大天狗令嬢 vs シャーマンスープレックスホールド   作:いぶりがっこ

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第十話「姉妹の盃」

 

 見上げれば、吸い込まれるような星の海がある。

 

 ほうっ、と一つ溜息を吐くと、わずかに白いもやが混じった。

 焚火に照らされた周囲を見やると、春先には白一色の百合の園も閑散として、季節の移り代わりを感じさせる。

 

 見下ろせば、聖クロックアップ学園の中庭は色とりどりの灯篭(ランタン)に照らし出され、時折、華やかな楽団の音色がこの丘にまで届いてくる。

 秋口の恒例となっていた進級試験が終わり、学園では地元の収穫祭も兼ねた、ちょっとした舞踏会(パーティー)が催されているのだ。

 単なる学生たちの息抜きというのみならず、公国の明日を担う若き貴族たちの社交の場、という意味でも重要な祭典となっていた。

 

 ちりり、と淡い痛みを憶え、湿布の上から右頬を軽く撫ぜる。

 先日の小鬼(ゴブリン)の巣穴での死闘の傷跡は完全には癒えてはいない。

 それが今宵、カルラ=クラウザーをサボタージュ(さぼり)に走らせた理由の一つでもある。

 だが、元より庶流の出であるカルラにとって、華やかなる貴族たちの社交の世界には、どうしても苦手意識が消えなかった。

 

 ビッグフォール皇国は、貴族主義の国家である。

 政治も軍事も門閥貴族の主導で執り行わる以上、諸家の繋がりを強める社交の場には重要な意味がある。

 どれほどに体を苛めようと、個人に出来る事などタカが知れている。

 それを理解しながらなお、このような子供じみた真似事をしている自分自身に、どこか焦れつくようなもどかしさを感じていた。

 

「こんな所で一服中(コーヒータイム)とは、随分と洒落ていますわね」

 

 聞き覚えにある声に振り替えると、そこにはやはり、ゴリィ=アントワネットが悪戯っぽい笑みで佇んでいた。

 この女にしては地味な黒の外套ですっぽりと体を包み、色白の頬だけが焚火を照り返し闇の中に浮いている。

 

「ゴリィ……、舞踏会は?」

 

「フフ、私の方も常在戦場(ベスト・コンディション)とは言えませんもの。

 今宵ばかりは早めに切り上げさせて頂きましたわ」

 

 いけしゃあしゃあと言い放ち、焚火を挟んで腰を下ろす。

 か弱き言い草とは裏腹に、乙女の顔には傷一つない。

 

 根性で直したのかもしれない、と、カルラは不意に突飛な事を想った。

 小鬼の巣穴を出た時、少なくともゴリィは自分よりも遥かに重い傷をあちこちに負っていた。

 だが、気高き学園の徒花は、そのような弱みを人前で欠片も見せたりはしない。

 彼女の気高さが天与の才ではなく、本人の尊厳(プライド)執念(ガッツ)で固められた物である事をカルラは知っている。

 

「一杯いただけるかしら。

 私の為に用意してくれたのでしょう?」

 

 そう言って差し出された左手を、しばし怪訝に見つめる。

 勿論そんなつもりは無いし、むしろカルラは今宵ゴリィに会いたくなかったからこそ、この無人の丘に逃げ込んだのだ。

 当然、カップの用意などない。

 やむなく自分のカップに珈琲を注ぐと、ゴリィは満足げな笑みを浮かべた。

 

 香ばしい珈琲をちびちびと舐める乙女の姿をためらい気味に見つめる。

 先日の一件以来、カルラは奔放なゴリィに対する向き合い方を見失いつつあった。

 

 ゴリィ=アントワネットは社交界の華である。

 伝統あるギロチンドロップ公爵家の子女であると同時に、飛び抜けた才覚を持つ若手貴族たちの中心的存在である。

 だが、時に彼女はそのような立場を軽々しく投げ捨て、己の運命を試すような真似をする。

 

 本来、ビッグフォール皇国の貴族というのは、牙無き人々を命懸けで守る闘士たちの事を指す。

 大望の為に命を投げ出す事は、武門に生きる魔闘家(メイジ)の本懐と言ってもよい。

 だが、このまま二人が傍に居たなら、ゴリィは皇国の未来の為ではなく、自分の為に取り返しのつかない決断をするのではないか?

 カルラは時折、そのような不安に駆られて堪らなくなるのだ。

 

「――東洋では『心即理(ストロングスタイル)』と言うそうね」

 

「えっ?」

 

 突拍子も無いゴリィの言葉に、カルラの心臓が思わずどきりと跳ねた。

 

「たとえ一見、大義や秩序から外れているような行いに見えたとしても、

 この胸の内から湧き上がってくる衝動には、人としての正しさが備わっている。

 自らの感情に従い生きる戦士へ捧げる、最大級の賛辞ね」

 

「…………」

 

「美しく生きたいものね、魂だけは、自由に……」

 

 こちらの気持ちを見透かすかのようなゴリィの姿を、無言で見つめる。

 古の先人の言葉を是とするならば、今、二人寄り添うこの一時にも、大いなる意味があるのだろうか?

 ゴリィほどに気高き魂を持たぬ少女には、どうしてもそれを確信する事が出来ない。

 返す言葉を持たぬまま、ただ、美しき乙女の一挙手一投足に目を向ける。

 

「……あら?」

 

 ふと、何かに気付いたようにゴリィが頭上を見上げた。

 カルラもつられて顔を上げ、そして、はっ、と目を丸くした。

 

 二人の視線の先で、星が降っていた。

 それも、一つや二つではない。

 いくつもの星々が、絶え間なく、まるで行き交う旅人のように、二人の頭上を過ぎ去っていく。

 

「キレイ……」

 

 心のモヤも忘れ、ポツリとカルラが呟いた。

 目の前の神羅万象の働きの前に比べれば、人の子の思い煩いなど、ちっぽけなものにすぎないのかもしれない。

 

「……カルラ、願い事は?」

 

「え?」

 

「今だったら、どのような願い事でも叶えられるわ、きっと」

 

 ゴリィにそう問われ、カルラはしばし胸に手を当て、やがて静かに首を振った。

 

「いらない。

 ボクはいつも、誰かからもらってばかりだから……

 本当に必要な物は、ボク自身で探して手に入れたい」

 

「…………」

 

「ゴリィ、は?」

 

「……私の願い事は、貴方のよりもずっとささやかよ」

 

 気恥ずかし気にカルラが問うと、ゴリィは微笑と共に立ち上がり、おもむろに外套を脱ぎ捨てた。

 驚くカルラの眼前で、鮮やかな青色のイブニングドレスが暗闇に踊る。

 観衆を目を釘付けにするはずだった最高級のドレスが、小さな焚火の炎で群青色に染まり、今宵の乙女の姿を一段と際立たせる。

 

「王子様、どうか一曲、私のお相手をしてくださるかしら?」

 

 そう言って差し出された右手とゴリィの顔を、どぎまぎと交互に見つめ返す。

 

「ゴ、ゴリィ、おかしいよ、そんなの……」

 

「おかしい?

 それはどなたが言われたのかしら?

 お星さまが? それとも虫の音が?」

 

「…………」 

 

「さ、Shall We Dance?」

 

 ゴリィは得意気に一つ笑うと、戸惑うカルラの手を引き寄せ、有無を言わさず立ち上がらせた。

 勢いのまま、ゴリィの腕の中に飛び込み、流れるように円舞曲(ワルツ)が始まる。

 

 しおらしい言葉とは裏腹に、長身のゴリィの男役は堂に入り、たどたどしいカルラの足取りが、徐々に滑らかになっていく。

 舞降る流星群(スポットライト)の下、鈴虫の合唱(コーラス)に乗せ、くるくると二人が舞い踊る。

 

(この人は、本当に魂が自由なんだ)

 

 吸い込まれるような瞳を見つめ返しながら、カルラはふっ、とそう思った。

 彼女のように、何者にも縛らずに生きたいと、息をするのも忘れ夢中でステップを踏む。

 

「ほら、もう叶った」

 

 年少の王子さまを腕の中に引き寄せながら、ゴリィは悪戯好きな少女の声で耳打ちした。

 蕾無き白百合の大舞台(ステージ)で、二人はいつまでも踊り続けていた。

 

 

 

 ――瞳を開けると、星はもう欠片も残っていなかった。

 

 目の前に広がるのは、ただ虚しく闇ばかりである。

 熱い。

 頭が割れるように痛い。

 あるいは、見えぬだけで頭部はもう跡形もなく弾けてしまったいるのではないか。

 地に足が着いていない。

 尻の重みが、ずしりと頸にのしかかってくる。

 溢れる血潮が、頭上に滴り落ちていく。

 腰部を絡みつく、細い腕。

 

 ようやく理解がいった。

 自分は、投げられたのだ。

 巫女の祈り(シャーマン・スープレックス)に、一度ならず、二度までも。

 

「……堪るか」

 

 見えない敵にギロリと目を剥き、呻くように吐き捨てる。

 思考がうまく回らない。

 自分はどのように闘い、いかに敗れたのか?

 直前の行動が思い出せない。

 いや、だが、まだ敗れてはいない。

 以前の立ち合いの時は、覚醒まで三日を要した。

 今、まだ彼女は自分の背中に張り付いている。

 過去の経験が、一瞬の明暗を分ける覚悟をくれたのか?

 いや、あの日、彼女が見せた本物の『奇跡』はやはり、自分の想像力の遥か彼方にあると見るべきか?

 とにかく。

 

「この程度の奇跡で、私の心が手折られるとでも」

 

 ゴリィが口を開くと同時に、少女は再び動き出した。

 岩盤に突き刺さったゴリィの体を支点に倒立し、鮮やかに半回転して背後を取る。

 この上なお、少女は未だ、ゴリィの腰部を手放していない。

 

 

「ド ォ ウ リ ャ あ ア ァ あ ぁ ァ―――ッッッ!!!!」

 

 

 少女にあるまじき、底知れぬ咆哮が洞内に轟き渡った。

 凄まじい引力が肉体に働き、身構える間もなくゴリィの視界が半回転する。

 

「~~~~~~~ッッ!!」

 

 辛うじて、歯を食い縛る猶予だけは残された。

 おかげで後頭部が大地に叩きつけられる衝撃を、はっきりと脳裏に焼き付ける事が出来た。

 ズン、と洞穴全体が鳴動し、瓦礫の欠片が容赦なく降り注ぐ。

 

「……これしき」

 

 減らず口を開く暇すらなく、少女の体が翻った。

 叩きつけられた勢いのままに体を引き起こされ、行き着く間もなく落下が始まる。

 

「ギョエッ!!」

(ズン!)

 

 岩盤が抉れ!大地が割れ!勢いのままに少女の体が翻る!

 

「ふざk」

(ズン!)

 

 岩盤が抉れ!大地が割れ!少女の体が翻る!

 

「何度」

(ズン!)

 

 大地が割れ!少女の体が翻る!

 

「やろうと」

(ズン!)

 少女の体が翻る!

 

「つ……」

(ズン!)

 

 少女が翻る!

(ズン!)

 

 翻る!

(ズン!)

 翻る!

(ズン!)

 翻る!

(ズン!)

 翻る!

(ズン!)

 翻る(ズン!)翻る(ズン!)翻る(ズン!)翻る(ズン!)翻る(ズン!)翻る(ズン!)

 

 

「ド ォ ウ リ ャ あ ア ァ あ ぁ ァ―――ッッッ!!!!」

 

 ズン!!

 

 二人の体は軽業師のようにバク転を繰り返しながら、とうとう最初の落下点まで帰ってきた。

 完全に木偶と化したゴリィの体を岩盤に突き立て、ついに回転が止まる。

 

「……死にま、せんわよ」

 

 驚くべき事に、ゴリィは未だに死んでいなかった。

 常人ならば十七回脳味噌を磨り潰されるほど恐怖を刻み込まれながら、乙女の魂は活力を帯び、肉体は灼けた鋼のように剝き出しの熱を放っていた。

 

「私の知る、本物の、貴方は、ただの一太刀で私の全てを奪っていった……

 記憶の片隅にこびりついた模造品(コピー)風情が、どのように私を殺すというのです!」

 

「ド ォ ウ リ ャ あ ア ァ あ ぁ ァ―――ッッッ!!!!」

 

 乙女の激情に呼応して、模造品の少女が再び動いた。

 真後ろにではなく、横に。

 横滑りする奇跡(サイドスープレックス)が、身動きのとれぬ乙女を襲う。

 ドゴン!という鈍い音と共に、顔面が横壁に炸裂し、同時に加速する少女の体が()()に強かに着地する!

 

 

「ド ォ ウ リ ャ あ ア ァ あ ぁ ァ―――ッッッ!!!!」

 

 

 そして、ぶっこ抜く。

 驚くべき事に、少女は壁面を土台に黄金橋(ブリッジ)を組んだ。

 捻じれを加えた奇跡(スープレックス)が、ゴリィの体を上空向けて加速させる。

 

「ぐぎゃッ!!」

(ズゴン!)

 

 極太の鍾乳石をぶち砕いて、ゴリィの顔面が勢い良く天井に突き刺さった。

 数珠繋ぎとなった少女の体が天井に着地し、さらなる奇跡を加速させる。

 

 上から下へ!(ズゴン!)下から横へ!(ズゴン!)横から横!(ズゴン!)更に上!(ズゴン!)

 

 超常の存在となった獣のつがいが、狭い洞内を縦横無尽に飛びすさる。

 岩盤が砕け!鮮血が舞う!

 思いもよらぬ角度で! 思いもよらぬ疾さで! 思いもよらぬ場所で!

 覚悟する暇すら許さぬ三次元攻撃が、ゴリィの思考を容赦なく奪い去っていく。

 

「ブボッファッ!」

 

 それでもゴリィは折れなかった。

 反逆の言霊が炎と化して、乙女の尻が爆烈する!!

 無縫の黄金橋(ブリッジ)が崩れ、二人の体が錐揉みながら墜落する。

 ようやく拘束(クラッチ)が外れ、派手にバウンドした乙女の体がボロ屑のように大地に転がる。

 

「……それ、でも」

 

 驚異的な執念で、ゴリィがなおも体を起こした。

 鏡合わせにしたかのように、赤毛の少女が立ち上がって開手に構える。

 

「どれほどに、恐怖の記憶を振り絞ろうとも……

 数打ちの奇跡(スープレックス)が、あの日の光を放つ事はありませんわ」

 

「…………」

 

「……けれどね、カルラ。

 ()()()()()()()太陽神(ゴッチ)の奇跡などよりも、遥かに恐く、美しかった」

 

 そう言って、物言わぬ少女の顔を、じっ、と見つめる。

 感情の宿らぬ少女の瞳の中に、あの日の熾火のような輝きが、ちろり、と甦る。

 

 あの日――

 

 春。

 早朝の馬小屋で、鉄梃(バール)を剣に見立て、挑むような瞳を向けていた少女。

 

 夏。

 夕闇の中庭で、魅入られたように命の火を灯し続けた少女。

 

 秋。

 星々の導きに抗い、自らの力で人生を掴み取ろうとしていた少女。

 

 ひたむきという言葉を結晶のように研ぎ澄まし、ただ一振りの箒を頼りに世界と向き合い続けていた少女。

 その純粋さを、潔さを、無垢な瞳を、ゴリィ=アントワネットは、畏れながら愛していた。

 あの瞳の美しさに比べれば、奇跡(スープレックス)の光などお排泄物(ウンコ)だ。

 太陽神(ゴッチ)だか雷獣神(ライガー)だか知らないが、あのひたむきな少女の行き着く先が、物言わぬ神の尖兵(ストロング・マシーン)であって堪るものか。

 

「この世で私を殺せるものは、カルラ=クラウザーただ一人ですわ!

 巫女の黄金橋(シャーマン・スープレックス)など……、ましてや!

 臆病な私の虚像ごときが、私の純情を、この胸の偶像(アイドル)を殺せるものかッッ!?」

 

「ッッダアアァアアァァ―――ッッ!!」

 

 ゴリィの啖呵が終わるや否や、幻のカルラは一直線に走り抱いていた。

 火を噴くような弾丸タックル、満身創痍のゴリィにはもはや捌く術が無い。

 だが、元よりゴリィはかわすつもりなど無かった。

 

 次の瞬間、どれほどの一撃が舞い降りようとも、ただ死なぬ事を心に誓う。

 己の内の絶望を打ち破るまで、この闘いは終わらないのだ。

 

「神であろうと魔王であろうと、私たちの道を阻むものは許しませんわ!!」

 

「ド ォ ウ リ ャ あ ア ァ あ ぁ ァ―――ッッッ!!!!」

 

 乙女にあるまじき渾身の雄叫びとともに、凄まじい衝撃がドテッ腹に突き刺さった。

 くの字に折れた体が浮き上がり、次の瞬間、恐るべき速度で前方に投げ出される。

 

 前のめりの神託(フロントスープレックス)

 巫女の代名詞である背後(バック)からでも、これまで散々に見せつけられた(サイド)への奇跡(スープレックス)でもない。

 そう。

 わかっていた。

 あの投擲の嵐の中、()()をやられれば命の蔓が危ういのでは無いかと、心中ひそかに恐怖した。

 ゆえに今、恐怖が形になった。

 ゆえに何も出来ずとも、覚悟だけは間に合った。

 

 

「おぉおおおおおぉぉおおぉオォおぉおおぉぉ!!!!」

 

 

 咆哮を上げる乙女の眼前に、神速の大地が迫る。

 迫力だけで顔面が挽肉(ミンチ)になりかねないほどの神意の一撃。

 死ヌ

 死なぬ

 死ねぬ

 死んだ

 し

 シ

 生きる!

 生――

 

 

 ――ずむむ

 

「……!」

 

 想定外の、ねっとりとした、沈み込むような衝撃がゴリィの頸椎に走った。

 瞬間、鳩尾を圧迫していた少女の重さが消えた。

 直後に予期していた大破壊は一向に来ない。

 自分は一体、どうなってしまったのか?

 あるいは、さきほどの鈍い衝撃は、自分の頭部が圧し潰された音だったのか?

 潰れたプディングのようになった脳味噌が、眼前の悲劇的結末(カタストロフィ)を認識するのを拒んでいるのか?

 

 両足が、大地に着いていない。

 自分の魂は、今まさに天に昇ろうとしているのだろうか?

 いや。

 肉体は未だ、大地の枷に縛られている。

 重力は、両足ではなく、ゴリィの鼻先に痛いくらいにのしかかって

 

 いや……

 

「鼻……!」

 

 鼻であった。

 若き雄の勇おしの如く、隆々と屹立した仮面の『鼻』が、さながら魔導穿孔杭(パイルドライバー)のように深々と大地に喰い込んで、ゴリィの顔面が擂り潰されるのを防いでいたのだ。

 

『その鼻を、どこまでも伸ばし続けろ、小娘。

 貴様の傲慢が神の逆鱗に届くまで、な』

 

 ゴリィの脳裏に、いつぞやの鴉の言葉が蘇る。

 極真大山での修行の日々の中で、一つ限界を超える度に、人を捨てたと手応えを感じる度に伸び続けてきた、仮面の『鼻』

 

「わたくしの……鼻!」

 

 ポツリと呟くと同時に『鼻』はピンと勢いよく張りつめ、反動でゴリィの体が跳ね上がり、何事も無かったかのように大地に着地した。

 おそるおそる、木面の中央にそそり立つそれに触れる。

 仮面は今やゴリィの魂と一体化し、その傲慢は高らかと天を衝き、血に塗れた面立ちは憤怒の色に染まる。

 その様は正しく、古の夜天に悪鬼天魔と謳われた、大天狗(レイヴン)の異様、そのものであった。

 

 我が動けば千里を駆け抜け、拳を放てば天をも貫く――。 

 若き天狗の傲慢は、ついに心中の神をも退散させるに至ったのだ。

 

 神々の黄昏(リターンマッチ)の準備が整った。

 時が来た、それだけであった。

 

 

 纏わり付くような不安のざわめきは、いつしか形をひそめていた。 

 ザ、と足音が細やかな霜の粒を掻き分ける。

 戸惑い漏れる吐息すらも既に白い。

 洞窟の深奥に近づくにつれ、天然のものとは思えぬ凍れた大気がゴリィの体を包み込んでいく。

 

 やがてゴリィは、ぽっかりと開けたドーム状の空間に辿り着いた。

 身を苛む寒さも忘れ、思わず呆然と立ち竦む。

 地底湖……、そう呼んでも良いのだろうか?

 眼前に広がる湖面は分厚い氷に覆われ白銀の世界を刻んでいた。

 

 銀盤の彼方に、ぽつんと真っ白な柱が立ち上っているのが見えた。

 意を決し湖面に降り立ち、この神秘的な世界の中枢を目指す。

 

 白い柱に見えていたのは一際巨大な氷柱であった。

 永劫の水晶のような巨大な柱が、この空間全体を支えるように、遥かな天井まで伸びている。

 時間をも凍らせた透き通る柱の内面に、一頭の怪物が閉じ込められている。

 

「これは……!」

 

 驚愕が、白い吐息と共にこぼれた。

 (ドラゴン)だ。

 銀の翼を持った白色(アルビノ)の竜が、氷晶の奥からゴリィの姿を睥睨している。

 

 ――かつて、極真大山には、風雪を統べる巨竜の住処という伝承があった。

 

 大山の頂より吹き荒ぶ猛烈な吹雪は巨人山脈(アンドレ)全体を万年雪で覆い、力なき弱者の往来を拒み続けてきた。

 来る者を阻む自然の驚異を、人々は巨竜の顎に例え、長年に渡り畏れ敬い続けてきたのだ。

 だが、気候の変動と共に巨人山脈(アンドレ)にもいつしか、短い四季が刻まれるようになり、山々は現在の姿へと移り変わって行く事となる。

 古の氷竜は去り、極真大山の伝承は新たな主を後世に伝えていく事となる。

 

 あの古からの伝承は、真実だったのではないか。

 眼前の神話にも等しき巨体を前に、そう思わずにはいられない。

 あるいは傷ついた体を氷の内に封印し、この氷竜は未だ現世に踏み止まっているのかもしれない。

 敗北の屈辱、怨念が地底湖全体を氷で閉ざし、洞窟を訪れる者の内に宿る恐怖(トラウマ)を具現化させていたのやもしれない。

 

 そっと、氷柱の表面に触れ、太古の怪物の躯を見上げる。

 近づけば大小様々な傷跡が歴戦の肉体に見受けられたが、とりわけ陥没した額の傷が一番酷い。

 おそらくは、アレが致命傷となったのだろう。

 だが、神話にも等しき生物相手に真っ向から殴り合い、その額に鉄拳を叩き込んだ怪物とは何者なのか?

 それも既にゴリィにはおおよその検討がついていた。

 

 洞窟の更に最奥から、小さな打刻音が響いてきた。

 おそらくはそこに、ここまでの旅の答えがあるのだろう。

 ゴリィはかつての大山の主に一礼すると、打刻音の方向へ向け踵を返した。

 

 

 洞窟の最深部は、側面を切り立つ氷の壁に支えられた、長い廊下のようになっていた。

 思わず足を止め、息を呑んで周囲を見やる。

 氷の壁には、さながら東方にあるという石窟寺院のようにいくつもの氷像が掘り抜かれていた。

 

 少女であった。

 無限の慈愛を宿した貌、年相応にあどけなさを残した貌、隠しきれぬ憂いを帯びた貌……

 大小さまざまな氷像に刻まれた表情は千差万別であったが、それらは全て、たった一人の少女をモデルとしていた。

 そして幾多の貌は同時に、少女に対する彫刻師の偏執を表している。

 

 打刻音がいよいよ大きくなってきた。

 ゴリイの眼前に、一際巨大な氷の壁が立ちはだかる。

 

「……鴉」

 

 ぽつり、とゴリィ呟いた。

 返答の代わりに、強烈な打撃が氷で閉ざされた聖櫃を震わせる。

 

 鴉は今、ゴリィに背を向け、ひとり巨大な氷壁に挑んでいた。

 壁面めがけ高らかと飛び上がり、(ノミ)の代わりに足刀を振るい、槌の代わりに鉄拳を叩き込む。

 ガキン、ガキンと拳が叩き込まれる度に、氷が砕け、削られ、件の少女の全容が、壁面に少しずつ刻まれていく。

 

「その少女は、一体何者ですの?」

 

 問いかけに答えはない。

 鴉はまるで、時も場所も、ゴリィの存在をも忘れたように、一心不乱の拳を刻み続ける。

 降り注ぐ氷片に怯みもせず、ゴリィがまっすぐに歩みを進め、壁面に浮かぶ少女の全容を見上げる。

 

 瞳を閉じ、大人びた面立ちを宿したやせっぽちの少女。

 東方の修行者風の衣に身を包み、背筋を伸ばして胡坐を組んでいる。

 小さな胸の前で、何か真球を抱えるように両手を広げる。

 

「……彼女は一体、何を抱いていますの?」

 

 ゴリィが再び問うと、鴉はようやく動きを止め、彫りかけの少女を見上げ呟いた。

 

「――新世界(ノア)

 

()()?」

 

「今、我々の立つ、この大地の事だ」

 

 鴉の言葉にゴリィはわずかに眉をひそめた。

 もしも仮に、この世界が太陽や月のような球体であったとしたならば、人々は大地に立つ事など出来ないではないか?

 

「今、この林檎の上に、一匹の蟻が這っているとする」

 

 ゴリィの疑念に先回りするように、鴉は足元の氷片を林檎に見立て、彼女に向けて放って来た。

 

「蟻は、絶壁にも等しい林檎の表面を、意にも介さず登っていく。

 なぜこの蟻には、そのような真似事が出来るのだろうか?」

 

「それは――」

 

 軽いから。

 小さいから。

 華奢な昆虫は体にかかる負荷が少ないから、身に比して頑丈な殻と鉤爪のような脚を使い、問題なく壁面に貼り付ける。

 そのような回答を咄嗟に考え、しかしなぜか口にする事は憚られた。

 仮面の奥の鴉の瞳は、自分とは何か別世界の色を見ているかのように思われた。

 

「見えぬから、だ」

 

 はたして鴉が口にしたのは、ゴリィには思いもよらぬ答えであった。

 

「卑小な蟻には、今、自分の在る世界の姿を見定める事が出来ていない。

 自分が立っているのが、大地の上か、林檎の上か、それすらも理解できていないであろう。

 世界の姿が見えないからこそ、彼らにとって当然の常識を疑わない。

 もし今、蟻が世界の姿を正しく知覚したならば、たちまち林檎から振り落とされる事になる」

 

「馬鹿な……」

 

 突拍子もない鴉の言葉に、思わずゴリィ反駁した。

 鴉の言葉が正しければ、この世界の常識、秩序は、人々が当然を疑わぬゆえに成立している事になる。

 鴉の言葉を受け入れたなら、たちまちゴリィも大地を失い、天に落ちて行くのではないか?

 

 だがそれがもしも事実ならば、鴉の超常の強さにも説明がつくのではないだろうか?

 この世界で鴉だけが、その真の姿を正しく理解しているというのならば。

 林檎の上の蟻を指で潰すかのように、自分など容易く叩き潰されてしまう事だろう。

 

「五千年前、はるか東方の地で、一人の少女が旅立った」

 

 呆然とするゴリィを置き去りにして、鴉は訥々と昔語りを始めた。

 

「生・老・病・死……

 人々の抱える苦しみを憂いた少女は、遥かな旅路の末、世界の真の姿を見定めるに至った。

 少女はやがて神となり、衆生を支える救い主として、今なお東方世界を守護し続けている」

 

「…………」

 

 鴉の語る神話の世界を、ただ無言で受け止める。

 未だ人間の殻を破り切れていないゴリィには、鴉の言葉の是非を確かめる手段は無い。

 だが、ただ一つだけわかった事があった。

 

「神に奪われた女の子を、奪い返そうとしているのね、貴方は」

 

 ある種の確信を持ったゴリィの言葉に、鴉は再び口を閉ざした。

 人々の心の拠り所となった救世主を、再び一個の人間へと引き摺り下ろす。

 そんな事が可能であるかどうかは別に、その行為が思う事すら憚られる悪逆であるのだけは間違いない。

 人々の心から『神』が消えれば、東方五千年の歴史が培った秩序すらも水泡に帰す。

 まさしく大逆無道。

 悪鬼天魔。

 ゆえに彼女は天狗(レイヴン)となった。

 

「地上に戻れ、ゴリィ=アントワネット」

 

 長い沈黙の後、鴉は初めて、ゴリィの名を呼んだ。

 

「一たび神の座に就いた者を、地上に引きずり下ろすのは容易くない。

 あまりにも時間がかかり過ぎる。

 だが今の貴様にはまだ、かろうじて一縷の望みが残っている」

 

 鴉の言葉に、ゴリィが小さく頷く。

 ここにきてゴリィは、初めて鴉の中の捨てきれていない人間臭さに触れた気がした。

 

「お姉さま」

 

 言いながら、ゴリィは手にした氷片に、空いた右手の人差し指を突き立てた。

 狙いは違わず、ビギンという鈍い音と共に氷が抉れ、先ほどまで林檎であった氷片は、たちまち透き通る盃と化した。

 膝を折り、改めて鴉に向き直り、腰に括った革袋の栓を開ける。

 ふわり、氷だけの世界に、甘い香りが微かに広がる。

 

「猿酒、か?」

 

 鴉の言葉に頷いて、即席の酒器に紅い液体を注いでいく。

 猿酒は天然の果実や樹液が、自然に発酵する事で出来た酒である。

 本来なら人の身を捨て去った天魔の修行場にある筈の無い、人間社会の名残であった。

 

「お姉さま。

 今生の名残に、今、この場で私と、姉妹(スール)の盃を交わしてくださいまし」

 

 ゴリィそう言うと、親指の先を噛み裂いて、元より紅い液体の上に、自らの血を一雫落とした。

 

「……この後に及んで、未練たらしく人間のフリか?」

 

 鴉はしばし、ゴリィの仕草を無言で見下ろしていたが、やがて呆れたように悪態を突いて、そのままどっかと腰を下ろした。

 盃を置いてゴリィと向かい合い『鴉』の覆面を外すと、たちまち背丈相応の、あどけない少女の面立ちが露わとなった。

 

 あるいは五千年前、想い人と離ればなれになったその日から、鴉もまた氷の聖櫃と同じように、自らの時間を止めてしまったのかもしれない。

 氷の器を唇に運ぶ少女の顔立ちを見つめながら、ゴリィはぼんやりとそのような事を考えた。

 

「ぶふぁっ!?」

「!?」

 

 瞬間、少女が盛大に酒を噴出した。

 面中を飛沫塗れにしたゴリィの前で、少女は何度もむせっかり、苦し紛れに呟いた。

 

「……五千年ぶりの豪酒じゃ。

 喉が覚えておらなんだわ」

 

 そう言って、無理やり少女が笑った。

 つられ、ゴリィも面の下で苦笑をこぼした。

 物みな動かぬ氷の世界が、乙女たちの笑顔でわずかに緩んだ気がした。

 

 

 ゴリィ=アントワネットが人を捨て、一介の天狗に化ける前の、最後の記憶であった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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