窓の向こうで小さな白色が無数に舞い上がった。
祥子様のお好きなハクウンボクの花が風に散っているのだった。
初夏の風景を束の間鑑賞していた私は、自分の主人に視線を戻した。主治医による診察はもう終わりそうで、今日はいつになくお体の調子が良さそうだ。
ライブは豊川グループが所有するこのコンサートホールで行うことになった。
ここはクラシック音楽のために作られた高級な施設であり、控室がすべて広々としていて防音が効いている。祥子様にとって久しぶりの大掛かりな興行であり、主治医には屋敷からここまで同行いただいているとはいえ病身のご老体である。本番まではできるだけ静かで穏やかな環境を整えておきたかった。
「もうすぐ睦様がお着きになられます」
私は診察が終わったことを確認すると、さきほど相手の運転手からそう連絡があったことをお伝えする。
「そう、良かったですわ。睦ともろくに音合わせができていませんし、本番前に少し音合わせだけでもしておきたいですわね」
「お辞めになったほうがよろしいかと。これ以上お体にご負担はかけられませんから」
今日はライブ本番当日であるが、これまでリハーサルはもちろんこの会場での音合わせもできていない。不安なお気持ちは十分に察せられる。
祥子様はご幼少から毎日ピアノに触れてこられた。お年を召してからもそれはお変わりにならなかったが、お病気になった後はさすがにそれは叶わず、調子の良い日が続くときに限られた。
しかし、ライブをやるとお決めになってからは気力も充実して見え、お弾きになる時間も長くなった。アコースティックギターの睦様とご一緒の演奏練習も二回ほど、こちらの屋敷にお招きして行った。
とはいえ、それは限界を超えたご尽力であったのだ。
十日ほど前には血を吐かれた。祥子様が鬼気迫るお顔で私を止めていなければ、私は執事としてライブの中止判断を下していたはずだ。奇跡的にすぐに回復なされたが、お体に相当な負担がかかっていらっしゃることは間違いない。
――やるなとは申し上げないから本番一回きりのために力を温存していただきたい。それ以上は無茶です。
視線にそう忠告を込めて祥子様を見つめた。だが祥子様は口の端にかすかに笑みを浮かべて仰った。
「こんな姿でも見たいというお客様がいらっしゃるのですもの、多少は無理をしなくてはいけませんわ。睦が来たら一回合わせます。――どうか、お願いね」
「祥子様……」
祥子様の仰るとおり、このライブには想像以上にお客様が集まった。
ビジネスとしての成功は全く考えて居なかったが、祥子様はご自身のことも一緒にライブをしてくださる仲間のことも安売りするおつもりは無かったからチケットはそれなりの値段で販売した。そのうえ講演まであまり日が無いという条件にも関わらず、長年祥子様たちを慕うファンの方々はためらうことなくチケットを購入し、駆けつけて下さったのだ。
私は腹をくくって簡単なリハーサルの準備を進めることにした。
この会場には今日、他の講演予定が入らないようにしてある。
広いステージの上にはベーゼンドルファーのグランドピアノが一台置かれ、他はアコースティックギター用のマイクとボーカル用マイクが一台ずつあるだけだ。残る準備は少ない。
入場時間まではあと一時間半ほど。一曲か二曲程度、合わせられれば十分だろう。
準備が整うと、ちょうど睦様のお車がまもなく到着すると連絡が入った。祥子様に代わってお迎えに上がるため、ホールの入口まで向かう。
落ち着いたダークグリーンのマイバッハがゲートを入ってくるのが見えた。静かに停車し運転手が後席ドアを開けると、優雅な物腰で小柄な痩身の女性が降り立つ。睦様だ。
何度お会いしても驚かされるが、睦様は初めてお会いした時からほとんど年月の影響を感じさせない、超然としたお姿をしていらっしゃる。
現役舞台女優として数多くの興行をこなし、テレビドラマにも出演なさっている。日々の鍛錬を欠かさないその背筋はぴんと伸び、まったく日焼けをされない大理石のような白くきめの細かいお肌をしていらっしゃった。
睦様はアルカイック彫刻のようなかすかな笑みを浮かべ、口を開かれた。
「お待たせしてしまいましたね。
まだ控室でお待ちしていることをお伝えすると、自ら楽器を持って颯爽と歩き出す。この豊川のホールは睦様にとっても勝手知ったる場所なのだ。
「ご足労いただきありがとうございます、睦。いよいよ本番。今日はよろしくお願いいたしますわ」
「――こちらこそ、祥」
控室でお二人がご挨拶を交わす。
睦様は祥子様のお顔をご覧になった後、少し無言でいらっしゃった。さすがは人生の全ての時間を祥子様とともに送ってこられた睦様である。祥子様のご容体を一瞥でお察しになったのだ。しかし睦様は祥子様の望みもお解りのため何も仰らないのだろう。
代わりに別のことを仰った。
「にゃむが逝ったのは知ってるでしょう。にゃむ、『
「――そう、ですの」
若麦様はほんの少し前にお亡くなりになったとニュースで知った。
睦様は若麦様と交流を続けていらっしゃった。若麦様にとって睦様は生涯追いかけ続けた演劇の目標でありライバルだったのだという。
「彼女は満足して逝かれたのかしら?」
「うん。最後に私を超えていった。本当に素晴らしかった」
「それは見事ですわ……私も、負けていられませんわね」
お二人はその後、ステージに移動してしばらく音合わせをなさった。
睦様はご愛用のギターを苦もなく演奏された。ピアノの祥子様はやはりペダルがほとんど踏めていない。祥子様は大変お悔しそうだった。
「せめて腕だけでも精一杯頑張らなくては」
「祥……あまり無理しないで」
焦る祥子様に、さすがの睦様も見かねたのかたしなめて下さった。
しかし祥子様は頑なに首を横に振られた。
「もう十年以上バンド活動が出来ていなかったのに、貴女はここまでギターを仕上げて来て下さいましたわ。私もそれに報いたいのです」
祥子様はさらに続けて仰った。
「それに、あの子が来てくれるのですもの。あの子は今もずっと歌い続けています。恥ずかしい演奏はできません」
ちょうどそのお言葉に応えるように、私の電話が鳴動した。
もうお一方のメンバーをお迎えするために出していた車の運転手から連絡が入ったのだ。
私は主人に報告した。
「
祥子様の瞳が、青い炎を灯すように煌めいて見えた。
続きます