妖怪と蟲師 〜薬袋智深の旅情譚〜 作:深山碧
爽快アパート。街中に建つ古びたそのアパートは、一部の人間からは『妖怪アパート』などと揶揄される。
現代では時代遅れにも見える内装と、昼間にもかかわらず薄暗い共用廊下。
噂によれば人ならざるモノたちが住み着いているのだとか。
そして、その噂は事実である。
爽快アパートは『妖怪が爽快に暮らせる』アパートなのだ。
たまに顔を出すオーナーの夏美と、このアパートに住む妖怪たちは、騒がしくも平和な日々を送っていた。
——はずなのだが。
アパートの一室。
大家が居住するための部屋の真ん中に布団が敷かれ、オーナーの夏美が横たわっている。
「どうだい、具合の方は?」
「あ、ろくろ首」
共用の台所で作ったばかりのお粥を手に、ろくろ首は夏美の横へとしゃがみ込む。
「体は起こせそうかい?」
「ごめん、ちょっとキツい。手伝ってくれる?」
ろくろ首は夏美の背中に腕を回し、体を起こすのを手伝ってやる。
「うぐっ」
「どうしたんだい!?」
うめき声を漏らした夏美に、ろくろ首は血の気が引いた。
慌てふためくろくろ首に、夏美が笑い声を上げた。
「笑うことないじゃないか」
「ごめん。あんまりにも慌てるもんだから。——ちょっと腰が痛かっただけ。大丈夫だよ」
お婆ちゃんみたいだね、と夏美が苦笑いを浮かべた。
対するろくろ首も、なんとか笑顔を作って見せたが、うまく笑えているかは自信がなかった。
「薬は飲んだのかい?」
「うん」
少し前から、夏美は病床に伏している。全身の関節が硬くなり動かしにくくなるという奇病にかかってしまったのだ。
どこの病院でも治療法はおろか病名すら不明で、根治は見込めないとの診断を下されていた。
「ならいいんだ。さ、お粥食べな」
ろくろ首はれんげですくった粥を、夏美の口元へ持っていく。
粥を嚥下した夏美はにっこり笑った。
「ありがと、美味しい」
「…………」
「なに辛気臭い顔してんの? 今のところ命に別状はないって、お医者さんも言ってたでしょ」
「そりゃあ、そうだけど……」
今すぐに夏美が死んだりすることはないと、医者が言っていたのは知っている。
しかし、症状は悪化の一途を辿っているのだ。このままでは身動きひとつ取れなくなるかもしれない。
「それに、私としても悪い気分じゃないんだよね。みんなからお姫様みたいに扱われてるんだもん」
「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」
おどける夏美の額を軽く小突く。
ろくろ首をはじめとする唐傘やあかなめのようなアパートの古株にとって、夏美はただのオーナーではない。
幼い頃からずっとずっと見守ってきた、家族も同然の存在。
夏美が苦労しているのを手をこまねいて見ていることしかできないなんて、心中穏やかでいられるはずがない。
夏美が粥を食べ切ってから、ろくろ首は共用廊下に出た。
唐傘とあかなめ、アパートの妖怪たちが一斉に取り囲んでくる。
「どうでぇ、夏美の様子は」
唐傘が尋ねてくるが、ろくろ首は首を横に振ることしかできない。
「人間の医者じゃ手に負えねえってんなら、恐山の方の病院に連れてくしかないんじゃねえか?」
「あそこは目ん玉が飛び出るほど治療費が高いって言うじゃないか。私らにゃとても払えないよ」
唐傘がずいと詰め寄ってくる。
「夏美が苦しんでんだぜ! 金がかかるってんなら、俺たちが一生かかっても払えばいいだろ!」
そうだそうだと、他の妖怪たちも同調する。
「言うのは簡単だけどねぇ」
唐傘の言っていることは痛いほど分かっているのだが、それはあくまで理想論だ。
現実がそう甘くないことは、皆分かっていること。
「砂かけばばあに、相談してみようかねぇ」
ろくろ首は、それだけ言うのが精一杯だった。
◆◆◆
ゲゲゲの森の異変はなんとか収束を迎えた。ヌシの卵も無事に孵ったらしく、今は姑獲鳥が付きっきりで面倒を見ているそうだ。
目玉おやじによれば、姑獲鳥は本来、子供の世話が好きな妖怪らしい。
任せておけば大丈夫だろう。
トモミは蟲煙草をふかしながら、生い茂る木々を眺めている。
数日前まで森に溢れかえっていた精気も随分落ち着いてきていた。
一件落着、と言っていいだろう。
「どうじゃ、調子の方は」
振り向けば、砂かけばばあが佇んでいた。
「蟲の数も落ち着いてきたし、森も安定を取り戻しつつある。安心して大丈夫だと思うよ」
「わしが訊いているのはお前さんのことじゃよ、トモミ」
数日前、いろいろあって負傷したトモミに治療を施し、世話を焼いてくれたのは砂かけばばあだった。
その甲斐あって、トモミの傷もすっかり癒えたのである。
「おかげ様で、もうすっかり」
「それならよかったよ」
「何から何まで世話になりっぱなしで。宿まで提供してもらって」
トモミがゲゲゲの森に滞在するにあたって、砂かけばばあの家に泊まらせてもらっていた。
最初は鬼太郎が家に泊めようとしてくれたのだが、主にねこ娘と砂かけばばあが強い反論を示した結果、砂かけばばあの家で厄介になることとなったのである。
「水臭いことを言うでない。お主には大きな恩があるからの。気が済むまでおればよい」
「ありがとう。でも、もうじき発つことにしてるから」
傷もほとんど癒えたし、ゲゲゲの森の異変も収まった。
トモミはまた旅に戻らねばならない。
「このご時世、若者の旅暮らしは苦労するじゃろうに。何か訳でもあるのかい?」
「知り合いに、蟲の話を集める宿命を負った人がいて。昔に比べて蟲師の数も相当に減ってしまったから、私が歩き回って蟲の話を集めてる」
砂かけばばあが、眉を上げた。
「『宿命』とは、また強い言葉じゃな」
「ええ、まあ」
あれは、宿命と言っても差し支えないだろう。
トモミは膨大な文字の中に埋もれて生きる知り合いのことを思った。彼女の生まれながらに背負った責務に比べれば、トモミの旅暮らしなど楽なものである。
「事情があるのなら仕方ない。じゃが、無茶はするでないぞ」
「肝に銘じるよ」
そうしておくれ、と頷いた砂かけばばあは、ふと真面目な顔つきで声を潜めた。
「話は変わるがトモミよ。ゲゲゲの森を発つ日は決めているのか?」
「急ぐ訳じゃないから、まだ決めてないけれど。何か困りごとでも?」
「実は、知り合いで奇妙な病気にかかっている者がおっての。色んな医者に見せたが病名はおろか原因も分からぬらしい」
「ほう。それで、蟲が関わっているかもしれない、と」
「うむ」
他ならぬ砂かけばばあの頼みとあらば、トモミに断る道理はなかった。
「私は医者ではないから、役に立てるか分からないが。とにかく見てみましょう」
「すまないね。頼むぞ」
◆◆◆
夏美の夕餉を作るため、ろくろ首は台所に立っていた。
手を自由に動かせなくても食べやすい献立を考えるのは少々骨が折れるものの、夏美のためと思えば苦ではなかった。
「何か手伝うことはねえか」
唐傘とあかなめが台所に入ってくる。
「いいや、もうすぐできるよ。どうだい、夏美の様子は」
「今は豆腐小僧と喋ってる。明るく振る舞っちゃいるが、無理はしてるだろうなぁ……」
唐傘もあかなめもしょんぼりと肩を落とす。
夏美はもう立派な人間の大人だ。こちらに不安をかけまいと頑張ってくれているのだろう。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。
「砂かけばばあからの返事はまだ来ないのか」
「文を出したのは昨日だよ。そうすぐ来るもんでもないさ」
「そ、そうか。そうだわな……」
その時、玄関の扉がガラリと開く音がした。続けて聞き覚えのある声が響く。
「誰かおらんか。わしじゃ、砂かけばばあじゃ」
ろくろ首の反応は誰よりも早かった。
「ちょっと火を見といておくれ!」
「お、おいっ」
言うが早いか、ろくろ首は首を伸ばす。
玄関には、2つの人影。
一人は顔馴染みの砂かけばばあ。もう一人の方には見覚えがなかった。新しい入居希望者だろうか。
「よく来てくれたね。首を長くして待ってたんだよ!」
ろくろ首が叫ぶと、そのようじゃな、と砂かけばばあは苦笑いを浮かべる。
「文を読んだぞ。何か厄介なことになってるらしいが」
「そうなんだよ。私たちじゃもうどうすることもできなくて」
「安心せい。専門家を連れてきた」
砂かけばばあが隣に立つ人影を指し示す。
見知らぬ女が会釈した。
「蟲師のトモミです」
トモミと名乗った女を、ろくろ首はしげしげと観察する。
見たところ人間のようだった。すらりとした体躯を今時珍しい和服に包み、大きな木箱を背負っている。丸眼鏡の奥の瞳には理知的な光が浮かんでいた。
「むしし……ってのは何だい?」
「蟲が起こす事象を専門に扱ってる者です。ここに、奇妙な病に苦しんでいる人がいると聞きまして」
お力になれるかと、とトモミが微笑む。
よく分からないが、夏美を助けてくれるなら人間だろうが妖怪だろうがどうでもいい。
砂かけばばあが連れてきたのだから、それだけ信用に足るということだろう。
「患者に会わせてもらいたい」
「ああ、こっちだよ」
見慣れぬ人間に興味を示したか、ぞろぞろ出てきた店子の妖怪たちを制しながら、ろくろ首はトモミと砂かけばばあを案内する。
夏美のいる部屋に入ると、ちょうど唐傘とあかなめが、夏美に夕飯を食べさせているところだった。
「夏美、診てくれる人が来たよ」
「えっ? あ、うん」
突然の来訪者にきょとんとする夏美だったが、すぐに気を取り直したようで。
「こんな格好ですみません。ここのオーナーの夏美です」
「トモミです。アパートの妖怪の皆さんに頼まれて来ました。早速ですが、診させてもらいますね」
「お願いします」
◆◆◆
皆が固唾を呑んで見守る中、トモミは慣れた手つきで診察を始めた。
質問をしながら、夏美の腕や指に触れていく。
「症状はいつから?」
「二週間くらい前から、指が動かしにくくなってきて、気付いたら関節がどんどん硬くなってきて、一週間くらい前から余計に酷くなって——って感じ」
「見たところ、痛みはなさそうだけれど」
「痛みはないかな。でも無理やり曲げ伸ばしするとちょっと痛いかも」
トモミは口元に手をやって思案する。
「どうじゃ、何か分かりそうか?」
「まだ何とも。そもそもこの病が蟲によるものかも判断がつかない」
砂かけばばあが尋ねてくるが、トモミは首を傾げるしかなかった。
「ねぇ、さっきから言ってる蟲ってのは何だい? チョウとかハエとかとは違うんだろう?」
ろくろ首の問いにトモミは頷く。
「私たち普通の生き物とは少し違う法則の中で生きているモノたちを、総じて蟲と呼ぶんだ。普通の生き物と違うがゆえに、それを知覚できる者も少ない。私たち蟲師はその蟲を相手に商売をしている」
「じゃあ、その蟲ってやつが夏美の病気の原因ってことか?」
身を乗り出す唐傘。しかし、トモミの反応は芳しくない。
「普通の医者が診ても原因が分からないと聞いてるから、その可能性もなくはないけど……」
「ハッキリしねぇな。蟲が原因なのか? 違うのか?」
苛立ちを滲ませる唐傘を、ろくろ首がたしなめる。
「およし。せっかく来てもらったんだから、そういう態度取るもんじゃないよ」
「ああ、すまねぇ……」
身を縮める唐傘に、トモミは優しく声をかける。
「私も曖昧な物言いをして悪かったよ。——本来、蟲は人の手があまり入っていない、自然豊かな場所に棲むものなんだ。ここの周りは住宅地だし、このアパートにも蟲が巣食っている様子はないから」
蟲が生き物に寄生して様々な影響を及ぼした例は、数えきれないほどある。
しかし、そういった事例はどれも自然豊かな土地で起こるもの。
東京の人工物に囲まれた中で蟲患いが起きたという話は聞いたことがない。
とすれば、これは蟲とは関係ない、現代医学でも知られていない病気ということになるが。
黙り込むトモミの肩に、砂かけばばあが手を置いた。
「こういうのはどうじゃ。夏美ちゃんがどこか田舎に行って、そこで蟲に憑かれた、というのは」
砂かけばばあの推理は、しかし夏美によって否定される。
「私、ここ一年東京から出てないよ」
手詰まりだ。
せっかく頼ってくれたというのに役に立てないというのは、何とも歯痒い。
いっそのこと、蟲下しを飲ませてしまおうか。夏美の症状が蟲によるものであれば、蟲下しを飲めば改善する可能性はある。
しかしトモミは頭に浮かんだ考えを振り払う。
蟲下しは最後の手段だ。蟲用の薬とはいえ、あれはあくまで毒薬。不用意に使えばどんな影響が出るか分からない。
部屋を満たす重い沈黙は、ドアが開く音によって破られた。
振り返ると、豆腐が載ったお盆を手にした、小柄な少年が立っていた。
ろくろ首が目を丸くする。
「豆腐小僧じゃないか、どうしたんだい?」
トモミは隣に座る砂かけばばあに耳打ちする。
「彼も妖怪?」
「豆腐小僧。豆腐を運ぶ妖怪じゃよ」
「豆腐を運ぶ、だけ?」
「そうじゃ」
そういう妖怪もいるのか。
トモミも旅の道中、様々な妖怪と出会ってきたが、やはり妖怪というのは多種多様だ。
豆腐小僧は、大人数相手に気後れしているのか、ドアの所で固まっている。
ろくろ首がしゅるりと首を伸ばして、豆腐小僧の前に顔を持っていく。
「どうしたんだい? 悪いけど、今は夏美を診てもらってるんだ。また後にしてくれるかい」
豆腐小僧はわたわたと口を開いたり閉じたりしてから、覚悟を決めたように喋り始めた。
「夏美に、豆腐を持ってきたのら。夏美が、その……キンケツ? って言ってたから、豆腐を食べて元気になってほしくて……」
「金欠?」
怪訝そうに眉を寄せるろくろ首。
「もしかして、貧血?」
トモミが助け舟を出すと、豆腐小僧は勢いよく頷いた。
「それなのら! 岩魚坊主が、貧血には豆腐がいいって言ってたのら」
確かに、豆腐にも鉄分が含まれている。貧血の対策には悪くないだろう。
——鉄分……。
トモミの脳内に、ある予感が過ぎる。
「夏美さん、貧血気味だったりする?」
「そうだね。結構酷くて」
「それは元から?」
「ううん、割と最近」
「もしかして、関節が曲がらなくなる少し前くらいから?」
「……言われてみれば、そうかも」
トモミは目を見開いた。
光明を見たような気分だ。
「夏美さん、少し血を採らせて。それと、何でもいいから鉄でできたものを貸して欲しい」
「鉄ねぇ……台所に出刃包丁ならあるけど」
「それで構わない。持ってきて」
あかなめがドタドタと台所へ向かっていくのを横目に、トモミは採血の準備を始める。
「トモミ、何か分かったのかい?」
「ああ、蟲の特定ができるかもしれない」
唐傘がトモミの方へと顔を寄せた。
「夏美は治るのか!?」
「私の予想が正しければ、完治の手段はある」
周囲から喜びを内包したどよめきが上がった。
木箱から小刀を取り出し消毒を済ませたトモミは、夏美の指先にわずかに傷をつけ、数滴の血を平皿に集めた。
あかなめが持ってきた出刃包丁を受け取り、血を載せた平皿のそばに置く。
「これで、どうしようってんだ?」
「見てれば分かる」
全員の視線が平皿に集中した。
それからすぐに、誰かが「あっ!」と声を上げた。
皿の上の血液が、まるで意思を持っているかのように、そろりそろりと動き出す。
やがて血液は、ナメクジが這うような動きで出刃包丁にくっついた。
「うわ、何これ気持ち悪っ!」
夏美の悲鳴混じりの叫び。
「こんなの見たことないよ」
「見間違いじゃねぇよな」
「……っ! っ!」
一同が混乱に陥る中、砂かけばばあがトモミを見やる。
「これは、どういうことじゃ?」
「夏美さんの血の中に、
「テツハミ……?」
「赤褐色の液状をした蟲で、鉄分を食べて増殖する。普段は鉄分を多く含んだ川や温泉なんかに棲んでいるんだけど、何かの拍子に生き物の口に入ると、血中の鉄分を食べながら増殖し、貧血を引き起こすこともある。大抵はすぐに排出されるけど、今回は増えすぎたせいで関節に留まって、動きを阻害していたんじゃないかな」
トモミの説明を聞いた夏美は嫌悪を露わにした。
「そんなのが、私の中に……」
「ちょっと気持ち悪いかもしれないけど、命の危険はないよ」
「ちょっとどころのキモさじゃないよぉ……」
夏美の頭を撫でながら、ろくろ首が問うてくる。
「それで、治す方法はあるのかい」
「含鉄泉、つまり鉄分を含む温泉で湯治をすれば、鉄喰はすぐに出ていくよ」
「よかったねぇ、夏美! 治るって!」
「うん……!」
妖怪たちの表情が、ぱっと華やいだ。唐傘に至っては、ぼろぼろと涙をこぼしている。
しかし、砂かけばばあの表情は険しいままだった。
「待てお前たち。問題はまだ解決しておらん。そうじゃろ、トモミ」
「ああ、本題はここからだ」
蟲というものは、自然豊かな土地に生息するものが大半だ。鉄喰とて例外ではない。
夏美はここ一年東京から出ていないと言っていた。つまり、どこで鉄喰が口に入ったのか分からないのである。
再発防止のためにも、鉄喰がどうやって夏美の体内に入ったのかを突き止めるまでは、問題解決とは言えない。
「最近、何か変わったものを口にしたりとかは?」
トモミが尋ねるも、皆一様に首を捻るばかり。
ろくろ首が恐る恐る口を開く。
「料理は私が作ってたけど、変なものは入れてないよ」
「料理……どんなものを?」
「ええと、粥とかうどんとか、あとはアサリとかほうれん草とかかねぇ……」
「そういった食材はどこで?」
「近所の商店街だけど」
貧血対策として、鉄分を多く含むものを食べさせていたのだろう。
そこに鉄喰が付着していた、と考えられなくもないが、その程度の量なら軽い貧血程度で済むはず。
ここまで重症化するのなら、それなりの量の鉄喰を、複数回に渡って口にしていなければおかしい。
トモミの思考を中断させたのは、夏美だった。
「あ、あの……」
「何か心当たりが?」
夏美は少し言いにくそうにしていたが、やがてぽつりと言った。
「薬を、飲んでるの」
「薬?」
「みんながいろいろ調べて、これなら効くかもって、買ってきてくれた薬があるの」
薬。嫌な予感がする。
「見せて」
ろくろ首が戸棚から持ってきた小瓶を観察する。中身は液体だった。
「これを飲んでたのかい?」
「うん、一日に一本」
「いつから?」
「一週間くらい前から」
貼られたラベルに目を通す。
効能は『肩こり・関節痛の改善』。表示にも問題はなさそうだが、この薬の製造元の製薬会社の名前が引っかかる。
トモミの表情からよくないものを察したらしく、砂かけばばあが顔を寄せてきた。
「どうかしたのかい?」
「この薬の製薬会社の名前、見たことも聞いたこともない」
ちょっと待っとれ、と砂かけばばあが懐からスマホを取り出し、慣れた手つきで操作する。
「——少し前に立ち上げられた、新しい製薬会社のようじゃの。家庭用の栄養剤や薬を販売しとるらしい」
トモミは小瓶を開封すると、中の薬を数滴、出刃包丁のそばに垂らした。
「な、何をしてるんだい?」
不安げに顔を寄せるろくろ首を無視し、トモミは垂らした薬を凝視する。
変化はすぐに表れた。
赤褐色の液体は、音もなく出刃包丁の方へ伸びていき、先ほどの夏美の血と同様に、ぴたりと包丁にへばり付く。
この薬の正体が鉄喰であるという、紛れもない証左だった。
トモミは顔を上げ、妖怪たちを睨み付ける。
「このことを知っていたのか?」
妖怪たちは体を震わせるだけで、何も答えない。
「知っていたのか、と訊いている」
弾かれたように、ろくろ首が叫んだ。
「知らない! 知らないよ!」
唐傘とあかなめも続く。
「そうだ! 俺たちはこの薬が蟲だなんて聞いてねぇ!」
「〜〜っ! 〜〜ッ!」
視線の鋭さはそのままに、トモミは口元を震わせた。
「じゃあこの薬はどういう——」
「待って!!」
夏美の叫び声が、トモミの口を閉じさせた。
「みんながそんなことするはずない! みんな、私のことをすごく大切に思ってくれてるの。きっと何かの間違いだよ!」
砂かけばばあが、皆を庇うようにトモミの目の前に座った。
「ここに住む妖怪たちは、誰もがこの子のことを大切に想っとる。間違っても蟲入りの薬を飲ませようなんてことは考えん。信じておくれ」
誰の目にも、後ろめたさの欠片もなかった。
気勢をそがれたトモミは、深くため息をつく。
「……分かった、信じよう。——それで、この薬はどこで手に入れた?」
おっかなびっくり、ろくろ首が答える。
「訪問販売が来たんだよ」
「訪問販売、薬を?」
「あちこちの病院を回ったのに、夏美の具合はちっともよくならなくて。困り果ててた時に、販売員が来たのさ。藁にも縋る思いで、みんなでお金を出し合って買ったんだよ」
「そうだったのか……」
鉄喰が医薬品に混入することはまずあり得ない。つまり、何者かが人為的に混ぜたのだ。
それに気付かず、妖怪たちは薬を購入し、夏美に飲ませていた。結果、夏美の体内に過剰な鉄喰が入り、今回の症状を引き起こした。
ここまで来れば、真相は自ずと見えてくる。
「夏美さん、体に症状が出る少し前に、飲み物か何かの試供品があったのでは」
「そう言えば、あったな。新作の栄養ドリンクの味見、とか言ってた。要りませんって突っぱねたんだけど、断りきれなくて」
「やっぱり……」
タチの悪いセールスがたまにやる手口だ。戸口訪問して無料で試供品を渡し、日を置いてから商品を売り付けに来る。
「おそらく、その栄養ドリンクの中にも鉄喰が仕込まれていたんだろうね。症状が出る頃合いを見計らって、今度は鉄喰入りの薬を売り付ける。後は搾れるだけ搾ってボロ儲けだ」
ある程度のリテラシーがあれば防げただろうが、生憎とこのアパートに住むのは、人間社会に疎い妖怪たちだ。
悪質な販売員の見分け方を知らなくても不思議ではない。
「それじゃあ、私たちは悪徳業者にまんまと騙された上に、ただ夏美を苦しませてただけってことかい?」
唇をわなわなと震わせるろくろ首の目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。
「そんなことないよ! みんな私のためにやってくれたんでしょ。みんなは何も悪くない!」
夏美の言葉に、トモミも頷く。
「たまにいるんだ、こういう手合いが」
吐き捨てるように、トモミは言った。
蟲はその存在を知覚できる者が限られていて、それゆえ知識を持つ者もごくわずかだ。
私腹を肥やすことを目的として蟲を恣意的に利用する奴は、大昔から後を絶たないと聞く。
まさか製薬会社がそれをやるとは思わなかったが。
ごく一部の奴らとはいえ、人間の醜悪さには本当に嫌気がさす。
この製薬会社を告発することも難しいだろう。トモミのような旅の蟲師風情が会社一つを相手にどうこうできるはずもない。
その上、蟲を扱った悪事だ。世間一般に通用する証拠を掴むことはほぼ不可能。
蟲の力を恣に利用した人間の末期は、はるか昔より相場は決まっている。
なるべく早く、然るべき報いを受けることを願うばかりだ。
夏美の治療法は伝えられたし、蟲患いの原因も掴めた。
後味は悪いが、一件落着。
「ああ、そうだ。鉄喰入りの薬は、私が預かるよ。今回の件、鉄喰に罪はない。いるべき場所に帰してくる」
トモミが言うと、ろくろ首はにこりと笑みを浮かべた。
「そうしてくれると助かるよ。——トモミ、と言ったね。今回は本当にありがとう。夏美も無事だし、私らが次にやるべきことも分かった」
ろくろ首の声は、ぞっとするほど抑揚がない。
トモミは無意識のうちに視線を足元に落としていた。
どうしても、視線を上げて、目の前にいる妖怪たちの顔を見る気にはなれなかった。
いつの間にか、部屋の外では何者かがぞろぞろと蠢いている気配がする。
部屋に充満する凄まじい怒気のせいで、上手く呼吸ができない。
トモミは、ヌシの卵を守ろうと襲いかかってきた姑獲鳥のことを思い出していた。
ここ最近、友好的な妖怪ばかりと接していたせいで、忘れかけていた。
妖怪と人間は違う生き物。人間の理屈は妖怪には通じない。
トモミよ、と砂かけばばあの声がする。
「聡いお主のことじゃ。これから何が起ころうとしているか、察しもついておるじゃろう。他言無用で頼みたい」
「ああ」
自分の口から漏れた返事は、滑稽なほどに掠れていた。
◆◆◆
次の日、トモミはゲゲゲの森を後にした。
知り合った妖怪たちに別れを告げ、旅の暮らしを再開する。またいつでも立ち寄ってくれと、皆笑顔で送り出してくれた。
トモミ自身、ゲゲゲの森は気に入っている。旅を続けているうちに疲れたら、また立ち寄らせてもらおうと思っている。
「奥多摩の方でも目指してみようかな」
背中の木箱を背負い直し、トモミは歩き始めた。
旅先の新聞で、とある製薬会社のCEOが自首してきたという記事をトモミが目にするのは、数日後のことである。
そのCEOは脱税を始めとする不法行為をいくつも犯していたらしく、しっかりと逮捕されたらしい。
自首してきた当時、CEOは極度の錯乱状態にあり、それが落ち着いた今でも病的なまでに暗闇を恐れるという、至極どうでもいい情報も掲載されていた。