ガチコイ 〜もし小野寺小咲が先に一条楽と付き合ったら?〜 作:nemu1116
始業のチャイムが鳴る少し前の時間。
まだ生徒の姿もまばらな教室の中で、一条楽は机に突っ伏したまま、まるで魂が抜けたかのようにぴくりとも動かなかった。
彼の周囲だけ、まるで時間が止まっているかのように静まり返っている。
そこへ、軽やかな足音とともに、橘万里花が登場する。
万里花「おはようございます♪……楽様ぁ〜♪」
いつも通りの甘ったるい声でそう呼びかけながら、万里花は楽しげに楽の背後に回ると、くるりと片腕を背中に回し、軽く抱きしめるように寄りかかった。
しかし――楽はピクリとも動かない。
万里花「……あら? もしかして……お休み中ですの?」
その様子に、少し離れた席で頬杖をついていた桐崎千棘が、小さくため息をつくように言った。
千棘「……。学校来てから、ずっとこの調子なのよ、こいつ」
万里花「え? ずっとって……?」
千棘「登校してきたときから。挨拶しても返ってこないし、席に着いたと思ったらそのままずーっと突っ伏して、微動だにしないの。まるでハシビロコウね」
万里花「まぁまぁ、なんて繊細ボーイですの……」
千棘はじっと楽の背中を見つめたまま、小さく首をかしげた。
千棘「理由は聞いても教えてくれないし。こっちからしつこく詮索するのもアレだから、放っといてるけど……正直、気味悪いわよね」
万里花「……ふぅん?」
と、その時。
ガララッ――
教室の扉が静かに開く。
数人の生徒とともに、ふわりと淡い空気をまとった少女が現れる。
小咲「……おはよう、千棘ちゃん、橘さん……。……一条くんも、おはよう」
彼女の声は穏やかだった。
でも、その声には、どこか張りつめたものがあった。
誰よりも近くにいたはずの彼女だけが気づける距離感ーーそこに潜む、小さな決意と距離。
だが。
楽は、その声にも反応を示さなかった。
顔を上げることもなく、指先ひとつ動かすこともなく、まるで世界と切り離されたようにーーただ机に突っ伏していた。
小咲は、少しだけ困ったような顔を浮かべ、それ以上は何も言わずに通り過ぎた。
その視線は楽の背に触れることなく、静かに教室の奥、自分の席へと向かっていく。
万里花「……あ、あらぁ……?」
千棘「……なにこれ。……なに、この空気……?」
淡く張りつめた糸のような静寂が、教室の中心を通って、誰にも見えない境界線を作っていた。
楽は依然として顔を上げず、机に沈んだまま。
小咲もまた、無言で席に着いたままカバンを開け、筆箱を出しているが……その手元は、どこかぎこちない。
教室のあちこちでは友人たちの朝の談笑が聞こえてくるが、楽と小咲の席周辺だけ、妙に静かだった。
そんな張り詰めた空気を感じ取った万里花が、そっと千棘の肩に身を寄せる。
そして、口元に手を添えて、こそこそと囁いた。
万里花(小声)「……ねぇ、ねぇ、桐崎さん? これは……ちょっと、見過ごせない状況ではありませんこと?」
千棘(ひそひそ)「……あんたもそう思う? 朝からこのテンション、さすがにただ事じゃないっていうか……」
万里花(小声)「ええ。わたくしの推理が正しければ……何か、“決定的な出来事”が、ここ1日〜2日のうちにあったはずですわ」
千棘(小声)「……昨日おとといってこと? となると……文化祭? あんたがジョセフィーヌになって暴れた、あの激動の1日?」
万里花(小声)「あら、楽様に“すごく似合ってた”って褒められた記念すべき日ですわよ? ですが今はその話ではなくて……」
万里花の瞳が鋭く光る。
万里花(小声)「見なさい、小野寺さんを。顔は笑っているようでいて、まったく目が笑っておりませんわ。……あれは、心を閉ざした人間の顔ですわね。ええ、間違いなく」
千棘(ひそひそ)「たしかに……。でも、理由って何よ? 告白して両想いになって、あんなに幸せそうだったのに……急に何?」
万里花(小声)「ふふふ。桐崎さん、思い出して。
“急に”ではございませんわ。楽様は、わたくしたちのアドリブ恋愛劇のあと……あなたと、ふたりでどこかに行ったのでは?」
千棘「……っ!」
万里花、こめかみに指を当てる。
万里花(小声)「そして、その直後、小野寺さんも彼のあとを追っていきました。……つまり、あの時“3人”の間で、何かが起こった可能性は極めて高いわけで……。はて、桐崎さん? 貴女……楽様に、何かしましたか?」
千棘、ぎこちなく目をそらす。
千棘(ひそひそ)「……べ、別に、私は何も……。
つーか、あいつが勝手に来ただけだし……!」
万里花(小声)「ほぉ? わたくしはてっきり「告白」でもなさったのかと♪ さすがにそんなわけありませんよねww」
千棘「……」
万里花「……」
千棘「……」
万里花(小声)「……え、マジですの?」
千棘(ひそひそ)「た、たしかに、それに近いこと……演技の告白みたいなのは、してもらったけど……! 舞台の延長みたいなもんで……! 本気じゃないっていうか!」
万里花(小声)「……でも、それを“演技じゃない”って受け取った人が、ひとり、いたのではなくて?」
千棘(ひそひそ)「……っ?! え、小咲ちゃん……まさか、見てた??」
ふたりの視線が、そっと小咲に向けられる。
万里花(小声)「可能性はございますね。というか桐崎さん、彼女持ちの相手に告白をせがむとは、さすがにモラルを疑いますけれど?」
千棘(ひそひそ)「彼女持ちの相手をデートに誘いまくる女に言われたくね〜ww」
万里花(小声)「わたくしはいいのです♪ 橘万里花ですから♪」
千棘(ひそひそ)「謎理論過ぎるからw」
万里花(小声)「なんにせよ……ジュリエットは、降板してしまったのですわね……舞台の上でも、現実でも……」
千棘(ひそひそ)「……何それ、上手いこと言ったつもり?」
万里花(小声)「とにかく。戦況は、また一変しましたわね……。あとは“楽様の心”が、このあとどう動くか……」
千棘(ひそひそ)「……なんか罪悪感」
ふたりの間に沈黙が落ちる。
教室の空気は、まるで嵐の前の静けさのように、薄く、張り詰めていた。