考えるべきことは、少なければ少ないほどいい。なにせ、時間が浪費される以外のメリットなんて、ほとんど存在しないのだから。
しかし、人である以上考えることを止めることはほとんど死と同義といえる。
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雨は止み、梅雨は晴れ、燦々と輝く太陽は地上に生きる人々全ての身体を焼いて、蒸す。流れる汗はとめどなく、頬を伝い腕を伝い足を伝って、人から少しづつ生命力を奪い去っていく。
土を踏みしめる。何度も通い、踏み均した獣道ではあれど、この時期だけはどうしても辛いものがある。手に握る水筒の重量で内容量を頭の中に弾き出し、帰りにまで中身が保つのかを計算しつつ、生温いそれで舌を湿らせる。
「お水はご入用かしら?」
山中の荒いけもの道、その道中であっても穏やかで優しげな声にさしたる変化も見受けられない。その肌には一滴の汗もなく、その暑苦しいローブには一抹の汚れもない。あたかもそこだけ外界から切り離されたような異常な光景を生み出しているその主から与えられる有難い恩赦に対し、俺は「いらない」と首を振った。
生命とはある一方の面から見れば、あまりに合理的な存在であり、それらに差異があるとすれば、アプローチの方向性の違いでしかない。
人は知恵を以て死を遠ざけるように、獣は人が思うよりもずっと死なない努力を貫徹している。
あるものは躰を周囲の色と同化させ、あるものは視界の不自由な夜間に動き、あるものは力を、あるものは速さを、あるものは硬さを。そういった分かりやすい努力以上に、獣は人の手からするりと逃げていく。
風上に立てば、狩りすぎれば、同じ場所に出向きすぎれば、痕跡を残せば奴らはもうその場所には寄り付かない。失敗の原因は常に多面的な様相を見せ、導き出した計算式は少しの環境変化だけで使い物にならなくなる。
何を言うでもなくついてきた彼女を後ろに見た時、今日の狩りは半ば以上に諦めていた。いくつか仕掛けておいた罠の確認と点検だけを念頭に、森の様子を眺めるに留めることにしようと決めて、帰り道につらつら並べ立てる文句の内容ばかりを考えていた。
だが如何せん、数年続けて染み付いた習慣はそうそうに消せるものでもない。俺は意味もなく気配を消し、痕跡を消して森を歩いて、その行動が別段無駄ではなかったことにふと気付く。
熟練の狩人ですら見知らぬ森では迷うこともある。数分前と同じように灰色の姿を確認するべく振り向けば、なんと彼女は身を寄せる鹿の背をそっと撫でていたのだ。
森の中じゃ輪をかけて口を開かないこの俺が、思わず驚嘆の吐息を漏らすほどに驚いた。
気まぐれに去りゆく鹿の背を追うでもなく立ち尽くしてしまうほどには、驚いていた。
「……」
「……?」
灰色は振り向く俺を見、よく分からないままに手を振っている。俺はそんな彼女の姿を視界の端に捉えながら、消えゆく背中を目で追って、遂に消えたその影に幾許かの思いを馳せる。
彼女がうちに住み着いて、早2ヶ月という時間が経とうとしていた。
俺はこの灰色の来訪になんとなく不吉なものを感じつつも、なにかしらの対処をする訳でもなく、昨日も今日も、明日だって彼女の作るご飯を美味しくいただいている。
灰色と出会った次の日。相も変わらず朝食を作っていた彼女に「なぜまだいるんだ?」と問えば、「部屋いっぱい余ってるから、いいかなぁって思ったの」などとズレた返答をされたことを思い出す。
不吉。不可解だ。
『あんなことがもしスイカズラに出来るというのなら、狩人の仕事など彼女にやらせている』
何故彼女を俺は放置しているのだろう。初日の通り、『俺が今も彼女の術中にいる可能性』は恐らく高い。人心や認識を操る未知の魔法を操り、目的が分からず、長期間家に存在している。全てが不明瞭。まるで霧のような女だ。俺はこの霧がどれほどの濃霧で、それは一体どのような毒霧なのかを確かめる義務が、もしかすればあるのかもしれない。
だがまあ、本格的なこのはスイカズラに任せよう。今は灰色が彷徨いていたところで問題なく狩りができる。俺が今知るべき情報はそれだけでいい。
◆
「結論から言うとね。君は初日以外は彼女から何もされてないよ」
辺り一面の本、本本。本棚の手前で疎らに配置された薬品の数々。鉢の中に育つここでしか見た事のない植物に、萎れて見る影もない吊るされた植物。作業台にはなにかとしか言えないものが中心に放置されたままで、中心以外には開かれたノート、大きな作図台に大きな紙。そんなものたちがひと目で入ってくるこの場所こそがスイカズラ、彼女の家──否、巣だ。
この家はこれで完結している。この目に見えるもの以外には何も無い。だから人間らしい情緒ある行動のほとんどは俺の家で行なわれている。彼女の扱う化粧品やら整髪料やらだってうちにあるし、ここには食器のひとつだってない。ここは真に村の誰もが寄り付かない。ここに人は住んでいない。ただ魔の法を操り拗じる物の怪だけが具象し、息をしている。
背もたれの頂点に顎を乗せて、喋る度に頭をかくかくと奇怪に揺らす彼女の姿を、最早血を共にする家族ですら娘とは認識できないかもしれない。彼等にとっては既に娘の人間性など存在し得ない失われてしまったものであり、残存するソレは娘を象る怪物とでも他称されるべき怪異でしかないのだから。
只人の思考回路の中においては、化け物とは人の血の通わない正体不明の何かであり、決して親友が風邪を引いたとて看病などせず、間違っても花など愛でず、いやしくも身嗜みに気を使おうとはしないものだから。
人らしく衣装を纏い、人らしく身体を動かし、人らしく表情を変える彼女の姿を認めたところで、彼らにとっては出来の悪い演技でしかないのだから。
化け物が人の道理を持たないというのも、また人の都合でしかないというのに。
「とはいってもね……あの子、まず間違いなく高位の魔法使いだよ」
頭が微量にかくかく動く。喋り難そうなその奇っ怪な行動に水を差すのも無粋かと思い、俺は本棚を彩る図鑑の数々を眺め、彼女の辿った思考の遍歴を無意味に予測しつつ、相槌を打つ。
「中央とか言ってたしな」
疲れたのか、乗せた顎が背もたれから離れるスイカズラ。ひとつ伸びをし、彼女はくるりと背を向けて机に肘をつき、頬杖をつく。
「紀章や書類もないただの自己申告だし、どこまで本当なのかは怪しいところだけどね。まあ、低く見積っても名乗れるくらいの実力は、確実にあるんだけど」
低く響く声に伴う表情を見ることは、向けられた背中によって叶うことはない。ただひとつ分かるとすれば、少しの焦燥と苛立ちが含まれていることくらいか。
「初日のアレは身分証明がてらの脅しか」
溜息と共に出た言葉に、スイカズラは「概ね同意見」と意を示す。
「目的は……なんなんだろうね?本当に中央なら警告兼監視かなって気もするんだけど」
「本当に中央なら、これほどまでに迂遠でコストのかかる手段は選ばないんじゃないか?」
「……『そういう手段』なら、あるいはシンプルでやりやすいんだけどね」
「どうせ…」と、スイカズラはしかしその福詞に繋がる言葉を吐くことはない。
「……あーっくそ。なんでこんなに早いかな」
感情的に叫ぶスイカズラ。そう代わりに繰り出す言葉にさしたる論理性は存在しなかった。
「本当に中央の監査なのだとしたら、数百年も国を保ててんだ。これくらいの対応力なんて、さもありなんだろ」
乗った俺の言葉にもあまりそれは存在しない。
「なら私の優秀さは希代のものだね」
鼻を鳴らしそう言う彼女は、俺が思うよりもずっと中央である可能性を考えていないようだ。
「とにかく私的には、本人の言葉はまるっきりに嘘だと思うんだけどね……」
萎びる語尾。ゆらゆらと机に突っ伏す彼女。俺は本棚から視線を外し、ようやくスイカズラを正眼に見つめ、傍に寄る。
ぽんぽんと背を撫でるその右手に対する返答は「ああ、うん」なんて簡素極まるものではあったが、これもまた、悪くはない。