1話
例えば明日のことを考える。今日は宇宙を見て触れ聞いた。次の日はどんな一日にしようかと。
一日を24分割したうちの2分の1すら惜しいと感じるあなたは、『それを食べるだけで一日に必要な栄養を完璧に摂取できるレーション』を齧りながら、そんなことに思いを馳せる。
幾億もの星間を旅し、世界を渡ったあなたは、されどこの星においてさほど特別な存在ではない。科学は進歩に進歩を重ね、次第に肥大していく知的生命体の群としての格とは裏腹に埋没する個性に、彼らはそれでも抗って、抗って、抗ったが、それでも個性は埋まり沈んでゆく。一生命体としての広く廣いその手の長さを思えば、結局のところ操縦者など水面に浮かぶ小さな流木に等しいものだった。
世界は宇宙を統べ始めた高尚な知的生命のひとりであるあなたがいなくなったところで痛手など全くといっていいほどに存在しないし、あなたもそれはよく分かっている。しかし大抵の場合において、正論というのは誰かを傷付ける為の方便でしかない。見えているものに見ないふりをすることだけが上手になっていくあなたはもしかすれば、その代償を払う為だけにここへ来たのかもしれない。
仮想は現実となり、現実は仮想となった。
境界線はあやふやとなり、もはや記憶なしに元の場所へ戻ることはできない。世界を渡るあなたたちが握る手綱はそれだけに曖昧模糊な代物で、帰り道を失った人々をもう幾人も見てきた。
そして勿論、あそこが正真正銘の現実だという保証など、何処にもないことは言うまでもなくて、あなたが現実だと勘違いしている居場所と同じだけの濃度で、ここが現実だという可能性は常に存在し得るのだ。
全て淡く心地良い、もしくは悲しく
「ねえ」
数多の翼を持つ恐ろしい異形。その御羽で身体を覆い隠したなにか。ソレはほとんど完全な球体の形を取り、よく見ればどういうわけか、少しだけ地面から浮いていた。
少なくとも決して人には見えないそいつに、あなたは問う。
「アンタなんでこんなところにいるんだ?」
不遜な物言いをソレは歯牙にもかけない。言葉か態度か意思か、もしくはあなたが見えてすらいないのかもしれない。その逆という可能性も、あるいはあるのかもしれないが、考えることを止めることだけは得意なあなたは、そんな思考などすぐに打ち止めて自分を通してみせる。
「ねえ、聞いてる?返事をしろよ。木偶の坊」
化け物は応えない。
意志を疎通できるのかすら不明の不可思議を前に、あなたはそのことについてよく理解しながらも、自分が容易に理解できること以上に正解へと足を踏み入れることはしない。
それからしばしの時間が流れる。
二者は立ち尽くし、見つめ合ったまま。須臾とも無限とも思える時が過ぎたが、あなたは実際にそれがどれほどの時間なのかを知らない。
歳月は未知を既知へと姿を変えて、その不明な正体を暴くことは出来ずとも、積み上げた時間の数だけ安全性が担保されていく。正常性バイアスは1秒前よりも確実にその化け物への興味を薄れさせ、あなたは今まで背景だった世界の全容を視界一面に入れてみることにした。
「……へえ」
白い部屋。音が変に響かなくて、どれほど走って手を伸ばせば壁に手が届くのか分からないような場所だった。暗闇に長時間閉じ込められた人間は数日と持たずに発狂すると聞いたことがあるが、ならばどこまでもその逆に包まれたこの場所でならどうなるのだろうか。ひょっとすれば、あなたはとっくの昔に頭がおかしくなってしまっているのかもしれない。
無限の時間が過ぎ、ふたつの観察にも飽きたところ、無二の他者である化け物をあなたは見上げた。胡座をかいた足を解き、踵を地面へと向ける。立ち上がり、一歩踏み出せば、あなたと天使の距離はほとんどゼロへと変わってしまった。観察の次は実験だが、ならばその次はなんだろうか。次はなにをすれば暇を潰せるだろうか。
羽へと触れる。暖かい。いや、温かい。眠くなるような心地良さに、あなたは小さく「おお」と感嘆の声をあげる。
小動物を撫でるような優しい手つきでソレを撫で続ける。すると、幾枚かの羽が気付かぬ間に抜け落ちた。遅れてそれに目を遣るあなたは、それを屈んで手に取ってみる。
それはキラキラと、光が眩しく乱反射してあなたの目を眩ませる。だが、どうだろう。思えばここには光なんて存在しない。ならばこれは、目が引き起こした錯覚なのだろうか。なんとなく違うのではないかとあなたは思ったが、だからといってそれの正体を理解したわけでもない。
手放した羽はひらりと宙に浮き、果てしない白の向こうへ、無いはずの風に乗って遠くへ飛んでいく。純白の羽は白い背景に同化して見え、さして距離を置かずとも、すぐさま見えなくなってしまう。
追いかける気は起きなかった。なんとなく、全てが終わってしまうような気がしたからだ。
「……」
そうしてまた、しばらくの時間が流れた。
5秒か、5億年か、5日ほどか、いずれにしても詮無きことだ。誰の手も借りぬまま、ひらりとひとつの羽がその球体の元を去るのを偶然目撃したあなたは、久々に重くも軽くもない腰を上げてため息をついた。
風もないのに羽は遠く、遠くへ旅立つ。あれらは決して帰ってこないのだろう。あなたはそう思うと、途端にあれを追い掛けてみたい衝動に駆られ、一歩踏み出す。
羽は一枚、二枚と球体の元を去る。四枚もの羽が飛び立つ姿を眺めてみても、二歩目が踏まれることはついぞなかった。
その球状の天使、其の全容を見つめる。眺める。
宇宙の寿命ほどの時間が幾分か過ぎたようにも、時計の長針すら動いていないようにも感じる。白の彼方を見つめてそう思ったように、其の全容を真に見つめることは、極めて危険な行為であるようにあなたは感じられた。
それと同時に、止まる理由も踏み留まる理由もさして思いつかないあなたは、ひとまずくらいの気軽さで手を伸ばした。球体に手を突き刺して、中の感触を確かめる。温かい。暖かい。燠かい。
手のひら全てが呑み込まれ、逆の手も同様に差し入れる。少し探るが、やはりこれ以上奥に行くことができないようだった。なにせ指先の感覚が無い。冷たくて、熱くて、乾燥していて、切り刻まれている。
最初に鈍痛があった。次に痛痒があり、その後は酷い激痛が両手を蝕んだ。
叫び声を上げながら手を引き抜いた。あなたの手にはなんの外傷も見受けられなかったが、あなたがそれに気付くのには多少の時間を要した。もちろん、ここでいう『時間』とはただの比喩でしかないのだが。
涙を浮かべ、うわ言を繰り返し、腕を毟り、叩き付けて、食い破って、切り裂いて、あなたはそこでようやく少しだけ正気を取り戻した。涙が床に落ちる。起き上がり、ふとなんとなく水滴を探してみるが、こんなにも辺り一面が白に満ち満ちているものだから、濡れた痕跡すら見つけることはできなかった。
腕に外傷はない。そして同時に、感覚も存在感もない。右手五本の指を握り、解いてそれを確かめるが、それは不格好でぎこちない。確かに存在した名残りだけでは、これほどまでに心許ない。
記憶のなんと不確かで頼りないことか。あなたは少しだけそう郷愁に駆られてみせる。痛みも引けば、なんだか手を喪ったことすら瑣末な事のように思えてきて、涙の跡を拭おうと腕を上げ袖を引く。
いや、
腕を止める。そして眼を囲った眼窩を、そっと右手の中指薬指人差し指が添えられる。他人に触られているような異物感を文字通りの目一杯に感じながら、あなたは涙袋を支点に、その下をそっとなぞって行く。
なぞってなぞって、加減を見失って顔に傷をつけてしまって、しかし顔に張り付いた皮膚からは、涙の跡を読み取ることができなかった。
あるいは、すべて誰かの夢だったのかもしれない。再び頬をなぞれば、引っ掻き傷など跡形もない。あなたは自分がどんな顔をしていたのか、どんな性格であったのか、どちらの性別だったのかを思い出せないことに、随分、本当に随分と永い時間をかけて漸く気付いた。
不思議と恐怖はなかった。記憶にもやがかかり、視界もぼやけ、縁の黒ずんでいく景色の中に、かろうじて両手が映っている。
それこそ両手は壊死したように黒々として見えたので、さして興味をそそられることもなかったが、その中にありありとした白がどうしてか見えるあなたは、なんとはなしにそれをまじまじと吸い込まれるように目の中心で捉える。
どうやら、この長く永い泡沫も終わりが近いようだった。ここは夢か現実か、ついぞ理解は叶わなかった。あなたは夢から醒めて永遠に居なくなってしまうのかもしれないし、現実から逃れることはできないのかもしれない。ただひとつ、そんなあなたを見つめる冥い眼と目が合って思ったことがあるとすれば、これが夢なら悪夢なのだろうといったことくらいだろうか。
沢山の視線があなたを串刺しにしている。体育座りのまま無意識に後ずさるあなたは、尻にパシャリとした感触と水の入った膜が弾けるような音を聞いた。
「▇▇▇▇▇▇▇」
感覚のない両手をさしたる考えもなしに握ってみれば、同様にグチャと音が鳴り、腕に冷たいものが滴り落ちる。黒は紅へと色を変えるが、まるで生命を感じない毒々しい色をした鮮血に、あなたは悲鳴をあげそうになる。
瞬きする度に、眼は色を変え形を変え量を変え場所を変え挙動を変える。純白の部屋はいつの間にか赤く、黒く、青く色を変えていく。黒ずんだ視界の中に最も映えて映るのは、この凄惨な空間ですら神々しく白を保つ、羽根で身を包んだ球体だけだった。
「▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇」
はらわたを己が手で暴き出したくなるような不協和。それをあなたは見ているのかもしれないし、聞いているのかもしれない。もしくはもっと特殊な知覚を以て感じ取ってしまっているのかもしれない。二の腕を抱き、震えること以外に矮小なあなたにできることは一縷たりとも存在し得ないのだろう。それをよく分かっていたあなたは、当然地面に擦り付けた額にさしたる価値がないこともよく理解していた。だとしても血を流すまで地面に頭を打ち付ける行為を止める理由は、其の存在を前にすれば欠片も選択肢には浮かばない。
それは恐らく、声だった。指向性と意志を持ち、あなたごときには及びもつかないような方法であなたに所謂、『ことば』を伝えている。
「▇▇▇▇▇」
当然、意味は分からない。意図も不明だ。
相も変わらずあなたは地面に頭を埋めている。1万年か、一秒か、一時間か。幾度世界は終わったのだろう。始まったのだろう。時間が存在せず、存在しているここは何をすることも出来ずに時間を浪費する為だけの場所にもかかわらず、全ては浪費ではない。
幾百度となく頭蓋を砕き続けたあなたは遂に、ここに時間の概念が存在しないことを理解することができた。新鮮な畏怖。新鮮な恐怖。まるで、今会ったばかりのように。
「は、はは」と、あなたは笑った。それは狂気によるものではない。いや、或いは、ここに来る前から既に狂ってしまっているのかもしれないが。
ひとしきり笑うと、あなたは其の球体を真っ直ぐに見上げる。不快な干渉はなりを潜め、しかし其の大いなる視線があなたに向けて放たれている事実は、粟立つ皮膚がありありと教えてくれる。
ゆっくりと、其の羽根が解かれ、開かれる。其の中には、見覚えのあるひとつの巨大な眼が存在している。其れはあなたを発狂一歩手前まであなたを追い詰めるが、幸いにもすんでのところで踏み留まることができた。
其れはあなたのことを見詰め、暴き、陵辱している。それは比喩でも暗喩でもなく、あなたは大いなるものに存在を切り刻まれ、解体され、攪拌され、そしてほんの極々極々少量だけ、おぞましい不純物を練り込まれた。そのただありのままの表現だ。
だが、あなたはただで殴られてやるほどお人好しでもない。
「……っ!」
踏み込む。恐怖を誤魔化し、猛り狂うために。両腕を振り上げ、思いきり良く柔らかで大きな眼球に両手を抉り入れる。感覚を失った両手に伝わる感触は無く、ただ目で見る限りにおいては、それは大いなる存在にしては随分柔らかな様子だった。朱色の血液があなたを汚し、其の瞳孔は焦点を虚ろに広げる。それらは一抹の達成感と征服感をあなたに与えたが、次第に頭に響く鈍痛が一向に消えてくれてはいないことに気付いた。
「▇▇、む▇▇▇▇▇を」
鈍痛は鋭さを増すばかりだ。周波数でも合わせるかのように、其の声も少しづつ明瞭になっていく。頭を地面に打ち付けようにも、何故だか思うように身体が動かせない。歯車が限界を超え、捻れて歪み回り狂う。何十にも端正に織り重ねられた次元の束は、今にもはちきれんばかりに見える。あなたは本来なら、それらに少しでも触れれば塵となるほどに矮小なる存在であるはずだ。ならばあるいは、これは文字通りに神の悪戯なのかもしれない。
「汝、▇▇▇▇とも▇▇に触▇▇▇▇能▇ず。如▇▇▇邪▇▇▇▇ども▇▇▇▇及▇▇▇▇▇▇」
意味が、意思が次第に明瞭になっていく。掻き混ぜられ、バラバラになる身体。入り交じる。正体不明。いや、分かってしまう。分かりすぎてしまう。鈍痛は激痛となり、未だに脳髄を捻りあげてあなたを殺す。死ぬ。死ぬ。死んで死んで死んで。あなたはあなたとは言えなくなる。定義と常識は狂い崩れ、幾度となくあなたはあなたになる。
「汝▇正体見破る▇▇叶▇ず。全▇をして未知とは▇に興▇▇▇るや」
意思とは本質であり、意義とは意味である。価値とは比較であり、欲望も比較であるのなら、きっと全てには意味が無い。羽根が、世界がまた塵芥に変わる。w座標である時間とe’’座標である▇▇があなたを▇▇と
「故に、▇れは罰であり、求道なり。須らくを見通すことは、目を閉じること▇同義」
重なり、▇▇▇▇▇ーが不可逆的▇▇▇▇を起こす。▇▇▇は、どうしてか▇▇▇を▇▇▇となり──いや、▇▇▇▇▇▇。▇▇は全てを知り尽くし、▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇▇。
「所詮、汝にとらばここにすら、余暇を謳歌するただの退屈しのぎの如きもの故に」
◆
『まるで夢のような』けれど、本当のところは分からない。記憶を含めた俺という全てと▇▇、そして世界全ては1秒前に造られたという可能性すら真剣に疑ってしまうほどに、俺という自己は希薄に尽きるものだった。
◆
「っ!?」
「あ、起きた」
温かな陽光。甘い花の匂いを乗せた風。木造の天井からゆっくりと首を回すと、彼女はいた。
「……ひどい顔」
椅子から腰を浮かし、俺の目元にへばりつく濡れた髪をそっとどける彼女。形のいい眉は心配げに八の字を描き、淡色の長髪からは風に乗って彼女好みの整髪料の香りがしてくすぐったい。
そっと彼女の手をどけて、泥のように重たく、汗が染み付いて気持ちが悪い身体の半身を起こす。
大きな目で俺を伺う彼女を見、震えそうになる声で名を呼んだ。
「スイ…カズラ」と。
「ん?うん、どうかした?」
髪を揺らし疑問符を浮かべる彼女、スイカズラ。その花の咲く季節に産まれた彼女は、この小さな箱庭で暮らす俺のひとりの友人だ。産まれてこの方十数年、彼女と会わない日はほとんどなかった。彼女は花が好きで、穏やかで、少しだけ排他的な、強く聡い俺の親友だ。俺は彼女の理解者だし、彼女は俺の理解者なのだということを知っている。いくらか互いに謀りあったことはあれど、芯から相手を疑ったことは互いにない。これからも、ずっとないだろう。
「……どうしたの?」
「………いや」
妙な夢を見た。これはただそれだけの話だ。であるのならば、何故俺はここで口を噤んでいるのだろうか。
「なんでもないさ……多分」と自信なさげに答えてみれば、彼女は違和感と疎外感と不信感を全面に押し出した表情を作りつつも「そう?」とひとまず納得の体を見せる。その後、しばらく考え込むように視線が宙を舞う彼女の目を見たところで、視線の先を眺めたところで、彼女の考えがそこに透けて見えるわけでもないというのに。
「アイン」
俺の名を呼ぶスイカズラ。穏やかな声色とは裏腹に、演奏者は随分と瀟洒に背筋が伸びている。
「君に見せていない私なんて無限とも言えるくらいにあるし、だからこそ他人に『隠し事なんて水臭い』だなんて青臭いことを言うつもりはないけどさ」
未だに16ほどの歳しか重ねていない彼女が『青臭い』だなんて表現を使うこと自体が、もはや乳臭い。いつもならそう茶化して適当に濁したのだろうが、今日ばかりはどうしてかそうする気が起き上がってくることはなかった。
16年もの付き合いがある彼女もその機微を鋭敏に、呼吸をするように察知しているのだろう。
「せめて、嘘をつくならまず上手く隠して欲しいかな」
「気になっちゃうよ」と彼女は微笑む。俺は笑わず窓を見た。照りつける麗らかな陽射しが、隠し事やそれ以外すら境界線を濁して曖昧にしてくれるような気がしたが、そもそも俺はどんな嘘をついていて、どんなことを隠したいのだろうか。
「そーだな」と、適当に呟いたその返事を、スイカズラは返事と認めてくれるだろうか。
伺うように彼女を見れば、頬杖をついて窓をなんとはなしに眺める彼女が映る。俺の視線をこともなげにいなし、温かな陽光を堪能するスイカズラを認めて、神経質にささくれ立っていた己の心境にふと気付く。
確かに鋭い彼女の言葉の通りだ。何処かで俺は、なにかがスイカズラの前に露見することを恐れているようだった。それも、思いのほか真剣に。
しかし、考えども考えども夢の記憶は遠ざかって近付けない。いくらか思いつく心当たりはどれもさしたる重みのないもので、ならば一体、なにが後ろめたいというのだろうか。
「……」
仕様のない思考を振り切るように寝返りをうつ。
「二度寝はやめてね。君が風邪を引いた分の仕事、まだ片付けられてないんだから」
「……ああ」
風邪…そうか。そうだった。だから彼女はここにいるのか。
横の棚に視線を向ければ、水の入った桶にタオルが引っ掛けられている。見れば彼女は、普段よりも幾許か微睡んだ目付きをしているような気がする。借りを作るのはあまり好きではない。なるべく早めに返しておきたいものだが、如何せん互いに持ちず持たれずの関係を長く続けてきたものだから、いざこんな状況になってみると何も思いつかなくて困ってしまう。
「なにはともあれ、助かった」と、ひとまず今できる最低限の義理を通し、頭を下げる。
「……いいよ、べつに」
少しの沈黙の後、スイカズラはあっけらかんとした風体で左手を閉じ開き閉じ開く。「気にしてくれるのなら、『タダより高いものはない』ってことだけ覚えててくれればいいからね」と、そう言って去りゆく背中を返事もせずに目で追って、俺は再び目を閉じた。何も見ず、聞かず、感じず。ただ、なんとなく、昔のことだけを思い出して。
次に目を覚ませば、風は冷たく顔を撫で、日は目が痛むほどに眩しい色彩で部屋を茜色に照らしている。目覚めがいいのは眩しさのせいか単純に疲れが取れたのか、はたまた二度寝の罪悪感故にだろうか。いずれにせよ起きる前に比べて、身体は格段に軽くなっていた。そして遅れて、あの時はまだまだ本調子からは程遠かったのだと気付く。起き上がり、二本の足に全ての体重を預ければ、この世界にかかるものの重さをよく思い知った。覚束無い足元を引きずって、壁伝いに自室、廊下、居間と歩を進める。
「……」
少しだけ、目を見開く。小さな居間の小さな机には、スイカズラが突っ伏して小さく寝息を立てている。傍らには編笠が何十も重ねられて鎮座しており、よく見れば彼女は編みかけの傘を下敷きにして寝ていることが分かってしまう。
時すでに遅し。「今日中に」と頼まれていた編笠は、俺の中で最も頼りになる。あまり頼りたくはない存在によって、そのほとんどを完成させられてしまっていた。
「……」
小さな寝息が場を満たす。だからそこに少しだけ小さく嘆息が混じっていたとして、一体誰が気付くのだろうか。
徹夜明けに間髪入れずそのまま夕方まで編み物か。大して大きくも丈夫でもない身体で無茶をする。
そして、無数の言いたい言葉の中から、俺が言うべき言葉をそっと選ぶ。
「ありがとう」と。
頭に、手を載せようとして止める。止めて腕は宙に吊られる。もう子供じゃない。そう俺は思っているが、彼女に言わせればどうなのだろう。俺も、彼女自身も。
彼女の中にしかない答えを俺が持ち合わせている訳もなく、無為な時間が少しだけ流れた。それはさしたる沈黙でもなく、次に行なう行動に備えての息継ぎも兼ねたものだったので、考えてみれば思うほど無為でもなかったなと、そんなどうでもいいことを考えている。
最後に彼女を見る。それ以上にかける言葉もないし、寝ている彼女にできる行動はそれ以前にない。どうせ明日も会うし明後日も会う。だというのに今こうしてスイカズラの寝顔をまじまじと眺めてしまうのは、ひとえに彼女が俺にとって特別だからなのだろう。
傘を背負い、欠伸をひとつ。足りない数は言い訳で乗り切るとして、遅れた納品を咎める説教はどういなそうか。村長。俺が風邪だったなんて知らないし、言ってない俺がわりかし悪いし。
「急に起きたスイカズラが全部まるっと説明してくれればいいんだけどな」
なんて、実現不可能な事象を呟いたところで腹は膨らまないし、説教の未来は変えられない。溜息をつこうと息を吸うが、少し考えて止めることにする。もっと息を吸ってゆっくりと吐く。これはただの深呼吸だ。
ドアノブを捻る。外に出る。肌寒さはもう感じない。汗は引いて、今はただしっとりと、夏の予兆のようなものの気配をなんとなく感じている。『梅雨』は近い。『雨』の季節がやってくる。村の命運を握ったものを背中に負っていると思えば、俄然とやる気が身体に満ちた。満ちて、足取りが軽くなったような気さえする。
『恵み』の概念を抽出された『雨』。今やもう、『災い』の概念のみを象徴する『雨』。それは人の体温を凄まじい早さで奪い去り、人々に関わる地盤の尽くを弛め、そうして人を沢山殺した、『雨』。
実の所、雨はあまり嫌いじゃない。縁側で雨の匂いに包まれながら飲む熱いお茶が俺は好きだし、何よりその『恵み』は、草に、木に、花に与えられたから。
それになにより、冷たいというものは、何故だかとても安心するものだから。