んで、下を向いた。しゃがんですぐ、そんな私の肩を、誰かが触った。華奢な骨格なことが、触られるだけで伝わる。
私は、ゆっくりと顔を上げる。顔を上げた先には、困った顔をしたしづがいた。
「あ、あおちゃん!どうしたの?こんなところに来て」
「しづ……」
私は、帰って来て家の中に入ろうとしている、しづの腕を握った。
しづは驚いて立ち止まる。
「一緒に、逃げよう」
私は、しづの手を両手で握った。しづは驚いた顔をして、それからポッと顔を赤くさせた。
「そ、それって、どう言う……」
「あんな家にいる必要、無いでしょ。背負う必要のない苦しみに耐える必要も、ない。私と一緒に、逃げようよ」
ひどく子供っぽいことを言っている自覚は、あった。でもきっと、しづはお母さんに耐えきれずに自殺してしまったのだ。それなら、家族から引き離せばいい。そう思った。
こんな子供っぽい理想論を語っても、しづはきっと頷かない。そんな覚悟で言ったのに、しづはふわりと微笑んだ。
「いいよ」
ぎゅっと、しづが私に抱きついてくる。私は、一瞬驚いて体を硬直させた。
小さな体だった。強く抱きしめたら折れてしまいそうなくらいに、華奢な体。私は壊れ物を扱うかのように、優しくしづの体を抱きしめ返す。
「私を、攫って。あおちゃん」
「うん」
しづの声は、どこか泣きそうだった。いや、もしかしたら、既に泣いているかもしれない。そのくらいに、揺れた不安定な声だった。私はしづの頭に手を乗せた。
「しづ。私は、君を攫うよ」
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ガタンゴトン、と電車が揺れる。向かう先は、一回目のループと同じ、海のある町。あそこは人が少ない上に、ネットで調べたところ、高校生だけでも泊まれるホテルがあるらしい。
電車に揺られながら、景色が移り変わるのを眺める。もう、下校時間をとっくに、過ぎているせいで、町は夕暮れ色に染まっていた。
「あおちゃんは、私のお母さんに会ったんだね」
電車の中にあった静寂を、しづが壊す。私は、無言で頷いた。
「――私のお母さん、お父さんの浮気がわかってから、ずっとあんな感じで。でも、正直諦めてたの。もう、耐え続けるしかないって。お母さんに期待しちゃ、ダメだって」
「でも、そんな生き方じゃ、しづが苦しいだけだ」
「うん、そうだよね。でもね、あおちゃん。私、あおちゃんが思ってるよりずっと、真面目じゃないよ」
しづは、全てを諦めたような顔で、笑った。その顔は、ひどい疲労が見て取れた。
どうして、一回目のタイムリープのとき、しづの様子に気づけなかったのだろうか。そう思うくらい、しづは疲れた顔をしていた。
「実は私、よく勝手に学校を休んでるの。家でも、学校でも気を張ってたら、疲れちゃうから。今日も、学校を無断欠席してるんだ」
「……でも、今制服着てるよね。なんで、着てるの?」
「学校に行こうって、本当は思ってた。でもね、学校に近づいた瞬間、怖くなっちゃったんだ。一歩も、その場から動けなくなっちゃったの」
しづの顔が、夕焼けに染まって赤くなる。俯いたせいで、今しづがどんな顔をしているかは、伺えない。でもきっと、いつものような穏やかな笑顔を浮かべていないのは、間違いがなかった。
「――しづは今まで、逃げようって、思わなかったわけ」
「うん」
しづは俯いたまま、微かに身じろぎした。
「もう、理想を求められても、何も感じなくなって来たから。平気だって、思ったから」
「はぁ。……バカ。強がらないでよ」
本当に何も感じていないなら、ほとんど関わりもない私について行って、家出をしないでしょ。そう思ったが、それは口に出さなかった。
しづは、ホワホワした雰囲気に反して、強がりで頑固だ。背泳ぎだって、結局最後まで諦めていなかった。
そんなしづが、私に助けを求めて来た。これはきっと、珍しいことなのだろう。
「あ、あおちゃん。ホテルの予約ってどうする?」
しづは、暗い雰囲気を変えたかったのか、全く関係のないことを口に出した。私もそろそろ、この暗い空気を変えたかったし、話に乗ることにする。
私はスマホを取り出して操作し、ホテルの予約画面を開く。そして、予約完了、と書かれた画面をしづに見せた。
「ほら、予約しておいたから」
「え、もうしてくれたの!?お、お金はどうすればいい?足りる?」
「お金なんて、無駄に有り余ってる。問題ない」
次に、財布の中身をちらりと見せると、しづは驚いた顔のままフリーズした。
「お、お金持ちだ」
「世間一般的にそうだろうね」
私の家は、金持ちだ。流石に、大企業の社長、とまではいかないが、中企業の社長の父を持っている。
この辺りで、一番金持ちなのは、おそらく私の家だろう。高いお小遣いを自慢に思っているわけではなかったが、こう言う時にお金があると、やはり安心できる。
しづは、私の財布の中身を見て、放心しているが、そろそろ電車を降りなくてはならない。私は、しづの手を握って、外に連れ出した。
駅から少し歩いたところに、ホテルはあった。ホテルの目の前についてなお、しづがぼんやりしていたので、私は呆れて少し苦笑いを浮かべた。
「しづ、もうホテル着いたよ」
「え、あ、ごめんね。ぼんやりしてた」
空はもうすっかり暗く、夜の空気に、辺りは包まれていた。夏の湿っぽくぬるい風が、夜になったおかげで、ほんの少し冷たく感じる。
ここまで来てようやく、夜風で頭が冷えたのか、家出をして来た自覚が湧いて来た。しづの命を救うためとはいえ、大事なことをしたものだ。
けれど、しづの命がこんなことで救えるなら、私は後悔しない。
私は、自分の頰に手をやった。そうしたら、緊張が、少しずつ取れていく。
「しづはフロントで待ってて。私は鍵貰ってくるから」
「あ、うん。分かった」
私は、しづと共にホテルへ入り、簡単な受付を済ませる。ホテルを一人で予約するのは、初めてではあるが、すんなりと鍵をもらえた。
そして、椅子に座っていたしづと合流して、部屋の中に入る。部屋はフロントから近いところだったから、すぐについた。
「部屋、一つにしたんだね」
「ああ。本当は、二つ借りようと思ったんだけど。ホテルの人に、勿体無いって言われたから」
「――――そっか」
しづは私が好きらしいが、話したことはほとんどない。ただ席が隣なだけの、クラスメイトだ。そんな、ほとんど関わりもない人と、同室で寝るのは嫌かと思い、二部屋借りようと思ったのだが、なぜかホテルのスタッフに止められた。
ホテルの人も、部屋を一つにされたら、儲からないだろうに、わざわざ助言してくれたのだ。厚意を無駄にするわけにはいかない。そう思った結果、結局一部屋だけを、借りることになってしまった。
けれど、しづは嫌じゃなさそうだった。それどころか、スキップのような歩き方になっている。今にも宙に浮かびそうだ。
分かりやすく浮かれていて、私は小さく口角を上げた。
「私、友達と二人で泊まるなんて初めてだから、ワクワクしちゃう!」
「……あんまテンション上がりすぎないでよ?寝れなくて明日困るのはしづだからね」
「そ、それはわかってるけど。あおちゃんは私と一緒は嫌だった?」
友達、と言われて思わずどきりとする。
しづは私のことを、この時点で友達だと思っていたのか。ほとんどこのループでは、関わりもないのに。
それが、正直にいえば、嬉しかった。けれど、私はそれをはっきりと言えるような性格ではない。つい、誤魔化すためにしづに注意してしまった。
しづは、私が怒っているのかと思ったのか、眉を下げて、私を見てくる。身長差のせいで、上目遣いになっていて、ちょっとだけあざとい。私は、目を逸らしてから、小さくため息をついた。
「嫌だったら、一緒に逃げよう、とか自分から言わないから。――これで満足?」
「あ、あおちゃんがデレた!」
「夜遅くにうるさい。もう寝たら?」
私は、そっぽを向きながら言い捨てる。目の端に映る、しづのにやにやした顔が癪に触った。
そんなやり取りをして、しづがお風呂に入るために、いなくなった頃。スマホがブルブルとポケットの中で揺れる。
誰がかけて来たのか、見なくても分かるが、一応確認をしてみる。
かけてきたのは、やはりお母さんだった。けれど、私はスマートフォンの電源を切って、電話を無視した。
「大丈夫……今回はきっと、上手くいく」
私は、ポケットの中のお守りを握りしめた。ころんと丸くて冷たいそれは、いつも通り私の気持ちを和らげてくれる。
私は、そっと目を閉じた。そして、頬に手をやる。小さいときからの、癖だった。
こうすれば、なんだってできる気がする。そう思えるのは、小さいときから、変わらない。
「そういえば――どうして私はこんなに夢中になって、しづを助けようとしてるんだ?」
ふと、自分がしづを助ける、理由が見当たらないことに気づく。
自分が、ループから抜け出すため?それとも、同級生が死ぬのを知っていて見ないふりをする、罪悪感を無くすため?
自問自答しても、どれも当てはまる感じはしない。結局、しづが風呂から出て来た後も、その答えは見つからなかった。
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小さい頃、何かが足りないと思っていた。みんなが欲しがるぬいぐるみが欲しいと言えば、それよりずっと高いテディベアを買ってもらえた。
ラムネの瓶の中に入っているビー玉を集めるのが流行った時は、それよりもずっと綺麗な宝石を買ってもらえた。
けれど、子供の私には、その価値がよくわかっていなかった。
私が欲しかったのは、テディベアじゃなくてぬいぐるみだし、宝石じゃなくて、ビー玉だった。両親は、それを理解してくれなかった。
なんと、贅沢なことを考えていたのだろう、と今になって思う。けれど、私はそのときみんなが持っていたビー玉を、宝石よりも、欲しいと思っていた。
そんなふうに思っていたとき。公園で、その子を見つけて声をかけたのは、偶然だった。
公園のブランコに腰掛けながら、泣いていた彼女は、ラムネ瓶を小脇に抱えていた。
私はそれ目当てに、彼女に話しかけた。
「なんで泣いてるの」
相談に乗ってあげて、その後にお礼としてビー玉を貰おう。そんな魂胆だった。
けれど、彼女はそんな私の考えていることなんて知らず、驚いたように勢いよく顔を上げた。そして、泣き腫らした目で、ポツポツと悩みを打ち明けた。
「お母さんね、テストで90点取っても、怒ってくるの。私は、学年一番にならないと、ダメなんだって。それにね、ご飯も作ってくれなくなっちゃったの。料理ができる人になって欲しいんだって」
ゆらゆらと、ブランコを揺らしながら、その子は泣いていた。その目はどうしようもないほどに、光を映さない。
子供ながら、私はその子の異質な雰囲気を感じ取った。
「私が、好き嫌いしたせいかなぁ。私、もう好き嫌いなんて、しないでなんでも食べるよ。でもね、お母さんは、何も作ってくれない。
私、これから、何をすればいいのかなぁ」
小さい頃の私には、その悩みはよく理解できなかったし、共感もできなかった。普通なら、「大変なんだね」とか、「それはひどいね」とか、そんなことを言うのだろうけれど。今も昔も、思ってもないところに共感しないところは、変わらなかったのだろう。私は、特に、相槌は打たずに、静かにその子の話を聞いていた。
話を聞いていたら、感情を読み取るのが苦手でも、その子がひどく疲れていて、何かに怯えているのだけは、分かった。
だから、私はその子におまじないをしてあげた。私が今もよくする、おまじない。
そっと、その子の頬に手を乗せる。私の手がひんやりしていたのか、その子はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「そっと目を閉じて。こうすれば、落ち着くでしょ。私がいつもしてる、おまじないなんだ」
「おまじない?」
「――そ」
私は、その子の頬に手を乗せたまま、小さく頷いて見せる。
その子は、私の言う通りに、そっと目を閉じた。すると、その子の体の力が、少しずつ抜けていく。
「あと、さっきの話だけど。君が責任を感じる必要はないでしょ。好き嫌いなんて、大人でもあることだし、完璧になる必要なんて、ないと思うよ。
君は、君の好きなように生きればいい。誰も、君を縛る権利は持っていないだろ」
「好きな……ように」
その子は、目を閉じたまま、私の言葉を繰り返す。そして、パチリと目を開いた。彼女の表情は、ほんの少しだけ明るくなっていた。私は、にこり、と珍しく安心させるように、大きく口角を上げて見せた。
大きく、と言っても私の中での話だから、恐らくほとんど笑っていなかったのだろう。それでも、その子は、安心したように、とろけそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう。私、もうちょっとだけ、頑張ってみる。私の好きなように、生きてみる」
「うん。そうすればいい」
私は結局、話しかけた目的すらも忘れて、そのままその子に背を向けた。
けれど、その子に手を掴まれて、止められる。私は、不思議に思ってその子の顔をじっと見た。
「あのね、お礼に私のビー玉あげる。洗ってくるから、ちょっと待ってて」
「……ん、いいの?」
そう尋ねた時には、その子は慌ただしく私に背を向けて走り出していて、声は届いていないようだった。
私は、人がいなくなってゆらゆらと一人揺れているブランコの鎖に触れる。夏の暑さのせいか、鎖は熱を持っていた。
「あの、洗えたんだけど、もうちょっと待ってて」
「何かするの?」
「うん!ビー玉ってね、色を塗ったらとっても綺麗なんだよ!」
鎖を持っていたせいで、熱くなった私の手に、彼女のひんやりとした手が触れる。走って来たのか、ひんやりした手と反して、頬は赤い。
彼女の手が離れるが、まだ清涼感が私の手から離れていない。そっと目線をやれば、ほんの少しだけ手が濡れていた。水道で洗ってきて、手をタオルで拭いたのだろうが、完全に拭えなかったのだろう。
彼女は、水道で綺麗に洗ってきた、透明なビー玉に、青い油性ペンで色を塗り始めた。
無色の玉が、爽やかな色に染まっていく。偶然にも、その色は私の名前と同じだった。
彼女は全ての面を塗り終えて、インクが乾くまで乾かした後、私に満面の笑みでビー玉を差し出した。
「できた!はい、あげる。光に当ててみたら、もっと綺麗になるんだ!」
「そうなの?」
私は、言われた通りに、渡されたビー玉を、空に掲げる。
空の青さと、ビー玉に塗られた青が重なり、より深い青になる。その青に太陽の光が当たって輝いて、どんな宝石よりも眩く光った。
私は、あまりの眩しさに、目を薄くさせる。
「綺麗」
心からの、声が漏れる。私は、このビー玉を、綺麗だと思った。これが、ビー玉の美に向けられた言葉なのか、それとも彼女についてのものなのか、自分でもわからない。もしかしたら、どちらも含まれているのかもしれない。
どちらにせよ、両親が買ってくれる、高価な宝石よりも、かわいいテディベアよりも。
彼女が私のためだけに色をつけた、世界にたった一つしかない、このビー玉を、どんなものよりも価値があると思った。
「あ、あの……」
「――何」
私は、ビー玉を持った手を下ろす。彼女が何か、言いたそうにしていたからだ。
彼女は、しばらく視線を右往左往させていたが、勇気を振り絞ったような、そんな顔で、私に聞いてくる。
「名前、何て言うの」
「――あお」
私は目尻を微かに下げながら、言う。彼女は、私に見惚れるかのように、頰を赤くさせて私を見ていた。
「速水あお。呼び方は、あおでいいよ。ちゃん付けされるの嫌いだから。あと、自分だけ名乗らないってのも、不公平じゃない?」
本当は、「あおちゃん」と呼ばれることがほとんどだったし、そう呼ばれるのが嫌だったわけじゃない。
なんなら、私を呼び捨てする人なんて、誰もいなかった。きっと、私の近づき難い雰囲気のせいなのだろう。
嘘をついてまで、彼女に呼び捨てをさせたはっきりとした理由は、自分でもわからない。
ただ、彼女をトクベツにしたい、とそう思った。
どうしてそう思ったのかすら、わからない。でも、トクベツで居たいし、トクベツにしたいと思った。
「分かった、あお。……えっと、私の名前はね」
彼女が、ほんの少しだけ控えめに、照れた顔で笑う。そして、自分の名前を口に出そうと、口を開く。
ああ、そうだ。彼女の名前は――――。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「あおちゃん、おはよう」
「――――ん」
「……あおちゃん、本当に起きてる?」
「ああ……うん。おはよ」
目を開けた途端、しづの柔らかな目と、目が合う。一瞬だけ、なんでしづがいるのか、不思議に思ったが、一緒に逃げたことを少し考えて、思い出す。私は眠い目を擦りながら、挨拶を返した。
何か、夢を見ていた気がする。けれど、どんな夢を見ていたかは、よく思い出せない。別に、思い出す必要性を感じず、私は大きく伸びをした。
眠そうにしている私の目を覚ますためか、しづは私の肩を叩いた。そして、指で朝ごはんらしきものが置いてある方向を、指差した。
「朝ごはん、ルームサービスで置いてくれたよ」
「そう。……ん?一人分しかないけど。しづの分は?」
ベッドから起き上がり、朝ごはんを見てみる。一人分の、トーストにサラダ、そして紅茶が淹れられている。
しづもいるから、もう一人前置いてあるはずだが、一人分しか無さそうだ。
「私、お腹、空いてて。ちょっと早めに食べちゃったんだ」
「……ふぅん。そっか」
確かにそれなら、辻褄は合う。
けれど、おかしい点が一つあるのだ。しづが食べた後の食器が一切ない。しづは、絶対に朝ごはんを食べていないだろう。お腹が空いていないなら、そう言えばいいのに。私に気を遣ったのだろうか。
私は、それが少し気に入らなくて、トーストに勢いよく齧り付いた。私が頬張るのを、しづはあの砂糖みたいな甘い目で、相変わらず見つめてくる。それがくすぐったくて、私は紅茶でトーストを流し込んだ。
「しづ、行きたい場所とかある?」
私は、トーストを飲み込んでから、そう聞いてみる。今日は、アルバイトの場所を探したりはせず、ゆっくりする予定だ。もちろん、しづがまた死なないかを見張るために。この三日間は、しづを見張っておくつもりだ。
しづは、ちょっとだけ考えた顔をして、そして聞き覚えのあることを言った。
「海に行きたい……かな」
「――何。海がそんなに好きなわけ」
まさかの、前回と行く場所が被った。しづは、そこまで海が好きだったのか、と私は関心する。
けれど、しづはゆるゆると首を横に振った。
「ううん、好きなわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで」
「行きたい気分なだけ。あ、もしかして、あおちゃんは海嫌いだった?」
「いや……嫌いじゃないけどさ」
二回連続、行きたい気分になることなんて、あるだろうか。もしかして、何か理由があるんじゃないか、と深く考えてしまう。けれど、冷静に考えたら、今は暑いし、海に行きたくなることなんて、あるだろう。私は、深読みをやめた。
「水着とかないから泳げないけど、いいの」
「うん、いいよ。ちょっと、海を見たくて。ほら、私たちが住んでいるところって、海が見えないでしょう?」
「そうだけど……ま、しづが良いなら、私もいいよ」
海を眺めるだけじゃ、一日は潰せない気もするが、この辺りには、田舎ながら、小さなショッピングセンターもある。一応過ごせなくはないだろう。
私は、朝ごはんを食べ終えて、服を着替えようとして、手を止めた。そういえば、何も準備せずに逃げて来たから、着替えさえも持っていないんだった。
しづも、それに気づいたのか、苦笑いをした。
「このまま、海に行く?制服だと、目立つかな」
「ああ。目立つだろうし、人が少ないところに行こうか」
「こんなに朝早くだったら、人は少ないかもしれないけど、その方がいいかも。警察とかが、捜索して来てる可能性が高いし」
朝早く、と言われて時計を見れば、まだ朝六時を少し越えたくらいだった。
いつも遅起きの私にとって、これはとんでもない早起きだ。起きた時、眠たく感じるわけである。
「――ん、じゃあもう行く?」
「そうだね」
しづは私の提案に頷く。と言っても、すでに今から行くつもりだったのか、準備をし終えてドアの前に立っていた。
私は、ドアの前に足を運ぶ。そして、一瞬。後ろに誰かが居るような、そんな妙な気分になる。
不安になって後ろを振り向くが、特に人はいなかった。カーテンが、外からの風でゆらゆらと揺れているだけだ。
「――いるわけ、ないか」
ほんの少し……本当に、少しだけ、嫌な予感がした。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
朝早いおかげで、外気は思ったよりも涼しく、海風が気持ちよかった。
私は、風に煽られながらそっと目を閉じる。海の香りを含んだ風が、私の短い髪を揺らした。
「あおちゃん、見て!シーグラス落ちてるよ!」
しづは、綺麗な貝殻や、ガラスを見つけてはしゃいでいる。私は、一回目のループでも座っていた流木に腰掛けながら、そんなしづを眺めていた。
「シーグラスが好きなの」
「うーん、そうだね。こう言うのが好きなのもあるし、あと、ロマンを感じない?」
「ロマン」
ロマンもへったくれもなさそうな私に、それを語るのだろうか。少し不思議に思ったが、しづは気にしていないようだった。
シーグラスを見る、しづはなんだか楽しそうだった。いつも笑みを浮かべてはいるが、今のしづの笑みは、なんだか違う気もした。
いつもがふわりとした笑みなら、今は楽しそうに遊ぶ子供みたいな、そんな笑みだ。しづもそんな顔をするのかと、私は、しづの顔から目が離せなくなった。
「そう!だって、このシーグラス、何十年も前のものなんだよ。このガラスの持ち主が、このガラスに触れていたと思うと、なんだか命が吹き込まれてるみたいな気持ちになるの!」
「命……?なんで」
「だって、こんなガラス片でも、その人の小さな思い出が吹き込まれてるんだよ!疲れてお酒でも飲んだのかもしれない。友達と、海辺で一緒にラムネを飲んだのかもしれない。人生の一部に、このガラスが少しでも関わっていたと思うと――――なんだか、不思議なくらいに愛おしくなる」
シーグラスについて語るしづは、まるで太陽みたいに輝いて見えた。ベタな例え方だが、本当に、私には眩しく見えたのだ。
ロマンのかけらもない私には、しづの考え方は完璧に理解できないし、それの良さもわからない。けれど、こんなガラス片でも愛おしく思えるしづを、なんだか綺麗だと思う。まるで、無理矢理そうされているように、私はしづから目が離せなくなった。
「私、小さい時からこう言うガラスを集めるの、趣味だったんだ。あ、そうだ。あおちゃんも、趣味とかある?」
「――特にないかな」
私は小さいときからずっと、何もかも手に入れられるせいで趣味なんてなかった。部活も、何もかも興味が湧かずに、中学からずっと帰宅部だ。
家に帰ったら勉強して、それが終わったら、内容のない動画を見て、寝る。
そんな毎日を繰り返しているせいで、趣味どころか、特技すらもない。
「少しもないの?」
「うん、少しもない。友達と遊んだりするのすらも、私は億劫なんだ。小さい時から変わらない、悪い癖だ」
「そっか。そうなんだ」
しづは、目を大きくさせて、それから少し伏せた。短くはない睫毛が、目の下に影を作る。
さっきのキラキラとしたしづはどこへやら。いや、話している途中も、思い詰めていたのかもしれない。そのくらい、しづは思っていたこと全てを吐き出したみたいに、一気に話し始める。
「それなら、どうして、私を助けたの。私を助けても、あおちゃんにとって良いことなんて、少しもないでしょ?もしかしたら、退学や休学になるかもしれないし、同級生から噂されるかもしれない。嫌なことだらけだよ。人と遊ぶのすら面倒なら、尚更そうじゃない?」
「――それは」
一番聞かれたくないことを聞かれて、私は言い淀んだ。
そんなこと、私が一番わからないのだ。なぜ、ループを繰り返しているのか。なぜ、しづをここまで助けたいと思っているのか。何もかもがわからなくて、整理がつかない。こんなこと、初めてだ。
私は、上手く言葉に出来なかった。でも、何も答えないのは、失礼だと思い、なんとか言葉を作る。
「私が、いちばんわからない。でも、しづが苦しむのはなんだか、すごくモヤモヤするから、何かがしたいって突発的に思った。私にできることは、一緒に逃げることくらいだった。だから、あの時逃げようと提案したんだ。
別に、私はどうなったっていい。噂されても、退学になっても構わない。ただ、しづが苦しみをひとりで背負わないでいられるなら、それでいい」
まるで、昨日しづと家出をした時のように、幼稚な言葉がするりと口から出る。
しづは、伏せた瞼をゆっくりと開く。そして、そのまま私の顔をじっと見た。けれど、すぐにまた伏せられて、私の服の袖を力無く握りしめた。
なぜ、君はそんな顔をしたんだ。
私はごくりと唾を飲み込んだ。私の顔を見たしづは、泣きそうだった。今にも、涙を流しそうで、でも悲しい感情だけじゃなくて、どこか悔しそうでもあった。あまりに複雑に感情が入り組んでいて、表情だけではしづの気持ちを読み取れない。
「ごめん……」
しづは、なぜか謝った。その顔は、俯いているせいで、見れない。
私は困惑して、「なぜ」とだけを尋ねる。しづは、答えない。私の服の袖を、皺ができそうなくらい、強く握るだけだった。
「殺せないよ、私」
「――え」
物騒な言葉がしづから出て来て、私は体を硬直させた。しづは、くすくすと笑いながら顔を上げる。
心底楽しそうで、おかしそうな笑顔を浮かべていた。なのに、どこか苦しそうに見える。私は、無言でしづを見つめた。
「この感情、殺そうって思ってたのに。殺せないよ。どうしようもなく、好きなんだよ、あおちゃん。ごめんね、好きになっちゃって。私、悪い子だね」
なんの話をしたのかは、すぐにわかった。
全てのループで、私はしづに言われたのだ。「あおちゃんが好き」と。そこまで言われていれば、私も鈍いままではいられない。
でも、なぜ好きと思うことが罪なのか、わからない。
なぜ、しづが恋愛感情を殺そうとしたのか、わからない。わからないことが、とにかくイライラした。しづのことをもっと知りたいのに、まるで一本ラインを引かれているようで、これ以上入り込めない。
「しづ――私は」
「私、ちょっとお菓子でも買ってくる!あおちゃんはそこで待ってて」
私の言葉を遮り、しづは勢いよく私に背を向ける。そして、私の返事を待たずに走り出した。
「しづ!」
私は、遠くなっていくしづの背中を追いかけようとして、辞めた。いいことなんて、お互いにとって、ここで追いかけても何もない。
私はやるせ無い気持ちになって、貝殻を蹴り飛ばした。コロン、と貝殻が転がって、そのまま海の中に入った。その様子を、一歩も動かず、無感情で眺める。感情的になるなんて、らしくない。
そうしていたら、ふと、後ろで砂の動く音がした。人が、来てしまったのだろうか。私はいかにも煩わしそうな顔で、後ろを振り向いた。
「――なんで、お前がここにいる」
後ろにいたのは、見覚えのある目つきの悪い男。機嫌は、ひどく悪そうだった。
確かこの男、しづの近所に住んでいる、西田だ。私はまさかここで出会うと思わず、目を大きく見開いた。
西田は、何か大きなものを持っていた。無言で首を動かさず、目で辿ってみると、どうやらドラム缶のようだった。それは、黒ずんでいて、まるで火で燃やした後のようだった。
なんだか嫌な予感がして、私は一瞬だけ身震いをした。
「――お前、海上しづの家に来てたな。なんでだ」
西田は、鋭い目つきでこちらを見つめて来た。なんでも何もない。私は、当たり前の答えを、いたって普通に返した。
「私は、しづの友達だ。しづに会いに来ただけ。それ以外の理由があると思うのか」
「――お前ッ!知っているのかッ!」
「……は?知ってるって、何が」
西田は、目を充血させて叫んだ。私の言葉なんて一切耳に入っていないようだった。西田はだらだらと、汗を流して焦ったように、ポケットの中に、手をやる。私はポケットの中から出て来たものを見て、一歩後ろに下がった。
冷や汗が、制服の中の背を伝う。全身の血が、冷えつくようだった。
ポケットから、出て来たのは、ナイフだった。
明らかに、人を殺すためにある、鋭利な凶器。
「なんで、それ、え、本物」
「死ねっ!」
西田は、私に向かって駆け出す。私は、咄嗟のことにまるで硬直したかのように体を動かせず、立ちすくんだ。
西田は、隙だらけの私の心臓を狙って、ナイフを向けてくる。
「――がっ……あ。あ゙あああああ!!!」
その刹那、心臓近くに走る、とんでもない激痛。気がついたら、地に全身をつけていた。冷えていた血が、沸かるように熱くなる。息の仕方が、わからない。正常に息を吸えない。
私は空気を求めて、息を荒くして空気を取り込む。それでも、酸素が足りない感じがして、苦しい。
目の端で、ナイフを拭いて逃げる西田の姿が見えた。そっちは、確か、しづが向かった方だ。
ダメだ、しづが、西田に殺される。きっと、しづを殺したのは、母親なんかじゃなくて、コイツだ!
私は、そう確信する。
好きなものを語って、目を輝かせるしづ。私に攫われて、嬉しそうだった、しづ。私を好きになってくれて、でもそれを無かったことにしようとしていた、しづ。
しづを、守りたい。こんな男に、綺麗なしづを、汚されたくなかった。
「しづ……に、近づく……な……!」
私は、ポケットの中を弄った。武器になりそうなものはないか。必死に探して、冷たくて丸い、それに手があたる。
私は、一瞬だけそれを投げるのを躊躇した。が、すぐにポケットからそれ……青いビー玉を取り出す。
そして、それを全力で西田に向けて投げつけた。
「ぐ……お、お前!」
パリン。ビー玉が砕け散り、その破片が西田に刺さる。西田はこちらを憎々しげに見て、ナイフをまた向けてくる。
しかし人を殺したことがバレるのを恐れたのか、ものすごい勢いで、走り出した。
そっちの方向には、しづはいない。私は安心して横になる。安心したら、力が完全に抜けて来て、何も動けなくなった。
「……私。死ぬ、のか」
じわり、と血が傷口から滲んで、砂浜に広がる。白い砂浜を、血が赤く染め上げた。
意識がどんどん、遠のいていく。目を閉じかけたその時、私の視界を、しづが埋め尽くした。
私はしづに向かってそっと手を伸ばす。しづは、私の手をそっと握りながら、ぽろぽろ涙を流した。その手は、死にかけている私よりも、よほど冷たい。
「あおちゃん。死なないで……お願いだから」
「――ああ」
私は、虚ろに言葉を話す。あまりにも、しづの姿を見て、安心する自分がいた。しづが生きている。それを確認できただけで、満足だった。
「そう……か。これ、は……きみが…………き……んだ」
私は、ようやく気づいてポツンと呟いた。死に際になって気づくなんて、私はなんて鈍いのだと、自虐する。
私がしづに向ける思いは、興味と言うには味気なく、友達と呼ぶには些か足りなくて、親友と呼ぶには行き過ぎていた。ようやく、この感情の名前が、分かった。
分かった途端に、口に出していた。ただ、それはこぽりと溢れた大量の赤が飲み込んでしまう。しづは依然として焦った顔をしていた。
「……い……よ。し……づ」
私は、安心させるように、しづに小さく微笑む。最後に目に映ったのは、両目から涙を絶えなく流す、しづの姿だった。
ああ、どうか、泣かないで。
私は、ぼやける思考の中、それだけを思った。