妖怪と蟲師 〜薬袋智深の旅情譚〜   作:深山碧

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第六話 万来の食卓 下

 帰路についたまなの気分は、沈んでいた。

 まなの頭を支配していたのは、トモミが話してくれた沼珊瑚のこと。

 

 話を聞く限り、ラーメン屋に足繁く通うねこ娘が呼水の影響を受けていると考えれば、全てに説明がつく。

 しかし、トモミの言う通り、まなも一度はあの店で食事をしているのだ。ならばまなも呼水の影響は受けているはず。

 ところが、まなはあの店に行きたいと思うどころか、ねこ娘と久々に話すまでラーメン屋のことなど頭になかったのだ。

 

 まなに蟲の力をも打ち消す特殊な体質があれば、あるいは。

 

「いやいや、さすがに都合良すぎるって」

 

 きっと不安になっているせいで、そんなおかしなことを考えてしまうのだ。

 

 ラーメンと半チャーハン。あの日、まなとねこ娘は同じものを口にしている。

 味は結構好みだったな、とまなは思い返す。

 しつこ過ぎず、かといって薄くもなく、ちょうど良い具合の塩気。

 

 そうそう、あの日は店員がグラスをひっくり返したのだった。

 気弱そうだったけど、あの失敗がトラウマになっていなければいいが。

 

「——ん?」

 

 まなは足を止めた。

 重大なことに気付いた。なぜ今まで忘れていたのだろう!

 

 まなは震える手でトモミに電話をかけた。

 数度のコール音すらもどかしい。

 

「ふぁい?」

 

 トモミの声は眠そうだが、そんなことお構いなしにまなは捲し立てる。

 

「聞いて、トモミっ! あのラーメン屋、沼珊瑚がいるかも! やっぱりあのお客さんたち、呼水の影響を受けてるんだ!」

「んぇ?」

 

 電話口からがさごそとトモミが身を起こす音が聞こえた。

 幾分かはっきりとしたトモミの声がする。

 

「どういうことかな?」

「あの日、確かに私はお店に行ってねこ姉さんと同じメニューを注文したの。その時、店員さんが私の水をひっくり返した。代わりの水をもらえなくて、後からコンビニで水を買ったの」

「……なるほど、まなは店の水を飲んでいないのか。となると——」

「あのお店、水はセルフサービスじゃなくて、店員さんが持ってきてくれるシステムだった。厨房の奥にウォーターサーバーみたいなのがあるんじゃないかな」

 

 トモミが息を呑む。

 

「その中に沼珊瑚がいれば、筋は通るね」

「うん。でも、どうやって確かめたらいいか……」

「今度店に行った時、出された水を何とかして持ち帰ってくれ。呼水は沸騰させると独特の甘い匂いがする」

「分かった。やってみる」

 

 それじゃあ、と通話を切ろうとしたまなをトモミが呼び止めた。

 

「まな、よく聞いてほしい」

「何?」

「今回の一件、仮に沼珊瑚が原因だったとしても、沼珊瑚は悪気があったわけじゃない。ただ己の生を遂行しようとしただけなんだ。それだけは忘れないでほしい」

 

 なぜ今そんな話をするんだろうか。

 少し疑問に思いつつ、まなは頷いた。

 

「うん、分かってるよ」

 

 ◆◆◆

 

 翌日の夜、まなはラーメン屋に来ていた。テーブルを挟んだ向かいでは、ねこ娘がラーメンを啜っている。

 

 見た目はいつも通りだ。

 

 おもむろに、ねこ娘が顔を上げてまなを見た。

 

「ごめんね、まな」

「どうしたの、急に?」

「昨日、まなから言われたことを考えてたの。ここ最近、私はこのお店に入り浸ってる。自分でもおかしいなって思うのよ」

「ねこ姉さん……」

「でも、なぜか自分が抑えられない。どうしてもここに来なきゃいけないって、そんな風に思ってしまう」

 

 どうしちゃったのかしらね、とねこ娘は俯いた。

 ねこ娘の手元にあるグラスは既に空だ。

 

「あのね、ねこ姉さん。落ち着いて聞いてね」

 

 まなは話した。

 この店のことをトモミに相談したこと。

 この店に来る客がみんな蟲の影響を受けているかもしれないこと。

 

「じゃあ、その沼珊瑚っていうのが、この店にいるかもしれないのね」

「うん。だから、今日はそれを確かめに来た」

 

 まなは周囲を見回して人目が向いていないことを確かめると、持ち込んでいた魔法瓶に、自分のグラスに入った水を移した。

 何の変哲もない普通の水だ。蟲の影響を受けているようには見えない。

 

 不安げなねこ娘に、まなは努めて明るく話しかける。

 

「でも安心して。呼水の影響を受けても命の危険はないんだって。ただ、飲み続けたらどうなるかは分からないから……」

「そう。ごめんね、心配かけて」

「ううん、大丈夫。きっと悪いようにはならないよ」

 

 会計を済ませてまなとねこ娘は店を出た。

 相変わらず店には長蛇の列ができている。もうすぐ閉店時間だろうに。

 

 ふらりと足を踏み出したねこ娘を、慌てて捕まえる。

 

「どこ行くの?」

 

 まなに言われて、ねこ娘は我に帰ったらしく、不安げに揺れる瞳でまなを見た。

 

「列に、並ぼうとしてた……」

「……そっか」

 

 昨日の男性客と同じ。店への依存が無意識に表れはじめている。

 

「鬼太郎のところに行こう」

 

 既に鬼太郎と目玉おやじに話は通してある。

 ねこ娘が本当に呼水の影響を受けているのなら、対策を考えなければならない。

 

 ◆◆◆

 

 まな、ねこ娘、鬼太郎、目玉おやじの四人は、まなが持ってきた魔法瓶を神妙な面持ちで取り囲んでいる。

 まながスピーカーモードで通話を繋げたトモミもいる。

 

 鬼太郎が魔法瓶の水を薬缶へ移し、火にかけた。

 

「この水が沸騰して甘い匂いがしたら、呼水ってことでいいんだな?」

「ああ」

 

 鬼太郎の問いにトモミが短く答える。

 

 水が沸かす時、それを待っている時間は妙に長く感じられるもの。

 手持ち無沙汰な時間を過ごすことになるが、誰も雑談をするような気分ではない。

 

 会話の口火を切ったのはトモミだった。

 

「沼珊瑚の資料を漁ってみたが、詳しいことは分からなかった。調べようとした者は軒並み無事に済んでないらしい」

「悪かったわね。アンタまで巻き込んじゃって」

「気にしなくていい。この件に沼珊瑚が絡んでいるなら、蟲師の私としても得難い資料になる」

 

 まなが入手した水の量はそれほど多くはない。すぐに薬缶からグツグツと音がし始め、湯気が立った。

 

「あ、甘い……」

 

 思わずまなはそうこぼした。

 湯気に混じって、普通の水ではまずあり得ない、金臭さと甘さが混じった香りが漂う。

 

「決まりだな、これからどうしたらいい?」

 

 鬼太郎がトモミに尋ねるも、トモミは困ったように唸り声を漏らした。

 

「そのラーメン屋に沼珊瑚が巣食っているのは間違いないと見ていいだろうね。問題は呼水の影響をどう断ち切るかだ」

 

 あのラーメン屋には数多くの客が通っている。一体どれだけの人数が呼水の影響を受けているのか、想像もつかない。

 

「何か手立てはないのか?」

「いかんせん資料が碌になくてね。店のどこかにいる沼珊瑚を引っこ抜いて殺せば、影響から逃れられるかもしれないが……」

 

 あまり気は進まないね、とトモミは言う。

 

「どうして? このままだとねこ姉さんだけじゃなくて、他の人たちも——」

「そもそも沼珊瑚が街中で定着するという事例がない。普段は山奥の池沼に生きるモノだからね。都会で大人数が影響を受けている中で沼珊瑚を殺したら、どんな影響が出るか分からない」

「じゃが蟲師殿、どんな池沼もいずれは水が枯れていくもの。その時に沼珊瑚はどうなるんじゃ? 周りの動物に対して何かをするのかの?」

「それは、何とも言えないが……」

 

 原因は検討がついたものの、有効な手立ては浮かばない。

 

 沈黙を破ったのは鬼太郎だった。

 

「とにかく、店に行って沼珊瑚を探すのが先決だと思う。僕らには蟲が見えないから、まな、一緒に来てくれるか?」

「うん、私にできることなら何でもする。——あ、でももうお店閉まってるかも」

 

 時刻は既に深夜近い。行ったところで入れないだろう。

 

「忍び込むしかない、か」

「えっ、今からお店に!?」

「開いてる時に行っても人目が多すぎるだろ。それなら今から行って確かめた方がいい」

 

 ナチュラルに不法侵入を提案する鬼太郎。

 しかしまなは気乗りしない。妖怪の鬼太郎なら問題ないかもしれないが、あくまでまなは一般人。下手をすれば警察のお世話になる。

 

「ダメか? 仮にまなが捕まっても逃がす方法はあるけど」

「そういう問題じゃなーい!」

「いや、それは確かにいい案かも」

「ちょっと、トモミまで!」

 

 突っ込むまなに「さすがに冗談だけど」と置いてから、トモミが続ける。

 

「呼水を飲んでも命に別状はないはずだ。でも今回はイレギュラーが重なっている。手を打つなら早い方がいい、とは思うね」

 

 私がそっちにいればやりようはあるんだが、と悔しそうにトモミが呟く。

 

 皆で腕組みするも、いい案は浮かばない。

 

 その時、ねこ娘が何かをぼそりと呟いた。

 そういえば、先ほどから俯いて黙りこくっていた。

 

「ねこ姉さん? どうしたの?」

 

 声をかけるも返事はない。ただ、口元だけがもごもごと動き続けている。

 

「ねこ娘、どうかしたのか?」

 

 鬼太郎の声にも反応がない。

 

 まなはそっとねこ娘に顔を寄せる。

 

「助けなきゃ……守らなきゃ……守らなきゃ…………私が」

 

 突如、ねこ娘が勢いよく立ち上がる。

 ひっくり返りそうになりながら、まなは声を上げた。

 

「ちょっと、どうしたの!?」

 

 立ち上がったねこ娘は、震えていた。目に涙さえ滲ませて。

 

「呼んでるの……助けなきゃ……早くしないと死んでしまう!」

 

 言うが早いか、ねこ娘が飛び出していく。

 

「ねこ娘! どこに行くんだ!」

 

 慌てて鬼太郎が後を追っていった。

 

 明らかな異常事態。まなの鼓動が早くなる。

 

「どうした、何があった?」

 

 電話口からのトモミの声。まなはスマホを引っ掴んだ。

 

「分かんない。ねこ姉さんが出ていったの! 『呼ばれてる』、『助けなきゃ』って!」

「くそっ、おそらく沼珊瑚に呼ばれたんだ。急げまな、多分良くないことが起こってる!」

「うん! 目玉おやじさん、みんなにも知らせて!」

「分かった。気を付けるんじゃぞ、まなちゃん」

 

 状況が飲み込めないまま、まなは走った。

 胸の辺りがざわざわする。嫌な予感がしていた。

 

 ◆◆◆

 

「ちょっと、何よこれ……?」

 

 まなが到着すると、ラーメン屋は炎に包まれていた。

 

 既に緊急車両が並び非常線が張られていた。

 そしてそれを取り囲むように、百以上の群衆が押しかけている。

 警官や消防士が必死に押し留めているものの、群衆はそのバリアを突破しようとせめぎ合っていた。

 消化活動どころではないほどの騒ぎだった。

 

 鬼太郎もねこ娘も見当たらない。

 

「鬼太郎ー! ねこ姉さーん!」

「ここだ……まなっ」

 

 群衆の波の中、鬼太郎の学生服の袖が辛うじて目に入った。

 まなは蠢く人の隙間に割り込み、群衆に揉まれながら何とか鬼太郎の所へ辿り着く。

 

 鬼太郎は、炎に向かって突き進もうとする人々を全身で抑え込んでいた。

 

「これも蟲の影響なのかっ!?」

「分かんない! ——ねこ姉さんは!?」

「店に飛び込んでいった。止める暇もなかった!」

「そんな……!」

 

 まなは燃え盛る建物を見やる。

 火災の規模は大きい。ちょっとしたボヤどころではなかった。

 

 いくらねこ娘が妖怪だとしても、この炎の中で無事にいられるとは思えない。

 

 鬼太郎は群衆を押し留めるのに手一杯で動けそうもない。

 

「私、助けに行く!」

「バカっ! 死ぬ気か!」

「でも、このままじゃねこ姉さんが死んじゃう!」

「よせ、僕はまなまで失いたくない!」

 

 ——ごめん、鬼太郎。

 

 静止を振り切り、まなは炎に向かって走り出す。

 

「待てっ! ——ああもう。まな、これを着ていけ!」

 

 飛んできたのは黒と黄色の縞模様。

 一直線に飛んできた鬼太郎のちゃんちゃんこは、まなの全身を包み込み、フード付きの外套に姿を変える。

 

 もう振り返る一瞬すら惜しい。

 まなは心の中で鬼太郎に礼の言葉を叫びつつ、炎に呑まれた店の中へと飛び込んだ。

 

 店内は酷い有様だった。

 壁からも天井からも、そこかしこから火の手が上がり、凄まじい熱気がまなを包む。

 しかし耐えられないほどではないし、息もできる。

 鬼太郎のちゃんちゃんこのおかげか。

 

「ねこ姉さーん!!」

 

 力の限り声を張り上げるが、返事はない。

 

「どうしよう……」

 

 ふと、トモミとの会話が脳裏に蘇る。

 ねこ娘は沼珊瑚に呼ばれている。呼水の影響を受けているからだ。この店は水をセルフサービスでなく店員が持ってくる。

 ——ということは。

 

「厨房……!」

 

 火を避けながら、小走りで厨房へ向かった。

 

 厨房はより酷い状態だった。おそらく火元なのだろう、一面が火の海で本能的に足がすくんだ。

 まなは頬を張り気合いを入れてから、ちゃんちゃんこに顔を埋めるようにして足を踏み出した。

 

 ねこ娘は探すまでもなかった。腰から下が瓦礫の下敷きになっている。

 

 まなの姿を認めたねこ娘は、目を見開いた。

 

「ま、な……?」

「ねこ姉さんのバカッ!」

 

 開口一番、ねこ娘を怒鳴りつける。

 ねこ娘は力なく自嘲的な笑みを浮かべた。

 

「ごめん、まな」

「何でっ……!」

「ごめんなさい。急に自分の中の何かが死んでしまう気がして、それが怖くて、いてもたってもいられなくなったの」

「それは、蟲が、沼珊瑚がそうさせてるんだよ。ねこ姉さんの意思じゃないの」

「分かってる、分かってたんだけどね……」

 

 まなの中で、不安と恐怖と憤りがごちゃまぜになって、嵐のように吹き荒れた。

 まなは心の中で沼珊瑚を呪った。

 沼珊瑚はなぜこんなことをさせるのだろう。なぜねこ娘を巻き添えにしようとするのだろう。

 

 違う。とにかく今はねこ娘を助けなければ。

 まなはねこ娘にのしかかる瓦礫に触れた。

 

「あつっ……!」

 

 火事の只中にある熱された瓦礫はとても触れない。

 

「まな、逃げなさい。このままじゃアンタも」

「嫌だ」

「私は平気よ。身体が死んでも魂は残るもの。時間が経てば元に戻るわ」

「ねこ姉さんの身体が治るのは何年かかるの? 何十年? 何百年? 私はそんなの嫌! もう二度と離れ離れになんかなりたくない!」

 

 まなはぴしゃりと言い返し、今度はちゃんちゃんこを握りしめた。

 

「お願い! ねこ姉さんを助けて!」

 

 まなの叫びが通じたのか、離れた所で鬼太郎が操ったのか。ちゃんちゃんこはしゅるりとまなから離れると、瓦礫に纏わりつく。

 

 同時に、先ほどまでとは比べ物にならない熱気が、まなの全身を舐めた。

 呼吸すらままならず、思い切り咳き込んだ。

 

「バカ! 何してるの!?」

 

 ねこ娘の悲鳴がやけに遠く感じる。

 

 ぼやける意識の中、まなはトモミの言葉を思い出す。

 

 ——沼珊瑚を引っこ抜いて殺せば、影響から逃れられるかもしれない——

 

 辺りを見回すと、業務用のウォーターサーバーが目に留まった。その周りには、人が何人か倒れている。

 

 それからもう一人、見覚えのある者が——。

 

「ねずみ男さん……?」

 

 そういえば、ねずみ男もこの店に通っている客の一人だった。

 彼も沼珊瑚に呼ばれて来たのか。

 

 こちらに気付いている様子のないねずみ男は、ウォーターサーバーに手をかけ思いきり引き倒した。

 

 けたたましい音を立てて床に叩きつけられたウォーターサーバーの蓋が外れて、中のタンクが現れる。

 

 ——見つけた。

 

 トモミから詳しい見た目は聞かされていなかったが、すぐに分かった。

 タンクの底に、ぼんやりと淡く光るモノがいる。珊瑚のような形をしたそれは、手のひらに収まってしまいそうなほど小さい。

 

 ねずみ男は躊躇なくタンクに手を突っ込み、沼珊瑚をむしり取った。

 それから大口を開けて、手の中にある沼珊瑚を——。

 

「——ちょっと待って! 何してるの!?」

 

 熱気の中をもがくようにして、ねずみ男に歩み寄ったまなは、その腕を掴む。

 

 ねずみ男はまなの手を振り解こうと暴れながら、うわ言のように呟く。

 

「放せ……! これは、俺が……守らなきゃならねぇ。守らなきゃ……」

 

 ——守る? 守るだって?

 

 それを聞いた瞬間、まなの中で何かが切れた。

 

 大勢の人間を巻き込んで、ねこ娘に大怪我をさせた。

 蟲には、自我もなく意識もない。そのくせこんな大きな影響を残してまで、己の生を遂行しようとしているのか。

 

 まなは、ねずみ男が手にした沼珊瑚を奪い取った。

 

 自身の手の中にある沼珊瑚を睨みつける。

 それは呆れるほど弱々しく、憎らしいほど淡々と、明滅を繰り返している。

 まなは全身がかっと熱くなった。

 

 こんな、いとも容易く踏み潰せそうな小さな生き物に、ねこ姉さんは——!

 

 ——やば、息が、できな……。

 

 まなの意識は暗闇に落ちていった。

 

 ◆◆◆

 

 目を覚ますと、目の前は真っ白な天井だった。

 体が重くて、動かせそうにない。

 

 やっとの思いで首を動かすと、ねこ娘の横顔が目に映る。

 

「ね、こ……ねえ、さ……」

 

 弾かれたように、ねこ娘がこちらを見た。

 ねこ娘は頬の辺りをぴくりと痙攣させると、みるみるうちに涙を溢れさせた。

 

「まなッ!」

 

 ねこ娘とは別の方からも聞き覚えのある声。

 ゆっくりと顔を向けると、父と母の姿が。

 

 どうやら、自分は助かったらしい。

 それだけ認識するのが精一杯だった。

 

 そこからはもう、大変な騒ぎだった。

 

 声を上げて泣き叫ぶ父。

 かつてないレベルでブチ切れた母からの平手打ち。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにするねこ娘。

 警察の事情聴取に、医師の診察。

 

 全て終わる頃には、まなは疲れ切っていた。

 

 どうやらまなは、まる一日眠っていたらしい。

 非常線に群がる群衆が収まり、消防士が突入しようとした瞬間、まなを抱えたねこ娘が建物から出てきたところを保護されたそうだ。

 手のひらの火傷だけで済んだのは奇跡だと、医者は繰り返し口にした。

 

 ねこ娘をはじめとするあのラーメン屋の客も、もう店に対する執着はなくなったそうだ。

 

 かなり大規模な火事だったので、ニュースにも大々的に取り上げられた。

 火事の原因は店側の不注意によるものだったそうだ。

 火災現場に飛び込もうとする群衆という不可解な現象も報道された。

 

 ネットの情報によると、現場周辺では謎の砂山や、空飛ぶ白い影、突如現れ消えた巨大な壁が目撃されているらしい。

 

 ◆◆◆

 

「結局、沼珊瑚は何がしたかったんだろう?」

 

 まなは電話越しにトモミに尋ねた。

 

 右手で弄ぶのは、白く石化した沼珊瑚。気付いたら光を失い、このような状態になっていた。

 トモミ曰く、この沼珊瑚はまだ死んでいないらしい。蟲というものは、死んでも骸を残すモノではないそうだ。

 それはある種の仮死状態だろう、トモミはそう言っていた。

 

 電話口のトモミは「うーん」と考え込んで、あくまで推測だけど、と前置きしてから答えた。

 

「沼珊瑚が呼水で生き物を集めるっていうのは、危機に陥った時に助けさせるためじゃないかな」

 

 沼珊瑚を採集しようとした蟲師が軒並み獣に襲われた、という話も、そう考えれば納得がいくような気がした。

 

 トモミの話は続く。

 

「それと、あの火災現場で、まなの知り合いが沼珊瑚を食べようとしたんだろう?」

「うん。私にはそう見えたよ」

 

 確かにあの時、ねずみ男は沼珊瑚を口に放り込もうとしていた。

 

「こうは考えられないか。——何らかの要因で命の危険を察知した沼珊瑚は、呼水で呼び寄せた生き物に己を食わせて仮死となる。それからその生き物が別の水場に行ったところで吐き出させ、そこを新しい棲家とする——。まあ、あくまで推測だけどね」

 

 まなは手の中にある沼珊瑚を見た。

 

「もしそうだとしたら、なんかすごいね」

「沼珊瑚は自分で移動する手段を持たないからね。そうやって他の生き物に頼ることで、命を繋いでいるのかもしれない」

 

 そう言われてみると、沼珊瑚も苦労しながら生きているのかもしれない。

 まなは不思議な気分になった。

 

 今度はトモミが尋ねてきた。

 

「その沼珊瑚、どうする?」

「どうしようかな……」

「どういう事情でラーメン屋なんかに紛れ込んだかは知らないけど、多くの人を危険に晒したのは事実だ。——まなが怒るのも、仕方ないとは思う」

 

 トモミは暗に、今なら沼珊瑚を殺せるぞ、と言っているのだ。

 

「別に怒ってないよ」

「そう?」

「うん」

 

 今回の騒動、沼珊瑚はたくさんの者を巻き込んだ。まなの大切な人も。

 でも、それはこの沼珊瑚が生きようと必死になった結果なのかもしれない。

 同情するつもりはないが、憎らしいとも思えなかった。

 

「まなは、蟲が嫌いになったかい?」

「……分かんない。でも、もっと知らなきゃなって思った。鬼太郎たちからよく言われるの。『妖怪と人間は距離感を間違えちゃいけない』って」

 

 正しく親しみ、正しく恐れる。それは妖怪も蟲も同じなのだろう。

 そのためには、もっと蟲のことを知らなければならないのだと、まなは思う。

 

 トモミは嬉しそうに「そっか」と呟いた。

 

「まなには蟲師の才能があるかもね」

「えっ、それはちょっと……」




鬼太郎のちゃんちゃんこを着るまな、好き。
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