第三幕の一曲目が終わった。
ピアノの余韻が響き終わる前に、祥子様がマイクに向かってお声を発せられた。穏やかな、ゆっくりとした語りでいらっしゃった。息が切れそうなことをお客様に悟らせないためのご配慮でもあったのだろう。
『皆様、ここまでお聴きくださり誠にありがとうございます。――私は皆様に申し上げたいことがございまして、マイクを取らせていただきました』
祥子様は睦様、そして燈様と順にお顔を向けられた。
『私はここで告解をさせていただきたいのです』
告解という衝撃的なお言葉を使われたが、会場には大きなざわめきも起きなかった。皆、祥子様の次のお言葉を聞き逃すまいと、真剣な表情でお待ちだった。
『私は一つだけ未練を抱え、そのために大勢の人々の運命を狂わせて参りました。私は身勝手で欲深な、罪深い女なのでございます』
祥子様は燈様を見つめ、続ける。
『私は――もう一度。たった一度でいい。観客の皆様の前で彼女とライブがしたかったのです。しかしそれは許されないことでした。私は渇望を忘れようと必死にあがいて参りました』
オブリビオニスとは、忘却の炎を絶やさぬために数多の犠牲を焚べ続けた者の名前だと、祥子様は
『忘却のオブリビオニスはもう、おりませぬ。ですから本日のライブは――ひとえに私のわがままな願いを叶えるために開催したものだったのでございます』
深々と頭をお下げになると、どうかお許し下さいませ、と祥子様は告解を締めくくった。
会場は水を打ったように静まり返った。
静寂の中、睦様のギターが幽かなアルペジオを奏でられた。
やがてギターが音をひそめ、入れ替わるようにして祥子様のピアノが響いた。
二曲目が始まる。
『訪れたの、いま連れ出すため』
初音様の詩だ。
私の記憶の通りであれば、この曲は確か――
『あらゆる日々は、そう、この刻のため――』
ギターは聞こえない。祥子様のピアノだけが燈様に寄り添う。
『don't be serious――』
深刻にならないで、と詩はうたう。しかし燈様のお声はその歌詞と裏腹に、ますます危険な色を帯びていくように聞こえた。ぴたりと並走する祥子様のピアノの音が、これまでよりもいっそう輝度を高め、透明感を伴ってゆく。
『もう一度――あの月が満ちたら』
祥子様のお心がすでにもう、音楽以外のあらゆるものを不純物として棄ててしまわれたかのようだった。
私は時がもう、満ちてしまうのだと悟った。
『死――それは私たちを結びつけるわ』
――そうだ。私の記憶の通り、これは死の先の永遠を希う詩なのだ。
弦が鳴り、睦様のギターが加わる。
それに応えるようにして、祥子様のピアノがさらに音を増した。
会場に音が広く、遠く響く。
透明感はそのままに、なお深く。
これまでとは明確に違う音の厚み。
私はその音に驚きを禁じ得ない。
なんということだ。祥子様はペダルを踏んでいらっしゃる。
もうろくに踏めないほど弱っていた脚が、まるでそんなことを感じさせずに力強くペダルを押し込んでいる。
客席にも気づいた人が多かったようだ。お客様たちが一心に祥子様を見つめているのが判った。
『さあ目くるめく激情――』
歌う燈様のお姿もまた、昂りを見せていた。
まるで最初からご自分で書いた詩だったかのように、ホールいっぱいに響けと声高に謳い上げる。
『don't be serious――』
私は、このライブで燈様がAveMujicaの曲をお歌いになる、ということを祥子様からお聞きしたとき、ここには居ない初音様のために、初音様に代わってそのお心を歌って頂くおつもりなのだと独り合点していた。これは祥子様なりの初音様に向けられた手向けなのだと思っていた。
そうではなかった。
これは、他の誰でもない、燈様が望まれたことなのだ。
燈様が初音様の詩で、祥子様に〝燈様ご自身の〟お心を届けようとなさっているのだ。
初音様が命を捧げるようにして生み出したお言葉を、燈様が奪ってしまわれているのだ。
『――n't be s-ri-s――』
……心なしか、言葉も変わって聞こえてくるほどに。
それが単に、燈様ご自身のお心だけを届けようとしていたのなら〝なんと我儘で、身勝手なやり方だ〟と、私は苦々しい感傷を覚えるだけで済んだだろう。
けれども燈様はもっと、これ以上ないほど強欲なお方だった。
――ずっと、一緒にいる。
燈様は初音様と一緒に伝えようとなさっているのだ。
全部まとめて届けてやると、そう信じていらっしゃるのだ。
初音様おひとりではついに届けられなかったそのお心を、もう二度と離さないとばかりに握り締めて。
『生――それが私たちを分かつものなの』
祥子様のピアノが押し寄せる波濤のようにうねる音を紡ぎ出す。
どこにそのようなお力が残されていたのか、そのお御足は一心不乱にペダルを押下する。
睦様のギターも、燈様のボーカルもいっそう音を張り上げる。お客様たちも声こそ出さないものの、両手を握り、祈るようにステージを見つめる。
燈様のお声は、果たしてこれまでの燈様の声ではなかった。
祥子様の表情には大きな驚きが浮かんでいらっしゃる。客席の中にも同じ表情が見えていて、彼女たちがAveMujicaのファンであると察すれば過去を知らない私にも答えは出せた。
あの声には、初音様の声が重ねられているのだ。
『――be sirius――』
声の変化のためか、詩もどこか変わって聞こえた。
燈様が意図して変えて歌われていたのかは判らない。ただの私の錯覚だったのかもしれない。しかし私を含めた会場全体が、息を殺すようにして燈様を見つめていた。
皆が皆、詩の変化を感じとっていたのではないだろうか。
『be Sirius――』
音のうねりはまるで熱をもった渦のようで、今にも炎の竜巻となって視覚に映るのではないかと思われるほどであった。実際、私はまぼろしを見た。そこでは祥子様のピアノは駆け上る赤き龍の如く猛り、それに燈様の歌が螺旋を描く青い流れ星となって追いすがっていた。赤蒼の螺旋はどこまでも高く昇り、やがて一つに融け合い、真っ白な焔となった。
『死――それは私たちを結びつけるわ』
それはまさに、無数の星々が輝く夜空の中にあってなお、ひときわ明るく光を放つ星の色。
〝天を焼き焦がす者〟の焔の色。