ガチコイ 〜もし小野寺小咲が先に一条楽と付き合ったら?〜 作:nemu1116
――午後5時。
夕暮れの色が街を染め始めた頃、万里花が連れてきたのは、歴史あるクラシックホールだった。
ホールの最上階。
バルコニー席には二人だけ。
眼下に広がる舞台では、弦楽四重奏の音が静かに鳴り始める。
楽「……静かだけど、なんつーか、こう、心に直接語りかけてくるような音楽だな」
万里花「ふふ。音楽って、不思議ですわよね。たった四つの楽器で、こんなにいろんな感情を引き出せるなんて」
楽「……橘は昔から音楽とか好きだったの?」
万里花「いいえ? 昔は音楽なんて退屈だと思ってましたわ。でも……楽様のことを思い浮かべながら曲を聴くと、感じ方や考え方が変わるんです。わたくしの純愛をより引き立ててくれる……そんな感覚でしょうかね」
ふっと目を伏せる万里花。
その横顔はどこか物憂げで、儚げだった。
楽「……深いね。俺、音楽舐めてたかも」
万里花「ふふ。わたくしはただ、楽様に見てもらいたくて、届いて欲しくて……。そんな待ち焦がれるような気持ちに、潤いと活力を与えてくれる……これはそんな曲ですわ」
静かな弦の旋律が、胸の奥をそっとかき鳴らす。
ーーーーー
午後8時。
日が完全に落ちて、二人は高層ホテルのバーラウンジへ。
夜景が一望できる窓際のカウンター席で、シャンパングラス越しに光の海を見下ろす(※もちろんノンアルです)
楽「……なあ」
万里花「はい?」
楽「今日のデート……正直、すごかった。美術館も、庭園も、演奏会も……全部が完璧で、圧倒された。すげえよ。飯もめちゃくちゃ美味いし。なにより、楽しかったわ」
万里花「まぁ……ありがとうございます♪ 楽様のために努力した甲斐がありましたわ♪」
楽「……。ほんと、ここまでよくしてくれたのに……めちゃくちゃ言いづらいんだけど……橘に言っておくこと、いや、言わなきゃいけないことがあるんだ」
万里花「……はい」
楽「まず、俺が惹かれるのって、たぶん、すごいからとか、完璧だからとか、そういう理由じゃないんだ」
万里花「……知ってますわ」
グラスを置いた万里花は、少しだけ瞳を伏せて、静かに続ける。
万里花「分かってます。わたくしが“完璧な橘万里花”を演じたところで、楽様の心を動かせないことくらい。でも、それでもいいんですの」
楽「え……?」
万里花「だって、好きですもの。叶わないかもしれなくても、楽様の隣を一度でも歩けた今日という日が、わたくしにとっては、何よりも宝物ですから。そのために、今もてる最大限の努力をしたという誠意を見ていただきたかったのです」
その言葉は、まるで静かに舞い落ちる雪のように、楽の胸に降り積もった。
楽「……そっか。ありがとう。めちゃくちゃ伝わったよ、橘の気持ち」
万里花「……。楽様、隠さなくていいのですよ。これから、腹を割ったお話をするつもりなのでしょう?」
楽「……なんで分かった?」
万里花「わたくし、常にこの瞬間が最後と思って話しておりますの。だから、常に覚悟はできております。それに、そんな歯切れの悪い態度ではさすがにわたくしでも分かってしまいますわ♪」
万里花は、まっすぐに楽の目を見つめて――柔らかく微笑んだ。
万里花「楽様。わたくし、あなたが考えていることは……なんとなく分かりますの。きっと、今日のデートに応じてくださったのも、何か理由があるから。そうでしょう? でなければ、小野寺さんの前でわたくしのデートに応じるはずございませんもの」
楽「……それは、その……まあ、そうだな」
万里花「やはり、小野寺さんが関係しているのですね?」
楽「……」
――逃げ場はなかった。
けれど、万里花の声には責めるような色はなかった。ただ、静かに真実を受け入れようとする気配だけがあった。
楽「……俺、ずっと昔から小野寺が好きで。そんな女の子が俺のことを好きだって言ってくれて、彼女になってくれて、俺は天にも昇る思いだった」
万里花はそっと瞬きをして、何も言わずに聞き続けた。
楽「小野寺はさ、隣にいるだけで、ほんと幸せな気持ちになれるんだ。けど、小野寺って優しいからさ……あんまり言わないんだよ、不満とか。それでも言ってくる時ってのは、だいたい溜め込んで爆発する直前っつーか。そのとき俺は思うんだ。この子をこんなに追い込んでしまった、って。こんなにまっすぐ俺を好きでいてくれる子を苦しめてしまった、って。すげえ罪悪感を感じる」
万里花「ふむ……」
楽は一つ小さなため息を入れる。
楽「ただでさえ千棘との関係が複雑なのに、橘まで巻き込んだことで、今、小野寺の心がいっぱいいっぱいになってる。俺が何とかしなきゃいけないんだ。……今日、あえてデートに応じたのも、それを伝えるためだったんだ。橘……いや、万里花。お前に、ちゃんと……さ」
万里花「それはつまり……わたくしとは男女の関係になる余地がないということですね?」
楽「……」
沈黙。
夜の静けさが、言葉の余韻を包む。
万里花は静かに目を閉じた。そして、一拍置いて口を開いた。
万里花「ええ……分かりました。楽様の気持ち、しかと受け止めましたわ」
楽「……橘」
万里花「小野寺さんは、あなたにとって……本当に大切なお方なのですね。それほどまでに」
楽「……ああ」
万里花「……。小野寺さんが羨ましいですわ、心の底から嫉妬してしまいそう」
万里花はひとつ、深く呼吸をしてから微笑む。
万里花「楽様の誠意に免じて――しばらくの間、デートのお誘いは控えさせていただきますわ」
楽「え……いいのか? それって……」
万里花「無理に誘っても、逆効果ですもの。わたくし、そういう駆け引きは好みませんの。でも……」
楽「……でも?」
万里花「学校では、今まで通りお付き合いくださいましね? わたくしが存在しないような扱いは、さすがに……心が折れてしまいますもの」
楽「……ああ。そこまで縛る権利は俺にはねえよ」
万里花「ふふ……ありがとうございます」
そして、夜風にスカートを揺らしながら、万里花は踵を返す。
が、数歩歩いて止まったまま震える声を絞り出した。
万里花「でも……楽様、ひとつ見落としていますわよ」
楽「ん……」
万里花「小野寺さんの楽様への気持ちは本物かもしれませんが……わたくし、ぜっったいに楽様を想う気持ちは小野寺さんに負けていないと宣言いたしますわ。これだけは、プライドにかけて言わせていただきます。ここだけは譲れません」
楽「……分かってる。分かってるからこそ、俺もこんな話をするのはつらい。どうしても傷つける言い方になっちまう。すまねえ、万里花……違う形でお前と出会えていれば、違った世界もあったかもしれない」
万里花「……それだけ聞ければ、十分ですわ。それでは、また学校で」
楽「……ああ。またな、橘。今日は最高に楽しかったぜ」
楽に見せていた背中が小さく震える。
彼女の瞳に浮かんだ光――それは、星の瞬きではなく……ほんの、ひとしずくの涙だった。
それでも、橘万里花は誰にもそれを見せず、背筋を伸ばして歩いていった。
楽は、黙ってその背中を見送った。
そして、彼女の“気高い意地”に、少しだけ胸を締めつけられるのだった――。
二人の前には、都会の夜景と、もう戻らない今日という時間だけが静かに輝いていた――。