妖怪と蟲師 〜薬袋智深の旅情譚〜   作:深山碧

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第二話 卵の守り手

 人間社会は目覚ましい速度で発展していく。人間が作り上げた文明は、夜に明かりを灯し、闇を遠くへ追いやった。

 

 妖怪としてこの世に生を受けたねこ娘は、発展していく人間の文明に適応しながら、それなりの距離感で人間社会と関わってきた。

 そんな彼女も、しばしば本当の闇が恋しくなる時がある。

 

 そんな時は、()()()()()()を閉じてみる。

 

 普通の瞼の裏側にある、もう一つの瞼を閉じると、すっと真の暗闇が降りてくる。

 己を取り巻く悩みや面倒ごとを忘れて静寂に浸るあの瞬間は、決して嫌いではない。

 

 ある日、ねこ娘がふたつめの瞼を閉じていると、遠くの方から光が近付いてくるのが見えた。

 その光は音もなく、しかし力強く、暗闇を押しのける洪水のように迫ってきた。

 

 この世のものとは思えぬほど、厳かで鮮烈な光景。

 これほどまでに美しいものを、ねこ娘は見たことがなかったのである。

 

 ゲゲゲの森に異変が起こる、数日前の出来事だった。

 

 それから数日の間、ふたつめの瞼を閉じるたび、光の川は輝きを増していった。

 それに伴って、ゲゲゲの森から溢れ出す精気は強くなり、体の不調を訴える妖怪も増えていった。

 

 あの川は何か良くないものを運んできたのではないか。

 そう思った時には、ねこ娘も熱病を発症していた。

 

 ◆◆◆

 

 息苦しさを覚えて、ねこ娘は目を覚ました。首元に何かが絡みついて鬱陶しい。

 

 首だけ横に向けると、至近距離に見知った顔があった。

 

「まな……?」

 

 まながくぅくぅと寝息を立て、あどけない寝顔をさらしている。もうとっくに人間の大人だが、こうして見るとまだまだ子供っぽい。

 

 ねこ娘の首に巻きついていたのは、まなの両腕だった。

 起こさないよう慎重に腕を退けて、そっと頭を撫でてやる。ふわふわの髪の手触りは悪くない。

 事情があったとはいえ、約束をすっぽかしてしまったのはこちらだ。近いうちに埋め合わせはしなければならないだろう。

 

 辺りを見回すと、座布団を枕に鬼太郎も眠っているのが見えた。

 

 窓から見える空の色からして、日の出より少し前といったところか。

 昨晩までねこ娘を苦しめていた熱っぽさと怠さはすっかり治っていた。

 

 おそらくあの蟲師が寄越してくれた薬が効いたのだろう。味は本当に最悪だったが。

 

 眠っている人たちを起こさぬよう、そっと布団を抜け出し、すだれをくぐって外に出た。

 

「体調の方はどうだい?」

 

 声がした方に目をやれば、すぐ横に昨日来た蟲師が煙草を咥えて座っていた。

 丸眼鏡の奥の切れ長の瞳がねこ娘を見上げている。

 

「おかげさまで、すっかり良くなったわ。ありがとう。——名前、まだ聞いてなかったわね」

「トモミだ。流しで蟲師をやっている」

 

 ねこ娘は、トモミの前の柵に寄りかかる。

 風向きの関係で、トモミの吸っている煙草の煙を避けるためだった。

 

「ねこ娘よ。よろしく」

「ああ、まなたちから聞いている」

 

 唇の隙間から細く煙を漏らすトモミ。

 ねこ娘は特別に煙草を嫌っているわけではないが、トモミの喫する煙草はどうも受け入れ難い独特の臭いがする。

 普通の煙草とは違うのかもしれない。

 

 さりげなく顔を背けながら、ゲゲゲの森を見渡す。

 熟し過ぎた果実のような匂いが風に乗って漂ってくるし、草木の緑も目が痛くなりそうなほど鮮かだ。

 1週間以上前から続く森の異変は、まだ収まっていない。馴染みのある妖怪たちも、多くがねこ娘と同じような症状に悩まされていた。

 子泣きじじいや一反もめんは、確か砂かけばばあが看病しているはずだ。

 

 ねこ娘の不安を察したか、トモミが声をかけてくる。

 

「他の妖怪たちにも薬は飲ませてあるから心配はしなくていい。森の異変も、数日あれば収まる」

「そう、よかった」

 

 ()()()()()

 トモミの言葉は出まかせではないようだが、その数日の間、ゲゲゲの森はこのままということ。

 もう各所に様々な影響が出ている。自分たちに数日なんて猶予はあるのだろうか。

 

「もっと早く何とかできないの?」

 

 焦りを滲ませるねこ娘だが、しかしトモミの反応は芳しくない。

 

「こればかりはどうにもね。ヌシが生まれないことには……」

「ヌシ?」

「ああそうか、キミにはまだ話していなかったね」

 

 紫煙をくゆらせながら、トモミが語り始める。

 ゲゲゲの森で起きている異変の原因である光脈のこと。そして、それを統制するヌシがまだ誕生していないこと。

 

「陽が高くなったら、皆でヌシの卵を探しに行きたいんだ。大まかな場所はもう分かってる。病み上がりで悪いけど、君も来てくれるかい?」

「それは、構わないけど……」

 

 トモミの話を聞いてねこ娘が思い出したのは、ふたつめの瞼を閉じた時に見た光の大河。

 あれがトモミの言う光脈なのであれば——。

 

「ねぇ、アンタがさっきから言ってる光脈ってやつ、もしかしたら見たことあるかもしれない」

 

 トモミの眼鏡の奥にある瞳が、少しだけ見開かれた。

 

「そうか。キミはふたつめの瞼の閉じ方を知ってるんだね。——思えば、ふたつめの瞼を知っている妖怪は割といるな」

「じゃあ、やっぱりあれが光脈なのね」

「そうだよ」

 

 納得がいくと同時に、ねこ娘はほぞを噛んだ。

 ゲゲゲの森がこんなことになる前から、ねこ娘には光脈が見えていたのだ。

 あの光る川がどのような影響を及ぼすことになるかを知っていれば、事態が深刻になる前に備えられたかもしれない。

 

 タラレバの話は無意味と分かっているものの、後悔せずにいられなかった。

 

 そんな感情が顔に出ていたのだろうか。

 トモミが立ち上がり、ねこ娘の隣に並んだ。

 

「気にすることはない。そもそもキミは光脈だとか蟲だとかについて知らなかったんだから」

 

 事実、ねこ娘が光脈という単語を知ったのは、たった今のトモミの話からだ。

 蟲、ひいては蟲師のことも、数日前に目玉おやじから何となく聞かされただけ。

 

「それに、光脈ってのは命の源であり、生命という概念そのものとすら言える。いち妖怪——いやどんな生き物でも、どうこうできる相手じゃない」

「そうかもしれないけど……」

 

 トモミからの慰めはありがたかったが、ねこ娘の自責の念は消えなかった。

 もっと自分にできることがあったのでは、そんなことを思わずにはいられない。

 

「まあ、あと数日あればヌシが生まれることは確実だ。妖怪相手にご高説垂れるようだけど、自然の(ことわり)ってやつは、ギリギリの所で均衡を保つものだから」

 

 悲観的になることはない、とトモミが笑って見せた。

 つられてねこ娘は含み笑いを漏らす。

 

「随分と落ち着いてるのね。蟲師ってみんなそうなの?」

「私はそうでもないけど、妙に達観してる奴は多い気がするなぁ」

「アンタも充分達観してると思うけど?」

「これでも知り合いの間じゃ青臭い奴って言われることが多いんだけどな」

「ふぅん……?」

 

 トモミで青臭いなら、他の蟲師はどんな奴なのか。

 仙人みたいな感じだろうか。ちょっとそれっぽい気もする。

 

 他の蟲師はどうであれ、トモミはその年頃の人間にしては落ち着きが過ぎているようにすら思える。

 見た目だけはまなと同年代に見えるが、仮に中身だけお婆さんだったとしても、ねこ娘は驚かない。

 

「あれっ!? ねこ姉さん、どこ!?」

 

 突如、家の中から響いてきた声に、ねこ娘は顔をしかめる。

 まなが目を覚ましたらしい。

 

 続けて、ガチャンと何かが激しくぶつかる音が聞こえた。同時にまなの悲鳴も。

 

「痛っ、膝打ったぁ〜! あっ、目玉おやじさんの茶碗——よかった、割れてない……!」

 

 まなはもう少し落ち着いた方がいい気がする。

 ねこ娘の口からため息が漏れる。

 隣ではトモミが、煙草を片手に肩を震わせていた。

 

 ◆◆◆

 

 結局、まなは帰らせることになった。

 

 これからヌシを探すためにゲゲゲの森の奥へと向かう。異変真っ只中の森の中を、妖怪相手の自衛手段を持たないトモミとまなを両方連れていくのは危険だと、鬼太郎の判断だった。

 

 唇を尖らせるまなに、ねこ娘は苦笑いを浮かべる。

 

「ごめんね、まな。この埋め合わせは必ずするから、拗ねないで?」

「別に拗ねてないけど〜」

 

 せっかく会えたのにまともにお喋りできなかった、とまなは不満げな様子。

 

「ゲゲゲの森が元通りになったら、またいつでも会いに来ればいいわ」

「うん、そうする! 鬼太郎たちにもよろしく」

「ええ」

 

 またね、とゲゲゲの森の出入り口へと姿を消すまなを、ねこ娘は手を振って見送る。

 

 まながいなくなった途端、辺りが急に静かになった気がした。

 まともに喋れなかったことを悔やんでいるのは、まなだけではない。

 

 ねこ娘はくるりと踵を返し、鬼太郎の家へと向かった。

 

 ◆◆◆

 

 ねこ娘が戻ると、鬼太郎とトモミの他に、一反もめんもいた。

 

「ねこ娘、元気になってよかったたい」

「一反もめんも、もうすっかりいいみたいね」

 

 一反もめんも多くの妖怪たちと同様、精気に当てられ体の不調を訴えていたが、この様子を見る限り、元に戻ったらしい。

 

 一反もめんはトモミの周囲をくるりと飛んでから、そっと彼女の手を取った。

 

「トモミちゃんが作ってくれた薬のおかげよー。ありがとねぇ」

 

 一反もめんとの握手を嫌がる様子もなく、トモミが微笑む。

 

「私はできることをしただけさ。——すまないね、病み上がりで協力してもらって」

「何てこと言うとね! トモミちゃんは命の恩人ばい! それに、こんな別嬪さんの力になれるなら、男として願ったりたい」

「それは頼もしい」

 

 トモミの笑顔に体をくねらせる一反もめん。

 

 ねこ娘は自分の視線が冷たくなっていくのを自覚した。女と見ればすぐこれだ。

 

「ほら、早く行くわよ。トモミ、案内して」

 

 ◆◆◆

 

「生まれてくるヌシはおそらく、鳥だ」

 

 鬼太郎、目玉おやじ、一反もめん、そしてねこ娘は、森を歩きながらトモミの話に耳を傾けていた。

 

「そんな普通の生き物みたいな姿をしているもんなの?」

 

 ねこ娘が尋ねると、トモミは頷く。

 

「光脈筋に住まう生き物のうち、いずれかがヌシの役割を担って生まれてくる。ヌシとなった生き物の体には植物が生えているから、それで見分ける」

 

 鬼太郎が納得がいったとばかりに口を開く。

 

「ヌシが鳥の卵だから、空を飛べる妖怪の協力を求めたのか」

「ああ、ムグラノリをしている時に見た卵は、高いところにある巣の中にあったから。——ありがとう、一反もめん」

 

 一反もめんが照れくさそうに身を捩る。

 

「トモミちゃんの頼みなら何でもするばい。——疲れたらいつでも背中乗っていいからね」

「山歩きには慣れてるし、森の様子もよく見ておきたいから」

「そう……?」

 

 誘いをするりとかわされ、残念そうに肩を落とす一反もめん。

 

 どうせ女の子と密着したいだけだろうに、この色ボケ妖怪。

 ねこ娘がひと睨みすると、一反もめんは気まずそうに目を逸らした。

 

「それにしても静かね……」

 

 聞こえてくるのは、木の葉が揺れる音と、自分たちの足音だけ。

 鳥のさえずりひとつ聞こえない。

 

 鬼太郎が頷く。

 

「妖気も感じられないな」

「森の異変を察知して、みな逃げてしまったのかもしれんのう」

 

 トモミが神妙な面持ちで口元に手をやった。

 

「卵の親鳥まで逃げてしまっていたらまずいな。ヌシとはいえ、今はあくまで普通の卵だ。庇護する者がいなくなれば、それは多くの生き物にとって甘美な餌になってしまう」

「ねぇ、もしもヌシの卵がダメになったら、どうなるの……?」

 

 ねこ娘の問いに、トモミが答えることはなかった。つまり、その沈黙が答えということ。

 

 痺れを切らしたらしい鬼太郎が、トモミに声をかける。

 

「だいぶ歩いたけど、まだ着かないのか?」

「いや、もうじき着くはず。近くに背の高い松がある場所だ」

「少し急ごう。一反もめん、運んでくれるか」

「三人は重量オーバーたい」

「それなら、私は木の上に登って追いかけるから、鬼太郎とトモミが乗ればいいわ」

 

 ねこ娘の提案に鬼太郎が頷く。

 

「それじゃあ、一反もめん」

「コットン承知」

 

 乗りやすいように一反もめんが空中で静止する。

 

「いろんな妖怪に会ってきたけど、乗せてもらうのは初めてだね」

「心配ご無用、トモミちゃん。乗り心地には自信があるとよ」

「そう? それじゃ失礼して——」

 

 トモミが一反もめんの体に手をかけたと同時、甲高い声が響いた。

 

「これ以上進むのは許さないわ!」

 

 鬼太郎の妖怪アンテナが立ち上がった。

 間髪入れず、羽音とともに大きな影が降ってくる。

 

「みんな避けろっ!」

 

 鬼太郎が叫ぶのと同時に、トモミの体が吹き飛ぶ。

 黒い影が、鉤爪のついた脚でトモミを地面に押さえつけた。

 

「トモミッ!!」

「来ると思ったわ卵泥棒! 八つ裂きにしてやるッ」

 

 巨大な鳥の姿にぎょろりとした大きな目玉。姑獲鳥が踏み付けにしたトモミを睨みつけている。

 

「ちょっと姑獲鳥、何すんのよ!」

 

 ねこ娘が怒鳴ると、姑獲鳥は負けじと言い返す。

 

「森がおかしくなっていると思ったら、見かけない人間がいるじゃないの! あの子を狙って来たに決まってるわ!」

「待つんじゃ姑獲鳥。その子は蟲師で、ゲゲゲの森を救いに来てくれたんじゃぞ」

「人間が妖怪を助けに? そんなことあるわけないでしょう!」

 

 鬼太郎が苦々しげに呟く。

 

「まずいな。興奮して話が通じる状態じゃない」

 

 姑獲鳥の下敷きになったトモミの体から、じわじわと血が流れ出ている。あの巨体に真正面からぶつかられたのだ、放っておけば命が危ない。

 

 ねこ娘は自慢の爪を伸ばしてすごむ。

 

「姑獲鳥、その子を放しな」

「何よ、人間の味方をしようっての?」

 

 仕方ない。言って分からないなら実力行使だ。

 

 身を屈め、力の限り地面を蹴る。

 ひとっ跳びで姑獲鳥の懐に入り込んだねこ娘は、思い切り爪を振るう。

 姑獲鳥が翼を広げて飛び上がり、トモミの拘束が外れた。

 

「一反もめんっ!」

「コットン承知!」

 

 しゅるりとトモミの体に巻き付いた一反もめんが、トモミと一緒に離脱していく。

 

 ねこ娘の真後ろで鬼太郎が叫んだ。

 

「霊毛ちゃんちゃんこ!」

 

 投げつけられた鬼太郎のちゃんちゃんこが、姑獲鳥目掛けてすっ飛んでいき、その体躯をぐるりと覆い、縛りつける。

 

 どしんと墜落してきた姑獲鳥に、ねこ娘と鬼太郎が詰め寄る。

 

「くそっ、この、離れなさいよ……!」

 

 拘束された姑獲鳥がどたばたとのたうち回るが、ちゃんちゃんこは外れない。

 

「なぜこんなことをした?」

 

 鬼太郎が鋭く問い詰める。

 

「私はあの子を守ろうとしただけよ!」

「あの子って誰よ?」

「卵よ」

「卵?」

「そうよ! この森の異変を収めるためには、あの卵を無事に孵さなきゃいけないの!」

 

 ねこ娘は鬼太郎と顔を見合わせる。

 まさかヌシの卵を姑獲鳥が……?

 

「あなたたちもゲゲゲの森がおかしくなっているのは知っているでしょう! 獣や妖怪も凶暴になっているやつが増えてるから、私が守らなきゃいけないの!」

 

 ちゃんちゃんこが姑獲鳥を離れ、鬼太郎のもとに戻る。

 

「姑獲鳥。僕たちに卵を奪うつもりはないと約束する。詳しく話を聞かせてくれ」

 

 ◆◆◆

 

 傷を負ったトモミは、一反もめんに頼んで砂かけばばあの所へ運んでもらうことになった。

 トモミは気絶しているものの、致命傷は避けられたようで、すぐに手当てすれば何とかなるだろうと、目玉おやじが言っていた。

 

 ねこ娘と鬼太郎、目玉おやじは姑獲鳥の後について、ヌシの卵があるという場所にやって来た。

 

「あなたたちには恩があるから特別に見せてあげるの。あちこちで言いふらすんじゃないよ」

 

 姑獲鳥はそう釘を刺してから、青々とした緑の葉が茂った枝に顔を突っ込み、小枝を寄せ集めて作られた鳥の巣を見せてくれた。

 

 その中に一つだけ鎮座した卵を見たねこ娘は、息を呑む。

 

「これが、ヌシの卵……」

 

 ヌシの卵は一目見れば分かる、そうトモミが言っていたが、その言葉は嘘ではなかった。

 

 形は紛れもなく鳥の卵だが、蛍のようにぼんやりと淡い光を発している。その光は緩やかに、しかし心臓の鼓動のようにはっきりと、明滅を繰り返していた。

 

 目玉おやじもまた、感嘆の唸り声を上げた。

 

「形からしてカラスの卵じゃな。ヌシの話は聞いたことこそあるが、実物を目にするのは初めてじゃ」

 

 ねこ娘からすれば、この小さな卵にゲゲゲの森の命運がかかっているとは信じがたい。

 しかしそれと同時に、卵が放つ輝きが、奇妙な説得力を持ってねこ娘の目に映った。

 

「親鳥はいないのか?」

 

 鬼太郎が尋ねると、姑獲鳥はゆっくりと首を横に振った。

 

「私が見つけた時にはもう死んでいたわ。卵に覆い被さるようにしてね」

 

 だから代わりに私が守っているの、と姑獲鳥は言った。

 

「ところで姑獲鳥よ、お主はヌシの卵のことをどこで知ったんじゃ?」

 

 目玉おやじの質問はもっともだった。

 鬼太郎やねこ娘はおろか、目玉おやじですらも、トモミから話を聞くまでは、ヌシの卵のことなど知らなかったのだから。

 

「光の川よ」

「光の川じゃと?」

「何日か前、闇の中を光の川が流れてくるのを見たわ。そこで言われたの。『ヌシの卵を守ってくれ。卵が死ねば、森も死ぬ』ってね」

「なんだ、それは……」

 

 鬼太郎と目玉おやじは首を傾げるばかり。しかし、ねこ娘はその話に覚えがあった。

 

「もしかして、ふたつめの瞼……?」

 

 姑獲鳥は我が意を得たとばかりに頷く。

 

「ねこ娘、何か知ってるのか?」

「後で説明するわ。——姑獲鳥、あの川に人がいたの?」

「人がどうかは分からないわ。あの時は、光の川からぼんやりとした人魂みたいなものがすっと向かってきて、私に卵のことを教えてくれたの」

「今までもそういうことはあった?」

「いいえ、後に先にもあれきり」

「そう……」

 

 少なくともねこ娘は、ふたつめの瞼を閉じている時に、他人の声が聞こえたりしたことはない。

 姑獲鳥が持つ特別な能力か、あるいは——。

 

 黙りこくったねこ娘の顔を姑獲鳥が覗き込んできた。

 

「私からも質問させて」

「どうしたの?」

「あなたたちと一緒にいた人間は、何なの?」

 

 ◆◆◆

 

 トモミは闇の中で目を覚ました。

 脇腹から胸にかけてが、ずきずきと痛む。

 

「何があったんだっけ……」

 

 確か、ヌシの卵を探して鬼太郎たちと歩いていて、一反もめんに乗ろうとしたところで、鬼太郎の叫び声が聞こえて——。

 記憶はそこで途切れている。

 

「私は、死んだのかな……?」

 

 死後、人がどこへ行くのかについては様々な説があるが、そのひとつに『虚無』というものがあった。

 まさしく今、トモミがいるこの場所は虚無そのものではなかろうか。

 

 痛みに耐えて体を起こし、周囲を見回すと、光の川が流れていることに気が付いた。よく見ると、その川はぼんやりと光を放つ蟲でできている。

 

「あれは、光脈か」

 

 光脈は生命の根源にして生命そのもの。そうお目にかかれるものでもない。

 

 トモミがぼんやりと光脈を眺めていると、そこから音もなく、光の塊が一つ浮き上がった。

 光の塊はゆったりとトモミの前までやってくると、人間のような形に姿を変えた。

 しかし、どんな形を取ろうとも、それはあくまで蟲の集合体。異形のモノであることは疑いようもない。

 

「何だい、あんたは」

 

 人型の顔と思しき部分に向かって尋ねた。

 

「…………」

 

 それはそうだろう、光脈から這い出てきた蟲のようなモノが喋れるはずなどない。

 

 ——かつて、一部の蟲師は、我らを、(コトワリ)、と呼んだ。

 

 突如、トモミの頭の中で声が響いた。男とも女ともつかぬ、不気味なほどのっぺりとした声だった。

 

「そうかい。じゃあ理さん、光脈の影響を受けて苦しんでいる者たちがいるんだ。何とかしてよ」

 

 ——光脈は生命そのもの。どうすることもできぬ。

 

「そりゃ無責任ってもんじゃないか」

 

 ——ヌシに任せるのだ、それ以外にない。

 

 人型がどろりと崩れ、元の光の塊となって、光脈へと戻っていく。

 

「待て! まだ話は終わってない! ヌシはまだ生まれてないんだよ! それまでゲゲゲの森が持つか分からないんだ!」

 

 トモミは力の限り叫んだが、答えはない。

 

「おい! なんとか言え!」

 

 ——ヌシは生まれる。卵の目付け役も誂えた。それまでに均衡が崩れることはない。

 

「本当なんだろうね! 嘘だったらただじゃおかな——」

 

 ◆◆◆

 

 目を開けると、見知った顔がトモミを見下ろしていた。

 

「トモミ! よかった、気が付いたのね」

 

 ねこ娘が安心したようにため息をついた。

 

「ここは……?」

 

 鬼太郎が答える。

 

「僕の家だ。一反もめんが運んでくれた」

「そうか。みんなすまな——うっ」

 

 体を起こそうとした瞬間、脇腹に激痛が走った。

 

「まだ動かん方がええぞ。傷口が開いてしまうからの」

 

 声のした方に目を向ければ、見覚えのない老婆がいた。

 

「あなたは?」

「砂かけばばあじゃ。どうだ、傷の具合は」

 

 恐る恐る脇腹に手をやると、治療の跡があった。もう出血もほとんど止まっている。

 

「かなりいいです。すみません、手間をかけさせて」

「気にするでない。お前さんには皆を救ってくれた恩もある」

 

 そう言って、砂かけばばあは優しく笑った。

 

「ヌシの卵は?」

「無事よ。とある妖怪が守ってくれてたわ」

「そう。ならよかった」

 

 ヌシの卵が無事ならひと安心だ。

 あの理とかいうやつの言葉を信じるなら、卵さえ無事ならゲゲゲの森もいずれ安定を取り戻すはず。

 

 気が抜けたせいか、疲労感と眠気がどっと襲ってきた。

 

 朝にねこ娘と話した時は平静を装っていたが、内心は不安で不安で仕方がなかったのだ。

 正直なところ昨晩はまったく寝付けず、一晩中起きていたほどだ。

 

 トモミが睡魔に身を任せようとしたところで、ねこ娘が話しかけてきた。

 

「疲れてるところ悪いけど、トモミに会わせたい妖怪がいるの」

「私に?」

 

 一反もめんがすだれを上げると、出入り口の向こうに巨大な鳥がいた。

 

「姑獲鳥よ。ヌシの卵を守ってたの。トモミを襲ったこと謝りたいんだって」

「ああ……」

 

 あの瞬間は咄嗟のことでよく分からなかったが、トモミを突き飛ばしたのはこの妖怪だったらしい。

 おそらく、理が言っていた目付け役というのが、この妖怪だったのだろう。

 

「ごめんなさいね、蟲師さん。私、卵を守らなきゃって必死で……」

 

 姑獲鳥がしょぼんと縮こまっている。

 きっと悪気などはなかったのだろう。トモミは姑獲鳥を責める気にはなれなかった。

 

「気にしなくていいよ。むしろ無遠慮にキミの住処に入ろうとしたこっちに非がある」

「でも……」

「私は蟲師として、ヌシの卵を見つけ保護したかった。そしてキミはその卵を守ろうとしていた。私もキミも森のためを思ってやったことだ。今回はそれがたまたま噛み合わなかっただけ」

 

 あっさりと許したことが意外だったのか、鬼太郎がトモミの顔を覗き込む。

 

「いいのか? そんな簡単に許してしまって」

「いいんだよ。済んだことだからね」

 

 そんなことより、今は早いところ眠ってしまいたい。

 慣れない場所で慣れないことをするのは本当に疲れるのだ。

 

 姑獲鳥がまだ何か言っているが、もうトモミには聞き取ることができない。

 トモミの意識は、暗闇の中へと滑り落ちていった。

 

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