こんな世の中でも、子供はのびのびと純真無垢に庭を駈けるものだ。村を走り野を越え山を渡り、怖いもの知らずな振る舞いを美徳と享受し、笑って泣いて怒って悲しむ。
向かうところ敵無しの彼らは大いに全てを見る。聞いて、そして疑う。全くもって人間として正しい機微と機転を子供らしく彼らは働かせ、謎に挑み、そうして何年かに一度、誰かが死ぬ。
厳重にして厳格。未知にして非現実的な法則の数々は人々に正常性のバイアスをもたらす。薄れゆく信仰はより明確で明瞭で確実な、五感のいずれかに訴えかけるような物理的事象が望ましい。
だからこれは、彼ら……否、俺たちが造ったプラスアルファの『戒律』だ。
瀉血によって、俺たちの境遇を、不幸を、罪を知らしめるような。見せつけるような。子供を生贄に使うおぞましい儀式だ。
今日もまた、子供たちが無邪気に遊んでいる。俺は今日も、昨日と同様、また明日も全く同じくそうするように、「気をつけろよ」と澱みきった声でそう言うのだ。
◆
雨中。寒々しい空気が熱い湯呑みの白煙を際立たせる。岩の上を懸命に這うナメクジをなんとはなしに見つめ続けて、続けて、唐突にカラスがそいつを攫っていくまでそれを眺め続けて、そして何もなくなった岩を傍観し続ける。蛙がゲコリと声をあげた。庭に植えた紫陽花は色彩豊かに咲き誇り、葉を打つ雨音は軽やかに響く。
穏やかに土を打つ雨。色とりどりの植物。美しく強かな生き物たち。そしてただそこに、人間だけは入れない。こんなにも心を打つのはそれ故になのだろうか。それとも、どんなに自然を冒涜しようとも、それは尚美しさを放ち続けるのだろうか。
湯呑みを口許に一口運ぶ。火傷一歩手前の熱さを誇っていたそれは数刻も経たないうちに、随分とぬるま湯に変わってしまった。心做しか冷めるのが早いような気もするが、だからといってそれすらも『雨』の所為にしてしまうのはいささか他責が過ぎるように思える。残りを一気に飲み干して、俺はゆっくり立ち上がった。居間へと踵を返しながら、寝起きの覚束無い頭をゆっくりと回す。村長に命じられたあとほんの少しの編笠を作り終えたら今日の俺は村での役割を終える。することは何もない。『何もない』をしたいほど暇との付き合いを長く持たない俺は、家でできる暇潰しの手段をくどくどと考えていた。
そんな時、「ごめんくださーい」と、わざとらしいほどに丁寧で子供じみたよく響く声が玄関の方から聞こえる。馴染みのある声だ。それこそ、十数年くらいの積み重ねを感じるほどに。
「勝手にどうぞ!」
そう声を張り上げるほんの少し前から扉の開く音が聞こえた。「勝手」とは言ったが、粗暴すら掛け合わせれば普通の人間なら抵抗を示すのだろう。だが、俺たちに今更遠慮という名前の儀式は不要だ。俺は振り向きもせず、何を言うでもなく囲炉裏に追加の薪を焚べる。下火が掻き消えないよう火箸で調節していると、気兼ねもなく扉を開いたスイカズラが俺を見、「やほ」と気軽な笑みを向ける。
「今沸かしてる。ちょっと待て」
一瞥し、再び火箸に視線を向ける。湯を沸かすのにはさして時間はかからない。理解し難い彼女の習性のひとつには、『お茶にはぬるま湯を好む』などという狂気の自分ルールが存在しているのだ。
「……それで、今日の要件は?」
湯を沸かす暇潰しの雑談。灰をかき混ぜ火力を弄り、その間も彼女は雨を見つめて黄昏ている。睥睨しているようでもあり、諦観しているようでもあり、傍観しているようでもあった。感情は複雑に攪拌されて、綯い交ぜになったその色はお世辞にも美しいとは言えない。
だからそう、一言でそれを表すのだとしたら、彼女──スイカズラは雨が嫌いなのだ。いつもならあまり見ようともしないし、話題にも出さない。だから正直のところ、今までその埋まらない空白になんとなく違和感を覚えていただけだった。だが雨の日に決して外に出向くことのなかった彼女が、その視線を雨に絡ませ離さないでいるその事実。そして事実を改編することは、所詮只人でしかない俺には少々荷が重すぎる話だ。
「雨……」と、俺は一も二もなく切り出した。それがどんな結果を招くのか、さしたる材料を持ち得ない俺のする予想は妄想にすら近い。ただなんとなく、怒か哀か、強く響くそれらを想像していた。いや、期待していたと言ってもいいのかもしれない。
「あれがどうかした?」
スイカズラは視線を向けず、雨を凝視したままに口を開く。
「……」
開いて、閉じる。
そうして沈黙が続く。決意と、また別の決意の狭間に揺れる少女。俺にできることはない。ほとんど。一縷ほどの改革を起こせれば関の山だ。だがしかし、人に変化を及ぼすことのできる人間が、一体どれほどいるというのだろうか。
「……」
気兼ねなく開いた口に声を乗せる、ことを躊躇う。それが例えほんの些細な変化であったのだとしても、それを望むということはなんの紛れも誤魔化しもなく、今の彼女を否定し、冒涜する行為に等しい。
恣意的な人間性の改竄。それを大抵の他人が嫌悪しないのは、結局のところ本質のところでは、人に興味がないのであろう。
恣意的な思考でそう思う俺。滲み出ているであろうそれを彼女はただ微笑み、ただ眺め続けている理由は知る由もない。嫌悪も憂慮も全てはただの後付けで、そこに答えはなく、それは嫌いなものが丸かったから球体が嫌いだと言い張るようなものだ。
ゴポゴポと音を鳴らす熱湯。ぬるま湯とは随分かけ離れたそれに俺は視線を向ける。
「なあ」
軽い調子の呼びかけだからか、スイカズラは「ん?」と思い出したかのようにこちらを向いた。
「これ」と囲炉裏の上に吊るされた鉄鍋に立ち上る結構な勢いの水蒸気を指さす。彼女は気付いて「ああ」と小さく声を漏らした。
少しづつ体積を減らしていく水。
ひとつ、思い出した歴史を彼女に語ってみようと思う。
「豊穣の魔法使いについては、知っているよな?」
「?」
何を当たり前な。伺うような視線が俺を射る。おずおずといった様子で頷く彼女を認めて、俺は口を開く。
「作物の育ちにくい痩せた寒地。いつもなら特産やらなにやらで食い扶持を維持してきたような、そんな村で起きた飢饉。
人々は痩せ、飢え、目は窪み、肌は乾燥し、髪は抜け落ち、会話は極端に少なくなった。毒のないことだけしか分からない雑草を口に含んでは腹を壊し。地面にぶちまけられた粥にすら群がる子供たち。
明日を眺めることをできなくなった村。そんな場所が豊穣の魔法使い、彼の故郷だった」
スイカズラを見る。既知の情報を長々とあげつらねられた彼女は酷くつまらなさそうに俺の目を見ていたが、不承不承といった様子でアイコンタクトの意図を了解する。
淀みのない声で、今度はスイカズラが俺の言葉を辿り、彼の道程を語る。
「故郷の惨状を見た彼は酷く落ち込んだ。同時に怒りに身を燃やした。
魔法使いの名声と悪名を振りかざし、万能感に満ちていたその力が、大事な時には何の役にも立たないというその事実に。あまりにも矮小な自分自身に。不幸の吹き荒ぶこの世界に。
彼は優しかった。高尚なほどに、愚かなまでに。彼は彼自身の大いなる力が世界自体に向いた時、また振るわれる時、それが一体どれほどまでに恐ろしい結果を引き起こしてしまうことなのかを知らなかった」
「豊穣の魔法使いはその優しさ故に、恨みを決して忘れない。魔法使いはその賢しさ故に、目的と手段を決して違えない。
だから彼は己の引き起こす身じろぎが、一体どのように世界を変えて、そして変えないでしまうのかをよく分かっていたのだろう。
無駄に荒波を立てて、結局不幸は過去と等価を保っている。彼の優しさを愚昧と弄する人々は、彼を露ほども理解していない。不幸は彼の敵ではなく、それは結果であり、状態であり、ただの価値でしかないことを人々は理解し難いのだ。彼にとっての不倶戴天は言うまでもなく、飢えだ。飢餓だ」
「そういう意味では彼の思惑は、今や完全に成されたといっていいのかもしれない。この世のあらゆるものに変化を及ぼし、それでも積年は彼の痕跡を跡形もなく覆い隠した。彼が残した変化は限りなく少ないが、豊穣の魔法使いは優しく、賢しく、故に執念深い。飢餓の概念は著しく薄れ、得た笑顔の数だけ絶望が何処かで去来する。
結果を見る頃には、既に彼の姿はなかった。どの魔法使いもそうであるように、彼はその強大な力を傲慢に振るい、誰の意に耳を傾けるでもなく、彼の望むままに全てを為した。結果ですら彼を縛るものでなかったとするのならば、彼は満足してその生を終えたのだろう」
「ふう」と、一呼吸置いた後にそう疲れた溜息をつくスイカズラ。
「ん」
合間に煎じたお茶を差し出せば「ありがと」と湯呑みを掴む。指に伝わる湯の熱さに顔を顰めながら、「はぁ……」と、先程とは別種の溜息を放つ。
「私この話嫌い」
諦めたように囁く彼女。卑屈な形に歪む眉が舌に触れるお茶の熱さ故なのか、その視線の先のもの故なのか。俺には見当がつかない。
だから『雨』を見る彼女へかける言葉に、大した意味のある言葉をかけることが出来ない俺は「そうなんだ」と相槌をついてお茶を濁した。
「どいつもこいつもほんとに『優しい』んならさ、こんな傍迷惑で七面倒な世界に、わざわざ創り変えないで欲しいものだよね」
その毒白は開放的で寒々しい部屋に、温かな白い吐息と共に放たれた。
どうなのだろうか、それは。優しいとも、優しくないとも思ったことがない俺には分からない。本の内容と俺の意見は別の話だし、なんならそれが気に入っている本だったとしても、俺の意見とはまた別の話だ。
「慣れた今としちゃあ、また急に元に戻るのも勘弁だけどな」
そんな言葉を考えもせず言えば、彼女は不機嫌に唇を尖らせる。
「否が応にも雨を憎まなきゃいけない世界なんて嫌だよ」
「そうか。スイカズラは雨が嫌いなのか」
「好きな人なんているの?」
「いるんじゃない?」
首を振るスイカズラ。
「有り得ないよ」
はっきりと、強い言葉でその存在を否定される。だから俺は「そうだろうか」とは言わなかった。白は見方によっては灰色だし、黒とさえ言えるものだ。
「じゃあ、そうなのかもな」
俺はそう呟き、冷め始めた湯呑みにまた口をつける。言葉などというものは、その意思を伝えるにはあまりにも不完全な代物で。意思とはそれ以上に曖昧な産物だから。
魔法使いは言葉以外で、世界にその意思を検め、深め、歪め、暴く。
何故彼女はいくつか存在する『変革』の中から、『雨』を選んだのか。理由の所在はきっと、過去存在し、自由に生きた先達の意思と相反するところではないのだろう。
俺の家に人は寄り付かない。その方角を見ることさえ忌避されるし、最後に家族に会ったのは随分前だったように思える。
魔法使いとは一端のものでさえ、それほどまでに嫌われ、畏れられる。
産まれ出ずる運命がそれを決定し、また不変であるとするならば、それは弱者と強者、どちらの意味においても、残酷で悪辣な話であるように思う。