持たざる少年 作:交渉人
遺跡全体を震わせるような低音が響いた。
壁の内部を液体金属が流れていくような、鈍い脈動。
まるでこの空間そのものが呼吸しているかのようだった。
そのとき、レイの通信端末が短く鳴った。
ノイズを挟み、リョウの声が聞こえる。
『……レイ、聞こえるか? リョウだ。遺跡は制圧済みだ。こっちは問題ない』
マルが反射的に情報端末を確認する。通信識別コードは正規のもの。
データも改竄の形跡なし。何もおかしい点はない。
『ダグをそっちに戻す。合流したら、そのまま地下道側に退避してくれないか。俺たちもすぐ合流する』
リョウの声は妙に穏やかで、淡々としていた。荒っぽさも、皮肉っぽい言い回しもない。
レイは一瞬、息を止めた。
違和感が首筋を撫でた。だが、同時に助かったという感情が喉を上がる。
終わったと思いたい。撤退できるなら、それに越したことはない。
自分が慎重でいられるのは、余裕がある時だけだ――そう理解しているからこそ、レイはほんの一瞬の逡巡のあとで、短く答えた。
「了解。ダグと合流次第、先に撤退する」
通信はノイズ混じりに途切れた。
車両の中でニナが小さく息を吐く。
「……よかった、もう終わりなんだね」
レイは曖昧に頷いた。だがマルは眉をひそめたままだ。
「……何か変じゃなかったか?」
「……どういう意味だ」
「いや……あのリョウって奴、命令形じゃなくお願いっぽかった。そんな殊勝なことするタイプか?」
胸の奥で何かが引っかかった。
「知らん。けど、こんな状況じゃ誰だって少しは丁寧になるだろ。ダグでさえ、な」
そう言いながらも、胸の奥のざらつきは拭えなかった。
同刻、遺跡奥。
ダグの通信端末にも、雑音を割るように声が届いた。
『ダグ、聞こえるか? こっちは押されてる。頼む、戻ってきてくれ! お前が必要だ!』
聞き慣れたレイの声。焦りと爆音を混ぜた生々しい音。
ダグは即座に振り返り、リョウに確認を取ろうとした。
「レイがやばいらしい。戻る!」
だが、リョウがすぐに手を上げて制した。
「待て。本当に本人か?」
「本人の声だ。聞き間違えるかよ」
「……その通信、こっちには流れてない」
ダグの足が止まる。リョウの表情は冷静を装っていたが、目の奥に硬さがあった。
ユイが照準を維持したまま、小さく呟く。
「混線……ってより、偽装じゃない?」
「偽装だとしたら……旧領域経由の通信を逆手に取られてる」
リョウが唸る。
だがその瞬間、通信からレイの声がもう一度響いた。
『ダグ、早く! リンもそろそろ限界だ!』
ダグの眉がわずかに動いた。
「……リン?」
ダグはふと思い付いたまま、呟くように問う。
「なあ、レイ。ゲーム好き、なんて言ってる?」
数秒の沈黙。返ってきたのは、無機質な声だった。
『……ゲーム? ……何を言ってる?』
その瞬間、ダグの瞳から温度が消えた。銃口が通信端末に向く。
「……てめぇ、誰だ」
ノイズが爆ぜ、音声が変質した。
『失敗。対象間通信分断率、低下。再試行……不可』
無感情なはずの電子音に、微かな苛立ちが滲んでいた。リョウがその音を聞き取り、低く呟く。
「遺跡が人格を……?」
同時刻、レイの端末に、もう一度通信が入った。
ノイズを挟み、リョウの声が途切れ途切れに流れる。
『……撤退しろ……通路が閉鎖される……』
だが、その背後で轟音が響いている。
爆発音。銃撃。どう聞いても制圧済みではない。
マルが即座に解析を行う。
「音声波形が過去データと一致した。これ、改竄されてる!」
「つまり……さっきのも偽装か!」
レイが舌打ちする。
「騙されたな……畜生、全員備えろ!」
通信が完全に切断され、代わりに無機質なノイズが遺跡全体に広がった。
遺跡の管理AIは、二つの理由から分断工作を仕掛けた。リョウたちとレイたちを分断し、各個撃破する。それには遺跡の防壁を破壊し得るダグが問題になる。そのため、ダグをリョウたちから引き離す。レイたちは地下道側に押しやり、戦場から退場してもらう。その後、リョウたちを押し潰す。文字通り、物理的に。
レイたちの情報端末は旧世界の通信インフラである旧領域を経由して通信するものだった。その通信は遺跡の一部設備を経由していたため、通信の改竄については何の問題もなかった。遺跡の管理AIは旧世界の法に従っており、そのような行為を禁じられている点を除けば。
緊急事態条項により制限が外れた管理AIは分断工作を問題なく進めるはずだった。
しかし、試行不足、情報不足、準備不足、により失敗した。
まるで失敗を恥じるように、沈黙が遺跡の空間を支配する。
だが、その沈黙の中に、ほんのわずかに聞こえた。
電子音が――まるで舌打ちのように、短く鳴った。
機械は怒りを知らない。
だがこの瞬間、結果を歪めた存在への興味と再試行への執着が芽生えた。それはエラーではない。──感情の原型だった。
◇
轟音が天井を震わせた。
上層の装甲板が裂け、そこから鉄塊のような影が落下する。
八脚。重量過多のシルエット。
関節部に挟まれた補助アクチュエータが唸りを上げながら伸縮し、床を抉って粉塵を撒き散らした。
「……なんだ、あれ。見たことねぇぞ」
リョウが低く呟く。声色は冷静だが、その奥に警戒の棘が走る。
八脚機は一歩、足を踏み出した。その動作だけで、床が波打つ。
装甲は滑らかな黒金属、照明の反射を吸い込み、輪郭を歪めている。
ダグが試しに一発撃った。
──無傷。
金属音はせず、むしろ液体の表面を弾くように沈んで消える。
「……吸収装甲か。あの見た目で生体系とのハイブリッドだな」
ユイが息を呑む。
八脚機の頭部センサーがこちらを向く。わずかな間に位置を変えた。見た目ほど鈍重ではない。
リョウが低く唸った。
「取っておきが出てきたな……、お前ら気合い入れろ」
仲間のメカニック、カイトが携行端末を操作しながら顔をしかめた。
「制御端末、応答しない。……おかしい、内部構造自体が書き換わってるぞ」
「なんだと?」
「まるで……別のシステムに上書きされてるみたいだ。どこを叩いても逃げる」
リョウは短く息を吐く。
「端末経由で止めるのは無理か」
「悪いけど、今は物理で黙らせるしかないね」
「了解。ならいつも通りだ」
その声には焦りはない。
初見の異常ではあったが、似たような暴走する遺跡の対応経験は何度もある。
どうやって落とすか。思考は既に切り替わっていた。
通路の奥で警告灯が連続点滅する。
壁のスリットが一斉に開き、銃座と無人砲塔がせり出した。
天井では電磁砲の銃身がうねるように降下してくる。
「……始まったな」
リョウの声には笑みすら混じっていた。
敵がどう変化しようと、撃って倒すだけだ――
それが彼らの日常だった。
ダグが左翼を駆け抜ける。
「リョウ、左天井、いくぞ!」
火華製のAAH突撃銃を肩に担ぎ、照準を切り替える。
銃身から淡い光が滲む。高出力モード。
トリガーを半分だけ絞る──だが、警告音が先に鳴った。
「オーバーヒート警告!? ……まだ撃てる!」
照準補助を切り、ダグは手動で狙いをつけた。
人工筋肉の駆動音。床を裂く脚音。金属の焼ける匂い。
感覚だけで敵機の軌跡を読む。
瞬間、閃光。
白い爆炎が走り、天井の砲塔ごと八脚機のセンサーを吹き飛ばした。
爆風に巻き込まれた破片が雨のように降り注ぐ。
リョウが短く口笛を吹く。
「……派手だな。遺跡から苦情が来るぞ」
「悪ぃ、出力の癖がまだ掴めない!」
「まあいいさ。生きてるなら上等だ」
軽口のような言葉。だが、その裏では誰もが異変を感じていた。
壁の内側から、低い脈動音が絶えず響いている。
リズムは一定ではない。まるで誰かが考え込むように、沈んだり速まったりを繰り返す。
カイトが計測器を見つめて呟く。
「……電力分配が変動してる。遺跡が再構築を始めてる」
ユイが眉を上げる。
「遺跡の管理AIがシステムの定義を変えてる。単なる暴走じゃない、考えて動いてる」
リョウが苦笑した。
「ここは人格型だったか? 東部じゃ珍しくもねえな。……だが、ひたすら厄介だ」
その時、壁面の赤光が一段と強まった。
構造体が波打つように変形し、通路の奥を完全に塞ぐ。
リョウが情報端末を叩く。
「外との通信、完全に遮断された。切られたな」
通信ログが一瞬だけ揺れ、消える。分断が完了した。
だがリョウは焦らない。
「上等だ。ここからはこっちのターンだ」
声に呼応するように、ダグが銃身を再起動させる。
「熱も落ちた。次、いける」
「よし。俺が右を引く、ダグは正面だ。ユイ、上を抑えろ」
「了解」
それは即興の布陣でありながら、熟練の動きだった。
銃火が走る。
鉄の脚が弾け、火花が散る。
異形の影が崩れ落ちるたびに、赤い照明が瞬くように脈動した。
まるで、遺跡そのものが痛みを覚えているように。
カイトが低く呟いた。
「……遺跡が壊されていることを自覚してる。痛くしてごめんねー」
リョウは短く息を吐いた。
「おい、止めて差し上げろ。……そりゃ怒るわけだ」
その言葉が終わると同時に、天井の光が波打つ。
遺跡がうねるように呻き、奥からさらに防衛機械の気配が現れる。
戦いは、続く。