妖怪と蟲師 〜薬袋智深の旅情譚〜   作:深山碧

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第一話 蟲師、ゲゲゲの森に立つ

 社会人とはなんとも忙しい。

 調布駅構内から外に出た犬山まなは、夜空を見上げてため息をついた。

 ここのところ仕事が立て込んでいて、親交ある妖怪たちにはとんと会えていなかった。

 

 しかし、今日のまなは格別機嫌がいい。

 というのも、今夜はねこ娘とお酒を飲む約束をしていたからだ。

 最近この辺りにできたというバーは、ねこ娘が紹介してくれた。送ってもらった写真を見る限り、なかなかに雰囲気もよさそう。

 

 幸いにして抱えていた大きな仕事も今日で一段落した。

 さらに明日は土曜日でお休みである。

 

「よぉし、今夜は飲み明かすぞ……!」

 

 実に数ヶ月ぶりのねこ娘との晩酌。まなは昼間からそわそわして仕方なかった。

 まなの仕事のことや、最近のゲゲゲの森のこと、ねこ娘と鬼太郎の仲の進展も。話したいことは次から次へと溢れてくる。

 

 約束の時間より少し早いが、いてもたってもいられず、まなはねこ娘に「駅に着いたよ」とメッセージを送った。

 早く来い、と催促しているように取られてしまうだろうか。人間はせっかちねぇ、と苦笑いするねこ娘の顔が目に浮かぶ。

 実際、早く会いたいことには違いないのだが。

 

 まなが意味もなくメッセージアプリを閉じたり開いたりしていると、スマホが震えた。電話の着信だ。

 画面に表示された文字は『ねこ姉さん』。

 

 喜び勇んで通話開始のアイコンをタップ。

 

「もしもし、ねこ姉さん? いま駅に着いたから——」

「まなちゃんかね? すまん、わしじゃ。目玉おやじじゃ」

「えっ、目玉おやじさん?」

 

 通話口から聞こえてきたのはねこ娘ではなく、目玉おやじの声。

 

「驚かせてしまったかの。ねこ娘のスマホを借りさせてもらったんじゃ」

「大丈夫だけど、どうかしたの?」

 

 ねこ娘のスマホを借りてまで連絡してきたということは、それだけ急ぎの話ということだろうか。まなの胸に一抹の不安が過ぎる。

 

 電話口の声が鬼太郎に代わる。

 

「悪い、まな。実はねこ娘が体調を崩したんだ。今夜はまなと約束があるって聞いてたから、断りの連絡を僕たちの方からさせてもらった」

「それは構わないけど……。ねこ姉さんの具合は大丈夫なの?」

 

 鬼太郎と目玉おやじから電話が来たということは、断りの連絡ができないほど、ねこ娘の体調が芳しくないということ。

 

「……大丈夫なはずだ」

 

 鬼太郎の声に覇気がない。とても大丈夫とは思えない声音が、まなの不安を煽る。

 

「私、お見舞いに行く」

「ダメだ」

 

 まなの提案はしかし、鬼太郎に一蹴される。

 

「どうしてよ!」

 

 鬼太郎をたしなめる目玉おやじの声が聞こえ、それから申し訳なさそうに目玉おやじが語りかけてくる。

 

「すまんの、まなちゃん。ねこ娘だけでなく、ゲゲゲの森全体で、ここ最近妙なことが起こっておるのじゃ」

「妙なこと……? 悪い妖怪が暴れてるとか?」

「いいや、妖怪とは関係ない。こればかりはわしら妖怪には如何ともしがたいのじゃ。今、事態を収めるために専門家を呼んでおる」

 

 鬼太郎たちでもどうしようもない事態とは、それも妖怪絡みではないと。

 それでは一体……?

 

「今、ゲゲゲの森に来ることは危険じゃ。わしらもまなちゃんを巻き込みたくはない、分かっておくれ」

「そんな……」

「専門家ならねこ娘のことも治してくれるはず。元気になったらまた連絡するから、まなちゃんは安心して待っておってくれ」

 

 そう言い残し、通話が切断された。

 

「ねこ姉さん……」

 

 目玉おやじは安心して待っていろ、と言ったが、話を聞く限り状況はかなり悪いらしい。

 

 しばらく迷ってから、まなは足早に歩き出した。

 

 ◆◆◆

 

「来ちゃった……」

 

 まなは、ゲゲゲの森に通じる神社の前にいた。

 鬼太郎たちは来るなと言ってくれたが、あのねこ娘が体調を崩したと聞いて、じっと待っていることはできなかった。

 

 ちょっと様子を見るだけ。危なそうだったらすぐに帰ればいいだろう。

 

 そう自分に言い訳しながら、まなは鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れる。

 

 辺りには街灯も少なく、人気のない境内は少し薄気味悪く感じるほど静まり返っている。

 ゲゲゲの森に通じる小径は、この神社の裏側だ。

 そちらへ向かおうとしたその時、まなは気付いた。

 

 人がいる。

 

 暗くて顔はよく見えないが、女らしい。

 こんな時間に一体何をしているのだろう。

 

 人影がこちらを振り向いた。互いの視線が交錯する。

 

 女がゆったりとこちらへ歩いてきた。

 

 近付いてくるにつれて、女の風貌がはっきりとしてくる。

 すらりとした体躯で背は高く、ちょうどねこ娘と同じくらいか。見たところ、歳はまなと同じくらいに思える。

 その女は現代日本の常識からして、少し浮いた格好をしていた。大正ロマンというやつだろうか、深緑の着物に茶色い外套を羽織っている。

 

 何より目を引くのは、その女が背負っている木箱だった。

 時代劇や大昔の日本を舞台にした漫画なんかで見かける、大きな木箱を背負っている。

 

 謎の女は、丸メガネの奥で光る切れ長の双眸をすっと細めて、まなを見据えた。

 

「こんな時間に女性が一人で出歩くのは、感心しないね」

「そ、それはあなたもでしょう?」

 

 少しむっとしてまなが言い返すと、女は「確かに」と笑った。

 そして、まるで天気の話でもするかのように続けた。

 

「キミも妖怪か?」

「…………」

 

 背筋に薄ら寒いものが走った。心臓の鼓動が速くなる。

 女の探るような目つきは、まなからすればあまり気分のいいものではない。

 

 いつでも逃げ出せるように足を半歩下げながら、まなは答える。

 

「私は、人間。あなたは何者なの?」

 

 まなの問いには答えず、女は続けた。

 

「ただの人間なら、なおさらここにいるべきじゃない。帰った方がいい」

「答えて」

 

 警戒を滲ませるまなに、女はふっと息をついた。

 

「怖がらなくていい、別に取って食おうってんじゃないんだ。私も人間だよ」

 

 まなは目の前にいる女をじっと見つめる。

 その風貌も喋り方も胡散臭い。本当に信じていいのか判断がつかなかった。

 

 女は困ったように眉尻を下げた。

 

「こんなこと言っても信じちゃもらえないだろうけど、この先には妖怪が住んでるんだ。危ないから帰りな」

「妖怪……ゲゲゲの森……」

 

 まなの口からこぼれた言葉に、女は目を見開いた。

 

「知ってるのか?」

「ゲゲゲの森に何の用があるの?」

 

 女は口元に手を当てて、考える素振りを見せた。

 

「あなたは何者なの?」

 

 さらにたたみかけるまなに、女は諦めたように口を開いた。

 

「私は薬袋智深(みないともみ)。旅の蟲師をやっている」

「むしし……?」

「ああ。この先のゲゲゲの森に住む妖怪に頼まれて来たんだ」

 

 まなの脳裏に、目玉おやじとのやり取りが蘇る。

 

「もしかして、目玉おやじさんが言ってた、専門家の人?」

「そんな大層なもんじゃないけどね。私を呼んだ妖怪は、確かに目玉おやじと名乗っていたよ」

 

 何という偶然だろう。

 息を呑むまなに、今度はトモミが問うた。

 

「さあ、次はキミが答える番だ。ゲゲゲの森のことを知っているんだね? キミは何者だ? なぜここにいる?」

「私は、犬山まな。ゲゲゲの森に住む妖怪たちと友達なの。ねこ姉さん——えっと、友達の妖怪が病気で苦しんでるって聞いて、お見舞いに」

「へぇ、妖怪と友達の人間。なるほどね」

 

 納得がいったのか、トモミは柔らかく微笑んだ。

 

「実は、私はゲゲゲの森に行くのが初めてでね。慣れない土地を1人で歩くのは心許ない。まな、と言ったね、道案内を頼まれてはくれないか? キミの友達も私が助けてみせる」

 

 不安は残るが、鬼太郎や妖怪たち、そしてねこ娘を助けるためなら、まなに断る選択肢はなかった。

 

「うん。分かった」

 

 ◆◆◆

 

 境内の裏手に回り、茂みをかき分けていくと、どういう理屈かは分からないが、ゲゲゲの森へと通じている。

 

 トモミを伴って森に足を踏み入れた瞬間、まなは思わず顔をしかめた。

 

「うっ、何これ……?」

 

 熟れ過ぎた果実のような、甘くて苦い匂いが、そこかしこを漂い、まなにまとわりついてくる。

 夜行性の動物や妖怪の気配は感じない。ただ草木が異様なまでに鮮やかな碧に染まっている。

 ゲゲゲの森に何かが起こっていることは本当のようだ。

 

「トモミさん、これって……」

「ああ、凄まじい精気だ。普通の森や山では考えられないほどにね。まな、あまり大きく息をしないように。気が惑うよ」

 

 トモミは懐から何かを取り出すと、まなの手に握らせた。

 見ればそれは、指でつまめるくらいの小さな実のようだった。

 

「気絶しそうになったら、それを噛んで。気付け薬だから」

「分かった」

「さあ、急ごう」

「うん」

 

 鬼太郎の家へ向かう道中、見れば見るほど森の異常が目に映る。

 時折、地面に鳥が落ちていたり、獣の狂ったような鳴き声を耳にした。

 

 まなもまた、途中で言いようのない頭痛と倦怠感に襲われた。二日酔いを何倍にもひどくしたような感覚に、何度か目を回しそうになった。

 トモミからもらった、この世のものとは思えないほど苦い気付け薬がなければ間違いなく気絶していただろう。

 

 まなは、心底トモミが一緒にいてくれて良かったと思った。

 まな1人でこんなところを歩いたら、間違いなく無事では済まなかった。

 

 鬼太郎の家に到着した時には、まなはすっかりグロッキーになっていた。

 

「鬼太郎ー!」

 

 まなが鬼太郎の家に向かって声を張り上げると、すだれの奥から鬼太郎が顔を覗かせた。

 

 見知った顔を見て、安堵と疲労が押し寄せてくる。

 

「まな!」

 

 まなの姿を認めるや、鬼太郎は家から飛び出して、まなの体を支えてくれる。

 

「何で来たんだ? 来るなって言ったじゃないか!」

「ごめん、どうしても心配で……」

「まったく、いつも無茶ばかりして」

「えへへ。それは鬼太郎もでしょ。蟲師の人、連れて来たよ」

 

 鬼太郎の視線が、まなからトモミへと移る。

 

「あなたが、父さんの呼んだ——」

「蟲師のトモミです。それで、目玉おやじという方はどこに?」

「ここにおるぞ」

 

 鬼太郎の髪からひょっこりと目玉おやじが出てくる。

 

「ほう、あなたが。名前の通り、本当に目玉の姿ですね。狩房の方から文を受けて来ました、蟲師のトモミです」

 

 トモミは目玉おやじの姿に驚くこともなく、淡々と挨拶をした。

 

「剛毅なお方じゃ。大抵の人間はわしの姿を見ると驚くものじゃが」

「ふふ。仕事柄、こういうことには慣れてますから」

「頼もしいのぅ。よくぞ来てくださった。何卒、この森の妖怪たちを救ってくだされ」

「ええ、手は尽くします」

 

 挨拶が済んだところで、まなは口を開く。

 

「鬼太郎、ねこ姉さんは!? 無事なの?」

「今は家で寝かせてる。……状態は、あまりいいとは言えないな」

 

 まなはすがるようにトモミを見た。

 トモミが真っ直ぐまなを見返し、力強く頷いてくれる。

 

「まずはねこ娘という妖怪に会わせてほしい」

「分かった。家に上がって」

 

 鬼太郎の家に入ると、床に敷かれた布団にねこ娘が横たわっていた。

 

「ねこ姉さんっ!」

 

 ばたばたとねこ娘に駆け寄り、まなは顔を覗き込む。

 きつく目を閉じたねこ娘の顔は、玉のような汗がびっしりと浮かび、呼吸も荒く苦しそう。

 

 まなはそっとねこ娘の額に手を置く。

 

「すごい熱……」

 

 ねこ娘がうっすらと目を開けて、まなを見た。

 

「ねこ姉さん……!」

 

 ねこ娘は力なく笑みを浮かべた。

 

「悪かったわね。約束すっぽかして」

「いいの、そんなことは」

 

 初めて聞くねこ娘のかすれた声に、まなの目頭が熱くなる。

 

 鬼太郎が傍らにしゃがみ込んで、ねこ娘に優しく声をかけた。

 

「蟲師が来てくれた。もう安心だ」

「うん……」

 

 背負っていた木箱を下ろしたトモミがねこ娘を一目見て「やはりか」と呟いた。

 

 ちゃぶ台に乗った目玉おやじが、不安げにトモミに問う。

 

「蟲師殿、ねこ娘は助かりますかな?」

「ええ。光脈から湧き出た精気に当てられただけでしょう。薬を飲ませればすぐに治る」

 

 まなをはじめ、みんなで安堵の息をつく。

 

「ねこ姉さん、治るって!」

「うん」

 

 トモミが床に置いた木箱を開けると、中にはびっしりと小さな引き出しが並んでいる。

 トモミは迷いのない手つきで引き出しを開け、草やら木の実らしきものを取り出し並べていく。

 

「薬を調合します。湯を沸かしてください。あ、森の水は使わずに、この水を」

 

 トモミの差し出した水筒を受け取った鬼太郎が頷き、手早く火にかける。

 

 トモミが慣れた手つきで薬の材料と思しきものを小鉢に放り込み、すりこぎですり潰していく。

 

 まなはねこ娘の手を取って、にっこり笑いかけた。

 

「ねこ姉さん。治ったら、ケーキ食べに行こう。会社のそばに紅茶が美味しいお店を見つけたの」

 

 気が早いわよ、と苦笑いを浮かべつつ、ねこ娘が小さく頷いた。

 

「ありがとね、まな」

「うん」

 

 薬を調合しているトモミが、まなを呼んだ。

 

「話しているところ悪いのだけど、ちょっと手を貸してほしい」

「何をすればいいの?」

 

 まながそばに行くと、トモミが粉の入った袋とライターを差し出した。

 

「この粉を盛り塩の要領で部屋の四隅に置いて、火をつけてくれ」

 

 荒く砕かれた木屑のような粉をしげしげと眺め、まなは問う。

 

「これは?」

「蟲避けの香だ。この辺りは蟲が多いからね」

「むし……?」

「ああ、話すと長い。説明は後でするから」

「分かった」

 

 まなが香とライターを受け取ったのを見て、トモミは目玉おやじの方を向いた。

 

「少し煙たくなるけど、いいですか」

「蟲に関してわしらは門外漢じゃ。蟲師殿にお任せいたす。まなちゃん、やっておくれ」

「あ、うん」

 

 鬼太郎から小皿を4つ借り、まなは香を焚く用意をする。

 

 トモミや目玉おやじの会話からして、『蟲』というものが、まなの知るクモやチョウの類でないことは何となく想像がつく。

 詳しく聞きたいところだが、今はトモミの指示に従った方がいいだろう。

 

 香を皿の上に小さく盛りながら、まなは目玉おやじとトモミの会話に耳を傾ける。

 

「ねこ娘さんの他に、このような症状が出ている者はいますか?」

「うむ、ゲゲゲの森に住む妖怪の何人かが同様に苦しんでおる」

 

 そう言えば、馴染みの子泣きじじいや、砂かけばばあたちの姿も見ていない。

 もしかしたら、ねこ娘と同じような症状が出ているのかもしれない。

 

「森に異変が起き始めてからどのくらいで?」

「熱病に侵された者が出始めたのはここ数日じゃ。そう言えば、1週間くらい前から一部の妖怪が蟲が騒がしくなった、と言っておりましたわい」

「確かに、この森にいる蟲の数は異常です」

「わしの目にも蟲は見えぬ。不甲斐ない限りじゃ。蟲師殿には手間をかけまする」

「人間も妖怪も蟲が見える者はわずかですから、気にすることはありません。こういった事態を収めるために我々蟲師がいます」

「かたじけない」

 

 香に火をつけながら、まなは考える。

 

 ここに来るまで、まなの目にも蟲らしきものは一切見えなかった。

 トモミの言葉からして、まなにも見えないものなのだろう。

 

 見えずとも確かに存在するというのは、妖怪と少し似ていると思った。

 見られるものなら見てみたいが。

 

「お湯が沸きました」

 

 湯気を立てる鍋を片手に、鬼太郎がトモミのそばへ歩み寄る。

 

「こっちも調合が終わりました」

 

 トモミは手にしていた小鉢を持ち上げた。

 

「ここに湯を注いで」

「はい」

 

 全ての香に火をつけ終えて、まなもトモミの手元を覗き込む。

 小鉢の中には、黒々としたペースト状の物体があった。

 

「これが薬……?」

「見た目は悪いが効き目は確かだから、安心してよ。——さあ、これを飲ませてやって」

 

 差し出された小鉢を受け取り、まなはねこ娘の横にしゃがむ。

 

「ねこ姉さん、体起こせる?」

「ええ」

 

 のっそりと上体を起こすねこ娘の背中を支えながら、まなは薬の入った小鉢をそっと口元に持っていく。

 

 真っ黒などろりとした薬を見て、ねこ娘は眉をひそめた。

 

「これ、飲むの……?」

 

 正直なところ、まなにもねこ娘の気持ちは分かる。

 お世辞にも綺麗とは言い難いそれを口にするのは誰でも躊躇するだろう。

 

「見た目と味は最悪だけど我慢して。飲まなきゃ治らないよ」

 

 淡々としたトモミの言葉に覚悟を決めたか、ねこ娘が一息に薬を飲み干す。

 その反応は劇烈だった。

 

「ぬぐっ、くっ……! ふぐにゃあっ」

 

 よほど不味いのだろう、目を白黒させながら口をぱくぱくさせている。

 

「ねこ姉さん、大丈夫!?」

「き、鬼太郎っ、みず、水をっ!」

「あ、ああ。汲んでくる」

 

 立ち上がろうとした鬼太郎に、トモミが待ったをかける。

 

「ここの森の水はダメだ。薬が効かなくなるよ」

「それじゃあ、このお湯を——」

 

 鬼太郎が鍋を持ち上げるが、トモミはやはり首を横に振る。

 

「その湯は薬を溶くのに使うんだ。私が持ってるのはそれで全部だから、無駄にはできない」

 

 無慈悲なトモミの言葉に、ねこ娘が悲鳴を上げる。

 

「そんにゃあっ……!」

「すまないね。妖怪用に調合すると、どうしてもそうなってしまう」

「アンタ、これで薬が効かなかったら、覚えときなさいよ……!」

「ねこ姉さん! 爪っ! 爪が伸びてる!」

 

 普段クールなねこ娘にここまで言わせるとは、どんな味なのか。

 まなは薄ら寒い思いがした。

 

 ◆◆◆

 

 ねこ娘が何とか落ち着き、寝息を立て始めたところで、トモミは薬包と湯の入った水筒を鬼太郎に渡した。

 

「他の妖怪たちにも、この薬を湯に溶いて飲ませれば、明日には落ち着くから」

 

 薬包を不安げに眺めた鬼太郎が、恐る恐る尋ねる。

 

「本当に飲ませて大丈夫なのか……?」

 

 妖怪の中でも比較的温厚なねこ娘ですらああなったのだ。他の妖怪の中では暴れる者も出るかもしれない。

 

「効果は保証するよ。妖怪によっては怒るのもいるかもしれないが……まあ、そこは何とかしてくれ」

「無責任だな」

「これ、鬼太郎。蟲師殿が調合してくだすったんじゃ。感謝こそすれど、そんなことを言ってはならん」

「それは、そうですけど……」

 

 ため息をつく鬼太郎に、まなは内心で同情する。

 これから森の妖怪たちに薬を届けに行くのだ。かなりの苦労を強いられるだろう。

 

 目玉おやじを頭に乗せて、鬼太郎は家から出ようとすだれに手をかけた。

 

「まな、ねこ娘を頼む」

「うん」

「トモミさんは一緒に来てくれないんですか?」

 

 トモミは申し訳なさそうに肩をすくめた。

 

「一緒に行きたいのだけど、他にやることがあるから」

「やること?」

「この森の異変は、おそらく光脈筋によるものだ。ヌシを探して異変の原因を掴む」

 

 『光脈筋』。『ヌシ』。

 どちらもまた、まなの知らない単語だ。

 

「探しものなら、一緒に来た方がいいのでは?」

「いや、ここで十分だよ。妖怪ほどじゃないにせよ、蟲師にも使える術はあるからね」

「術……?」

 

 怪訝そうな鬼太郎に、目玉おやじが声をかける。

 

「鬼太郎、ここは蟲師殿に任せて、わしらは早く薬を届けてやろう」

「はい、父さん。それじゃ、行ってくる」

「気をつけてね」

 

 まなの言葉に鬼太郎は頷くと、家から出ていった。

 カランコロンと下駄の音が徐々に遠ざかっていく。

 

 布団に横になったねこ娘は、穏やかに寝息を立てている。

 

「薬には眠気を催す作用もあるから、朝までゆっくり眠れるだろう」

「そっか。よかった……。トモミさん、本当にありがとう」

「礼ならもう10回は聞いたよ」

「そ、そんなに言ってたかな?」

 

 完全に無意識だった。まなは気恥ずかしさを笑って誤魔化す。

 

「さて、私ももうひと仕事だ」

 

 そう言ってトモミが木箱から取り出したのは、瓢箪だった。

 中には液体が入っているらしく、揺らす度にちゃぷちゃぷと音がする。

 

「それは?」

光酒(こうき)だよ」

「こうき……?」

「光の酒と書いて『こうき』と読む。私たち蟲師の仕事道具の一つさ」

 

 またも知らない単語。今日だけで何度目だろう。

 まなはいよいよ好奇心が抑えきれなくなった。

 

「あの、トモミさん!」

 

 まなはずいと詰め寄る。

 

「うん?」

 

 トモミが一歩後ずさるが、その分まなはさらに一歩詰め寄る。

 

「どうしたの?」

「蟲師って何なの? 目玉おやじさんとの話聞いてて、いろいろな単語が出てたけどさっぱり分からなくて! 蟲って何? ただの生き物じゃないんだよね? 妖怪とは違うの!?」

「ぐ、ぐいぐい来るね」

 

 トモミは手振りでまなを落ち着かせると、ゆったりと腰を下ろした。

 それに倣って、まなもトモミの前に座る。

 

「少し長い話になるけど、聞いてくれる?」

「うん」

「蟲というのは、現代社会ではもうほとんど忘れ去られてしまっているけど、確かにいる生き物なんだ。まなが知りたいと思ってくれるのは、蟲師の私としても嬉しいよ」

 

 穏やかな笑みを浮かべて、トモミはそう前置きする。

 まなは固唾を飲んで、話の続きを待った。

 

 懐かしい感覚だ。中学生の頃、初めて鬼太郎たち妖怪と出会った時も、不安と期待がごちゃ混ぜになった感覚に襲われた。

 すっかり童心に帰ったまなは、トモミの声に耳を澄ませる。

 

「もう察しがついてると思うけど、蟲というのは昆虫や爬虫類なんかとは一線を引く生き物だ。それは、生命の根源に近い存在だよ」

「生命の根源?」

 

 壮大な言い回しに、まなは首を傾げる。

 

「そう。——まな、左手を出してみて」

 

 言われた通りにすると、トモミはそっとまなの中指の先端をつまんだ。

 

「ここは、心臓から一番遠い所だ。ここにいるのが、私たち人間。他の指は鳥や魚、昆虫なんかだね。親指は植物。——ここまでいいかな」

 

 トモミの語り口は、学校の優しい教師のようだった。

 

「うん」

 

 まなが頷くとトモミは続ける。

 

「心臓に近づくに連れて、生き物は単純なものになっていく。手首の辺りで血管が一つにまとまってるね。そこにいるのが菌類や微生物。植物や動物の区別がつかなくなり始めるんだ」

 

 トモミがちらりとまなの顔を見たが、まな自身は気付かない。

 トモミの話に夢中になりつつあった。

 

「そして、その先にもまだ生き物がいる。前腕、肘、肩を通り抜けて、心臓の近く。ここにいるのが、私たちが『蟲』と呼ぶ生き物だ」

「……妖怪は?」

「うん?」

「今の話になぞらえるなら、妖怪はどの辺にいるの?」

 

 まなの疑問に、トモミは「そうだなぁ」と考えて、答える。

 

「妖怪は、私たち生き物とはまた違った理の中で生きているからね。正確にどうかは分からないけど、私なりの解釈で言うなら——爪、かな」

「爪かぁ……」

 

 まなはしげしげと自分の爪を眺める。

 

「ここにねこ姉さんや鬼太郎たちがいるんだね」

 

 トモミが吹き出す。

 

「今のは例え話だからね。別に鬼太郎たちが爪から生まれてきたわけじゃない」

「わ、分かってるよ!」

 

 トモミはひとしきり笑ってから、咳払いをした。

 

「えーと、何の話だっけ」

「蟲の話!」

「あ、そうだ。ごめんごめん。——私たちと蟲は同じ生き物でも、すごくかけ離れた存在だから、こちらの常識が全然通用しない相手だ。私たち蟲師は、蟲を研究したり、時に蟲が起こすトラブルを解決したりすることを生業とする人間だよ」

 

 分かった? と首を傾げるトモミに、まなは曖昧に頷く。

 

「何となく分かったけど、スケールが大きくて実感が湧かないや」

「まあ無理もないよ。とにかく、蟲は生命そのものに近い存在で、実体を持たないものも多い。だからそれを知覚できる生き物も多くはないんだ」

 

 一度言葉を切って、トモミはまなを真っ直ぐ見つめた。

 

「だけど、蟲という生き物は確かにこの世にいるってことを、まなには覚えておいてほしいな」

 

 それがきっと、トモミが一番言いたいことなのだろう。

 それは勿論伝わっているし、まなだって伊達に長年妖怪と付き合ってきたわけではない。

 

「『見えてる世界が全てじゃない』ってことだね」

 

 トモミは嬉しそうににっこりと笑った。

 

「さて、この続きは外で話そうか」

 

 瓢箪を手にしたトモミは、すっくと立ち上がる。

 

「ちょっと待って。出歩くのは危ないんじゃない?」

「別に歩き回ったりはしないよ。この家の前で事足りる」

「そ、そうなの?」

 

 躊躇いなくすだれの向こうへ出ていくトモミを、まなは慌てて追いかける。

 

 玄関を潜ったトモミは、するすると梯子を降りてゲゲゲハウスが設けられている大樹の根元に立つ。

 むせ返るような甘苦い臭気に顔をしかめながら、まなもトモミの隣に並び立つ。

 

 辺りは静寂に包まれており、見えるのは青々と茂る森だけ。

 

「ここにも、蟲がいるんだよね?」

「そこかしこにね」

 

 トモミの話を疑うつもりは毛頭ないが、やはりいると分かっているものを見ることができないのは残念だ。

 

「見てみたい?」

「そりゃ、まあ」

 

 トモミは口元に手を当て、少し考える素振りを見せてから「よし」と呟いた。

 

「まなにも見せてあげる」

「ほ、本当に!?」

 

 トモミはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

 

「ああ、本当だとも。ただし、あんまりやっちゃいけないことから、内緒ね?」

「う、うん……!」

 

 いいのだろうか。一抹の不安が過ぎるが、今のまなは好奇心が圧倒的に勝っていた。

 

 トモミが瓢箪の栓を抜き、口をまなの方に向ける。

 

「手出して」

「はいっ」

 

 まなは言われるままに手を出す。何だか緊張してきた。

 

 トモミはまなの手のひらに、瓢箪の中身を数滴落とした。

 手の中で揺らめく液体に、まなの目は釘付けになる。

 

 その液体は、淡い輝きを放っていた。その輝きはこの世のものとは思えないほど煌びやかで、厳かで、思わず吸い込んでしまいたくなるほどに馨しい芳香を放っていた。

 

「それが光酒だ」

「光酒……」

「光酒は生命の源であり、生命そのもの。この世にそれ以上に美味いものはないとまで言われている」

「ほぇー……」

「飲んでみて」

 

 躊躇はなかった。

 得体の知れないこの液体を、まなは飲みたくて飲みたくて仕方がなかった。

 夢を見てるような心持ちで、まなは光酒を口に含む。

 

 ほのかな甘みと、ぞくりとするほどに鮮やかな風味が喉を滑り落ちていく。

 

「どうかな、光酒のお味は?」

「すごく……美味しい……」

 

 今まで食べたどんなものよりも美味だった。まるで幻のような体験だ。

 

「普通に生きてたらまず味わえないからね」

「ありがとう……」

「さて、それじゃあいよいよ蟲とご対面と行こうか」

 

 ぼうっとしていた意識が、一瞬にしてはっきりとする。

 

「あっ、うん! そうだね!」

 

 今の体験は忘れようにも忘れられそうにない。

 あまりにも鮮烈にまなの記憶に焼き付いた光酒の味は、思い返すと寒気がしてくるほどに魅力的だった。

 

 トモミがまなの足元にしゃがみ込む。

 

「どうしたの?」

「ムグラを待ってる」

「ムグラ?」

 

 まなの声には応えず、トモミは地面を凝視している。

 

「来たな」

 

 つられてまなも地面を見るが、何もいない。

 

 突然トモミの右手が動いて、地面の辺りをさっと掴んだ。

 右手で何かを掴んだまま、トモミがすっと立ち上がる。

 

「目を閉じて」

 

 トモミの鋭い声にまなはぎゅっと目を閉じる。

 

「動いちゃダメだよ」

「うん」

 

 まなが動かずにいると、額の辺りで何かを感じた。細長い空気の流れのようなものが、まなの額から頭の中へ入ってくるような感覚に襲われる。

 

「わっ! なになに!? なんか入ってきてるけどっ、これ大丈夫なやつ!?」

「大丈夫、そのままそのまま」

 

 やがて額に感じていた空気の流れが収まると、トモミが静かに告げた。

 

「まな、目を開けて」

 

 言われるがままに目を開けると。

 

 目の前に広がる光景に、まなは声にならない歓声を上げた。

 

「すごい……!」

 

 夜、鬱蒼と静まり返っていたゲゲゲの森は、まったく違う光景に様変わりしていた。

 

 そこかしこを光の塊が蠢き、飛び回っている。

 ひな祭りの時に飾るぼんぼりが、何百、いや何千と一斉に灯されたようだった。

 

「ほら、足元にも」

 

 吸い寄せられるように下を見れば、まなの足元にも。

 ぼんやりとした光を放ちながら、キノコのような形をした生き物が、ふわりふわりと傘を揺らめかせている。

 

 大樹の根元に広がる池の水面を、あぶくのようにまん丸な何かが、ゆったりと跳ねている。

 

「これ、全部、蟲なの?」

 

 震える声でまなが訊くと、トモミは頷いた。

 

「どう?」

「すごく綺麗。夢みたい……」

「気に入ってくれたようでよかった」

「トモミさんは、いつもこんな光景を見てるんだね」

「そうだよ——と言いたいところだけど、ここまでのものは私も見たことがない」

 

 まなの方へふよふよと近付いてきた蟲を、右手で捕まえながら、トモミは続ける。

 

「蟲はデリケートだからね。大昔はもっと大量にいたらしいけど、今は人間の活動が活発になって、手付かずの森が減っているから、数を減らしてしまったのさ」

「そうなんだ」

「ゲゲゲの森は人間の手が入っていないから、蟲たちからすれば、理想の環境だろうね」

 

 捕まえていた蟲を放り投げたトモミの説明は続く。

 

「それに、ゲゲゲの森はどうやら光脈筋らしい」

「光脈筋?」

「さっき光酒を舐めたでしょう。あれは地下深くを流れる光脈から抽出したものなんだ。光脈が流れる土地は、精力が溢れて草木や動物が繁栄する。そして、光脈が流れなくなると枯れていく」

 

 そしてここからが本題なんだけど、とトモミは真面目な声で言った。

 

「光脈が流れる土地は、無尽蔵に精力が溢れ出してしまう。この森に入った時、まなも目を回しそうになったでしょ」

「うん。甘いような苦いような、不思議な匂いがするよ」

 

 ここでまなは、トモミがねこ娘に水を飲ませようとしなかった理由に思い当たる。

 

「トモミさんが、この森で汲んだ水を飲んじゃダメって言ったのは……」

「よく気付いたね。——そう、光酒を帯びてる可能性のある水は飲ませたくなかった」

「なるほど」

 

 そう言われると、ねこ娘に対するトモミの指示にも納得がいく。

 

「まなの方は大丈夫かな? そこそこの時間この森にいるけど、気分は悪くなってないか?」

「うん、今のところは何とか」

 

 ようやく少し慣れてきたが、二日酔いのような感覚は、やはり完全には抜けていない。

 

「過剰な精力に当てられると、生き物たちもおかしくなってしまう。この森で妖怪たちに起こっている異変も、それが原因だ」

「それじゃあ、その光脈を何とかしないと」

「うん。ほっといたら、異常はさらに拡大するはず」

「方法はあるの?」

 

 まなの問いに、トモミが口元に手を当てて唸る。

 

「そこが問題でね……。本来なら光脈の流れる土地には、ヌシが必ずいて、そいつが溢れ出す精気を制御するんだ。ただ、この森の様子を見る限り、そのヌシに何かあったと考えるのが妥当だろうね」

 

 次から次へと入ってくる情報に、まなは頭がついてこない。

 つまりは、トモミの言うヌシとやらを見つければ、この異変は収まるということか。

 

 トモミがパンと手を合わせる。

 

「と、いうわけで。今からヌシを探す」

「探すって……ゲゲゲの森はすっごく広いよ?」

 

 端から端を歩くのだって、とんでもない時間がかかるし、まなだってゲゲゲの森のことを全て知っているわけではない。

 それにゲゲゲの森に住む妖怪は、人間に友好的な種族ばかりではない。一歩間違えれば、それこそ命が危ない。

 そんな状態でヌシを探そうだなんて、土台無理な話に思えた。

 

 そんなまなの心配などどこ吹く風で、トモミはにやりと笑った。

 

「まあ、見ててよ」

 

 そう言うと、トモミは懐から小さな盃をいくつか取り出し、円を作るように地面に並べた。

 それから瓢箪の栓を抜いて、盃一つ一つに少しずつ光酒を注ぐと、靴と靴下を脱いで地面に座った。

 

「今からムグラノリをする」

「ムグラノリ?」

「ムグラという蟲は、山の神経のような蟲でね。そいつらに私の意識を乗せて、森の中を走ってくる」

 

 あっけらかんと言うトモミ。

 

 鬼太郎に先ほどトモミが言っていた『術』とはこのことだろうか。

 

 見れば、トモミの周りの地面から、細長い糸のような蟲が、次から次へと伸びてきて、トモミの体に絡みつき始めている。

 

「じゃあ、少し行ってくるよ。あ、私の体には触らないようにね、戻ってこられなくなるから」

「ちょっ、トモミさ——」

 

 ぶわり、と大量のムグラがトモミの全身にまとわりつき、トモミは座ったまま意識を失った。

 

「え、えぇ……」

 

 トモミは大丈夫と言っていたが、どう見たってヤバそうだ。

 

「大丈夫、だよね……?」

 

 取り残されたまなは、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

 ◆◆◆

 

 トモミがムグラノリなるものを始めてからしばらく。

 

 まなは落ち着かない心持ちで、トモミの意識が戻るのを待ち続けていた。

 手持ち無沙汰に、近寄ってきた蟲を手のひらの上でぽんぽんと跳ねさせてみたが、気を紛らわせることは到底できそうにない。

 

「はぁ、鬼太郎は帰ってこないし、トモミさんも目を覚まさないし」

 

 何とはなしに、まなはゲゲゲハウスを見上げた。

 ねこ娘の様子はどうだろうか。薬を飲んで落ち着いたから、熱も多少は下がったかもしれない。

 まなが梯子に手をかけようとしたその時、トモミのうめき声が聞こえた。

 

「あっ、トモミさん!」

 

 トモミはこめかみを抑えながら、焦点の合わない目でまなを見た。

 体もふらついている。

 

「大丈夫なの!?」

「何とかね。思ったよりゲゲゲの森が広かった。ちょっと長くやりすぎたよ」

 

 苦々しげに呟き、トモミは気付け薬を一粒、口に放り込んだ。

 

「それで、ヌシ? には会えたの?」

 

 トモミは頷く。

 

「一応は見つかった。他にもいろいろと分かったことがある。まずは中に入ろう、少し疲れた」

 

 梯子を登って家に戻ると、ねこ娘はまだぐっすり眠っていた。

 そっと額に手を当てると、熱は少し下がっているようだ。先ほどまでは苦しそうにしていたねこ娘の表情も穏やかなものになっている。

 

「どうだい、彼女の様子は?」

 

 木箱から取り出した煙草を咥えながら、トモミが尋ねてくる。

 

「大分落ち着いたみたい」

「なら良かった」

「すごいね、蟲師って」

 

 そうでもないさ、とトモミは煙草の煙を吐き出しながら笑った。

 

「私に言わせれば、まなの方がよっぽどすごいよ」

「私が? 私は大したことないよ。いつもねこ姉さんや鬼太郎たちに助けてもらってばかりだもん」

「だからだよ。特別な力がなくても、妖怪や蟲みたいな異形のモノに正面から向き合おうしている。なかなかできることじゃない」

 

 改めて褒められると、何だか気恥ずかしい。まなはただ、自分と違う存在たちを知ることが、楽しくて素敵なことだと思っているだけだから。

 

「私はね、嬉しいんだよ。まな」

「何が?」

「蟲というのは普通の生き物と違う。下等で奇怪な隣人だ。私は日本中旅しながら蟲師をやってるから、蟲のトラブルに巻き込まれた人間や妖怪たちを何人も見てきた。ほとんどの者は、蟲を恐れ敵と見なした」

 

 仕方のないことだけどね、とトモミは力なく笑う。

 

「だけど、まなは蟲の世界を受け入れてくれた。私はそれが嬉しいんだ。……ありがとう」

 

 トモミはうっすらと頰を染めて、それから誤魔化すように咳払いをした。

 

「さて。せっかくまなも蟲が見えるようになったんだ。鬼太郎たちが戻ってくるまで、もう少し蟲のことを知ってもらおうかな」

「うん、私も知りたい。蟲たちのこと」

「それじゃあ、まずは肌のシミやホクロを食べる蟲の話でもしようかね」

「何それ無敵じゃん!?」

 

 ◆◆◆

 

「——それで、その後、トモミさんはどうしたの?」

「どうにもならなかったからね、慌てて逃げたよ」

「へぇ! すごいなぁ」

「あれには懲りたね」

 

 苦笑いしながら煙草の煙を吐き出すトモミ。

 

 トモミは、薬袋という代々蟲師を営む家系に生まれたらしく、幼い頃から蟲の知識を叩き込まれて育ったそうだ。

 中学を卒業してすぐに、蟲師として旅を始めたらしい。

 

 トモミが経験した蟲との関わりの話は、まなの心を強く惹きつけた。

 読み聞かせをせがむ子供のように、まなは蟲の話をたくさん聞かせてもらった。

 

「何を盛り上がってるんだ? 外まで聞こえてたぞ」

 

 入り口のすだれが持ち上がり、鬼太郎が姿を現した。

 

「お帰り鬼太郎。今、トモミさんから蟲の話を聞かせてもらってたの」

「やあ、すまない。手間をかけさせた」

 

 トモミの労いに、鬼太郎はため息をついた。

 

「薬はありがとう。でももう少し味の方を何とかしてもらった方がいいかもしれない」

「すまないね、善処するよ」

 

 鬼太郎は明らかに疲れている様子だった。妖怪たちに配った薬は、やはり評判がよくなかったらしい。

 

 目玉おやじが鬼太郎の頭からちゃぶ台に飛び移った。

 

「どうじゃ、ねこ娘の様子は?」

「ぐっすり寝てるよ。かなり落ち着いたみたい」

 

 まなの返事に、鬼太郎も安心したように表情を緩める。

 

 目玉おやじがトモミの方へ歩み寄り、深々と頭を下げた。

 

「蟲師殿、今回のことは何とお礼を申せばよいか……」

「これも仕事だから。頭を上げてください」

 

 ねこ娘の顔に張り付いた髪を軽く整えながら、鬼太郎が尋ねる。

 

「森の異変の原因は掴めたのか?」

「大体はね」

 

 トモミは頷き、説明を始めた。

 

 先ほどまなに話してくれた光脈筋のこと。

 地下深くを流れる光脈は、長い時をかけて少しずつ移動していくということ。

 ゲゲゲの森の変調は、その光脈筋が移動してきたことに原因があること。

 

 三人は口を閉ざしてトモミの話に耳を傾けた。

 

「おそらく、1週間ほど前に光脈がゲゲゲの森に移動してきたのでしょう。森の変調もそう考えると説明がつく」

 

 目玉おやじが神妙な面持ちで頷いた。

 

「光脈筋……噂には聞いておったが、これほどの影響を及ぼすとは思わなんだ」

「ゲゲゲの森は、ただでさえ精気の強い場所と見受けられます。そこに光脈筋ができたことで、異様なほどに精気が強くなっている」

「なるほどのう」

 

 鬼太郎が身を乗り出した。

 

「それで、強くなった精気を収めるにはどうしたら?」

「本来、光脈を流れる土地には、精気を制御するためのヌシがいる。そのヌシが死んだり、変調を来すと、今回のようなことになるのです」

「それじゃあ、そのヌシというのを探し出せばいいのか」

「いや、二人が薬を配っている間に、ヌシは見つけた。ただし、まだ卵の状態だった」

「卵……?」

 

 すなわち、ヌシはまだ産まれていないということ。

 

「それって、つまりどういうこと?」

「ヌシが孵るまで、あと数日といったところだろう。そうなれば、この森の異変は収まる」

「そっか! じゃああとはヌシが生まれてくるのを待ってればいいんだ!」

 

 これで万事解決。まなは手を叩いて喜んだ。

 安堵からか、精気に当てられたせいか、どっと疲労感が押し寄せてくる。

 

「ああ、ヌシが孵るまでの間、私たちにやるべきことはない」

 

 事態の解決の兆しが見えたというのに、トモミの声は暗い。

 鬼太郎と目玉おやじもまた、複雑な顔をしている。

 

「みんな、どうしたの……?」

 

 目玉おやじがまなの方を向いた。

 

「蟲師殿は、ヌシが孵るまでの数日()()()()()()()と言った。それは裏を返せば()()()()()()()()という意味になるのじゃよ」

「そう、なの……?」

 

 イマイチ何が言いたいのか分からず、まなは首を傾げるばかり。

 

 苛立ちを滲ませた鬼太郎が、目玉おやじの言葉を引き取った。

 

「ゲゲゲの森に異変が起こり始めてから、もう1週間以上経つ。異常な精気に当てられて、病気になったり、暴れたりする妖怪も増えているんだ」

 

 トモミも鬼太郎の言葉に続く。

 

「蟲の数も異常だし、草木の様子も明らかにおかしい。普通ではありえない成長の仕方をしているのを、まなも見ているはずだ」

 

 いつの間にか、焚いていた香も燃え尽き、家を満たしていた煙が薄くなり始めている。

 部屋の隅っこでゆらゆら揺れる蟲が、まなの目に留まる。

 

 トモミが煙草に火をつけ、煙を吐き出した。

 

「生命の均衡が崩壊しかけている。ヌシが孵るまで、ゲゲゲの森が持つか分からないね」

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