大天狗令嬢 vs シャーマンスープレックスホールド   作:いぶりがっこ

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第六話「パンが無いなら生き胆を喰らえ!」

 暖かな闇に、包まれていた。

 

 百合のような甘い香気。

 暖炉の奥で、微かに薪の崩れる音。

 とくん、とくんと、穏やかな心臓の鼓動が肌を伝う。

 静かで、落ち着いていて、全てが完全で調和の取れた世界――

 

 どれほどの時が、流れたのだろうか。

 やがて部屋の外から慌ただしい足音が響き渡り、完全だった世界が崩れ始めた。

 

「ああ! 旦那さま。

 今、お産まれになられました!」

 

 そう叫ぶメイド長の声は、記憶にあるより遥かに若く、危うっかしい。

 

「リッキー!」

 

 太く大きい父の声が、喧騒と共に室内に乱入する。

 

「シー!」

 

 女児のように幼い兄様の声が、父の迂闊さを嗜める。

 

「静まりなさいな、ドーリー。

 この娘は父親である貴方より、ずっと胆が座っていますよ」

 

 今よりも遥かにしゃんとした、おばあ様の声が室内に響く。

 せわしない人々の声に押されるように、忌々しくも顔をこする。

 

 観念して薄目をこらすと、そこには穏やかな微笑を湛えた、淡い花弁の唇があった……

 

 

「お母さま……」

 

 瞳を開けたゴリィが見たのは、一寸先も見通せぬような深い闇であった。

 

 状況を理解出来ぬまま、ぼんやりと頭上の闇を見つめる。

 遠くから響く突風の音が、ごうごうと天井に反響していた。

 それでどうやら、自分は今、朝居た洞窟の中に寝かされているのだと分かった。

 そして先刻降り出した雪は、どうやら再び本格的な吹雪となったらしい。 

 

 荒れ狂う雪風の咆哮は、ゴリィの身体を脅かすまでには至らない。

 大きく、暖かな何かが、ゴリィの背中を外の世界から遮っている。

 百合の香気の代わりに、むわっとした獣臭がゴリィの周囲を包んでいた。

 首を動かせば、ごわごわとした毛並みが頬をくすぐる。

 

「…………」

 

 羆であった。

 ゴリィが抱かれていたのは、亡き母親の胸ではなく、巌の如き羆の巨体であった。

 

「……どうして」

 

 自然と、口から疑念がこぼれた。

 

「どうして貴方は、私に優しくしてくださるの?」

 

 羆は何も答えなかった。

 ただ闇の向こうから、濡れた瞳でゴリィを見下ろしていた。

 

(なんという眼をなさるの……)

 

 ちくり、と微かに胸が痛んだ。

 峻厳なる山麓に棲まう怪物の瞳に、何か言いしれぬ哀しみが宿っているのをゴリィは見た。

 

 ふっ、と突拍子もない考えが浮かんだ。

 目の前にいる大羆は、その巨体からは想像もつかぬ、人知を超えた拳技を使う。

 そして先日の立ち合いから見た限り、それはおそらく、あの大鴉から仕込まれた技術なのだろうと、ゴリィは何ら疑う事無くそう推測していた。

 

 だが、真実は、()()()()()()()()()()

 

 この羆は地上の拳技を極め、そして、人間の技に限界を感じ、()()()()()()()()()()()()()()

 

『天命を呪い定めに唾吐き、挙句、自分なら神をも殺せると思い上がった阿呆だけがここに来る。

 まったく救いがたい奴ばらよ』

 

 先日の大鴉の言葉が脳裏をよぎる。

 極真大山の頂を目指すのは、人の世の摂理、秩序に従えぬ、救いがたい()()()()()ばかり。

 文字通り、この羆はこの山で、『()()()()()』と成り果てたのではないのか?

 

(馬鹿な……!)

 

 無謬の木面の下で、ゴリィの表情が悲痛に歪んだ。

 今、脳裏に浮かんだものは、なんら裏付けの無いゴリィの妄想である。

 だが、この獰猛なる羆がゴリィに寄せる憐憫の正体は、もはやそうとしか解釈できなかった。

 

 この羆が、もしも人の姿で在ったならば、彼女は地上の拳聖だ。

 富も、名誉も、栄光も、人の世の全てが彼女の掌の上にある。

 

 それを、捨てたというのか?

 何もかもを捨て畜生道に堕ち、なお求めずにはいられぬほどの願いがあったというのか?

 これほど多くを捨て去りながら、なおも届かぬ道だと言うのか?

 

「うっ」

 

 じわり、と目頭が滲んだ。

 目の前の羆は黙して何も語らない。

 だが、ゴリィを見下ろす瞳の色は、その裏にあるものを想起させるに十分だった。

 

「おおぉ……、うお゛ぉお゛おあお゛お゛お゛お゛おぉ~~~~ん゛」

 

 堪え切れず。堰を切ったようにゴリィが哭いた。

 物心付く前に母親を失って以来、一度も涙を流した事の無い女が。

 我が身に押しかかった災厄であれば、如何様にでも笑い飛ばせるタフな女が。

 

 自分とよく似た境遇の、羆のぬくもりに耐えられなかった。

 

 泣き慣れぬ女の哀しみは、無謬の木面の下で滑稽に篭り、まさしく人なき世界の獣の咆哮のようであった。

 

 

 赤子のようなけだものをあやし終えると、羆はのそりと入口の方に向けて歩き出した。

 ほどなく、ずるずると巨大な何かを引き摺りながら戻ってきた。

 むわっ、と先刻以上に濃い獣臭が、たちまちゴリィの鼻を衝く。

 

「これは……」

 

 先ほどまでの悲しみも忘れ、ゴリィは思わずぞくりと背筋を震わせた。

 目の前にどさりと置かれたのは、立派な体躯をした狒々(ひひ)の躯であった。

 

 あらぬ方向に捻じれた狒々の首元には、太い牙の嚙み痕が残り、未だ固まらぬ血糊と生々しい巨体の存在感が、この大狒々が、つい先刻まで生きていた事を証明する。

 もしも目の前の羆が居てくれなければ、今頃はゴリィの方が骸と化し、この狒々の腹の中に納まっていた事だろう。

 

 羆はゴリィの怯えを気にも留めず、その猛き爪と牙で、狒々の腹を引き裂き始めた。

 赤黒い血がぶしゅうと吹き出し、周囲に死臭が立ち込める。

 やがて羆は動きを止めると、紅く濡れた口元を隠しもせず、ゴリィの方に振り返った。

 

「……食べろ、と仰るの?」

 

 真っ直ぐにこちらを見詰める羆の瞳に、躊躇いがちに問いかける。

 人間の体は、碌に血抜きも施されていない生肉を喰えるようには出来ていない。

 相手が人にも近しい二足の獣ともなれば、本能的に嫌悪感を憶えるのも当然である。

 ましてゴリィは、目の前の羆が人間のなれの果てではないかと想像してしまっている。

 目の前に置かれた躯もまた、そうした()()()()()の仲間ではないかと厭でも想像してしまう。

 

 羆は何も言わない。

 ただ澄んだ瞳でゴリィの一挙手一投足を見ていた。

 

 これを喰って俺のようになれ、そう言われている気がした。

 俺のようにはなるな、と言われているような気もした。

 

 しばし逡巡した後、ゴリィは羆の方に改めて向き直り、膝を屈して三つ指を突いた。

 

「お志、痛み入ります、羆のお姉さま」

 

 そう言って、恭しく頭を下げた。

 かつて何かの教本で見た、ゴリィの知る東方の儀礼である。

 これが目の前の羆に通じるかは分からないが、この極真大山の先人に対し、自分なりの敬意を払うべきだと思った。

 

 向きを変え、腹を裂かれた狒々と改めて向かい合う。 

 ベリベリと仮面を半ばまで剝がし、未だ生温かさの残る臓腑の隙間にずぶりと両手を突っ込み、両腕に抱えるほどの強大な肝を力任せに引っ張り出した。

 ぶわっ、と眩暈を憶えるほどの獣臭を堪え、意を決し、大口を開けてピンクの肝に齧り付く。

 ぶしゅう、と肉汁が噴き出し、たちまちこみ上げる嘔吐をこらえ、嚙み切れぬ臓腑を無理矢理嚙み裂き、ごりごりと力一杯咀嚼する。

 赤黒い心臓に犬歯を突き立て、鉄の味に塗れた血液を啜り、肉塊を胃の腑に流し込む。

 

 古来、東方において、狒々の肝は滋養に優れ、万病に効く丸薬として重宝されてきた。

 だが今、地べたに這い蹲って死肉を漁る獣にとってはどうでもよい話である。

 死にかけた乙女は地上の作法も礼法も忘れ、ただ生存本能の赴くまま、まさしく一匹の獣のように狒々の血肉を貪り続けていた。 

 

 

 かくして、ゴリィは一夜の死線を生き延びた。

 喰らった血肉に残る魔素(ヴィスコ)で空になった丹田を満たし、死にかけた肉体は奇跡のように回復を果たした。

 そして、一つの死線を乗り越えた事で、ゴリィの肉体には新たな気付きが芽生え始めていた……。

 

 ――翌日。

 

 昨夜の雪跡の残る洞窟の前で、ゴリィは再び、件の無形を試していた。

 だらりと脱力した軽やかな肉体。

 脱力が生みだす望外の一撃、という基本思想に間違いはなかったと改めて思う。

 ただ、あの大羆や鴉の当身に比した時、どうやら一つ、大事な要素が抜けていたらしい。

 

 瞳を閉じ、深呼吸して、大気に混じった希薄な魔素を精一杯取り込む。

 この魔素の存在を感知できるかどうか、意識的に体内に蓄える事が出来るかどうかが、西方において貴族と平民を分かつ分水嶺となっている。

 

 体内に蓄えた膨大な魔素を、精密な身体操作によって体の末端(一般的には掌)に伝播し、詠唱を以て多様な特性を付与して体外に放出する。

 これが西方における一般的な魔術の概念である。 

 魔素(ヴィスコ)とはつまり、体内を通す事で利用できる魔術用の触媒と言い換えても良いだろう。

 対し、東方の拳士たちはどうやら、更に一歩踏み込んだ視点から魔素の存在を捉えているようであった。

 

 魔素(ヴィスコ)はあるいは、命の大元のような存在なのではないか?

 

 昨日、ゴリィは体内の奥底に宿る魔素を空になるまで使い果たし、そして倒れた。

 体内の魔素が尽き、風神の加護を得られなくなったから、一種の高山病に蝕まれたのだと、ゴリィは当初そう考えていた。

 だが、仮に魔素が、生物の生命活動に直結する物質であったとしたらどうだろうか?

 

 振り返れば、あの羆も大鴉も、立ち合いの際に魔術を一切使用していなかった。

 勿論それは、彼らが西方の魔術理論に疎いから、という事情もあったかもしれない。

 だがあるいは、彼らは攻防の過程において、体内の魔素を消耗する事そのものを忌避していたのではないか?

 

 東方の拳法家たちは魔術を使わない。

 ただそれは、体内の魔素を闘いに用いないという意味ではない。

 彼らの拳技はむしろ、生命の理に寄り添う技術のようにすら思われた。

 

 呼吸を整え、意識を体内に集中する。

 丹田に満ちた魔素(ヴィスコ)が緩やかに骨格を上り、肩、肘、手首へと伝播する。

 魔素を失い、一度は死にかけた体であるからこそ、今は体内を巡る魔素の流れが手に取るように感じられる。

 ここに詠唱を加えれば、掌から放出された魔素は、炎にでも雷にでも立ちどころに姿を変えるであろう。

 

 だが、東方の拳士たちはおそらく、この魔素(ヴィスコ)の循環そのものを威力に変えていたのではないだろうか?

 

 だらりと状態を弛緩させた無形の位。

 脱力により、己の肉体への意識を改める。

 大地に据わる柱ではなく、宙に吊るされた、液体で満ちた革袋のようなものと捉え直す。

 

 革袋は一見静止しているが、その実、袋の内部には見えざる生命の奔流が生じている。

 丹田から末端へ向かい、再び体の中枢へと還って来る魔素の循環である。

 この循環を、当身へ用いる。

 

 腰骨から足元に向かう魔素に合わせて脱力を効かせ、上体をどろりと大地に沈める。

 同時に背骨から肩口、右拳へと向かう激流に己を委ね、全身を前へ前へと押し出していく。

 

 

 ――パン!

 

 

 中空で乾いた音が一つ爆ぜた。

 ビリビリと拳先を伝う手ごたえに、撃ったゴリィ自身が思わず目を見張った。

 その衝撃は、大岩や巨木を叩いて得たものではない。

 流体の疾さを得た拳が、今、見えざる空気の壁を叩いたのだ。

 

「これが……」

 

 痺れの残る拳を見つめ、ごくり、と一つ息を呑む。

 眼前に居る『敵』の存在を前提として、その意を殺す拳ではなく、己自身の肉体と向き合い、その内に宿る森羅万象の理に寄り添う拳。

 先日、ゴリィ自身が活人拳と感じたものの正体が、今、目の前の拳に宿っていた。

 

「東洋の魔拳が、これほどまで西方の拳技に先んじていようとは……」

 

 いや。

 思わずこぼれた呟きを胸中で否定する。

 西方の魔術も東方の神秘も、根柢の部分ではその真理を同じくしていた。

 偉大なる先人たちの研鑽の日々無くしては、ゴリィは今日、この拳に到達できなかっただろう。

 

「……!」

 

 不意にぞくりと背筋に悪寒が走った。

 ゆるりと後背を振り返れば、そこにはやはり件の鴉が、既に撃灼の間合いの半歩外にまで迫っていた。

 

「肚」

 

 言いながら、鴉がついと間合いを詰めた。

 だがゴリィはこの時、鴉の言葉の意味を追いかけていなかった。

 ゴリィの瞳はただ、鴉の爪先から自分の顎先目掛け、真っ直ぐに伸びてくる魔素(ヴィスコ)の軌跡を追っていた。

 

 直後、鴉の足が跳ね上がり、神速の前蹴りがゴリィの顔面に炸裂した!

 咄嗟に回した両腕の防御もろとも、ゴリィの体は思い切り後方に跳ね飛ばされた。

 激流の右脚に逆らわず、敢えて全身を委ねる事によって、ゴリィは辛うじて致命傷を回避した。

 

(まだ……、闘える!)

 

 ゴリィの確信が闘志に変わる。

 何も出来なかった先日の敗戦と変わり、今は鴉の体内に宿る魔素の流れを追う事により、ギリギリで次の行動を予測できている。

 雪に塗れて大地を転がり、片膝を突いて体勢を立て直す。

 

 だが、予想された追撃は来なかった。

 だらりと弛緩した鴉の五体からは、先ほど見せた闘気が幻であったかのように霧散していた。

 

「鼻」

 

 先ほどと同じように、ぽつりと鴉が呟いた。

 その言葉に誘われるように、そっと面に手を当て、今度こそはっ、と目を丸くした。

 

 先日までは、確かに何の表情も持たずのっぺりとしていた無謬の木面。

 だが今、その木面の中央は、突然鼻でも生えたかのようにうず高く盛り上がっているではないか。

 

「その鼻が、今の貴様だ」

 

 わずかにくぐもった童女の声で、嘲るように鴉が言った。

 

「神とは即ち、森羅万象の理。

 力無き人の子が、海を走り雲を掴む事など叶わぬように。

 世界の摂理に立ち向かえる人間など、地上の何処にも居らん」

 

 突き放すように、鴉が云う。

 だが、彼女の本心が口先と違う所にある事は、右腕に残る蹴り脚の熱さからも明白だった。

 

「我が動けば千里を駆け抜け、拳を放てば天をも貫く――。

 そんな戯言を本気で疑わぬ身の程知らずのみが、唯一、神と立ち合う資格を持つ」

 

「…………」

 

「その鼻を、どこまでも伸ばし続けろ、小娘。

 貴様の傲慢が神の逆鱗に届くまで、な」

 

 そう言うと、鴉はゴリィに背を向けた。

 鴉の裸足が大地を踏む度、ドジュゥ、と音を立てて残雪が蕩ける。

 

 揺蕩う蒸気に燻る背中を見送りながら、ゴリィは初めて、鴉の覆面の下に隠された少女の一端に触れた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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