焺祥燈祷(しょうしょうとうとう)   作:Halnire

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その1

 

 

 聞こえていたピアノの音が途絶えた。

 沈黙が訪れると、代わってひゅうひゅうと木枯らしの音が二重窓越しに聞こえてきた。

 つぼみをつけたソメイヨシノの枝が揺れているのが見える。

 私はドアをノックし、入室のご承諾を得る。

 ドアを開けて入ると、主人はグランドピアノの前に座ったまま悄然としていらっしゃる。先ほどまで弾いてらっしゃったのはベートーヴェンのピアノソナタ『月光』第三楽章。大変お好きな曲で、これまでも何度も演奏していらっしゃった。しかし今日はコーダ直前のアルペジオで音が止まった。

 

祥子(さきこ)様、もうお休みになられては。だいぶご無理をなされているかと」

 

 私は主人の名をお呼びし、ベッドにお戻りになることを提案する。

 

「……情けないものですわね。指はともかく、ペダルをちゃんと踏めていないのですから」

 

 介添えをして祥子様をベッドの上にお連れする。

 纏っていたガウンをお脱がせするとその下は寝間着のままでいらっしゃる。

 はしたないという声ももちろんあったが、お着替えになる間すら惜しみ、少しでもピアノに触れていたいと仰ったため、私も他の使用人も目をつぶっているのだ。私も若い頃は音楽をそれなりに嗜んでいた。祥子様のお気持ちはよく解る。

 

「それで途中でお止めになったのですか。お疲れになったのかと」

 

「まだそこまで弱ってはおりませんわよ」

 

 私は無理やり微笑みを作ってそれに応じる。

 主人のお言葉はもちろん強がりだ。

 もう長らく不治の病に臥せっていらっしゃるご老体だ。あまり考えたくはないが余命だってもう幾らもお残りではない。

 相続についても全てすっかり片付いたのは最近のことであった。その後しばらくはほとんど口も利かれないほどお静かでいらっしゃったから、ご自身の後片付けのことでさぞやお疲れになったのだろうと思っていた。しかし一週間ほど前からピアノを再びお弾きになるようになった。幼少の頃から続けてこられたピアノは一時期は熟練の域に到達されていて、私も初めてお聴きしたときは感動のあまり手が震えたほどの腕前でいらっしゃった。

 今、病は足腰のお力を大きく奪ってしまっていた。ペダルを踏むこともまともにできなくなってしまわれていたのだ。

 

「十五時に医師(せんせい)がお見えです」

 

 私はそう主人に伝えながら体温を計り脈をお取りする。確かにまだ大きな乱れはない。祥子様のお身体は本当に頑張っていらっしゃると感心する。

 祥子様はベッド横に置かれたサイドボードをご自身で開け、中から封筒を取り出され、中の便箋を展げられた。

 私はそれをあえてお手伝いはしない。 

 先日届いたお手紙だろう。ここ数日は何度も読み返していらっしゃるものだ。

 再び風の音がびゅうと聞こえてくる。

 深い森に囲まれたこの屋敷まで風が吹き込んでくることはそうそうないから、天気予報のとおり今日は北風がかなり強いようだ。

 往診に来る医者を温かいものでもてなさなくては、と考えを巡らせていると、寝台の上の主人から声をかけられた。

 

「ライブをやりますわ。用意を」

 

 祥子様が突拍子もないご指示をなさることには慣れていたが、今の健康状態でこのようなお言葉が出たことにはさすがに驚く。

 主人は茶目っ気もあるお方だ。私は揶揄(からか)われているのかもしれない。そう思って寝台の上の祥子様を見た。しかし、私に命じるその双眸はご健康であった頃と少しも変わらず、深い思慮と強い意志を湛えてきらめいている。そのお顔は真剣そのものであった。

 

「まさか御自身で演奏をなさるおつもりですか」

 

 私の確認に、病床の主人は当然のように首肯なさった。

 

 祥子様はもう少しお若い頃、バンドを率いていらっしゃった。それも大音量で会場を沸かせる本格的なヘヴィ・メタルバンドをだ。

 上流階級の中にあっても人の目を惹きつける優雅で落ち着いた佇まいの祥子様は、その裏に破天荒を好む跳ねっ返りな性格を隠していらっしゃる。

 代々、豊川(とがわ)家に仕える執事の家業を継いだ私は、祖父や父から祥子様が波瀾万丈のお人であることを聞かされていた。

 豊川家に根付いた因習をことごとく解体し、世襲に甘えた親族経営者がいれば更迭して鍛え直し、経営の傾いた傘下の企業があれば自ら躊躇せずに現場に飛び込み、その類まれなるカリスマと行動力をもって人を動かし業績をたちまち回復させた。

 世界的に大きな力をもった今の豊川グループへと成長させた主導者であり、すでに一線を退かれたとはいえ豊川グループ会長として未だ巨大な影響力を持っていらっしゃる。数々の伝説を残した〝現人神〟として崇拝されるお方。それが他ならぬ私の主人たる祥子様である。

 バンドはそんな祥子様が仕事以外で唯一熱を上げていた事柄だったという。

 祥子様にとってそれは片手間の息抜きや趣味などではなく、全身全霊で成し遂げようとするもう一つの人生そのものだ、と父は言っていた。

 東京ドームを含め、日本各地の巨大屋内会場でのライブを成功させ、結成から十年も経たないうちにアメリカは世界最大の屋内スタジアム、AT&Tでのライブをも敢行した。それからも世界に名だたるライブ会場で次々と成功を収め、へヴィ・メタルバンド『AveMujica(アヴェ・ムジカ)』とそれを率いる祥子様のステージネーム『〝忘却〟のオブリビオニス』は地球上で知らぬ者の無い名前となった。

 しかしそれも過去の話。

 数十年という歳月の中で、AveMujicaは何度か解散劇を繰り返した。そのたびに奇跡的に復活したものの、やがてメンバーが一人抜け、二人抜け、今は祥子様とあと一人を残すのみとなった。

 その今になってライブをやるなどとは。しかも死に至る病に侵されたご老人である。それでも祥子様はやると仰ったら必ずやるお方だ。ピアノを熱心に練習していらっしゃったのもこのことをお考えだったからで、強い想いがおありなのだろう。

 私は実現を前提に祥子様のお考えを伺う。

 

「お二人での興行でよろしいのですか。それともメンバーの皆様をお呼びしますか」

 

 祥子様は軽く頭を横に振ってこれを否定なされた。

 

「ギターの(むつみ)にはもう了承の返事をもらっています。……他の子たちはもう(わたくし)という(くびき)から解放されました。今頃はやっと、自分自身の人生を謳歌している頃ですわ。……どこで何をなさっていても干渉するつもりはありませんの」

 

 『若葉(わかば)睦』様は祥子様がご幼少のみぎりよりお付き合いのあるお方で、私も何度かお会いしたことがある。AveMujicaでは『〝死〟のモーティス』を名乗りギタリストを務められていた。

 祥子様とは同い年で私よりもかなりお年上のはずだが、大変矍鑠(かくしゃく)としてむしろ私よりも頑健なようでいらっしゃった。

 一方で、他の方々は私自身に面識のない方が多い。ただ父からは執事の仕事を継ぐにあたって必ず心得ておくようにと、私が子供の頃から念押しをされていたことがある。

 

 ――祥子様がAveMujicaに命を注いで臨まれるのは、バンド全員がその魂を祥子様に捧げていらっしゃるからなのだ。

 ――いつかメンバーの魂を解き放つことができるそのときまで、祥子様はAveMujicaをお続けになる。

 ――いやむしろ……祥子様の放つ光に捉えられてしまった魂を解放するために、祥子様はバンドをお演りになるのだ。

 

 私がこの仕事に就いた頃には、元々五人いたはずのメンバーは三人になっていた。

 最初に抜けたのは『祐天寺(ゆうてんじ)若麦(にゃむ)』様だったらしい。バンドで出来ることはすべてやり切り、今は若い頃からの夢だった演技の道に全力で立ち向かっていらっしゃるのだという。

 次に『三角(みすみ)初音(はつね)』様が祥子様の元を去った。初音様は祥子様とは血の繋がりのある、少々込み入った関係のお方だったと聞いているが、それ以上踏み込むことは私にも許されていなかった。

 豊川家の古いしがらみが取り除かれていく中で、初音様もまたご自身を縛る過去から解き放たれたらしい。ひょっとしたら祥子様があれほどまで必死に豊川家の因習に立ち向かってゆかれた理由の一つは、初音様の救済にあったのかもしれない。

 初音様のご消息は私も存じていない。たぶん祥子様もご存知ないのではないかと思っている。

 三番目に去ったお方は『八幡(やはた)海鈴(うみり)』様で、私も面識のあったお方だ。美食とお酒を好む凛とした女性で、面倒見の良いプロデューサーとして広く音楽業界で信頼を勝ち取っていらっしゃった。AveMujicaでの活動は生涯続けて下さっていたのだが、十年ほど前に飽食がたたってこの世を去られた。祥子様のお話では心から満たされたお顔で逝かれたという。

 

 若麦様にも初音様にもお声がけをするつもりは無いということであれば、ライブはお二人で、ということになるだろう。ではなぜ先ほどは否定なされたのだろうか。そう考えて私が少しの間黙っていると意外なお言葉が返ってきた。

 

「睦の他にあと一人、来て下さいますわ。時期はもっと暖かく……五月頃が良いですわね」

 

 祥子様はお手元の便箋を愛おしげに見つめながら、そう仰った。

 

 

 

 




続きます。

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