大天狗令嬢 vs シャーマンスープレックスホールド   作:いぶりがっこ

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第五話「鴉の仮面」

 

 ――底深い、闇の中に居た。

 

 どくん、どくんと、心臓が別の生き物のように猛り狂っている。

 血が滾る。

 全身が軋みを上げる。

 熱い。

 気持ち悪い。

 目を開けても、何も見えない。

 上下の間隔が無い。

 息が、苦しい。

 喉が、カラカラに乾いている。

 頭が、痛い。

 

 ……

 …………み、ず……。

 

 川のせせらぎ。

 バラバラになりそうな体を引き摺り、這いずり転がる。

 湿った空気と、泥に混じった水の匂い。

 手を伸ばせば、ばしゃり、と身を切るような冷たい感触が皮膚に触れた。

 無我夢中で両手で掬い上げ、口元へ運ぶ。

 だが、両手は顔面の前で硬質な何かに阻まれ、折角の水が大地へ零れ落ちてしまう。

 

 口元を覆う何かを、もどかしくもべたべたと撫で回す。

 得体の知れない()()は口元どころか、今や顔全体にぴたりと貼り付いており、容易に引き剥がす事が叶わない。

 

「があっ」

 

 癇癪を起こし、顎先まで伸びたそれを掴むと、力尽くでべりべりと引き剥がす。

 すかさず頭を川中に突っ込み、わずかに開いた空隙から、必死で水を呑み込んでいく。

 凍てつくような高山の岩清水が、乾いた五体に染み渡り、灼けつく五臓の熱を奪う。

 

「ぎゃばっ!?」

 

 危うく溺れかかって顔を上げ、両肩で大きく息を吐く。

 頭が醒め、少しずつだがようやく状況が呑み込めてきた。

 今、自分の顔面にはのっぺりとした何かが貼り付いており、それによって周囲の視認が困難になっている。

 だが、視界は完全に塞がれたワケではなく、目元の部分に開いた溝のような隙間から、ようやく白み始めた周囲の光景を視認できるようになっていた。

 

「…………」

 

 そして、水面に映った姿を見て、ゴリィ=アントワネットは今度こそ絶句した。

 ゴリィの顔面を覆っていたのは、先日の立ち合いで大鴉より押し付けられた、あの無謬の木面であった。

 

「なっ、なんですのこれはァ~~~~~~!!!!」

 

 取り乱したゴリィが素っ頓狂な叫びを上げ、慌てて木面に掴みかかった。

 だが、木面はかろうじて口元の部分がわずかにズレるのみでビクともしない。

 力一杯に無理やり引き剥がそうとすると、両のこめかみが抉られるようにミリミリと軋みを上げた。

 木面は顔面の皮どころか、まるで骨格レベルで一体化しているようであった。

 

「朝も早うから騒がしい(わっぱ)じゃ」

 

 不意に後方から、くぐもった童女の声が響いて来た。

 反射的に振り返ると、見上げる大岩の上にはやはり、件の大鴉が胡坐を掻いて見下ろしていた。

 

「貴方は……!

 これはいったい何の真似ですの?

 このような面妖な代物を被せて、貴方は私に何をさせようと言うんですの?」

 

「カッ」

 

 堰を切ったように捲し立てるゴリィの台詞を、鴉は吐き捨てるように嘲笑った。

 

「神をも葬る魔性の牙を求める者が、たかが姿形が変わったくらいで狼狽えるのか?」

 

「――!

 なぜ、貴方がそれを……?」

 

「わからいでか。

 人並みの暮らしを望む者が、極真大山(ここ)に何かを求めたりするものか」

 

 鴉はそう言って首を振り、眼下のゴリィを値踏みするかのように睨み付けた。

 

「信仰も神も、ままならぬこの世の不条理に、歯を喰い縛って耐え忍ぶ為にこそある。

 人の世に生きる者は皆、大なり小なりの苦しみを抱えながら、必死に今日を生きておるものだ。

 

 まともな者なら悪魔鬼神の類は語らん。

 天命を呪い定めに唾吐き、挙句、自分なら神をも殺せると思い上がった阿呆だけがここに来る。

 まったく救いがたい奴ばらよ」

 

「…………」

 

「うぬが今もこうして生き永らえておるのは、天命でも無ければ定めでも無い。

 単なる儂の気まぐれだ。

 人としての死を望むなら、手前の始末は手前でつけろ」 

 

 ゴリィが押し黙ったのを見ると、鴉はおもむろに外套(マント)を広げ、瞬間、ばさりとゴリィの視界から消え去った。

 後にはただ、舞い落ちるひとひらの羽だけが残された。

 

 

 「魔性の牙……」

 

 手にした漆黒の羽を見つめながら、大鴉の言葉をオウム返しに呟く。

 確かに、柄にもなく愚考に囚われていたと、今さらながらに気付かされた。

 

 この仮面が何であるとか、自分の顔はどうなってしまったのだとか、そんなのは今、優先するべき疑念では無い。

 あの大鴉に問うべき事は、もっと他にあった。

 

 立ち合いの際に浴びた、最後のひと蹴り。

 厳重な防御を意にも介さずすり抜けた、あの天魔の一撃は、いかなる理合によるものだったのか……?

 周囲の散策を続けながら、朧げな記憶の糸を辿る。

 

『肚』

 

 攻撃の直前に漏れた、鴉の言葉。

 おそらくはあれが、からくりの半分であったのだろうと推測はついた。

 確かにあの打撃予告により、ゴリィは十分に守りを固める事は出来た。

 だが逆に言うならば、たかだか口先一つで、攻撃という駆け引きの半分を潰されてしまっていた事になる。

 鴉からすれば、己の安全を確保した上で、さぞ悠々と防御の穴を観察できた事だろう。

 

 心が一、体が二、技を三とみる。

 立ち合いにおいて、最初の意志のぶつかり合いで、対主を制する事が出来たなら、その後は常に風上に立って闘うにも等しい。

 幼い頃から骨身に刻むまで叩き込んで来た筈の、ギロチンドロップ一族の流儀。

 未知なる怪物との邂逅を前に、完全に呑まれてしまっていた。

 その基本さえ忘れていなければ、たとえ力及ばずとも、出来る事があった筈だ。

 油断、怯懦、己の不甲斐なさに、どうしようもなく腹が立つ。

 

 だが、それだけでは種明かしはまだ半分である。

 直後に放たれた、あの神速の回し蹴り。

 動き自体はおろか、攻撃に移るかかりの呼吸すら読み取れなかった。

 打撃を受けた部位から、自分は蹴りを受けたのだろう、と後から推測してみただけで、本当に足で叩かれたのかすら定かではない。

 

 あの技は……、いや、そもそもあれは技と呼ぶべきものなのか?

 超常の域に達した身体能力のみが持ち得る単純な暴力か?

 あるいは未だ西洋の魔導学術では解明できない(あやかし)の術の類なのか……?

 

 悶々と思索を続ける内に、ふと、ゴリィの歩みが止まった。

 今朝がたゴリィが放置されていたであろう天然の洞穴。

 その入口に先客の存在を確認したためである。

 

「あれは……」

 

 ポツリと驚きが漏れた。

 視線の先に居たのは、先日大鴉と死闘を演じた、あの大羆であった。

 大羆は洞穴の前で悠然と構え、何やら一人稽古を行っているようであった。

 

 ゆらり、と一切の力みを感じさせない動きで、羆が一歩前に出た。

 ブオン、と抉り込むように前足を天空に振りかざし、そのまま体を丸めて肩口を浴びせ、裏周りの肘、更に裏拳へと繋ぐ。

 先の闘いのダメージを感じさせない伸びやかな動き。

 まるで所作の一つ一つを確認するようなその動作は、武と言うよりは極東由来の舞踊の一部にすら思えた。

 

 ほう、と知らず溜息がこぼれる。

 荒々しい野生の姿を持ちながら、その動きは洗練された達人そのものである。

 技一つ一つの速さ自体は、先日の戦闘と比べるべくも無いが、その分かえって余計な殺気は失せ、次の動きを読む事を困難にしていた。

 油断すればあの気安さで、悠々と擊尺の間合いを越えてきそうな怖さがあった。

 

 やがて、ひとしきり演武を終えた羆が最初の位置に戻り、奇妙な動きを見せた。

 背中を丸め、だらり、と両手を垂らし脱力した姿勢。

 一見すれば羆が立ち上がっただけに見えるが、眼前に居るのは単なる野生の羆ではない。

 構えとも呼べぬ備え、さながら無形の位、とでも呼ぶべきか。

 羆の姿勢から闘士の持つべき殺気が消え、その巨体がみるみる希薄になっていく。

 

 

 ふっ、と微かに空気が動いた。

 その時には、全ての動作が終了していた。

 ゴリィが気付いた時には、羆は大きく一歩踏み込んで、右の掌打で空気の壁を叩いていた。

 

 ぞくりと背筋に悪寒が走った。

 あれだ。

 先日、あの大鴉より喰らわされた、かかりの読めない当身。

 まるで途中の時間がすっ飛ばされてしまったような感覚。

 蹴りと掌打という違いはあれど、おそらくあの当身の根底には、大鴉の技と同じ術理が流れている。

 

 大羆は見えざる敵に対し残心をとると、おもむろに体を起こしてこちらに視線を向けた。

 その仕草にゴリィは思わずはっ、と目を見張った。

 

「まさか……、見せて下さったのですか?」

 

 知らず、ぽつりと呟きがこぼれた。

 野生の羆に人語が通じる筈も無いのは百も承知である。

 それでもゴリィの本能は、この山の先人に対し敬意を払うべきだと告げていた。

 

 無論、羆の方にはゴリィのそのような心の機微は伝わらない。

 くぁ、と大きくあくびをすると、そのままゆるりと尻を向けた。

 悠然と去って行く羆の尻に、ゴリィは深々と頭を垂れた。

 

 

 ゴリィは再び一人となると、先ほど瞳に焼き付けた羆の動きを試してみる事にした。

 背を丸め、両手をだらりと下げた無形の位。

 西方の格闘術においてはあり得ない構えである。

 振り被り、溜め、解放する。

 強弓を討つ前に引き絞らねばならないように、強打を放つには全身のバネを躍動させる必要がある。

 無論、刻み突き(ジャブ)のように速さのみを追求した技術も存在するが、所詮、体重の乗らない手打ちの攻撃など必殺足り得ない。

 

(体重……)

 

 ふと、糸口が見えた気がした。

 通常の当身において、体重とは破壊力を司る一要素である。

 まず速さを生み出し、そこに体重を乗せる事で末端の威力へと変える。

 だがこの姿勢、あの羆の脱力は、己の体重そのものを速さに変えていたのではないか?

 

 今、自分は、あの羆に倣い自然体を保っている。

 だが、二足の状態で大地に立っている以上、完全なる脱力はありえない。

 無意識に、体のどこかしらの筋肉は、幾ばくか緊張した状態が保たれている。 

 その緊張の糸を、意識的に断つ。

 支力を失った人体は、まるで糸の切れた人形のように膝から崩れ、落ちる。

 

 瞬間、爪先に神経を全集中させる!

 

 落下する肉体を支えるのではなく、その力のベクトルを垂直から水平に。

 真正面に落ちるが如く加速し、そのまま拳を前に。

 

 ――タン。

 

 踏み込んだ前足が大地を叩いた時、すでに動作は完了していた。

 未知なる当身の感覚に、ほう、と吐息が漏れる。

 いまだフォームは未熟で、拳と掌打の違いこそあるが、それでも今、自分はあの羆に近しい系譜の技を繰り出したのだという実感があった。

 確かに今の一撃は、速さと重さ、二つの要素を両立している。

 何より打つ前の予備動作が通常の打撃より遥かに少ない。

 後はひたすらに反復練習を繰り返し、この脱力と緊張を習熟したならば……。

 

「…………」

 

 ……届くのだろうか?

 羆の、大鴉の繰り出した、あの一太刀へ。

 

 羆が最後に見せてくれた、あの掌打。

 あれは、予備動作を掴みにくいだとか、目視が困難なほどに早いだとか、そういう小手先の技術とは一線を画す技に思えた。

 事実、静から動に移る直前、あの羆の巨体がふっ、と中空に掻き消えてしまうかのような錯覚をゴリィは覚えた。

 己の存在を、空と一体化させる打撃。

 己の意志を、相手への殺意を、湧き上がる闘争心までも掻き消えてしまったかのように空虚な……

 

「……ふっ」

 

 そこまで思い至った所で、ふっ、と自嘲がこぼれた。

 今さらながら、自分が見た光景の中に答えがあった事に気が付いたのだ。

 大きく深呼吸をして、再び無形の位に入る。

 構え、と呼ぶべき姿ではないが、すっ、目を細め、間合いの外に敵の姿を思い描く。

 

 ギロチンドロップ家の流儀は、心が一。

 たとえ単なる鍛錬であっても、その拳には一撃必倒の精神が宿っていなければならない。

 その絶対の前提を、今は敢えて外す。

 目の前に迫る脅威、恐怖に対し、己の心を殺し、その拳から『意』を消し去る。

 

 立ち合いの際、最初の意志と意志とのぶつかり合いで、対手を制する事が出来たなら、その後の攻防は、常に風上に身を置いて立ち合うに等しい。

 ギロチンドロップの流儀は、言うなれば殺人拳の思想にも近い。

 対し、あの羆がやっていたのは、活人拳とでも呼ぶべき領域の姿であろうか。

 打ち込む拳から、敵意を、殺意を限りなく消し去る。

 予備動作どころか、その直前の気の興りすら消してしまう。

 自らの肉体を大気にまで溶けませるかのような、透明な拳――。

 

 ――トン。

 

 自分でも驚くほどの軽さでゴリィが一歩前に出た。

 放たれた拳は先ほどよりも遥かに自然に空を叩いていた。

 

 やはり、と一人頷く。

 おそらくは、敵の魂を呑み込まんとする信念の重さが、知らず自分の肉体を強張らせていた。

 戦いを制しようとする漆黒の殺意から解き放たれた事で、ゴリィの肉体は真の自由を得たのだ。

 未だ習熟は不十分ながら、この術理の延長上にあの鴉の神速があるであろう事、今度こそ身を以て理解できた。

 

 ……

 …………

 ………………

 

「……この拳が、本当に必殺に至ると?」

 

 ポツリ、と誰に聞かせるでもなく疑念がこぼれた。

 ゴリィの拳は今、確かに羆の表演に限りなく近づいてはいる。

 だが、そこに何の意志も乗っていない、早くて重いだけの拳が、果たして神を殺せるのだろうか?

 

『あなたの鍛錬には『意』が足りておりません。

 その分では、たとえ腕が千切れるまで空を切ったとて、箒は刃に化けてはくれませんわ』

 

 意の無い箒は刃足り得ない。

 かつて自身が吐いた言葉を一朝一夕に覆せるほど、ゴリィは生半な人生を送って来てはいない。 

 技術自体はおそらく正解に近付いてはいる。

 それでもまだ、あの鴉や羆と比べたならば、自分の拳には決定的な何かが欠けているのだ。

 肉体の軽さに、魂の重さを乗せられるだけの、何かが……。

 

 

 千日の稽古を以て鍛と為し、万日の稽古を以て錬と為す。

 千の試行は一の閃きに及ばないが、一の閃きの為に万の試行が必要な時もある。

 

 ゴリィ=アントワネットは生まれついての天才であった。

 一の教えから十を理解し、実戦にて更なる創意を発揮する。

 だが、だからといって努力を軽んじているワケではない。

 むしろ、一の閃きを得るために万の努力を重ねられる者こそ真の天才だと考えていたし、そのひたむきな才能を畏れながら愛していた。

 

 だから、此度の鍛錬に関しても、ゴリィはさしたる苦行とは思わなかった。

 あの平民出の少女が、居並ぶ大貴族の子弟に追いつくために過ごした三年の月日に比べれば、今一時の労苦など細やかなるものだ。

 

「ゼアッ!ハァ、ハァ……!」

 

 日の出と共に始めた鍛錬は、いつしか日没の時を迎えようとしていた。

 乱れた呼吸を整え、額の汗を拭い暮れ行く空を睨み据える。

 

 未だ、兆しとよべるほどの工夫には辿り着けていなかった。

 繰り返しの中で、技自体は少しずつ完成に近づいてはいる。

 だが、やはり先達のそれとは一線を画している。

 最後のピースが埋まらない。

 

 茜色に染まる世界に焦れついた感情を覚える。

 本来、一流の魔闘家(メイジ)ならば半日荒行に明け暮れた所で大きく疲労する事は無いが、そもそもこの深山は激しい鍛錬を行ってよい環境ではない。

 空気も魔素(ヴィスコ)も希薄なこの世界で過度に呼吸を乱したならば、たちまち風神の加護は失われ、そのまま昏倒、最悪死に至る恐れもある。

 下界で調達した糧食の残りも乏しい。

 まずは一晩、体力を温存する事に努め、明日には改めてここでの暮らしを考えていく必要があるだろう。

 

 掴みかけた光明が虚しく途絶え、目指す道がまた遠くなる。

 焦れば焦るほど泥沼に嵌る事を知りながら、胸の疼きを抑えられない。

 

(せめて、今一度……)

 

 未練を捨て切れず、心の中で言い訳をして、再び無形に備えた。

 大きく深呼吸をして、雑念を捨てる。

 術理を求める事を諦め、ただ、今日一日で最も良い一打を放てるよう祈る。

 

 ――トン。

 

 思いもよらず、体が動いた。

 打とう、という意識が働く前に、ゴリィの身体は自然に前に出ていた。

 あまりの気軽さに、打ったゴリィ自身が驚きを憶えた。

 

(今のは……?)

 

 突き出した右の拳をまんじりと見つめる。

 今の一打は、それまでの試行とは確かに何かが変わっていた。

 

 肉体の疲労が無形の要である脱力を生んだのか?

 余計な思索を捨てた事が、あの羆の見せた空の境地へと近づけたのか。

 周囲の環境、条件の変化が一連の動作に影響を与えているのか?

 あるいは、何かが変わったと感じる事自体が、疲労でバカになった頭の見ている幻なのか?

 

 一つだけ確かなのは、ここで立ち止まっていても、何一つ結論は出ないという事。

 進むか、退くか、既に落日の時は間近まで迫っていた。

 

 

 ちらちらと粉雪が降り始めたのを、ゴリィは瞳ではなく、手の甲に触れる冷たい感覚で確認した。

 突き出した拳の先は闇の中で、今や見通す事すら叶わない。

 視界から平衡感覚が失われているように感じるのは、単にこの深い宵闇だけが原因か? 

 先刻まで脂汗を流していた体は、すっかり凍え始めている。

 

 愚かな選択をしている、とは思う。

 先日、初めから勝ち目の無い相手と認識していた大鴉と、迂闊にも拳を交えた時もそうだった。

 自分はここに死にに来たワケでは無い。

 

 千日の稽古を以て鍛と為し、万日の稽古を以て錬と為す。

 人は、一朝一夕には強くなれない。

 目指す敵の強大さを知るからこそ、自棄を起こさず、一歩一歩、着実な道を歩まねばならない。

 

 それでも肉体は止まろうとはしなかった。

 何度も、何度も、同じように闇に向かい拳を突き続ける。

 先日の立ち合いにおいても、鴉の慈悲に縋る形とはいえ、結果的にゴリィは生き延び、そして新たな切欠を得た。

 

 今、自分の拳の中に、途切れかけた道を繋げるかもしれない兆が宿っている。 

 それは、手ごたえというより違和感に近いもので、一日寝て起きた後には消えてしまっているかもしれない、淡い淡い感覚だった。

 

 一期一会、という言葉がある。

 昨日、鴉と立ち合い、今日、羆の演武を見た事で、自分の肉体に新たな知見が宿った。

 そして、この言葉は何も、人と人の出会いに限られるものではない。

 

 今日、今、この瞬間にしか出来ない鍛錬というのは間違いなくある。

 この瞬間の発見、この瞬間の感動の前で、明日の行方を問うなどまったくの無意味だ。

 

 かつて馬小屋で箒を振り回していた赤毛の少女は、自分との出会いを糧へと変え、超人への道を一息に駆け上がっていった。

 ただ懸命に、明日を顧みず、一瞬の感動の世界に身を置き続ける驚異的集中力。

 あれが、あの力が神の奇跡などであろう筈が無い。

 努力を努力とも思わない、怖ろしいほどにひたむきな鍛錬の成果。

 

 こんな人里離れた山奥まで来て、ようやく自分にも、彼女が見ていた世界の欠片が見えた気がする。

 明日の為の鍛錬など不純物だ。

 今、踏み込んだ脚に半生が宿り、打ち込む拳が新たな世界を作り出す。

 同じ当身など何一つない。

 

 自分には、生まれついての才能があった。

 一を聞いて十を学び、十の学びから一の創意を生み出せる才。

 明晰な頭脳が導き出した仮説は、実践の中で何一つ違わず形に出来た。

 だから見えななかったのだろうか?

 

 自分の動きにどのような変化が生じているのか、ゴリィは未だ理解できてはいない。

 だが、肉体は気付き始めている。

 この拳を打ち込むのに、最善の形、最も自然な理を。

 先ほどより、より良い一撃を目指す心が最初に有り、肉体が意志に追従する。

 技として、術理として理解するのは最後で良い。

 

 あの日、きっと彼女も、両手の間に生じた炎の中に、このときめきを感じていた。

 自らの明日も、その命さえも省みぬほどに。

 

 ――随分と、余計な事を考えている。

 

 物を考えるのはもう最後の最後でいい。

 種明かしなど、目の前で生まれ始めた事実の前ではどうでもよい。

 無念無想。

 ただ、次に自分の放つこの拳は、今日で一番、良いものにする。

 次の次の一撃は、それより更に良いものに。

 志の純粋さで、後に続く肉体を、技量を引き上げる。

 

 凍て付く肉体。

 揺らぐ視界。

 荒い吐息。

 震える指先。

 

 意識の弦も危うい境界線上に、この拳の秘密がある。

 今、追わなければ、この肌触りは、おそらく永遠に消えてしまう。

 だから、今は何も考えずともよい。

 ただの拳となればいい。

 

 一打、一打。

 一所懸命、一生懸命。

 

 ……

 ………

 …………ただ一つ、惜しまれる事があるならば。

 

 この進化を、成長を、感動を。

 残す術が、伝える相手が……、居ない、こと。

 

 ……ああ、

 また、よけいなことを、考えいる。

 

 こぶしは、あすを思わない

 ゆめも、みらいも

 

 いきるか……し…………

 

 …………

 ………

 ……

 …

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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