大天狗令嬢 vs シャーマンスープレックスホールド   作:いぶりがっこ

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第四話「超人山脈」

 

 それは、暑い夏の盛りの出来事であった。

 ゴリィ=アントワネットは(セント)クロックアップ学園の中庭にて、幾人かの寮生を集め魔闘礼法の指導を行っていた。

 

 白色の入道雲の下、個人練習に励む乙女たちの頭上に、太陽神(ゴッチ)の視線が燦々と降り注ぐ。

 学園は暦の上では夏季休暇に入っており、学生たちの大半は既に帰省の途に着いている。

 本来彼女たちを指導する立場の教員たちも、今はほとんど学園に残っていない。

 そこでゴリィは暇を持て余した寮生たちを一堂に集め、オリエンテーリングを兼ねた指導会を開く事にしたのであった。

 

「どじゅあっ!」

 

 ゴリィの見守る眼前で、カルラが一つ呼吸を整え、気勢混じりの詠唱を吐き出した。

 ほどなく、かざした両掌の狭間がぐにゃりと歪み、瞬間、ぼっ、と小さな火球が現出した。

 

「で、出来た……あっ」

 

 カルラの声に喜色が混じった直後、火球が不規則に揺らめきだし、制御する間もなく周囲に四散した。

 

「ふふっ、少々詰めが甘かったわね、カルラ」

 

「ゴリィ……」

 

 背後のゴリィが微笑して、カルラの細い指先を包み込むように自らの両手を添えた。

 やがて、重ねあった二人の掌の狭間に、高密度の魔素(ヴィスコ)が凝集され、散ったように見えた火の粉が、再びちろちろと舐めるように膨らみ始めた。

 

「呼吸を乱さず、絶えず体内に魔素(ヴィスコ)を取り込み続け、視線は常に掌の先へ。

 全ての所作を、淀みなく、意識せずに続けられるようにならなければ、

 たちまち炎は掻き消えてしまう」

 

「淀みなく、意識せず……」

 

「始める事は容易くとも、維持し続ける事は難しい。

 魔術も、鍛錬も、国家も同じね」

 

「…………」

 

 ゴリィの諧謔(ジョーク)が届いたかどうか。

 カルラの視線は、既に手の内の火球にのみ向けられていた。

 ふうっ、と一つ溜息を吐いて、重ねた掌をそっと放す。

 

「ゴリィお姉さまぁ〜!

 私たちにも超電磁捻体地獄独楽(スピニング・トゥホールド)の掛け方を教えてくださいまし~」

 

 遠くの芝生から、自分の名を呼ぶ後輩たちの声が聞こえてきた。

 ゴリィは片手を挙げてそれに応え、ちらりとカルラの方を振り返った。

 

「少し離れるわよ、カルラ。

 ふふ、その火球、私が『そこまで』と言うまで維持してごらんなさい」

 

「…………」

 

 カルラからの返事は無かった。

 既に彼女の全神経は、掌中の火球を維持すると言う一点にのみ集中しているようであった。

 この極端な集中力の高さが、彼女の武器であり、同時に危うさでもある。

 この暑さの中で無理をすれば、万一もあり得る。

 彼女の事は、自分がちゃんと見ておかねばなるまい、そう心中で誓い、ゴリィはその場を離れようとした。

 

「た、た、たっ、大変だぁ~っ!」

 

 その時、不意に入口の方から悲痛な叫び声が轟いてきた。

 何事かと一同が振り向くと、視線の先では、この学園の近辺に住まう馴染みの農夫たちが、息せき切ってこちらに向かって来ている所であった。

 

「落ち着きなさいな、皆さま方。

 そんなに慌てて、一体どうなされたというのです?」

 

「ああ! お、お嬢さま方、今すぐこの場からお逃げ下さい!」

 

覇 王 修 羅 豚(キング・トーン)が……ッ!

 興奮した修羅豚の大群が大暴走して、ここら一帯の村々を荒らし回っているんです!」

 

「 覇 王 修 羅 豚(キング・トーン)ッッ!? 」

 

 平穏なる日常を打ち破る望外の言葉に、ざわり、と空気が震えた。

 覇王修羅豚(キング・トーン)は、ビッグフォール皇国伝来の桃色豚(ピング・トーン)に、野生の特攻猪(デストロイド・ボアー)を掛け合わせた交配種で、従来の桃色豚の五倍もの肉が取れる上に、特攻猪の野趣が加わり味も美味と、各所で珍重されている家畜であった。

 だが同時に修羅豚は、野生種との交配ゆえ気性に難があり、ひとたび暴走すれば大事故に繋がりかねない危険な種という一面も有していた。

 

「暴走豚などと、どうしてそのような事に……」

 

「そ、それがどうやらあの豚ども、

 近場の【ノーフューチャー特高監獄】で飼育されていた奴のようでして」

 

「脱獄でさあ!

 あんの外道ども、近場から魔闘家(メイジ)の消える盛夏を狙って、豚どもを暴走させやがったんだ!」

 

「お嬢様がたも早くお逃げくだせえ。

 この学園があの血と暴力と女に飢えた、ノーフューチャーな脱獄囚どもに目を付けられたら……

 一体どのような目に遭わされるか、わかったもんじゃねえだ」

 

 暴走豚に脱獄囚。

 突如して我が身に降りかかった修羅の国の様相に、やんごとなき乙女たちは血の気を失い身を震わせた。

 ゴリィはしばし、不安げな少女たちの表情を見渡した後、一つ深呼吸して口を開いた。

 

「聞いての通りよ、みなさん。

 本日のオリエンテーリングはこれまでにいたしましょう。

 皆、この後は自室にて待機してなさい。

 大丈夫、この学園の聖域を悪漢如きに易々と踏み躙らせはしませんわ」

 

「お、お姉さまはどうなさるおつもりですの……?」

 

 下級生の一人が恐る恐る問うと、ゴリィはフン、と軽く鼻を鳴らした。

 

「気高き魂の貴種よ、力無き弱者の盾となれ……。

 既に近隣の村落に深刻な被害が及んでいる以上、衛士隊の到着は待てません。

 学園の膝元を脅かす下賤の輩は、このゴリィ=アントワネットが直々に成敗いたします!」

 

 そう宣言すると同時に、ゴリィは鮮やかに制服を脱ぎ捨てた。

 たちまち闘衣(レオタード)一枚となった乙女の姿に、人々は思わず息を呑んだ。

 静かな闘志を内に漲らせ、凛として佇む乙女の姿は、あたかも絶望の花壇に希望の花が咲いたかのようであった。

 

「事情は分かりましたわね?

 さあ、参りますわよ! ダイベアーさん! アッチャブゥさん!」

 

「っす」

「しゃあ」

 

 ゴリィがそう呼びかけると、それまで後背で鎮座していた巌の如き乙女たちが、突然ぬうっと立ち上がり、ゴキゴキと首を鳴らしながら一同の前へと歩み出た。

 

重爆女帝(ビッグ・バン)』ダイベアー。

肉弾魔人(ボンバー・ミート)』アッチャブゥ。

 

 共にゴリィと同窓の(セント)クロックアップ学園の三号生で、未だ修学中の身でありながら二つ名(リングネーム)を許された、皇国でも屈指の女魔闘家(メイジ)たちである。

 ここに三号生筆頭のゴリィを加えた、あまりにも神々しい乙女たちの勇姿を前に、近隣の農夫は思わず鍬を取り落とし、膝を突いて涙を流した。

 

「いってらっしゃいまし、お姉さま方!」

「ゴリィお姉さま、どうぞご無事で!」

「ご武運を!」

「ゴリィお姉さまの……、ギロチンドロップ公爵令嬢の、ご出陣! ご出陣!」

 

 あどけなさの残る少女たちの声援を一身に受け、三人の乙女は振り返る事なく学園を後にした。

 やがて一行の姿が見えなくなると、正門の鉄扉はその身を軋ませ、重々しく閉ざされた……。

 

 

 

 ――結果だけを言えば、戦いは一方的な惨劇へと姿を変えた。

 

 

「ダイベアーさん! アッチャブゥさん!

 豚どもの始末は任せますわよ!」

 

「っす!」

「しゃあ!!」

 

 ゴリィの冷静で的確な指示を受け、巌の如き乙女たちが前に出た。

 

 ダイベアーの重爆魔術(ボディ・プレス)覇王修羅豚(キング・トーン)の大暴走を真正面から弾き返し――。

 アッチャブゥの肉弾魔術(ガマ・オテナ)が分厚い脂肪と筋肉の壁を、いとも容易く引き裂いていく――。

 

 突如として戦場に現れた本物の修羅の闘気を前に、家畜回の覇王(キング)とまで謳われた修羅豚たちも、たちまち戦意を喪失し、ある豚は身じろぎ一つ出来ぬまま三枚に卸され、ある豚はヤケを起こして真正面から肉塊(ミンチ)と化し、ある豚は未来無き世を儚み自らの足で屠殺場に向かう有様であった。

 

「キイィエェエェェ――!」

 

 そして、その中でもやはり、ゴリィ=アントワネットの動きは際立っていた。

 猿叫の如き詠唱と共に暴豚の群れを駆けるように踏み抜け、狼藉を振るう不届き者たちの中心に一直線に突っ込んでいく。

 算を乱した悪漢どもを、ちぎっては投げ、ちぎっては叩き、ちぎっては蹴り、ちぎっては極める。

 

 ノーフューチャー特高監獄に放り込まれるような囚人はみな、皇国でも恐るべき力を有した、油断ならない悪来(ヒール)揃いである。

 腕が立ち、肝も太く、残忍で容赦なく頭もキレる。

 今回の脱獄騒ぎもまた、長年に渡り周到に練られた計画であったハズだ。

 事実、各地に駐屯する州兵たちは完全に虚を突かれ、下手をすれば一地方が丸ごと反乱暴動の渦に飲み込まれかねない事態に陥っていたかもしれない。

 

 ただ一つ、過ちがあったとすれば……、

 彼らは産まれる時代を間違えた。

 

「魔極【 超 電 磁 捻 体 地 獄 独 楽(スピニング・トゥホールド) 】ッッ!!」 

 

「ガアァアぁあァァァ〜ッッッ」

 

 乙女の身体に雷光が走り、骨が軋み肉が捩れ、無頼の絶叫が閃光の彼方に消えていく。

 闘争本能(アドレナリン)に火が点いた。

 突如として放り込まれた実戦(セメント)の空気。

 身に迫る悪来(ヒール)たちの凶器攻撃。

 死線(デスマッチ)

 何よりも、己が身に負った貴族の責務の重さ。

 

 自らの正義を確信する時、人の感情は極端に奔り、肉体には興奮が充足する。

 命懸けの実戦の場で、一切の負い目なく、磨いた技を全力で叩きこむ悦びに、全身の細胞が打ち震える。

 幼少のみぎりより一流の貴族としての教育を受けたゴリィですら、その感動には抗いがたく、ただ無我夢中で拳を振るい続けた。

 

 ゆえに、戦いの中で忘れてしまっていた。

 自分が真に守るべきものは何だったという事を……。

 

 

 脱獄囚をあらかた制圧し、駆け付けた衛士隊に引継ぎを終えたゴリィが帰還した頃には、学園は既に夜の帳に包まれていた。

 寮へと戻るその途上、日中鍛錬を行った中庭に、ゴリィは闇夜に浮かぶ鬼火を見た。

 

「……まさか!」

 

 事態に気付いたゴリィが慌てて駆けよると、その場に居たのはまさしくカルラであった。

 呼吸を乱さず、絶えず体内に魔素(ヴィスコ)を取り込み続け、視線は常に掌の先へ。

 驚くべき事に、カルラは日中教えたそのままの姿勢で、ずっと火球を維持し続けていたのだ。

 指先が震え、全身からどっ、と汗を拭き出して、ただ瞳だけが炯々と輝き、手の内の火球を一心不乱に睨み続けている。

 

(なんたる事……!)

 

 ごくり、と思わず固唾を呑み込む。

 日中のあれだけの騒ぎですらも、全意識を火球に向けた少女の耳には一切届いていなかったというのか。

 恐ろしいまでの驚異的な集中力。

 自らの得た力に対する感動。

 苦痛を苦痛とすら感じないほどの揺るぎなき精神力。

 

 目の前の少女には、努力し続ける才能を支える素養の全てが宿っている。

 この娘は、きっと良い魔闘家(メイジ)になるだろう。

 あるいは、この在学中に、自分の力を凌ぐ程にまで。

 

 だが、苦痛を感じない精神も、周囲の音を遮るほどの集中力も、才能と呼ぶにはあまりに重篤な欠陥である。

 事実、ゴリィの帰還が遅れていたなら、中庭の鬼火に気付けなかったなら、少女は己自身も知らぬ内に、体内の魔素(ヴィスコ)を燃やし尽くし、そのまま帰らぬ者となっていたかもしれない。

 ぎりり、と奥歯を噛み締める。

 カルラの事は、自分がちゃんと見ておかねばならないと、初めから分かっていた筈だ。

 血に溺れ、正義に溺れ、信念に溺れ、力に溺れ、その挙句、あと一歩の所で真に大切なものを喪う所であった。

 その愚かしさに腹が立つ。

 

 すうっ、と深呼吸すると、ゴリィはカルラの傍らに立ち、ぱん、と一つ柏手を叩いた。

 

()()()()

 

 そうゴリィが言うと同時に火球が潰え、まるで糸が切れたかのように、カルラが前方につんのめった。

 ぜえぜえと肩で大きく息を吐き、震える身体を何とか起こし、そして、何が起きたか分からないと言った風に周囲を見渡す。

 カルラはやはり、日が落ちた事にすら気が付いていなかったのだ。

 

「見事よ、カルラ」

「え……、あぅ!」

 

 言いながら、ゴリィはカルラの小さな体を、ひしとその胸に抱き寄せていた。

 ワケも分からぬまま乙女の胸に抱かれて、戸惑う少女の瞳が虚空を彷徨う。

 

「ダメだよ、ゴリィ……、汗臭いよ」

 

「私も、今は血と汗と泥に塗れていますわ」

 

 中空に零れたカルラの言葉に、答えにならない答えを返す。

 社交界で磨かれた達者な諧謔(ジョーク)は、何一つ浮かんでこなかった。

 

「ゴリィ……、泣いてるの?」

 

「……ふふっ、ノーフーチャーの毒霧は滲みましたわね」

 

 かろうじて軽口を返すと、ゴリィはそっとカルラから離れ、いつもの口調で微笑み返した。

 

「さあ、さっさと尞に戻りましょう。

 ダイベアーさんとアッチャブゥさんが、新鮮な覇王修羅豚(キング・トーン)カルドソ(ちゃんこ)を振舞ってくださるわ」

 

「えっ、あ、うん……」

 

 奔放なゴリィの見せた一瞬の変化に戸惑いつつも、カルラは慌ててその背を追った。

 今はただ、夜の帳と虫の音だけが、二人の行く先を包み隠してくれていた。

 

 

 荒れ狂う猛吹雪を全身に感じ、ゴリィは再び瞳を開けた。

 忌々しげに頭上を見やれば、吹き荒ぶ風雪の白刃がたちまち視界を塞ぎ、厚手の外套(マント)がバタバタと煽られ、時に体もろとも危うく持っていかれそうになる。

 今や底も見えぬこの岸壁から墜落すれば、すなわち死――。

 

 一寸先も白色に染まるような荒天の中、ほとんど垂直にも近い絶壁にへばりついて夜を明かす。

 並の冒険者が見れば卒倒しそうな光景であるが、彼女たち魔闘家(メイジ)は並の人間とは言い難い。

 両指の爪を鋼の如く錬成し直し岸壁に突き立て、体の周りに風神の加護を纏いて天候の影響を和らげる

 一流の魔闘家(メイジ)ならばこの状態で呼吸を乱さず、二日でも三日でも持ち堪える事が出来る。

 彼女たち魔闘家から見れば、両手に山縄(ザイル)砕氷斧(ピッケル)を携え、背丈に倍する背嚢を背負いこの絶壁に臨む方が、遥かに無謀な冒険なのだ。

 

 だが、それら魔闘家(メイジ)の常識はあくまでも、通常の天候、通常の場所、そして何より術者が万全の状態である事を前提としている。

 

 ここ巨人山脈(アンドレ)は、西方と東方の文化圏を分かつ干渉地に並び立つ大連峰である。

 神代の時代、太陽神(ゴッチ)とのいくさに敗れ、ふて寝した巨人族たちの成れの果て、などと謳われた山々は、一年の大半を深い雪に閉ざされ、人々の往来を常に拒み続けてきた。

 南方航路の開拓により、東西交流が盛んに行われるようになった現在では、自殺志願にも等しい修験者しか訪れる者もないような、不毛の地と化して久しかった。

 

「随分と……、虐めてくれますわね」

 

 ここ半日ほど、一向に収まる気配を見せない吹雪を睨み付けながら、誰に聞かせるでもなくニヤリと笑う。

 今、彼女が挑んでいるのは、ちょうど山脈の中央に位置するテーブルマウンテン……。

 

 通称【 極 真 大 山(ファイナルチェンジ!!ダイナミックウォール) 】である。

 

 その標高、実に3,776バーバ(およそ7,854メートル)

 最も、現時点でその頂を確かめた者は西方には一切存在しない。

 峻厳なる山々の狭間に突如として出現する、まるで何者かの意思で作られたとしか思えぬ大柱。

 口さがない者には『大陸の()()()』などと揶揄されるこの大山は、古くから巨竜の住処であるとか、或いは大妖仙道を目指す覚者たちの修行場であるといった胡散臭い伝承が絶えない。

 結局の所、頂上をその目で確かめた者がいないからである。

 

 一般に霊峰と謳われるほどの高山では、上層に向かうほど空気が薄くなると同時に、大気中に含まれる魔素(ヴィスコ)までもが希薄になる。

 いかに高次の魔闘家(メイジ)と言えど、いつまでも岸壁にしがみついて荒天をやり過ごしているワケにはいかない。

 一たび疲労に敗れ集中力を欠かせば、いずれ風神の加護は失われ、術者は風雪もろとも断崖の底に叩き付けられる事となる。

 かといって、ジリ貧を恐れて猛吹雪の中を無理やり登攀すればたちまち呼吸は乱れ、自滅に至るは必定である。

 極限の孤独の中でも平常心を失わず、一瞬の好機を見逃さず果敢に攻める。

 冷静さと果断さ、双方を併せ持たねばこの難所を踏破する事など叶わない。

 

 ビッグフォール皇国における魔闘家(メイジ)の多くは、同時に国家の要職を占める貴族でもある。

 どれほどに蛮勇の持ち主であろうとも、他愛ない御伽噺の確認の為に、あたら命を無駄にするワケにはいかない。

 有史以来、西方に極真大山の踏破に成功した者が居ないのも当然であり、その事実がまたこの霊峰の神秘を際立たせるのであった。

 

 ふうっ、と一つ深呼吸して、己が心音をじっと数える。

 全ての所作を、淀みなく、意識せず。

 瞳を閉じれば、ひたむきな少女の姿が鮮やかに蘇る。

 あの日の彼女に比べれば、この程度の試練、孤独でも無ければ苦行でも無い。

 耐える代わりに、ただ祈る。

 この山の頂が、神をも畏れぬ天魔の棲家である事を。

 この道なき道の先に、天に仇為す外道の道が続いている事を。

 

(……?)

 

 ふと指先に違和感を憶えた。

 岸壁に抉り込んだ右手の爪が、一瞬、微かにだが震えたような気がしたのだ。

 最初はそれは、上空から吹き付ける吹雪の影響かと思った。

 あるいは、自身の想像以上に肉体が疲労しているのか、とも。

 

 だが違った。

 ほんの僅かにだが、岸壁そのものが振動しているのだ。

 しかも、ゆっくりとだが、震源は少しずつこちらに近付いてきている。

 頭上から吹き付ける山嵐を嘲笑うかのように、ズン、ズンと地の底から何かがせり上がって来る。

 

 つ、と背筋に冷たい汗が一筋流れる。

 いかな魔導武術の達人であっても、絶壁に貼り付いたこの状況で出来る事など何もない。

 後はもう腹を括って、流れに身を委ねるしかない状況である。

 だがしかし、風神の加護が無くばまともに目も空けられぬ山颪の中、一体何者が、この絶壁を上って来れるというのだ?

 

 ――ズン!

 

 一際強い振動が足元を揺らした。

 足音の主は、既にゴリィの直下まで迫っていた。

 

 そう、()()、だ。

 にわかには信じ難いが、この超常の存在は垂直にも等しい絶壁を()()()()()()()()()()()()

 

 ズン!!

 

 一際強い振動が耳元で炸裂した。

 巨鬼(オーガ)の拳にも等しいひと蹴りで岩壁を踏み抜き、ゴリィの脇を悠然と通り過ぎて行く。

 ちらりと視線の端に、巨鬼の物とは思えぬ可愛らしい踵を捉えた。

 驚くべき事に、地響きの主はまるで少女のような裸足であった。

 奇妙なる大妖の尊顔を見定めんと、ゴリィが必死に首を伸ばす。

 次の瞬間、ふわり、と図ったかのように吹雪が緩み、怪物の全容が露わとなった。

 

天狗(レイブン)――!?)

 

 思わずゴリィは息を呑んだ。

 見上げる視線に居たのは、頭部を鴉の覆面に包んだ修験者(モンク)であった。

 あるいは鴉の頭部から、人間の手足が生えているのだろうか?

 子供ほどの背丈を東方の衣と猪の毛皮に包み、その上から漆黒の翼を束ねた大仰な外套(マント)を羽織っている。

 人にしては小さく、鴉にしては規格外に大きい。

 人三化七。

 人とも妖ともつかぬ何かが、荒れ狂う天意に挑むかのように、極真大山を上へ上へと歩んでいく……。

 

「……ッ くぅっ!?」

 

 邂逅の刻は一瞬の内に過ぎ去り、たちまち顔面に叩き付けるような猛吹雪が帰って来た。

 身を縮ませ、慌てて体勢を立て直す。

 凍てつく外気とは裏腹に、どくどくと心音だけが別の生物のように高鳴っていた。

 今のゴリィは歯を軋ませて、地鳴りの去って行く吹雪の先を睨み据えるしかなかった。

 

 

 天狗が去った後には、まるで抜けるような晴天が残された。

 それがあの怪物の、なにがしかの神通力によるものなのか、あるいは単なる偶然なのか、そこまでは分からない。

 ゴリィに分かっている事は、今が勝負を賭けるべき正念場だという事である。

 頂上が見えるまで夜を徹し、登り続ける事にした。

 

 底冷えするような高山の夜気が、心中から火照った体を覚ましていく。

 静寂と月光の下、見上げれば、怪物が刻んだ破壊の足跡が、彼方上空まで点々と続いている。

 あの怪物の歩みに比べれば、今の自分の登攀など蟻の足搔きにも等しいであろう。

 

 この足跡は、果たして人間の業によるものなのか?

 どれほど鍛え続ければ、このひと踏みに到達できるというのだろうか?

 ゴリィは未だ、世界の深淵を見定められてはいない。

 だが、あのような超常の存在する事自体が、今のゴリィにとっては救いですらある。

 遥か頂上まで続く、小さな小さな少女の足跡。

 それだけがゴリィに残されたただ一つの(しるべ)であった。

 

 

 やがて、東の空が白み始める頃、ゴリィが目指す頂にも果てが見え始めた。

 岸壁にぽっかりと空いた窪地に体を預け、干し肉を齧り馬乳酒を呷る。

 ここまで来た以上、一気に登攀を終えて体を休めたい所ではあったが、この上に待ち受けているのは楽園ではない。

 革袋を腰に括り、再び呼吸を整える。

 大気中の魔素(ヴィスコ)も下界に比べ限りなく希薄となっている。

 常在戦場(ベスト・コンディション)など望むべくもない状況だが、この先何があっても後悔しないだけの準備を整えておきたかった。

 

 

「グゥワォオオォ―――ッ!!」

「!?」

 

 

 束の間の瞑想は、凄まじい咆哮によって中断された。

 咆哮の出所は、無論上方である。

 たちまちゴリィの身体はバネで弾かれたように動き出していた。

 

 ぞわり、と身に迫る死の気配が一段増した。

 だがゴリィがここで待機などという賢明な選択肢を選べる女であったなら、初めから彼女は極真大山の頂を目指したりはしなかったであろう。

 見定めなければならなかった。

 これから先、この大山の頂で起こる場面の全てを。

 

 

 

「グ ゥ ル ォ ゥ ワ ォ オ ァ ア―――ッ!!」

 

 テーブルマウンテンの頂に手が掛かると同時に、再び先ほどの咆哮が響き渡った。

 雄叫びの余波に大地が震え、一拍遅れの衝撃波が凍てついた皮膚をビリビリと叩く。

 

 (クマ)だ!!

 

 どくり、と一つ心臓が哭き、登りかけた態勢のまま動きを止めた。

 ゴリィが視界に捉えたのは、下界での規格を遥かに超えた雄々しき雌羆であった。

 

 デカイ。

 かつてギロチンドロップ家の蔵には、若き日の父ドーリマンが仕留めたという灰色熊(グリズリー)の剥製が在り、また、同窓のダイベアー女子は熊にも比肩される体格を有した女偉丈夫であったものだが、今、眼前で死闘を繰り広げている羆の異様は、それらの記憶とは比較にならぬほどに勇壮であった。

 

 佇まいだけで他の小動物を圧倒する体躯。

 咆哮より溢れ出す本物の肉食獣の殺気。

 一流の狩人であっても指先が強張るほどの鋭い眼光。

 

 そして、それより、なによりも……。

 

(う、美しい……)

 

 思わずはっ、と息を呑んだ。

 その巨大な四足獣の闘い方は、全身から放たれる野生とは裏腹に、あまりにも華憐で流麗であった。

 

「グワォ」

 

 唸りを上げ振り被った前足。

 縦の爪の一撃が、ぐるりと横の回転に変わり、淀みなく後ろ回し蹴りへ、繰り出した足が、更に前に出る震脚へと転じ、すかさず渾身の体を浴びせる。

 息をするように羆の動きが弛む事なく変化していく。

 千変万化、羆の身体が、自在に動き、先が読めない。

 

 西洋の格闘技は理論的(ロジカル)であり、突き詰めれば神秘の介在する余地がない。

 体格(フィジカル)筋量(マッスル)体勢(フォーム)、この三要素と魔術との融合で、次の技の性質の全てが決まると言って過言では無い。

 だが、今、羆が繰り出している技の数々には、西洋の理論とはまた別の技術体系が働いているようであった。

 

 天然自然の理の中に在るものは、それだけで一種の美を宿し、人々の心を魅了する。

 山麓を走る激流が、幾度と無くうねりながら川幅を広げ、いつしか外海に繋がる広大な大河となるように。

 羆の動きは天地の働きに則り、もしあの場に居るのが自分であったなら、東から昇った太陽が西の空に沈むが如く、当然のように打倒されてしまうのではないかとさえ思われた。

 

 ……だが。

 

(当たらない……?)

 

 ゴリィはもはや、声一つ立てられなかった。

 自在に流転する羆の体捌きはしかし、朝靄の先に煙る対主の影にはまるで通用していなかった。

 あたかも事前の打ち合わせでもしていたかのように、羆の爪が、牙が、捌かれ、逸らされていく。

 羆の放つ殺気が本物でさえなければ、高度な一人演舞にさえ見えていたかもしれない。

 羆の技が目にも止まらぬ、森羅万象の理に沿った速さであるならば、対主の動きは目にも映らぬ、理を超えた超常の領域にあった。

 

「グォアッ!!」 

 

 一撃必殺の信念を篭め、羆が最速の熊掌打を放った。

 いや、放とうとしたその瞬間、対主は既に羆の懐に潜り込んでいた。

 ゴゥッと豪腕がうなりを上げて空を切り、刹那、乾いた炸裂音が五発、羆の体を縦に走った。

 

 一瞬、爆烈魔術の類かとすら思った。

 けれど違った。

 対主の神速の当身が空気の壁を突き破り、相対する羆の正中線を一直線に駆け上がったのだ。

 金的、丹田、水月、天突、人中――

 縦一線の絶対急所を下から順に踏み上がり、対主が鮮やかに羆の上を取った。

 

 重爆の如き五連撃をまともに浴びながら、なお踏み止まった羆の驚異的耐久力は称賛されるべきであろう。

 だがゴリィはこの時、日の下に躍り出た大鴉が、獲物の上で漆黒の翼を広げる姿を見た。

 

「カァッ!」

 

 短く叫び、よろめく羆の背中に飛び乗ると、淀みなく何かの形に極めていく。

 羆の腕が、天空で見えざる鎖に縛り上げらたかのように高らかと吊り上がり、巌の如き上体が前方に折れる。

 

関節技(サブミッション)!?)

 

 信じ難い光景を前に、、ゴリィが思わず目を見張った。

 いかに関節技が理論と修練の世界とは言え、大人と子供ほどの体格差の相手に組打ちなど通用する筈がない。

 まして相手は骨格レベルで人類とは桁違いの屈強さを誇る大羆である。

 

「ガアァアアァアァァ~~ッッッ」

 

 その大羆が、哭いた。

 関節を軋ませ口泡を吹き、その全身から、羆を羆たらしめていた全精力がみるみる失われていく。

 一体いかなる術理によるものなのか?

 関節技のスペシャリストたるゴリィすら知らぬ東洋の(かんぬき)、その全容を何とか見定めんと瞳をこらす。

 だが、逆光の前で一つになったシルエットの正体を見極める事は不可能だった。

 

「~~~~~~ッッッ」

 

 とうとう心の折れた羆が、ぶんぶんと右手を振ってタップアウトした。

 たちまち拘束が解かれ、糸の切れた人形のようになった巨体がずしゃりと大地に沈む。

 

 強い。

 目の前で死闘を繰り広げていた羆もまた、怪物の巨体に達人の理合を併せ持つ異能であった。

 それを真正面から赤子の手を捻るように叩きのめすなど、そのような真似をできる生物が地上にいるのか?

 

 ゆらり。

 

 そう思った瞬間、ゴリィは知らず二人の前に歩み出ていた。

 ゴリィの存在に気付いた大鴉が、ゆるりとこちらを振り向いた。

 

「ギロチンドロップ流闘法(スタイル)、ゴリィ=アントワネット」

 

 すらすらと名乗りが口を突いて出た。

 自分が今、何を言っているのか、ゴリィは自身でも理解出来ていなかった。

 ここに来たのは死ぬ為ではない。

 今の自分が眼前の大鴉と立ち会って生き残れる可能性など、万に一つも存在しないだろう。

 それでも動かざるを得なかった。

 あるいはそれこそが、ゴリィ=アントワネットという戦士の証明であったかもしれない。

 絶対的な強者に対する衝動が、ゴリィの体を突き動かしたのだ。

 

「名など無用」

 

 果たして大鴉は、童女のような澄み切った声でそう呟くと、ゆるゆると間合いを詰めてきた。

 先ほどの登山と同じ、まるで散歩にでも行くかのような気安さで。

 

 あまりにも自然な足取りに、闘衣(レオタード)となる暇すら無かった。

 迷いない鴉の足取りは、既に撃灼の間境を超えつつある。

 両腕を開手に構え、気持ち引き気味に腰を落とす。

 

 どうする。

 行くか。

 待つか。

 否。

 

 今――!

 

「肚」

 

 ゴリィが動こうとした、まさにその瞬間、絶妙なタイミングで声を掛けられた。

 反射的に踏み止まり、腹筋を固め両手で腹を防御する。

 ……防御、してしまった。

 

「ガッ!?」

 

 直後、神速の回し蹴りが、厳重に固めた防御を()()()()、深々と右脇腹に突き刺さった。

 ズドン、という砲弾でも叩き付けられたような重撃に、ゴリィの身体はくの字に折れ、勢いよく真横にぶっ飛んだ。

 ゴロンゴロンと大地を転がり、砂に塗れて大の字になる。

 

「ぎゃばっ」

 

 何とか身を起こそうとした途端、激痛に身が捩れ、吐き出した胃酸を思い切り顔面にぶち撒けた。

 意志に背いて肉体がのたうつ蚯蚓のように痙攣し、なけなしの魔素(ヴィスコ)が体外へと霧散する。

  

「あ……、あっ、あ」

 

 身を切るような冷たい大気に、明けの明星。

 雲一つない朝焼けの空。

 キーンという耳鳴りの彼方から、小さな死神の足音が近づいてくる。

 やがて、漆黒の凶鳥の顔面が、ぬうっ、と視界を遮った。

 もはや指先一つ動かす力も無い。

 次の瞬間、あの童女のような小さな踵が、自分の額の鉢を踏み砕くであろう。

 

「……なにが可笑しい?」

 

 覚悟した踵の一撃の代わりに、童女のような声で鴉が問うた。

 一体何の話をしているのか、ゴリィにはまるで理解出来なかった。

 だが、確かに鴉の言う通り、ゴリィの口端には奇妙な微笑が意図せず浮かんでいた。

 

「その力は、神の思し召し……、ですの?」

 

 鴉への答えの代わりに、思いもよらぬ疑問が突いて出た。

 鴉はしばし、ゴリィの顔をまじまじと覗き込んだ後「カッ」と一つ嘲るように嗤った。

 

「うぬら西方の大神とやらは、たかだが小娘ひとりに骨を折るかね?」

 

 その言葉を聞いて、今度こそゴリィはニヤリと笑った。

 もしも目の前にいる大鴉が神の御使いであったなら、さしものゴリィにも抗う術が残されていなかったであろう。

 だが、この超常の技が、人類の可能性だというのならば、運命は未だ、ゴリィを見捨ててはいなかった。

 

 

 ――ドゴン!

 

 

 凄まじい踵の一撃が、再び耳元で炸裂した。

 ゴリィは身じろぎ一つせず、ただ真っ直ぐに鴉の一挙手一投足を見つめていた。

 鴉はしばし、品定めでもするかのようにゴリィの面立ちを観察していたが、その内にフン、と軽く鼻を鳴らした。

 

「――這いずる方が望みなら、情けをくれてやる」

 

 そう言って鴉は、懐から奇妙な木面を取り出した。

 面、と言ったが、鴉の手にしたそれは、仮面であるかどうかすら定かではなかった。

 たまたま顔の大きさに近い楕円形をしており、両目に当たる部分が一の字の溝にくり抜かれているというだけだ。

 その二つの溝が無ければ、皿か木椀の類と見間違えていたかもしれない。

 磨かれた表面は木目が剥き出しになっており、鼻や口も無い()()()()()()な木面であった。

 あまりに無機質なその面立ちに、怖いもの知らずのゴリィの背にも、思わずぞわりと悪寒が走った。

 

「それは、いったい……、何をなさる、おつもりなの……?」

 

 不安げなゴリィの呟きに大鴉は何も答えなかった。 

 もはや話は済んだとばかりに、奇妙なそれをゴリィの顔面へと押し付けてくる。

 ゴリィの視界が、たちまち木目の闇へと塞がれていく。

 

「いや……、ちょ、ま……」

 

 ゴリィの足掻きは最後まで続かなかった。

 面がゴリィ顔にあてがわれた瞬間、凄まじい激痛が両のこめかみを貫いたのだ。

 

「う、うぎゃあああああぁああァァァ~~~ッッッ!!??」

 

 顔面を締め上げる圧迫感に、ゴリィは木面に丸齧りにされているかのような恐怖を覚えた。

 視界が塞がり、呼吸が出来ない。

 どくどくと、何かが自分の脳髄に注ぎ込まれていく。

 耳の奥に入り込んだ蔦のような何かが、喉を走り、指に、足先にまで絡みついていくような感覚。

 

 自分の身体が、自分以外の何者かに侵されていくかのような恐怖に、ゴリィの意識は、そこで途絶えた……。

 

 

 

 

 

 

 

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