Angel Beats! -The Reconnect Operation- 作:上海かに
――大食堂。
昼下がりの穏やかさからは打って変わり、日が沈んだ大食堂の中は多くの人物でごった返していた。部活終わりの生徒、小テストの点数が悪かったことを原因とする補修からようやく解放された生徒、放課後から今まで寮の自室で談笑してそのままの流れで夕飯を食べに来た生徒達。広大な敷地を誇るこのマンモス校に在籍する生徒・教師の多くが、大食堂というこの空間に集う。それもまた、この世界での普遍的な学園生活の一部だった。
『こちら遊佐です。気が付いたファンも集ってきています。そろそろ頃合いかと』
そんな普遍的な学園生活の中で、その雑踏に紛れる一人の少女の姿があった。学園指定のブレザーとは全く異なる、白を基調としたセーラー服に身を包むその少女は、大食堂を見渡せる吹き抜けの手摺に手をかけ、もう片方の手に持った通信機からの音声に集中を向ける。
無機質な声色の少女からの報告を受け、戦線のリーダーを務める少女、ゆりは通信機を口元に当てた。
「仕掛けるタイミングとしては上々ね。久居さん、ライブの準備は万全?」
『こちら久居。照明班、音響班共にスタンバイ完了。あと誘導班からの報告によると、噂を聞きつけた生徒達が続々と来てるみたい。今回の成果は期待大だね』
「岩沢さんは?」
『いつでも』
「遊佐さん、バリケード班の配置は?」
『音無さん含め、各員所定の位置で待機中です』
「よろしい。予定通り、
通信機越しに陽動部隊の主要隊員――岩沢に久居、そして自身の右腕として活躍する通信士の遊佐――への確認を済ますと、ゆりは深い赤色の髪を揺らし、エメラルドのような色合いの瞳を大食堂の壁に取り付けられた大きな時計に向ける。間もなく午後の7時を示そうと長針が歩を進めるのを見届けようとした矢先、片手に持つ通信機から再度自信を呼ぶ声があった。
『ゆりっぺ』
戦線内ですっかりと定着している自身のあだ名を通信機越しにを呼びかける久居からの声に、ゆりは一度時計から目を離し、通信機に声を放つ。
「どうかした?久居さん」
『ただの雑談。作戦行動前って、ちょっと誰かと話したくなっちゃって』
「あなたねぇ……」
報告でもあるかと思えば何とも拍子抜けする切り出しに、ゆりは呆れたような声を浮かべる。
「毎度のことだけど遊びじゃないのよ?これは――」
『神への反逆行為とついでに食券稼ぎ。分かってますよリーダー』
久居は少しだけからかったような口調でゆりの言葉を遮った。
『でもやっぱり、この時の為に色んな人が準備して、頑張って、そうやって作った舞台で岩沢さん達が思いっきり歌って、それに色んな人達が集まってくれてるんだよ。しかも今回は右も左も分からない新しい仲間もいる。そんな大舞台の手伝いが出来てるって考えると、やっぱり楽しみだな、私は』
作戦前の緊迫感とは少々ズレたような浮足立った言葉に、ゆりは「はぁ……」といった生返事を返す。
「学園祭でもないから。そんな
『とっくの昔に完了しています』
間髪入れずに返ってきた通信機からの声。ゆりはたまらず久居の待機している方角――彼女から向かって右下、下の階の吹き抜け付近――に目を向けると、多数の学生で入り乱れる大食堂の中、ゆりと同様に状況把握に努める薄橙色の髪の少女とパチリと視線が重なった。
離れた位置からゆりの姿をしっかりと認識した久居は、「作戦前に変なこと言わないでよね」とでも言いたげな視線に対して明朗な笑顔で手を振り返し、続いて通信機に声をかける。
『ゆりっぺはどう?』
周囲が喧噪に溢れる中でしっかりと耳元に届いたその声に、ゆりは「はぁ……」とため息をついてガックリと肩を落とす。久居の人柄や要領の良さは陽動部隊の作業員を纏め上げられるに値するというのはゆり自身の判断だが、久居にはこのような大がかりなイベントをあまりに正面から楽しもうとする一面もある。
それ自体は年頃の祭り好きな女子高生としては何らおかしい話ではないのだろうが、”死んだ世界戦線”という組織の隊員としては少々不似合いな考えだ。「陽動部隊の司令塔としてもっと気を引き締めろ」という言葉をかけるべく、ゆりは再度通信機のマイクをオンにした。
「……善処するわ」
口から出かかった言葉が不意に押し殺されて代わりに肯定の意を唱えてしまったのは、階層を跨いで見つめ返してくる妙に淀みない視線によるものだろう。通信機からの言葉を聞き届けた久居は、目を細めて柔らかな笑顔を作って見せた。
さて、と、久居の言葉に僅かながらペースを乱されたものの、すぐさま気持ちを切り替えたゆりはその視線を大食堂の壁掛け時計に戻す。時計の長針は、今にも天井の方角を真っ直ぐと示そうとしていた。
「各員
通信機を持つ隊員全てに対して放たれたゆりの言葉に対応して久居は陽動部隊の各隊員に手信号を送り、岩沢達ガルデモのメンバーは待機していた席から立ちあがり、遊佐は外の状況が把握できるよう誰の目にもつかず移動を開始する。
そして、長針がカチリと音を立てて19時の到来を告げたと同時に、ゆりは声を上げた。
「
その号令と同時に、賑やかな大食堂は一瞬の内に暗闇に包まれた。
*
――第二連絡橋。
遠く見える大食堂の照明が落ちるのを見た音無は、定刻通りに”作戦行動”とやらが始まったことを察した。緊張の面持ちで自分の右手に光るハンドガンのスライドロックを解いて息を吐く。
「これから大食堂にて大規模な陽動が行われる。自分達の仕事はそれに介入しようとする”天使”という敵対存在を足止めすることである」という、作戦の大まかな概要こそ説明されているものの、具体的に足止めとは何なのかという肝心な部分の説明を求めるとリーダーのゆりには「細かいことは身体で覚えろ」とでも言わんばかりの勢いで突っぱねられてしまった。その光景を見た日向は「諦めて覚悟決めな。これが戦線のスタイルだ」といやに実感の籠った声色で音無を励ましていた。
一体何が始まるのか――と思考を始めるや否や、唐突に大食堂の方角から爆音が響いた。激しいミュージックと、それに呼応するかのような生徒達の歓声。つい先程まで真っ暗だった大食堂の窓からは、一転して様々な色合いの光が漏れ出ている。
音無は昼間での日向の言葉を思い出していた。歌っているのが戦線本部で紹介された岩沢というメンバーなのだとしたら、「NPCの連中を釘付けにできる連中が居る」という言葉に一切の誇張は無かったようだ。
「……」
「……」
……と、先程から自分に痛い程の鋭さで睨みつけてくる視線から必死に逃げるように、音無は食堂の方を見やっていた。音無と共に第二連絡橋の西側に配備された人物、真幸は苛立たし気に地面を靴底で叩く。
「なぁーーんでテメェがここに居やがんだ?」
先程からじっとりと睨みつけていた真幸は、そのフラストレーションに耐えかねたのか音無に対して刺々しい口調で詰め寄る。作戦開始前から不機嫌丸出しの真幸を必死で無視していた音無だったが、口を開かれては無視を決め込むことも難しく、気まずそうに応える。
「何でって……知らねぇよ。ゆりがここで待機しろって言うからそうしてるだけなんだから。こっちからしたら何でお前が居るんだって話だよ」
「元々俺の持ち場だ!!くそっゆりっぺの奴、ここに滅多に天使が来ないからって新入りを寄越しやがって……」
「足手纏いで悪かったな。それで、なんでそんな”滅多に天使が来ない所”にアンタが配備されてるんだ?」
「担当は持ち回りだよ‼今回はたまたま!こんな岩沢さんの声が少ししか聞こえない辺鄙な場所に!新入りと二人で配置されたってだけだ!!」
口を尖らせて嫌味で返す音無に、真幸は顔を強張らせて更に詰め寄った。
「いいか新入り。どんな形であれ、お前が岩沢さんの歌の妨げになるってんなら絶対許さねぇぞ」
「はいはい、分かったよ」
適当な返事を返す音無。真幸は「けっ!」と息を吐いて、連絡橋の手摺にもたれかかって大食堂の方角を見つめた。それに釣られて音無の視線も同じ方へと流れていく。
「それにしても……」
時間が経つにつれてより大きくなっていく生徒達の歓声。それに呼応するかのように、スピーカーから繰り出される岩沢の歌声はより強く熱を帯びていく。少し離れた地点から眺める大食堂の光景は、まるで彼女を中心とした一つの世界が創られているとでも言った方が良いのではないかとさえ感じさせた。
「この歌を岩沢が歌ってんのか……」
「分かったか新入り、岩沢さんがどんだけ偉大なお人かを」
「あぁ……俺には音楽のこととか全然分からないけど、何というか、強くて芯のある声だ」
「ったく、遅ぇよ気付くのが」
音無は岩沢の歌声に対して率直な感想を述べただけなのだが、その言葉に対して見るからに気を良くした真幸は腰に手を当てて語り始める。
「岩沢さんのカリスマに掛かれば、NPCの連中なんてゾッコンに決まってら。あの人が自由気ままに歌って道を歩くだけで、その道筋には草木が宿り人が住み着き国が出来上がるんだよ」
「お前の誉め言葉は明らかに過剰だけどな。てか本当に褒めてるのかそれは?」
「それだけじゃねぇ。あの人の自由な歌は、人だって救うんだよ」
「……人を、救う?」
高揚した様子で語り始めたがばかりに音無の言葉を耳にも貸さない真幸だったが、不意に小首を傾げた音無の表情を見て怪訝な表情を返した。
「意外って顔だな?」
「ああその、どっちかというと観客共々盛り上がるのが目的みたいなバンドなのかと思ったから」
「別に間違っちゃいねぇよ。元々ガルデモは陽動を目的にしたガールズバンドだ」
また地雷を踏んだか、と慌てて体裁を整える音無だが、対する真幸は先程とは異なり落ち着いた様子だ。
「あの人は今も自由に、心の赴くままに歌ってる。そんな姿に心を救われて、どうしようもないカスみたいな命をどうにか生き長らえようと踏ん張る奴が一人居たってだけの話だ」
「それって……」
「当然、俺だ」
自身の尊敬する人物についてだからなのだろうか、音無と出会ってから向こう、ひたすらに皺の寄り続けていた真幸の眉間は、この時に少しだけ和らいでいた。
「こう見えて、俺は昔相当荒れててな。視界に入った気に入らない奴に節操無く喧嘩を売っては不毛な殴り合いを繰り返す、どうしようもない捻くれたガキだったんだ」
「それは今とどう違うんだ」
「だが岩沢さんが俺の全てを救い上げてくれた。
だから、俺はあの人の為に戦う。天使だろうが神だろうが何だって来いだ」
音無の辛辣な言葉にも構うことなく語る真幸の表情はどこか晴れやかにすらなっている。昼間に感じた粗野な印象からは考えられない程に、真っ直ぐに言い放たれた言葉に音無は若干の戸惑いを見せた。そして一瞬の躊躇いの後に口を開く。
「なぁ、昔っていうのは……」
「生前と、死んでからしばらくだよ」
問いただすのに若干の度胸を要したその質問に、真幸は事も無げに答えた。音無は未だ現実を受け入れられていないような表情で「やっぱり……」と呟く。
この土地に辿り着く以前の記憶が一切無い音無にとって、以前としてその事実は到底受け入れられないものだった。広大な敷地を誇るこの学園――正確に言うと”学園”という体裁に象られたこの世界――に居る”人間”は、例外無く既に死亡しているという事実は。
ゆりから聞いた話では、この戦線のメンバーは皆、理不尽な人生を突き付けられ、そして失意の中で死んでいった者だという。そして、この世界の
裏を返せば、この世界にしがみついてルールに反抗し続ける限り、己の身に降りかかった理不尽な死に抗うことが出来る。己の理不尽な死を忘れるまいと世界のルールに抗うのが、彼女達”死んだ世界戦線”なのだ。
そしてその反抗の先に見据えた最終目標は、理不尽な死を強いた存在――”神”への復讐。そんな恐れ知らずな大言壮語を、ゆりは真っ直ぐな目で堂々と言い放っていた。
音無自身にとってはあまりにも現実離れしたその目標だが、彼が会った戦線メンバーの中でその目標に異を唱える者は誰もいなかった。それはつまり、彼等自身、生前に思うところがあり、ゆりの掲げる無茶な目標に大なり小なり共感しているということである。
今現在目の前にいる真幸も、例外なくゆりの指揮下で、一男子高校生が持つには余りにも物騒な実銃を手に己の存在を保つべく戦っている。
「記憶が無いってんだから実感が湧かないのも無理は無ぇが、そろそろ慣れろよ。お前もここに居るってことは楽な人生じゃなかったってことなんだから。
ゆりっぺも順応性を高めろとか何とか言ってたろ」
「そう言ったって……」
記憶がない音無にとって、「ここに居るからお前の人生は悲惨だった」などと状況証拠的な人生評をされても、心中に芽生えるのは困惑ばかりである。仮にそれが真実だったとして、「このまま成仏することすら憚られる程に理不尽な死」とはどのような程度なのかすら想像もつかない。
「なあ、お前はどんな――」
「しっ」
ならば真幸はどんな人生を歩んできたのか。問おうと口を開いた音無を唐突に真幸の声が遮った。先程までは無かった真剣さが見て取れるその瞳に、音無は何か只ならぬ事態を予感させる。
「来るぞ」
普段の荒々しさとはまた違った鋭さの声色で短く言い放つと、真幸の視線はゆっくりと音無から外れていった。
「来るって、何が――」
「大サビだ!!お前も声上げろ新入り!!!!ウオォォォォォォアァァァァァァ岩沢さん最高だあああああぁぁぁぁぁ!!!!」
そして橋の手摺に乗り上げ、割れんばかりの雄叫びを大食堂の方角へと浴びせかけた。あまりにも突然の奇行に音無は「は?」と呆気にとられる。気が付けば大食堂の方から聞こえる曲――これがガルデモの代表曲”Crow Song”であるというのは後に聞いた話である
――の演奏が佳境に入り、観客のライブのボルテージは最高潮になっている所だった。
魂をこれでもかと込めた真幸の叫びは、その健闘も虚しく大食堂へと届く前に夜の闇へと溶けていっており(当然である)、ただ音無の鼓膜を無慈悲に攻撃するだけだ。
「おい何腑抜けた面してんだ!”Crow Song”のサビには合いの手を入れんのがファンの鉄則なんだ腹から声出しやがれ!!」
頭に血を上らせ、余りに力を込めすぎて掠れ気味の声でがなり立てる。先程までその場に居た決意に溢れた表情の男は一体何処へ行ったというのか。音無は自分の中の緊張感が急速に萎んでいくのを感じた。
「いやここから声とか届く訳無いだろ……」
「そんなのは俺達が声を上げない理由にはならねぇ!」
「えー……じゃ、じゃあ何て言えばいいんだ、『こっち向いてー』とかか?」
「岩沢さんがファンサなんてする訳無ぇだろにわかかテメェは⁉」
「やっぱお前面倒臭いよ……」
真幸は昼間に相対した時と同様の、何やらおかしいスイッチが入ってしまっている。しかもここには久居も日向も居ない。嘘だろ、俺は今から一人でこいつの相手をしなきゃならないのか、と、音無の胸中に絶望感が去来した。
「分かった、いい機会だから徹底的に教えてやる。ガルデモというロックバンドの辿った輝かしき道筋、そして音楽の女神こと岩沢さんの遺した伝説を。あれはとある猛暑日――」
憤慨しながら音無の方へ向き直り語り出す真幸。あまりにも関心の無さ過ぎる話題を前に目を閉じ最早帰ってしまおうかと本気で考えだした音無。しかし、真幸の口から紡がれる筈の岩沢伝説は、どういう訳か出だしから後に続くことは無かった。
不思議に思った音無が目を開けて正面に立つ真幸を見やると、彼は一瞬の硬直の後、「はぁ……」と腰に手を当てて大きなため息をついていた。
「どいつもこいつも、岩沢さんの晴れ舞台を邪魔しやがって」
ぎろりと、唐突に真幸の目つきが一層の鋭さを増して音無を突き刺した。つい先程まで音無に対して向けていた喧嘩腰の目とはまた違う。その眼光には明確な敵意――最早、殺意と称してもいいかもしれない――を含んでいる。
……違う、と、一瞬たじろいだ音無は、それが自分に向けられていないことにすぐに気が付いた。その目線は音無の肩越し――学習棟の方角――に向けられている。自分の背後に居る”何か”。音無は言い知れない寒気を感じつつ振り返った。
「構えろ、新入り」
静かに真幸が言葉を発する。そこにあったのは、1人の女子生徒の姿だった。
薄暗い夜闇の中を、月明りを鈍く反射する銀色の長い髪をたなびかせるその少女はゆっくりとこちらに歩を進めてきている。幻想的に煌めく大きな金色の瞳、一般的な女子高生よりも小柄な体躯。極めて端正に整った美しい顔立ちの少女だが、その顔立ちは感情があるのかも疑わしくなる程に無表情だ。しかしその無表情ですら、どこか人間離れした印象を与えさせる要素として彼女の存在を際立たせている。
そんな一見して神秘的とまで言ってもいい美少女を前にして、音無の背筋に悪寒が走る。あの金色の瞳、あの鉄仮面、それは彼がこの世界で目覚めた後すぐに起きた出来事を想起させるに十分な要素だった。音無は、昨日の夜に訳も分からぬまま眼前の少女に胸を刺されているのだ。
「現れやがった、俺のところに」
音無の口から言葉が漏れる。この学園の生徒会長という立場にあり、全ての生徒の模範足り得る品行方正な優等生……そして、ゆり達”死んだ世界戦線”と敵対し、その存在を抹消しにかかる”神の遣い”。戦線にとっての宿敵であるその存在は、今確かに音無達と対峙して、恐らく大食堂で行われているライブの阻止を目論んでいる。
この世界に来てからの一連の出来事とゆりからの話で、音無は天使の行動理念が”規則正しい学園生活を送らせる”ことなのは理解していた。であれば、このような大胆なゲリラライブを天使が見逃す筈が無いだろう。
ならばそれを阻止するべく行動するのが今の音無の役割なのに、身体が上手く言うことを聞かない。”Crow Song”の後奏が終わり、2曲目に突入したライブ会場を背後に、彼の脳内は恐怖に近い感情に支配され、その身体は強張りその右手に持つ銃を遊ばせている状態だ。
「……岩沢さんの邪魔をする奴は」
そんな姿に構うことなく、真幸は硬直する音無の前に躍り出る。制服のブレザーの裏、脇腹の辺りに隠し持っている革製のホルスターから一丁の銃を引き抜いた。
「天使だろうが神だろうが何だって来いだ」
物々しい銀色の光沢を放つ大口径のマグナムリボルバー。両足で地面を踏みしめ、両手で包み込むようにグリップを握り、肘を真っ直ぐに伸ばして銃口を天使に向ける。
「う……撃つのか?あの華奢な身体を⁉」
「躊躇ってちゃこっちが殺られんだ。何としてもライブは死守する」
直後、ガァンという重々しい発砲音が空気を叩いた。反動により跳ね上がる銃口からは細い煙が立ち上る。
耳に慣れないその銃声に音無は一瞬目を瞑る。そして次の瞬間、彼の視界に入ったのは真っ赤に染め上げられた腹部を抑える天使の姿だった。真幸の放った銃弾によって開けられた風穴から流れる血は、彼女の真っ白な制服をじわじわと汚していく。
普通の人間からしたら間違いなく致命傷となる筈である。にも関わらず、彼女はその場に倒れこむことはおろか、その金色の瞳を一切揺らがせることなく再び音無達の方向へと歩を進め始めた。
「あ……当たった……⁉足止めなら足で良かったんじゃないのか⁉」
「狙って当てる腕は無ぇよ!」
先程から繰り広げられる光景に、音無は自分の脳の明らかに処理が追い付いていないのを実感していた。今明確に感じるのは、尚もこちらを見据えて迫ってくる天使に対する恐怖だけだ。そんな明らかに人間の範疇を越えた行進に狼狽する中、天使はその両手をだらりと下げ、口を開いた。
『ガードスキル……ハンドソニック』
次の瞬間、天使の手は光を放ち、その手の甲から生えるようにして刃が現れる。刃渡りの広い両刃の剣は、紛れもなく昨晩音無の胸を一突きした凶器に他ならなかった。
既に傷跡すら残っていない筈の胸に、あの時の激痛が蘇るような感触を覚えた。音無は必至に自身の胸元を抑え、恐怖に耐えるようにして右手に持つ銃を天使に向ける。
真幸が2発目の弾丸を撃つ。1発目と同様の重々しい銃声と共に天使の胴体へと直進するその弾丸は、しかし天使へと届く直前に甲高い音を立てて明後日の方向へと逸れていった。
天使の両手から生える刃。それが針に糸を通すかの如き正確さで、彼女へと放たれる弾丸を弾き飛ばしていたのだ。またしても人間業ではないその所業に、音無は「な……」と声を絞り出す。
「何だよそれっ!!」
3発、4発……と、立て続けに真幸は射撃を続けるが、天使はそれを悉く弾き飛ばして確実にこちらへの距離を詰めていく。
「神の遣いなんだ、これくらいのことはやってのけるだろうよ!」
「こんなの、どうすりゃいいんだよ⁉」
「書き入れ時にはまだ早ぇ。このまま後退しつつ撃ち続けろ!他の奴等と合流するまでの時間を稼ぐ!」
「それっていつまでだよ⁉」
「そう時間は掛からねぇさ、銃声は天使が来た合図なんだ、じきにバリケード班全員が俺達の元に集ってくる。ほら、言ってる間に一人仲間が来たぜ。確かここから一番近い奴は――」
自身の銃をリロードしながら、真幸は第二連絡橋の対岸、自分達の救援に駆け付けた頼もしい仲間へと視線を向けた。最初の銃声を聞きつけてここへとたどり着いたであろうその人影は、未だ距離が離れているからか誰かまでは判別できない。その体格からして、辛うじて男性であろうということは把握できるくらいだ。
その人物は遠方に捉えた真幸と音無の2人に対し、特に慌てた様子も無く歩み寄る。月明りと街頭が彼の姿を照らし、その姿が明らかになった時、2人の元に駆け付けた人物はその精悍で整った顔に笑みを浮かべていた。
「やぁ2人とも、随分と盛り上がっているようじゃないかね?」
「畜生!
周囲に響く銃声とライブの音に負けない真幸の絶叫が響いた。
昼間の大食堂でさんざん振り回され、音無に至ってはその後の学園案内に勝手に付いて来た挙句最終的に大浴場にまで随伴しかけた(流石に気持ち悪さを感じた音無の「帰れ」の一言で退散した)その男は、薄暗い夜闇の中でも映える金色の髪を指で掻き上げる。
精一杯の絶望感を込めた真幸の叫びは無残にもスルーされ、武藤は自身の両腿にベルトで括り付けたホルスターから、二丁の拳銃を引き抜く。
「加勢するよ二人とも。なぁに、この僕が来たからには何も恐れることは無い。音無君、君は今恐怖しているだろうが、少なくとも今この局面においてそのような感情を抱く必要は一切無いのだよ」
両手に持ったリボルバー拳銃――西部開拓時代の魂をその身に宿す
「確かに彼女――天使とは我々”死んだ世界戦線”にとっては不俱戴天の仇と言っても差し支えない存在だ。君自身そうであったように、僕等は皆、あの可憐な少女に対し苦い思い出がある」
慣れた手つきで拳銃を回したかと思えば、お手玉のように銃を上に投げては器用にグリップの部分をキャッチしてその勢いのまま再び銃を回し始める。そんな武藤に構わず、真幸と音無は天使に対して絶え間なく銃撃を続けていた。「くそっ、何で当たらないんだよ!」「ビビんな!踏ん張ってもっと狙いを定めろ!身体のどっかに当たればいいんだよ!」と、緊迫した様相で、しかしその歩調は確実に彼らが守るべき大食堂へと後退させられている。
「だが、たとえそれが事実であったとしても彼女の見た目が身目麗しき少女であることも忘れてはいけない。僕達が手に持つこの鉄の弩は、確かに彼女の柔肌に通用する。分かるかい音無君、ここで戦線が紡いできた我々人間の英知の結晶は、神の力に通用するということさ」
両手の中で縦に回転していたかと思えば、おもむろに地面と水平の角度を取り、それでも拳銃は重力に引かれることなく彼の手で器用に回る。「弾が切れた!」「カバーする。秒でマガジン取り替えろ新入り!!」と、音無と真幸が尚も後退を続け武藤との距離が数歩分にまで縮まった時、武藤はガンスピンを止め両手に一丁ずつSAAを握り締めた。
「話は替わるが不倶戴天という言葉の由来は――」
「はよ撃てやアホーーーーッッッ!!!!」
その距離に至るまで何もせずただ達人染みたガンプレイの腕前を披露していただけの武藤に、とうとう真幸の怒号が飛んだ。いかにも掴みかからんとする勢いで、自分より幾分か高い位置にある武藤の顔に指を突き付ける。
「状況見えてねぇのかよ⁉今来てんの!天使が!!俺と、そこの新入りが必死に足止めしてんの!!」
「当然さ、随分と苦戦しているようだね。だからこそここに加勢に来た」
「おぉ見えてんじゃねぇか、眼球くり抜いて再生待つ時間が省けたってモンだ!」
「しかしながら真幸君、僕とて新たに出来た友人を前にして少々気が高ぶっているという物でね、つい肩の力が入ってしまうのさ。ほら、良いところを見せようと格好をつけていると考えると僕の行動にも可愛げが出てくると思わないかい?」
「自分で言うな、あとテメェがそれをやっても腹立たしさしか無い、あとそれで見せてくるのがあのお手玉なのはシンプルに困惑する、あと岩沢さんが真面目に歌ってる時に変なふざけ方をするんじゃねぇよタコが!!!!」
「あっはっはっは」
「何でこの流れで気持ちの良い笑い方する⁉」
つい先程まで自身の敬愛する人物について熱く語る変人だった筈の真幸が、後から来たより高純度の変人に翻弄され始める。昼間の大食堂を再演するかのようなその構図は、武藤という人物が常日頃から如何に自由奔放な人物であるかをまざまざと見せつけられるようだった。
と、そのような口喧嘩を続けていられる状況でもないことを僅か一瞬でも忘れてしまっていた隙に、天使とこちらの距離が大きく縮まっていた。制服から滴る赤黒い血を地面に落としながら、その小柄な身体は着実に大食堂の最終防衛ラインへと近づいている。
「お、おいどうするんだよ⁉もうすぐ大食堂の入り口に――」
――と、その時だった。音無達の背後から、一本の武器が天使へと目掛けて投げ込まれた。長い柄の先端に斧と槍、両方の刃を取り付けたかのような得物、ハルバートは回転しながら天使へ目掛けて飛んでいくが、それは届くことなく、彼女の手に光る刃にあえなく弾かれる。
「チッ、外したか!」
気が付けば、大食堂の手前まで後退していた音無達に続々と他の戦線隊員が合流していた。先程ハルバートを投げ付けた人物、戦線幹部の野田は舌打ちの後、鋭い犬歯をむき出しにして懐から取り出した拳銃を天使に向ける。
「待たせたな音無!」
続いて、日向を始めとした戦線の幹部達が天使を扇状に取り囲んだ。
「えらい所まで進軍されたな、真幸が居てこの体たらくかよ⁉」
「まだハンドソニックだけだよ!」
次々に集結した隊員達――藤巻、大山、そして「Foo!!」と陽気な声を上げる長身の隊員であるTKの三人――は、各々の持つ得物を構えてその銃口を天使へと向ける。真幸と武藤の2人もその陣形の中に加わり、音無は「今回は見学していくと良いよ」と囁く武藤に腕を引っ張られ、彼等よりも後方へと送られた。
「後退しながら加重攻撃行!」
風格のある大柄な隊員、松下が後ろからそれに加わり、声を上げる。それに対して、後方で待機していた知的な隊員、高松が「了解」と応答する。
『ガードスキル……ディストーション』
同時に、天使が囁くように声を発した。そして彼女の周囲を、光子状の壁が繭のように取り囲む。
「
日向の号令と共に、周囲の隊員達は一斉に天使への発砲を始めた。
あらゆる銃声が幾重にも重なり、すぐ背後のライブの音と混ざり合って歪な大演奏と化す。しかし、それ以上に音無にとって驚愕だったのは、あらゆる銃口から放たれる銃弾が、一発たりとも天使に届いていないことだった。
先程のように両手の剣で弾ける物量ではなく、そもそもこの雨粒の如く迫る銃弾を前に天使は一切の行動を起こさずただ立ち尽くしている。にも拘わらず、天使に着弾するかと思われた弾は全て、彼女に辿り着くよりも先に不自然にその軌道を変え、明後日の方向に飛んでいくか地面に穴を穿つばかりだ。まるで、彼女の周辺一帯のみ、空間が
「遅かったか!」
「弾を途切れさせるな!これ以上の侵攻は許すな!」
「言われなくても、分かってるぜ!」
天使のこの対応は戦線の隊員にとっては織り込み済みなのだろう。音無から見たら異常としか捉えられないこの光景に、慣れた様子で怒号を飛び交わす。
「残弾がやべぇ!」
「くそっ、これだから銃は……」
天使は依然として最初に真幸から受けた一撃以外の外傷を受けていないが、しかしその歩みは先程までと違い止まっていた。この能力が発動している間――より詳細に言うと、この能力を発動させる程の物量で攻めている間――は、天使をその場に釘付けに出来るということか、と、音無は混乱し続ける頭でどうにか目の前の光景を分析する。
その時、音無の脇に一つの人影が現れた。音も無く降り立ったその人物に音無はギクリと肩を震わせる。闇夜に溶け込みそうな黒色の長い髪の少女、椎名は傍らに立ち尽くす音無をその深紅の瞳で一瞥した後、視線を天使の方へ向ける。
尚も銃弾の雨霰に晒される天使に向けて、椎名はその手に構えた刃物――他の隊員達とも、普通の女子高生とも明らかに世界観の違う代物である
その刃物の存在を視認した天使は片手の刃を振り上げ、今尚も続いている銃撃の中で的確に苦無だけを叩き落とした。それはつまり、この攻撃の中で椎名の投げた
「まだか作戦実行班は⁉」
銃声と怒号が犇めく。松下の叫び声には、僅かな焦りが垣間見えた。
「岩沢さんのライブはこんな所で終わらねぇよ!あと2時間は付き合って貰うぜ天使さんよ……!」
高揚した様子で真幸が言葉を発する。
「真幸は張り切ってるが、じきに限界だ、そろそろ頼むぜゆりっぺ……!」
「Please help us Yurippe!!」
ライブの熱に比例してバリケード班の焦りも加速する。弾幕が止めば、天使は大食堂に到達しオペレーションは失敗に終わってしまう。真幸達の銃を握る手に一層の力が込められた。
「時間稼ぎが……まさかこんな壮絶なことになるなんて……」
音無にとっては、まるで映画にでも迷い込んだかのようだった。少年少女の学び舎で繰り広げられているとは到底思えないその光景に唖然としていると、背後から響く歓声が一際大きくなった。
今度は何だ、と音無が背後に目を向けると同時に、彼の視界をひらひらとした何かが通り過ぎた。風に揺られながらゆっくりと地面に落下していくそれを目で追うと、一枚の紙片であることが分かった。
続いて、同じような紙が空から次々と降ってくる。空へ目を向けると、開け放たれた大食堂の天窓から紙吹雪が放たれていた。最高潮に達したライブの熱狂と会場内で巻き起こる突風に乗せられ、横幅数センチの紙吹雪は音無達の立つ場所にまで降り立つ。
まるで雪のように柔らかく降り注ぐ紙吹雪を、これもライブの演出か――と音無は少しの間状況を忘れて見とれていた。歓声と銃声が生み出す喧噪の中で、気まぐれに風に乗りながら降るそれは美しさすら感じられる程だ。
無意識的に、紙吹雪の内の一枚をキャッチする。手に取った紙片を良く見ると、”肉うどん”の文字があった。
「え……これ、食券!?」
「宴もたけなわだな。よぉーしバリケード班は各々戦果を回収しつつ撤収!!」
紙吹雪の正体に音無が困惑の表情を浮かべたのも束の間、日向の号令が飛んだかと思うと、この場にいる戦線のメンバーは皆一様に射撃の手を止め、事前に指定されていた撤退ポイントである食堂の裏手へと走り出した。彼らはそれぞれ、空中に舞う物や既に地面に落ちたものまで、手に届く範囲の食券を回収しつつ全力疾走している。
「それでいいのか?行くぞ!」
肉うどんの食券を見つめていた音無も、日向に背中を押される形で走り出した。
不意に、音無は後ろを振り返る。
そこには、雪のように降り積もる紙吹雪の中で1人立ち尽くす天使の姿があった。
*
――大食堂。
生徒や職員が夕飯を済ませる時間はとうに過ぎており、つい数刻前まであれほど熱狂の渦を作り上げていたライブ会場も、余熱の抜けた今現在は、すっかりと本来の機能を取り戻している。
一般的な夕飯時は大きく過ぎているが、だからこそとでも言わんばかりに、人気の少ない大食堂の一角を数十人規模の生徒が占領していた。つい先程までガルデモのライブ、そして天使との闘いに奔走し、無事に「生徒達から食券を巻き上げる」という作戦目標を達成した”死んだ世界戦線”の面々は、まるで祝勝会かのような雰囲気で談笑を交わしている。
「――ラーメンってのは偉大だよな」
その一団の中で真幸もまた、食堂のおばちゃんから手渡された中華そばのトレーを両手に支え、ドカリと空いた席に座る。
「嫌なことがあった日も、良いことがあった日も、何でもない日ですら流動食かと言わんばかりに胃袋に流し込めちまう。この縮れた細麺と醤油ベースのあっさり風味なスープが醸し出す魔性の魅力は何なんだろうな」
「そりゃお前がラーメン馬鹿なだけだろ」
向かいの席に座る黒髪の戦線隊員、藤巻はすかさず言葉を返す。
「特に、今日みたいな死ぬ思いで天使とドンパチやりあった日はライスと温玉もセットで注文してスープを浸した海苔で巻いて食いたい気分だ」
「えらく唆る食い方しやがってよ、ラーメン以外にも美味ぇモンあるだろうに」
「そのゲテモノを好んで食うやつに言われたかねぇよ……」
藤巻は妙なこだわりを見せる真幸に呆れ顔を見せる。そんな彼がスプーンを片手に頬張っているのは、知る人ぞ知る学園のゲテモノメニュー代表格たるトムヤムカレーだ。エスニック風味溢れる香辛料の香りと日本人の良く知るカレーの香りが入り混じって何とも言い難い存在感を放つ一品を、真幸は相も変わらず神妙な面持ちで見つめていた。
「何だよ、食わず嫌いは良くないぜ?ほれ、真幸も一辺食ってみろって」
「お断りだよそんな深夜のテンションで産み出されたまかない料理みたいなメニューは!」
スプーンで一口分掬って真幸の方に差し出す藤巻だが、断固として拒否する姿勢を見せられては「なんだよ、面白くねぇ」と口を尖らせる。
「でも、ここのメニューは外れナシだからトムヤムカレーだって慣れたらイケるかもだよねー」
2人の会話に、藤巻の隣に座っていた隊員、大山が入ってくる。やや小柄な体系とやや年齢より幼く見られそうな童顔以外にはこれと言って特徴の無い”凡庸”を絵に描いたような人物だが、これでも死んだ世界戦線の最古参にして幹部メンバーである。
その言葉に、藤巻は気を良くしながら大山の肩を組む。
「そう!そうなんだよなぁ。やっぱ大山は分かってるぜ!つーわけでお前も食うか?」
「いやぁ、僕はほら、自分のオムライスで精一杯だから」
やんわりと断られてまたも口を噤む藤巻。
「まあまあ、全ての食に貴賤無し。結局はこの肉うどんが全ての正解なんだからそれ以外の優劣は些事という物だろう?」
と、今まで無かった声が場に乱入する。大柄な隊員、松下はその風格溢れる図体を真幸達の近くの席に落ち着け、トレーに乗せた肉うどんの器を強調するように皆に見せびらかした。
「思いっきり貴賤作ってんじゃねぇか。松下五段は少しは肉うどん以外の食い物に関心を向けろよ!」
真幸の叫びを意にも介さず、松下はずるずると肉うどんを啜り始める。”松下五段”というのは、彼の戦線内での愛称だ。当初は柔道五段の実力者であるという噂から畏敬を込めてそう呼ばれていたのだが、後に未成年には取得不可能の段位であることが判明したため本当にただのあだ名となっている。
「ったくよぉ、皆して俺のトムヤムカレーを避けやがって……久居はどうだ?」
自分のおすすめを悉く無視された藤巻は、今度は斜め前、真幸の隣の席に付いていた久居に対して声をかける。ぼんやりと皆の動向を眺めていた久居は、唐突にかけられた声に肩を震わせた。
「わ、私⁉私は大丈夫かなー、気持ちだけ受け取っとくね」
「お前もかよ……っていうか久居はよくその量で満足できんな」
引き攣った笑顔で藤巻の差し出すトムヤムカレーを拒む久居の前に置かれているトレーには、何とも慎ましい量の白米とサラダボウルの二皿のみが置かれている。
「私は元々小食だし、皆と違って作戦でも全然動いてないからね、これくらいあったら十分かな」
「そんなモンかね……」
引き下がりながらも腑に落ちない様子の藤巻。表面上は笑顔を取り繕おうとしている久居だが、内心では焦りを見せていた。まずい、詮索されると「自分が貴重な甘味メニューである柏餅の食券を隠し持っていて、後々デザートとして堪能するために現在の食事を控えめにしている」ことがばれてしまう。別にばれたからどうという話でもないのだが、皆が各々好きに食事をとっている中で、一回の食事に伴う接種カロリーを一々気にする自分のみみっちさは触れられたくない部分であった。
「椎名さんはどうかな?トムヤムカレー、食べたことある?」
余計な詮索を防ぐため、久居は近くに座る椎名の方へと話題を振る。他の隊員とは一線を画す雰囲気を纏った彼女は、実際に死んだ世界戦線最強の称号を欲しいがままにしている。腰辺りまで伸びる漆黒の髪が揺れる中、その黒の中で一際目立つ赤い瞳が久居を捉えた。
「無い」
「無いかぁ。だよねぇ。
じゃあ、椎名さん的におススメのメニューって何かあるの?」
「土手煮だ」
「そ、そういえばそんなメニューあったね……」
椎名は淡々と、必要最低限の返事だけを返す。予想外に渋いチョイスの返答が返ってきたことに久居は内心驚き、(あの居酒屋メニュー頼む人居たんだ……)という心の声を押し殺しながら曖昧に笑った。
辛うじて会話の矛先が久居から逸れたところで、大山が思いついたとばかりに声を上げる。
「音無君にも勧めてみたらどうかな?好きな人はとことん好きな味だし、案外ハマったりするかもしれないよ!」
「音無ぃ?あー……あのクソ坊主か」
その名前を聞いた藤巻は、未だ判然としない新たなメンバーの人相を頭に浮かべる。
「あいつはまだまだ信用ならねぇからなぁ、このトムヤムカレーに口をつけるに足る程の男とは到底思えないぜ俺は」
「そう突っぱねることも無いだろう。少なくとも、今回の作戦で音無はしっかり戦ってくれたじゃないか」
藤巻にとってのトムヤムカレーはそんなに通過儀礼的な意味合いを含んでいるのか……という疑問は皆の脳裏に浮かんだが、それにはあえて触れることなく松下が言葉を返した。
腕を組んで、今朝方に新しく仲間となった人物へのフォローを入れる松下の言葉に、藤巻は思い出したかのように机に肘をついて真幸の方へと向き直る。
「そうそう、それだよ真幸。さっきから聞きたかったんだが、あの新入りどうなんだよ実際。やれそうなのか?」
聞きながら、藤巻は口の端を釣り上げる。新たなメンバー、それも幹部として早々に中核に入り込んだ音無の話題になるのは、今回この場においては必然だろう。
彼の作戦中の様子を隣で見ていた真幸は、いかにも面白くなさそうに「フン」と鼻を鳴らす。
「俺ぁ藤巻と同意見だな。あのヘッポコ信用ならねぇ。天使を前にビビりやがった」
「初めてのオペレーションなのだがら、誰でもそうなるだろう。むしろ逃げ出さなかっただけでも大したものだ」
「だがそのせいで!ライブ会場一歩手前まで侵攻されたんだぞ!?あの野郎がもっとしゃんとしてりゃあ、あそこまで岩沢さん達の防衛に気を揉む必要も無かっただろうに……」
松下の言葉でもクールダウンすることなく、途端に不機嫌丸出しの態度を顕にする。その姿に、藤巻が首を縦に振る。
「へっ、やっぱそうだよな。俺は最初からあのクソ坊主がこの戦線の流儀について行けるか怪しかったが、やっぱゆりっぺの贔屓だったようだな」
「2人の特に意味が無い新人への当たり強さは何なの……」
大山は隣で目をギラつかせる不良少年2人に呆れ半分の言葉を投げかける。
と、そこへ今までこの場に居なかった人物の声が割り込むようにしてこの場に響いた。優麗さすら感じられるその声は隊員達の声が入り混じる中でもやたらと存在感を放つ。自分に対して揺るぎない自身を伴っていないと出せない、そんな印象を感じさせる声だ。
「そうツンケンすることも無いだろう2人とも。彼はさながら初めて籠から出された子犬のようなもの。今は気高く精悍な狼へと成長するのを見守ろうじゃないか」
きらりと照明を反射する金髪を光らせ、先の作戦で最も役に立たなかった男こと武藤は当然のように久居の隣の席に腰を下ろした。その手に持つトレーには、ミートスパゲティに加えて湯気と芳醇な香りを引き立たせたティーカップ(自前)が置かれている。しれっと隣に座ってきたことで「ひぇっ」と短く声を上げる久居だが、武藤の耳には届かなかったようだ。
遅れて登場してきた自身のルームメイトに、真幸はしばしの間わなわなと表情をひくつかせたかと思うと、立ち上がり武藤の方を指差す。
「お前はビビる云々以前の問題だからな!!今度ふざけたらマジで蹴り入れるぞアホが!!」
「あっはっは、やっぱり真幸君は手厳しい」
「笑う所か?笑う所なのか今のは!?」
「許してくれ、これも音無君に僕達”死んだ世界戦線”のありのままを見せるために必要なことだったのさ。その結果ほら、あそこの音無君だって心無しか表情が緩んでいるようじゃないか?」
「アホがありのままにアホなことやった所で『あー、こいつアホだな』としかならねぇよ!よしんば緩んでるとしたら、そりゃ絶対馬鹿にされてるわ!!」
何とも気まずい表情で白米を口に運ぶ久居を挟んで、真幸と武藤は言い争いをする。”言い争い”と評するには些か両者の温度差が目立つように見えなくもないが、ともかく、この光景は武藤の言う通り”ありのまま”と評するに相応しいくらいには日常的な光景だった。
ふと、久居は武藤が促した方向へ視線を向ける。そこには、自分達よりも少し離れた位置に座る音無の姿があった。武藤の言葉とは裏腹に、彼は何か思いつめたような面持ちで、前の席に座るゆりと何かと話し込んでいる。
「彼が心配かい?」
その視線の向く先に気が付いたのか、隣から囁くような武藤の声が聞こえる。その声に反応して視線を隣に向けると、彼女より幾分か高い位置にある優しげな瞳が久居の姿を映していた。アホアホ言い過ぎて自分でも何を言っているかよく分からなくなってきた真幸はどうやら悪態をつきながら食事に戻った様子だ。
「心配……って言うとちょっと大げさかな?人並みに気になってるくらい」
「と、言うと?」
久居は顎に手を当て、「うーん」と次に出す言葉を選ぶ。
「ほら、音無君って記憶が無いでしょ?それで訳も分からないままゆりっぺに勧誘されて、たち……天使に刺されて、野田君になんでかボロボロにされて……って、結構散々な目に遭ってるけど、それでも記憶が戻るまでは戦線で仲間として一緒に戦うって決めてくれた。
じゃあ、その記憶が戻った時にこの関係ってどうなるんだろう……って思っただけかな」
「成程、彼の今後のことをそこまで気にかけているなんて、久居さんは優しくて日向に咲く花のように素敵な方だ」
「そういう何はともあれ肯定から入るような口ぶりはむず痒くなるので止めて頂けると……」
さらりとでた武藤の口説き文句に苦笑いを浮かべつつも、久居の視線は音無の対面に座るゆりへと流れていった。彼女は腕を組んで音無に対して何かを語りかけている。大方、今回の作戦を経て音無が実感したであろう天使の脅威性について話しているのだろう。
「……でも、私はゆりっぺに会って、この戦線の仲間になれて良かったって思ってる。ここでのちょっと普通じゃない生活が私は大好きだから、音無君にもそういう風に思って貰いたいなって、そう感じただけだよ」
ゆりの顔を見ながら、久居は言葉を続ける。
「――僕から言わせたら」
と、武藤は自前のティーカップを揺らす。
「ゆりっぺさんが仲間として戦線の中核に引き入れたということ自体が、音無君の人間的な魅力を証左する十分な要素だと思うな」
「つまり……やっぱりそういうこと?」
「そういうことかどうかは僕の知る由もないがね。つまり、1つ確かなのは彼は良い人だということさ」
肩を竦めながら静かに微笑む武藤。存在自体に騒々しさが滲み出る普段からはあまり想像できないようなその表情には、気品すら感じられた。
「ゆりっぺさんが信じた。それなら僕等も彼を信じられそうだとは思わないかい?きっと記憶が戻ったとしても、どんな形であれ彼はこの戦線の力になってくれるよ」
それは根拠とするには何とも頼りない要素だったが、久居はその言葉にどこか胸に落ちる感覚があった。音無という人物については未だに(恐らく本人でさえ)分からないことが多い。だが、ゆりが信じた相手ならば、たとえその根拠が”勘”であったとしても久居にとっては信頼足り得る人物なのだ。
「……そっか、そうだよね。”友達の友達は友達”なんだから、ゆりっぺが仲間って言ってくれたなら、きっと音無君と私達も本当の意味での仲間になれるよね」
得心がいった様子の久居に、武藤は大仰に天井を仰ぎながら言葉を続ける。
「それにね久居さん。これは何の根拠もない話なのだが、音無君には何か特別な物を感じるんだよ」
「ほうほう、特別と言うと??」
心中に納得を得た久居は、一転して乗り気で武藤の言葉に乗りかかる。
「彼はいつしか――そう遠くない内に、この長年続いて来た死んだ世界戦線という組織を大きく変えることになる。そんな予感が僕にはするんだ」
「フフッ、何それゆりっぺと同じ”勘”っていうの?」
「たかが勘、されど勘。久居さんも信じてくれていい!」
余りにも堂々と言い放つ武藤の姿に、久居は思わず笑ってしまった。武藤はその外見や所作に加えて、余りにも自信満々に頓珍漢なことを言い放つために、話しているとまるで「間違っているのはこちらではないか」という妙な錯覚に陥ることがある(実際には結局武藤が適当なことを口走っているのがすぐに露呈する)。
そんないつもと同じ口ぶりで、妙に確信めいた語気で言い放つその言葉を、久居は特に気に留めずに聞き流した。
もう一度、音無の方へ視線を向ける。彼の表情は依然として曇っており、この場に居ることに迷いを感じている様子だった。彼が自分のこれからに不安を抱いているのが本当だとしたら、せめて自分は武藤の言うような勘を信じて、音無の行き先に期待をしてみるのもいいかもしれない。そうすれば、きっと明るい気持ちで接することが出来る筈だ。そうやって言葉をかけたら、きっと音無もそれに応えてくれるようになる。
「……でもそうだね、そうなってくれたら嬉しいな、私は」
特に誰に対してでもなく久居は呟く。”戦線を大きく変える”という言葉に対しては、久居の脳内ではどのようなことになるのか想像もつかなかったが、もし本当に何かが変わるとしたらそれは良い方向に決まっている。久居は、自分の胸中に(武藤と同様の)何の根拠もない期待が膨らんでいくのを感じた。
夜も更けつつある大食堂の中、”新たな仲間”という大きな非日常を受け入れた”死んだ世界戦線”の面々が繰り広げる打ち上げ染みた夕食は、やがてお開きとなりそれぞれの日常へと戻っていった。