最終リハーサルはあっさりとしたものだった。
すでに準備のできていた祥子様と睦様が、燈様のお声に合わせて簡単な調整をする程度の作業であった。あとは施設側がコントロールをする。
公演では九曲が演奏される。曲目の内訳は、AveMujica、MyGO!!!!!それぞれの初期から最盛期までの楽曲より選ばれている。すべて祥子様がアコースティック編曲なさったものだ。
公演時間は長くとってあるが、実際の演奏時間はぐっと短い。曲の間に二回、休憩時間を挟んでいるためだ。
演者全員が高齢者で、そのうちお二人はお身体が不自由だ。このスケジュールでも大変なご負担だと思うが、お二人とも可能な限り演りたいと言ってお譲りにならなかった。
メンバーの皆様が控室で一息つかれている間に開場が宣言された。
私は祥子様のお側に控えながら、時折会場のお客様たちの様子を直接確かめに行った。
今日の公演は『AveMujica豊川祥子・若葉睦&MyGO!!!!!高松燈・合同アコースティックライブ』という飾り気のないタイトルで開催している。演者の詳細な情報もお三方のつながりも何も掲載していない。ただ長年にわたる両バンドいずれかのファンに向けられた公演だった。
会場を見渡す限り、お三方と同じくお年を召した方々がほとんどであったが、驚いたことに若いお客様も客席のあちらこちらにいらっしゃった。それは時代を越えて二つのバンドの音楽が若者たちの心を動かしてきたという、その証だった。
私が控室に戻って間もなくすると、開幕の時間となった。
私は舞台が見える位置に移動し、見守らせていただくことにした。
ほどなく会場が暗転した。
幕が上がりライトがステージに落ちると、下手側に立つ睦様が照らされた。舞台俳優としても名の知られた睦様が、バレエを舞うように優雅な足取りでステージ中央まで歩を進める。客席に向かって一礼をするとステージ照明が徐々に明るくなり、介添え人と共に祥子様が登場された。優雅な物腰でグランドピアノの椅子に着席なさるとそのまま静かにピアノに向かい合われた。睦様はすでにやや上手側に移動され、アコースティックギターを構えてご着席だ。
最後に燈様が車椅子のまま登壇された。燈様はステージ中央までご自身で移動し、客席に一礼すると、すでにお持ちになっていたハンドマイクを構えられた。
燈様の息を吸い込む声がマイク越しに聞こえた。
『こころ写す言葉、剥がして、連れて行って』
一曲目は、歌いだしがそんな歌詞の曲だった。
曲目は私も目を通させていただいているため把握している。これは燈様のバンドであるMyGO!!!!!の曲だ。恥ずかしながら曲名は読めなかったのでよく覚えてはいない。
燈様は車椅子にお座りのままでも豊かな声量でお歌いになられていた。
さすがはお年を召しても歌を続けて来られた方のお声だと感嘆させられた。実に綺麗なアルトだった。
『どうしたらいいのか巡らせてる間に、季節も変わるよ――』
一方、祥子様のピアノと睦様のギターは少々ぎこちなかった。燈様の声に音が追いついていないと感じられた。
長いあいだ別々の道を歩まれた三人がほとんどぶっつけ本番で息を合わせようとしているのだ。無理もなかった。
『――ふらふらな僕の行方はわからない』
その後も曲の歌詞のようにゆらゆらと揺れるセッションが続いた。文字通り筋書きのない
観客席の歓声が聞こえなくなっていた。ファンが皆、固唾をのんで見守っているのだ。ファンは長年にわたって堂々とライブを続けてきたお姿しか知らないのだから当然だった。会場全体が慣れない感情にうろたえていた。
『自分のことも、まるでわからないのに』
一番目のコーラスを終え、二番に入ってもまだ
急に燈様が車椅子の向きを変え、ピアノの祥子様へ身体を向けられた。
会場が少しどよめいた。全く予定にないことだった。
『――手のひらにのせた便箋はあたたかい。君と手をつなでいるみたいで』
祥子様が燈様に目を見張られた。
燈様は祥子様に向かって手を差し伸べていらっしゃったのだ。
目には見えない、しかし確かな実体をもった何かがその手のひらの上に乗っているようだった。
私にはそれが長年取り交わされ、大切に保管されてきたあの手紙に見えた。
芯が入ったかのように祥子様の背筋がぴんと伸びた。
祥子様は鍵盤に指を走らせながら、燈様の目をまっすぐ見つめていらっしゃった。それでピアノが完全に息を吹き返した。
ピアノに寄り添うように奏でられていた睦様のギターも、すぐに合流した。
三人の音が幾十年の時を経て、重なったのだ。
柔らかさを取り戻した祥子様のピアノの旋律と、睦様のお年を感じさせない、軽やかなカッティングで紡がれるギターに乗って燈様のお歌は続く。
『――はぐれた道が、もう一度この先でもしも交わるなら』
燈様の声に力が加わる。それに応じるように祥子様のピアノの響きが厚みを増す。睦様のギターの音がいっそう艷めく。
『うつむかずうたうよ、君を見つけたいから』
燈様は観客に背を向け、ずっと祥子様を見つめている。うつむかずまっすぐに。曲の願いそのままに。
『ひだまりのように、笑っててほしくて』
燈様がマイクを下ろす。
祥子様と睦様の視線が交わり、ピアノとギターの間奏が始まった。
もう燈様の歌が引っ張らなくとも、お二人が引き継いだ旋律は力強く響いた。さきほどまでのぎこちなさが嘘のようだった。
『僕らにしか迷えないたった今を』
短い間奏は終わり、燈様が向きを代えて客席へ歌う。
『忘れたくないから、うたっている』
燈様が世界に向けて軽やかに〝忘却〟を否定する。
祥子様のピアノが一瞬、その響きを弱める。
『
『優しい君が君のままでいられるように、この声にこめた』
燈様は会場に向けて伸ばした手のひらを、そっと左右に動かした。
まるで泣いている少女の頭を撫でるように。
客席で息を飲む音が聞こえたと思った。燈様の慈愛が会場全体に広がったのが私にも感じられたような気がした。
祥子様もまた、込み上げてくるものをこらえていらっしゃる様子だった。
歌は最後のコーラスに入った。
睦様もマイクに向かって歌っていらっしゃった。
祥子様は喉の震えをなんとかやり過ごしたご様子で、遅れてコーラスに加わられた。
『――僕はここで、うたっているから』
祥子様はそのまま最後まで歌われた。
生来のお優しい心のままの、慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら。
続きます。