妖怪と蟲師 〜薬袋智深の旅情譚〜 作:深山碧
昼休み、社員食堂でランチタイムを過ごしていたまなに、ねこ娘から電話がかかってきた。
「今夜、ラーメン食べに行かない? 奢るわよ」
「いいの?」
「ええ。近くにいい店ができて、最近ハマってるのよ。どう?」
「もちろん! 行くよ!」
それから待ち合わせの時間と場所を決めて通話が終わる。
まなは拳を握りしめた。
モチベーションが一気に高まってきた。今日は何が何でも定時で上がってやる。
昼食を素早く胃に収め、まなは意気揚々と仕事に戻っていった。
◆◆◆
かつてない集中力で仕事を片付けたまなは、定時で退勤。
待ち合わせの駅前に到着すると、ねこ娘は既に来ていた。
「お待たせ、ねこ姉さん」
「まな。仕事お疲れ様。それじゃ、早速行きましょ」
夕闇に覆われつつある街の中、まなはねこ娘と並んで歩く。
ねこ娘によれば、件のラーメン屋はつい先週オープンしたばかりらしい。
こぢんまりとした店構えと昔ながらの雰囲気が、一部のラーメン愛好家の間で話題となり、開店数日にしてちょっとした行列ができるようになったそうだ。
「ネットを見る感じ、リピート率がかなり高いみたいね」
「へー、鬼太郎とも行ったの?」
何とはなしに尋ねた瞬間、ねこ娘の表情がぴしりと固まった。まずい質問だったかもしれないと、まなは少し後悔した。
「誘ったわよ……」
拗ねたような声でねこ娘が呟く。
「せっかく誘ってあげたのに、鬼太郎ったら『僕はいつも行ってる店があるからいいよ』って!」
どう思う!? と唇を尖らせるねこ娘。
まなは曖昧に笑うことしかできない。おいたわしや、ねこ姉さん。
内心でねこ娘に同情しつつ、まなは話題をそらすことにした。
「そ、それで、そのお店はどんなラーメンを食べられるの?」
開店数日で行列ができるような店だ、話題になるような変わったラーメンを出しているのかもしれない。
しかし、ねこ娘の返事はあっさりしていた。
「普通ね」
「普通……」
「王道、と言えば聞こえはいいけど、何か変わり種があるわけでもないし……でも、妙に行きたくなるのよね、安心するというか」
「へー……」
ねこ娘が勧めてくれるくらいだから、不味いということもないのだろうが。
ハマってる、と言う割にはねこ娘の態度は淡白なものだ。まなは内心首を傾げた。
◆◆◆
そのラーメン屋は住宅街の裏道にあった。普通に歩いていれば、気付かず通り過ぎてしまうような店構えに、まなは少し拍子抜けした。
しかし、その店の前には十数人の人が並んでいる。客層は老若男女を問わないようで、人気というのは本当らしい。
いわゆる隠れた名店というやつだろうか。
列に並んで待つことしばらく。
まなとねこ娘の番が来た。
ガラリと入り口が開き、入れ替わりで出てきた客を見て、まなは驚いた。
「ねずみ男さん……!?」
思ってもみなかった知り合いとの遭遇。
まなは慌てて横にいるねこ娘を見た。この二人の犬猿の仲は知るところである。
「ああ、最近よく会うのよね。この店で」
アンタも飽きないわね、とねずみ男に声をかけるねこ娘は意外にも穏やかな調子だった。
ねずみ男がニヤリと笑う。
「お前だって四日連続じゃねぇか」
「ふん、私がどこで何食べようが自由でしょ」
短いやり取りをして、ねずみ男が去っていく。
店員から案内されるがまま店内へ。
香ばしいスープの匂いが、まなの食欲をくすぐった。
内装はまさしく昔ながらのラーメン屋といったところ。
カウンター席とテーブル席が並んでおり、一つのテーブルを除いて全て埋まっている。
その空いているテーブルに着いたまなは、向かいに座るねこ娘に顔を寄せ、声を潜めた。
「ねこ姉さん、いいの?」
「何が?」
「四日連続で来てるんでしょ。誘ってくれたのは嬉しいけど、同じお店ばっかり行くのしんどくない?」
ねこ娘は何日も同じものを食べるようなタイプではなかったと思うが。
まなの問いに、しかしねこ娘は首を横に振る。
「いいのよ、私が好きで来てるんだから。——なんか気付いたら来たくなるよね、ここ。ま、味も悪くないからいいんだけど」
「それなら、いいけど……」
店員がやって来たので、会話は中断された。
学生のアルバイトだろうか、緊張した様子の若い男性店員が、まなとねこ娘の前に水の入ったグラスを置く。
「ご注文、どうされますか?」
しまった、注文のことを忘れていた。
まなは慌てて壁にかかったメニュー表に目を走らせる。
ねこ娘が慣れた調子で口を開いた。
「ラーメンと半チャーハンで。まなは?」
「あ、えっと、じゃあ私もそれで」
かしこまりました、と店員が去っていく。
まなは、カウンターの向こうに見える厨房の方を見た。
中では何人かの従業員が慌ただしく動き回っている。
これだけ繁盛している店だし、今は夕食時だ。きっと忙しいだろう。
「そう言えば、トモミはどうしてるって?」
グラスの水に口をつけながら、ねこ娘が尋ねてきた。
「今は東北の方にいるみたい。蟲患いの妖怪の治療をしてるって」
「へぇ、東北ねぇ」
「景色のいい所みたいだよ。写真も送ってくれたの」
スマホを取り出したまなは、山奥の清流が写った写真をねこ娘に見せる。
「あら、あの子スマホ苦手だったでしょうに」
「この間、教えたの」
この間知り合った蟲師のトモミは、最近よく連絡をくれるようになった。
スマホをはじめとする電子機器の類が苦手なトモミにRIMEの使い方を教えたのは、何を隠そうまなである。
まなとやり取りをするうちに、トモミもスマホに慣れてきたようで、よくメッセージをくれるようになった。
今はフリック入力を練習しているらしい。
「仲良くなれてよかったわね。どんな話してるの?」
「トモミからは蟲のことをいろいろと教えてもらってる」
トモミのおかげで、まなは蟲を目にすることができるようになった。
まなは知らない蟲を見かけるたびに、トモミに連絡を取って教えてもらっている。
「蟲ねぇ。私には見えないからよく分からないけど。街中にも普通にいるものなの?」
妖怪、人間を問わず、蟲を知覚できる者は限られる。
ねこ娘は持ち前の鋭敏な五感ゆえか、集中すればぼんやりと蟲の存在を感じ取れるものの、その姿形まで見ることはできない。
まなはぐるりと店内を見回すが、蟲らしきものは見当たらなかった。
「ううん、街中にはほとんどいないよ。ほんっとうにたまに、物陰とかにじっとしてるのがいるだけ」
トモミによれば、蟲というものは自然が多い土地に多く棲み、人間の手が入った都会にはほとんどいないという。
蟲たちには都会のコンクリートジャングルは息苦しいらしい。
「ゲゲゲの森にはいっぱいいるよ」
「やっぱりそうなのね。森の妖怪たちの中にも見えるやつがいるみたいだから。まあ、私には見えないから、どんなものかよく分からないけど」
「あ、私が描いたのでよければ見てみる?」
まなはゲゲゲの森に行くたびに、そこかしこにいる蟲を見つけては、手帳に落書きしていた。
写真に撮ろうとしても、どういうわけか上手く写らないので、スケッチしてはその絵をトモミに送っている。
まなの質問に、トモミはいつも懇切丁寧に答えてくれる。学校の理科の授業を受けているような気分だ。
子供の頃は退屈だった授業が、大人になると恋しくなるというのは、何とも皮肉な話である。
まなはカバンから手帳を引っ張り出して、蟲が描かれたページを開いた。
これはどういう蟲だ、これには近付かない方がいい、などとトモミから教えてもらった話を身振り手振りを交えてねこ娘に語って聞かせる。
ふと、ねこ娘がくすりと笑った。
「どうしたの?」
「妖怪とか蟲みたいな異形のものを、普通の人間は避けるものでしょ。でも、まなは昔からそういうのにすごく親しんでくれるから、それが嬉しいのよ」
言ってから気恥ずかしくなったのか、ねこ娘は誤魔化すように水を飲んだ。
「嬉しいのは私もだよ。妖怪も蟲も、私の知らない所で生きている。それを知れるのが、すごく嬉しいの」
ねこ娘は少しだけ頬を赤くして、それから「まなはやっぱり変わってるわ」と呟いた。
「お待たせしましたー!」
ラーメンとチャーハンを載せたお盆を両手に、店員が来た。
香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、まなのお腹が小さく鳴った。
お盆をテーブルに置き、店員が手を引っ込めようとしたその時、距離感を見誤ったか、注意が途切れていたのか、店員の手がまなの前に置かれていたグラスに引っかかった。
「あっ」
まなも反射的に手を伸ばしたが間に合わず、グラスは床に落下し、派手な音を立てて砕け散った。
「も、申し訳ございません!」
小走りで厨房に引っ込んだ店員が、雑巾とちり取りを手に戻ってくる。
「大変、失礼致しました。お怪我は?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ」
すっかり恐縮してしまった店員をなだめる。
実際、グラスの破片もこぼれた水も、まなには当たっていない。
グラスを片付けた店員が再び頭を下げる。
「すぐに代わりの水を——」
言いかけた所で、少し離れた所から店員を呼ぶ声。
店員はぺこりと頭を下げて慌ただしく去っていく。
お客も満員だし、やはり店は忙しいのだろう。
「まな、怪我は?」
「うん、平気。——さ、伸びる前に食べちゃおう!」
手を合わせ、まなは箸をラーメンの中へ突っ込んだ。
◆◆◆
会計を済ませて、まなはねこ娘と店の外へ出た。
入り口には相変わらず行列ができている。
熱を持った肌を夜風が撫でていくのが心地いい。
「誘ってくれてありがとう」
「いいのよ、話せてよかったわ。まなはもう帰る?」
「コンビニ寄ってから帰るよ」
塩味の強いものを食べたせいで喉が渇いている。水が欲しかった。
結局、代わりの水のグラスは届けられなかった。忘れられてしまったのだろう。まあ、店も忙しそうだったので仕方ない。
「まな、明日は空いてるの?」
「明日?」
「ええ。またここで食べない?」
「明日かぁ……」
誘いは嬉しいが、二日連続ラーメンというのはあまり気が進まない。
「ごめんなさい、明日は家で食べるよ」
「そう。じゃあまた今度ね」
「うん」
ねこ娘に別れを告げて歩き出す。
ねこ娘は随分とあの店を気に入っているらしい。
しかし、まなは少し奇妙な気分だった。
「いつも行ってるとこの方が美味しいような……?」
確かに料理は不味くはなかった。むしろ美味しい部類だろう。しかし、そう何日も連続で通い詰めるほどではないような気がする。
人の好みについてとやかく言うつもりはないが、あの店のラーメンにねこ娘が惹きつけられる理由が、まなにはイマイチ分からなかった。
◆◆◆
それからしばらく、まなは忙しい日々を送った。
重要なプロジェクトやら出張やらが重なって残業続きの毎日。
しかしそれも今日で終わり。
報告書を上司に提出して帰路につく。
せっかくだし、自分へのご褒美として居酒屋に行こうと思い立つ。
「ねこ姉さんも誘っちゃおうっと」
スマホを取り出し、ねこ娘の連絡先をタップする。
数度のコール音の後、ねこ娘が電話に出た。
「あ、ねこ姉さん。晩ご飯一緒にどう?」
「そうね、じゃああの店の前で待ち合わせない?」
「あの店……?」
「こないだ行ったとこ」
またあのラーメン屋か。
「ねこ姉さんすっかり常連だね」
「そうね。もう二週間くらいになるかしら」
二週間……?
「もしかして、二週間連続でラーメンを……?」
「そうよ」
「ずっとあの店で?」
「そうよ」
まなは耳を疑った。
いくら気に入ったからといって、二週間も毎日ラーメンを食べるものだろうか。しかも同じ店で。
ねこ娘ならもっといろいろな店を知っているだろうに。
「あ、あの、ねこ姉さん。今日は他の所にしない? 刺身が美味しい居酒屋があるの。今日はそこに——」
「私はあの店がいいわ」
「えぇ……?」
思わず困惑の声が漏れた。猫妖怪のイメージ通り、ねこ娘は魚好きであることは知っている。
そんな彼女が刺身よりラーメンを選ぶのか。
「で、でも! ここ二週間、毎晩ラーメンでしょ? 飽きたりとかしてるんじゃ——」
「そんなことないわ。ここ数日は昼もこの店で食べてるし」
「昼も!?」
そこまで行くと『ハマってる』というより、もはや執着の域ではないか。
あの店の何がねこ娘をそうまでさせるのか。
「まなはラーメン嫌なの?」
「嫌ってことはないけどぉ……そんなにあの店が気に入ったの?」
「そうね……なぜかは分からないけど、行かなきゃって思うのよ」
まるで依存しているかのようなねこ娘の物言いに、まなは若干引いていた。
閉口するまなをせっつくように、ねこ娘が言い募る。
「どうするの、まな。私もう店の前並んじゃったけど」
「えっ、ちょっと待って! そんな何日もラーメン食べたら体に悪いよ」
「何言ってるの。妖怪に体に良いも悪いもないでしょ。とにかく、私はこの店がいいの」
もはや駄々っ子のようなねこ娘。
薄ら寒いものを覚えながら、まなは説得を試みる。
「そのお店はまた今度にしようよ、ね?」
「どうしたの、まな? ちょっとおかしいわよ」
「ねこ姉さんが心配なの。いつもはそんなにお店にこだわったりしないでしょ」
「そんなことないわ。たまたまこの店に行きたいだけよ」
「たまたまで二週間も連続は行かないよ!」
「……別に無理に来て欲しいわけじゃないわ。ごめんなさいね、まな。居酒屋はまた今度にしましょ」
それだけ言って、通話が切断された。
まなの胸中に、じわじわと不安が広がる。
本当にねこ娘があのラーメン屋に通うのは偶然なのだろうか。
二週間連続、しかもここ最近は昼と夜二回も。
ねこ娘は「行かなきゃって思う」と言っていた。数あるラーメン屋の中から、あの店に「行かなきゃ」と。
何か作為的なものを感じる。
まなは足早に歩き始めた。
◆◆◆
まなは件のラーメン屋の前にやって来た。
「うわ、すごい人……」
この間来た時とは比べ物にならないくらいの行列ができていた。
長くなりすぎた列は、途中で途切れて道の向こうにも続いている。
ラーメン屋ひとつにできる列としては異様な光景だ。
まなが電柱の影に隠れて様子を見ていると、店の扉が開き客が出てきた。
その男性客はさも当たり前のような顔をして列の最後尾に向かうと、再びそこに並んだ。
まなはおっかなびっくりその男に声をかける。
「あの、すみません」
「はい?」
「今お店から出てきて、そのまま並びましたよね」
「えっ?」
男は一瞬きょとんとしてから、まるで自分の行動に初めて気が付いたように目を見開いた。
「あれっ、ホントだ!? 何やってんだ俺?」
「大丈夫ですか……?」
「あ、ああ。おかしいな、今食べたばっかりなのに……」
どうやら自分が何をしているか自覚もなかったらしい。
「ここにはよく来るんですか?」
「ああ、最近よく来るんだが……」
「ここのラーメン、特別気に入ってるんですね」
「いや、そういうわけでもないんだが……。何だかふとした時に行かなきゃって思うんだよ」
この客も、ねこ娘と同じことを言っている。
「それは、どうしてですか?」
「どうしてって、何か来ると落ち着くんだよな。——さすがに連チャンで並ぶのはどうかしてるけど」
首を捻りながら去っていく男を見送る。
まなは寒気を覚えた。普通の店でこんなことが起こるとは思えない。
やはりこのラーメン屋には何かある。悪い意味で、客を惹きつけ虜にする何かが。
慌てて周囲を見渡すと、行列の中間より少し前の位置にねこ娘がいた。
「ねこ姉さん!」
「あら、まな。やっぱり来たくなったのね」
息せき切って走り寄ってきたまなに、ねこ娘は呑気にそんなことを言ってくる。
まなはそんなねこ娘の腕をひっしと掴み、思い切り引っ張る。
「ねこ姉さん、帰ろう! この店おかしいよ!」
「ちょっと、大声出してどうしたのよ?」
「今お店から出てきた人がすぐにまた並んだの。しかも完全に無意識だった。これ変だよ!」
必死になって呼びかけるが、ねこ娘はきょとんと首を傾げるだけ。
「食べ足りなかったんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ! とにかくここにいちゃダメだ。お願いねこ姉さん、一緒に来て! 鬼太郎に相談しよう!」
ねこ娘は困ったように眉尻を下げた。
ぐいぐい引っ張るまなの腕に、そっと手を置く。
「誘いを断ったのは悪かったわ。でもね、私はここじゃなきゃダメなのよ」
「それがおかしいって言ってるの! ねこ姉さん、このお店に依存してるみたいだよ!?」
「落ち着きなさい。そんなに騒いだら迷惑でしょ?」
ねこ娘の声は、聞き分けのない子供に言い聞かせるようだった。
周囲の人間が怪訝そうにまなを見ている。今この場に並んでいる客からすれば、おかしいのはまなの方だ。
店から店員が出てきて「どうされましたか」と問うてくる。
「いえ、何でもないです……」
まなは完全にアウェー状態。できることなど何もなかった。
「まな、大丈夫?」
「うん」
頷いてはみるものの、覗き込んでくるねこ娘の顔を直視できない。
まなは周りにぺこりと頭を下げて、その場を辞した。
◆◆◆
「それで、僕の所に来たと」
「うん……」
逃げるようにラーメン屋を後にしたまなは、その足で鬼太郎の家に来ていた。
話を聞いた鬼太郎は腕組みをして唸る。
「確かに、ねこ娘は何日もラーメンばっかり食べることはしないな」
「でしょ! 私が他の所に誘っても『行かない』の一点張りで」
茶碗風呂に浸かっていた目玉おやじも首を捻る。
「まなちゃんからの誘いを無碍にしてまで、いつもの店に行こうとするとはのう……」
ねこ娘は「ここじゃなきゃダメ」と言っていた。
あの店の何かがねこ娘を強く縛り付けているみたいだ。
「実は、僕もねこ娘からしつこく誘われてて、一昨日一緒に行ってみたんだ」
散々だったよ、と鬼太郎がため息をついた。
「何かあったの?」
「ああ、客同士が喧嘩になって、巻き込まれた。コップもラーメンもひっくり返されて、酷い目に遭った」
碌に食べれなかったよ、と鬼太郎は肩をすくめる。
「それで、鬼太郎は何ともないの?」
「ああ、特に何も」
「妖怪とかが、店に無理やり客を呼び込んでるみたいなことないかな?」
まなの言葉に、鬼太郎は首を横に振る。
「あの店から妖気は感じなかった。何か別の原因だと思う」
「そっか……」
しかし、店から出てすぐにまた列に並ぶというのは異常だ。しかもあの男性客は、完全に無意識だった。
ただあの店が気に入っているから、というだけでは説明がつかない。
以前、どこかの飲食店で料理に依存性のある違法薬物を混ぜて提供していた、というニュースを見た記憶がある。
あのラーメン屋もそういったことをやっているのだろうか。
ねこ娘のあの店への通い方も度が過ぎている。このまま通い続けたら、あの店から出られなくなるのではないか。
そんな馬鹿げた不安がまなの脳裏をよぎる。
うつむくまなの肩に、鬼太郎がぽんと手を置いた。
「そう気を落とすな。僕もあのラーメン屋について調べてみる。——今日はもう遅いから帰った方がいい」
「うん」
立ち上がろうとした時、ポケットのスマホが鳴った。電話の着信だ。
画面を見ると、トモミからだった。
「もしもし?」
「やあ、まな。実は今日、珍しい蟲と遭遇してね。まなも面白がってくれるかなって、電話したんだけど」
トモミの声は明るかった。
悪気がないのは承知の上だが、今のまなに蟲の講義を受ける余裕はなかった。
「…………」
「何かあったのか?」
返事をしないまなに、何かよくないものを感じ取ったのか、トモミの声が低くなる。
「実は——」
まなは、奇妙なラーメン屋のことをかいつまんでトモミに話して聞かせた。
トモミは口を挟まず黙って聞いてくれた。
スマホを持っているのに疲れたので、途中でスピーカーモードにして床に置いた。
「——それで、鬼太郎に相談したところなの」
「なるほどねぇ。それじゃあ今は鬼太郎の家に?」
「うん」
まなはスマホを鬼太郎たちの方へ滑らせる。
真っ先に声をかけたのが目玉おやじだった。
「蟲師殿。その説は世話になった。どうじゃ、旅の方は」
「ぼちぼちと言ったところで。つい先ほど宿に入ったところでね」
「息災のようで何よりじゃ」
鬼太郎がトモミに尋ねた。
「今の話、どう思う?」
「そうだな。妖怪の仕業ってわけでもないんだろう? なら私から言えることは——いや」
「何か心当たりがあるのか?」
「特定の場所に依存したように通い詰める、そういうことをさせる蟲はいるね」
まなはスマホを引っ掴んだ。
「いるの!? ホント? それってどんな——」
「まあまあ、落ち着いて。今回の状況からして、その蟲の可能性は低いと思う。ただ、似たような例があるってだけで」
「それでもいいの。教えて!」
常識では説明のつかない現象を引き起こすのは妖怪だけではない。蟲もまた然り。
突如湧いた可能性をスルーはできなかった。
食い付くまなに若干たじろぎつつ、トモミは話し始めた。
「
そいつは体表から特殊な分泌物を出して、棲んでいる沼や池に溶かす。その分泌物が混ざった水は
まなをはじめ、鬼太郎も目玉おやじもトモミの話に耳を澄ませている。
「呼水を飲んだ獣は、何度も同じ水場に通うようになるんだ。そして、呼水を飲めば飲むほどそこに通う頻度は高くなる」
目玉おやじが唸った。
「確かに、水場をラーメン屋とすれば、そっくりな話じゃのう」
「それじゃあ、例のラーメン屋に沼珊瑚が?」
鬼太郎の言葉を、トモミは「いいや」と否定する。
「沼珊瑚は本来、山奥の流れのない水場に棲む。何かの間違いで街中に行ったとしても、沼珊瑚は熱に弱い。都会のラーメン屋にいるとは考えにくい。
何より、まなも鬼太郎も、ねこ娘とその店で食事をしている。なのに二人とも呼水の影響を受けているようには思えない」
そうか、と黙り込む鬼太郎の代わりに、まなは口を開いた。
「私も鬼太郎もその店に行ったのは一回だけだよ? 呼水の影響を受けなかったのかも」
「いや、呼水の及ぼす影響力は生半可なもんじゃない。ある実験の記録があってね、一度だけ呼水を飲ませた鹿を縄で繋いで水場へ行けなくしたんだ」
「どうなったの?」
「……その鹿は自身の脚を引きちぎってまで水場に向かった」
思わず身震いした。
とてつもない依存性だ。それこそ違法薬物と同レベルかそれ以上の。
「どうして、沼珊瑚はそんなことするの?」
「そこが分からないところでね。かつて沼珊瑚を採集しようとした蟲師は揃って獣に襲われてしまって、無事に採集できた者がいないんだよ。一説には繁殖のためじゃないかとは言われてるけど、はっきりとは分からないね」
とにかく今回の一件、沼珊瑚とは違うんじゃないかな——そうトモミは締め括った。