大天狗令嬢 vs シャーマンスープレックスホールド   作:いぶりがっこ

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第八話「大車輪令嬢」

 

 油断。

 はっきりとそう呼べるほどの弛みがあったわけではない。

 だが、この後に起こった事を鑑みれば、そもそも自分たちが戦う相手が小鬼(ゴブリン)であるという前提で動いていたこと自体が、致命的な過ちであったと言われても仕方がないだろう。

 

 最初に違和感を感じたのは、巣穴に潜り半時ほどたってからの事だった。

 外見上は山肌を掘り抜いて作られた、よくある小鬼の巣穴の類にしか見えない粗末な洞穴であった。

 それが奥に進むほどに、徐々に坑道が広くなり、ついには人の手が加ったとしか思えない、区画化された遺構の跡へと辿り着いたのだ。

 

 当地の小鬼(ゴブリン)たちの広げた巣穴が、偶然にも地下に埋もれた手つかずの遺跡に繋がったもの……。

 目の前に広がる遺構の年代を推し図りながら、乙女たちは当初、そう結論付けた。

 未知なる遺跡の発見、それ自体が稀有な事態ではある事に違いないが、周囲の状況から判断すれば、それが最も自然な解釈ではあった。

 だがそれにしても、ここに件の小鬼たちが棲んでいるにしては、目の前に広がる遺跡には、あまりにも生活の匂いが希薄に思えた。

 

 この時点で、二人には一旦探索を切り上げ、地上に報告に戻るという選択肢もあった。

 だが、巣穴の奥に未曽有の魔物が潜んでいたというならいざ知らず、二人は未だ、危険な気配に何ら遭遇すらしていない。

 斥候としての務めすら果たせていないこの状況で引き返したとて、謎は増えるばかりである。

 しばし相談した後、乙女たちは遺跡の探索を続行する事にした。

 この遺跡の奥に、小鬼たちは居るのか、居るならば、どの程度の戦力を有しているのか。

 引き揚げるにしても、せめてまともな判断を下せるだけの情報を持ち帰るべきと考えたのだ。

 

 何かあったら、即座に地上に撤退できるように行動する。

 そう細心の注意を払い、二人は再び、迷宮の奥へと歩を進め始めた……。

 

 

 

「チッ」

 

 先刻までの己の甘さを、ゴリィ=アントワネットは舌打ちと共に吐き捨てた。

 細心の注意を払うと言いながら、そもそもの『最悪』の見通しが甘かった。

 所詮、相手は小鬼(ゴブリン)、という驕りがやはり、心の何処かにあったのだ。

 

『敵』は初めから自分たちの存在を捉えていた。

 迷宮の奥で息を殺し、自分とカルラを分断できるチャンスを油断なく探っていた。

 不慣れな迷宮と、幾重もの(トラップ)により、あっさりと二人は分かたれてしまった。

 今頃はカルラの前にもまた、勢い溢れる小鬼の群れが殺到している事であろう。

 

 そして、自分の眼前に現れたのは――

 

「シッ」

 

 短く詠唱を完成させ、疾風の如き速さで踏み込む。

 たちまち引き絞られた矢の如き(ジャブ)が、対手の顔面を鋭く捉える。

 

 紫電迅雷拳(フリッカージャブ)

 魔術によって拳に生じた雷撃を、敢えて己の腕に走らせ、電気刺激に伴う筋肉の反射によって拳を撃ち出す、近代電光魔術の生んだ最速の一太刀である。

 予測不可能な打撃から伝う雷光の一撃は、時にそれだけで屈強な魔物たちの意識を刈り取るほどの威力を有していた。

 

 だが……。

 

「むっ」

 

 パン、と打撃が鼻っ面を捉えた瞬間、ゴリィは手応えの違和感に気が付いた。

 本来、打ち込んだ拳を伝い獲物を昏倒させるハズの雷撃が、虚しく元の魔素(ヴィスコ)へと還り、対手の胸元に鈍く輝く漆黒の宝玉へと吸い込まれていくではないか。

 

魔封石(カベルナリア)……!)

 

 ようやく見えた敵の不死身の正体に、ゴリィは思わず瞠目した。

 魔封石(カベルナリア)は魔術に干渉する事で知られる黒曜石の一種で、魔術を魔素へと分解しては玉内に吸収する性質を持つ。

 魔術を嗜む魔闘家(メイジ)にとっては、己の牙を封じられてしまう、天敵とも言うべき危険な石ではあるが、その特性が常の戦場で力を発揮する事はほとんど無い。

 石の存在自体が希少で魔導具(マジックアテム)への加工が難しいという事情もあるが、何より、身に帯びた本人が真っ先に魔術を封じられるというその性質は、魔闘家(メイジ)同士の決闘が花形であるビッグフォール皇国の戦場においては、ただの自殺行為にしかなり得ないのだ。

 仮に魔力なき平民が万難を排し、魔石をどこかで入手出来たとしても、そんな魔導具の存在一つで、常日頃から過酷な鍛錬を課す皇国貴族たちを相手に、肉弾戦で対抗出来ようハズが無い。

 

 もし魔封石を使いこなす者があるとすれば、それはこのビッグフォール皇国に仇なす牙。

 魔闘家(メイジ)に拮抗しうる強靭な肉体と、古の魔導具に通じる深い造詣を併せ持ち、本気でこの国の秩序を滅ぼさんとする者――

 

「ギャラォ!」

 

 驚く間もなく、独特の奇声を上げ、強靭なる知恵者の腕が絡み付いてきた。

 長く、太く、のたうつ双の大蛇のような荒々しい腕。

 魔術を十全に活かせぬ今のゴリィには、抗いようの無い凄まじい膂力であった。

 

「だっしゃあッッ!」

 

 だが、ゴリィは敢えて力の流れに抗わなかった。

 こちらを引き摺り込まんとする膂力に合わせ、かえって一歩前へと踏み込み、先ほど(ジャブ)を浴びせた鷲鼻目掛け、渾身の右肘を叩き込む。

 魔力の代わりに全体重を乗せた渾身の肘鉄(エルボー・スマッシュ)に、さしもの怪物も大きくのけぞり、引き寄せる諸手の握力が緩んだ。

 

「ハァッ、ハァ……!」

 

 かろうじて虎口を逃れ大きく息を吐く。

 強い。

 たとえ魔術が使えぬとて、並の小鬼(ゴブリン)ならば頭部が胸元にめり込むほどの衝撃があったハズだ。

 それを敵の太い頸に、完全に支え切られてしまった。

 油断なく両手を開手に構え直し、ゴキゴキと首を鳴らす眼前の化物を改めて睨み据える。

 

 デカい。

 女性では長身に当たるゴリィを、更に頭一つは上回るほどの背丈(タッパ)

 一見痩身(ソップ)に見えながら、その実、格闘技(グラップリング)に必要な筋肉を全身に備えた鋼の肉体。

 薄暗闇の中、篝火に照らされてらてらと輝く緑色の肌のみが、かろうじて小鬼(ゴブリン)と呼ばれる種族の名残を残す。

 

 一体、どういった怪物なのか?

 確かに貧弱な小鬼たちの中にも、種族の平均から外れた体躯を有する、異常種といったものは少なからず存在する。

 だが、目の前に現れたこの偉丈夫は、欲望に任せるままに肥大化した関取(ホブ)とも、筋肉を膨らませる事にしか興味のない脳筋(チャンピオン)とも、明らかに異なる存在である。

 格闘技という概念を研究し、切磋琢磨を続ける者だけが到達しうる理想的体躯(ハイブリッド・ボディ)

 下卑で野蛮、怠惰で粗忽な小鬼たちの中に、このような規格外の肉体が存在し得るというのか?

 

 

『――あるいはそれは、伝承に残る天地争覇(ロード)という存在なのかもしれないな』

 

 不意にゴリィ脳裏に、いつかの筋肉トレーニングの折、知的な兄・テリーと交わした会話が浮かんできた。

 

『――巣穴を潰され、浮浪種(はぐれ)となった小鬼(ゴブリン)が、

 死線の中で人類を知り、やがて、人の戦いを学び始める』

 

『――もし、そういった存在と、万が一にも遭遇した時は……。

 その時はゴリィ、君は全てをかなぐり捨てて逃げるんだ。

 戦ってみようなどと思わず、ただ生き延びる事だけを考えるんだ』

 

『――そうだ、貴族の尊厳(プライド)もへったくれもない。

 事は人類という種の存亡にまで関わる問題だ』

 

『――食料を盗む小鬼など、恐れるに値しない。

 多少知恵が回った所で、ずる賢いだけの禽獣と大差ない。

 財物を盗むだけの小鬼も同様。

 そんなのは所詮、珍しい物を持ち帰る癖のある鳥頭のようなものさ』

 

『――真に恐れるべきは、()()を盗もうとする小鬼だ。

 奴らは人類との戦いの中で、喧嘩の仕方を盗み、武器を、罠を、武術を盗み、

 いずれは魔術や戦術、兵法や戦略までをも盗み始めるやもしれない』

 

『――小鬼は短命にして繁殖力旺盛、人類よりも環境への適応力に優れ、世代交代が早い。

 もしも彼奴等が技術を残す術を憶え、組織を、工学を、政治や経済までも盗み始めたなら、

 その時、人類が数千年かけて築き上げた今日の文明は、瞬く間に凌駕される事になりかねない』

 

『――仮にそういった異常種が本当に存在するならば、事は人類全体の問題だよ。

 絶対に、自分一人で戦おうとするな。

 敵は君との戦いの中でも盗み続け、君の命を通し、魔闘家(メイジ)の殺し方を盗む事だろう。

 そういった手合いと相対するのは、個人ではなく国家の務めだ。

 分かるねゴリィ、奴らには何一つ与えるな』

 

 

 ――全てをかなぐり捨てて、逃げる。

 

 

 あの知的な兄の言葉は、何時だって正しい。

 こうして拳を合わせてみれば、嫌でも分かる。

 目の前に現れた小鬼(ゴブリン)の英傑は、こうしている今も、刻一刻と成長し続けている。

 このまま真剣勝負(セメント)を続けたならば、怪物はやがて、ゴリィとの死闘を通し、対魔闘家(メイジ)の戦術を修め、人類の存続を揺るがす極めて危険な指導者として立ちはだかるであろう。

 

 それでも、ゴリィがその時、骸であったならばまだマシかもしれない。

 あるいは敗れ、囚われ、次代の小鬼(ゴブリン)の尖兵を生み出す苗床と成り果てる。

 それほどの地獄までをも覚悟出来なければ、絶対に立ち会ってはいけない手合いであった。

 

 どのような形であれ、この場を生き延び、皇国の人々にこの凶報を伝える。

 それだけが、ゴリィが今、考えねばならぬ事である。

 その為に、全てをかなぐり捨てる。

 

 地位も。

 名誉も。

 誇り(プライド)も。

 理想も。

 信念も。

 カルラも。

 

 

(…………)

 

 

 それだけは、出来ない。

 

 

 すう、と呼吸を整え、左足を半歩退いて半身を作る。

 これ以上は、一歩たりとも下がらぬと覚悟を決めた。

 

 ……愚かな事をしている、という自覚はある。

 

 ビッグフォール皇国を支える貴族とは、力無き人々を護る盾たるべし。

 ギロチンドロップの家に生を受けて以来、半生を賭けて培ってきた貴族としてのアイディンティティを、個人的な友誼のために打ち捨てようとしている。

 しかも、分の悪い賭けに張ったのは、己一人の命ではない。

 今の自分が、あるいは人類全体の命運を変えるやもしれぬ岐路に立っていると知りながら、なおもこのような事をしている。

 わずか半年ばかりの間に、自分の中でカルラ=クラウザーという少女の存在が、それほどまでに大きくなっていた事にようやく気付かされた。

 

 春の日に、早朝の馬小屋で一人、黙々と箒を振るい続けていた少女。

 置かれた境遇に、一切の不平も不満も言わず。

 己に課した過酷な試練を過酷とすら思わず。

 自らの運命も、己自身の異形にも気付かず。

 ただ、世間の片隅で、息をするようにひたすら鍛錬を重ねる少女。

 あの愚直さを、いじらしさを、異常さを。

 どれほど好ましく、歯痒く、恐ろしく、愛おしく思っていた事か、ようやく心で理解出来た。

 

 小鬼の王はしばし、不退転の決意を固めた乙女を遠巻きに観察していたが、その内に長い舌をベロリと伸ばし、自らの鼻血を拭った。

 ゴリィは一瞬、目を丸くしたが、すぐにこちらもつられるようにニヤリと笑った。

 

 余裕を見せたわけでも無ければ、相手を侮っているわけでもない。

 種を代表する戦士が二人、決死の覚悟で立ち会ったなら、いずれかが斃れるは必定である。

 大袈裟な話ではあるが、今、両雄は身勝手な己達の一存で、種族の命運をありったけのチップに替えた。

 種の運命を勝手に背負い、半生を賭けて積み上げた武術の粋を尽くす。

 そういう状況で笑える者を、狂人といい、外道といい、時に英雄という。

 

 すっ、と小鬼が目を細め、ゆっくりと身を屈めながらじりじりと間合いを詰め始めた。

 いかな小鬼の異形と言えど、魔闘礼法の達人相手に真っ向打ち合いは分が悪い。

 耐久力(タフネス)に任せて一息に距離を詰め、組打ちに持ち込む腹積もりであろう。

 

 無論、ゴリィとて関節技(サブミッション)の攻防には一家言あるものの、規格外の膂力を持った怪物の手の届く範囲に身を置いてしまっては勝ち目が無い。

 息を殺し、ぴんと背を張り、向かい来る強敵との撃杓の瞬間を待つ。

 交差する視線がチリチリと熱を持ち、ひりついた空気が背筋を灼く。

 

 

 ――ドワォ!!

 

 

「!?」

 

 接敵の瞬間、不意に彼方より爆音が轟いた。

 大地が揺れ、パラパラと土埃が降り注ぎ、一拍遅れの突風が洞内を吹き抜ける。

 刹那、ゴリィは咄嗟にカルラを案じ、反射的に視線を彷徨わせた。  

 金城鉄壁の魔闘家(メイジ)が心を乱した隙を、小鬼の英雄は見逃さなかった。

 

「シギャアアァァ――ッッ!!」

 

 独特の金切り声を上げ、小鬼が強弓の如く踏み込んだ。

 地面スレスレから突っ込んでいく、一切の迷いがない野獣の如き猛突進(スピアー)

 

「チィヤ!」

 

 すぐにゴリィも我に返り、迫り来る猛獣目掛け渾身の膝を放った。

 三度目の打撃の凄まじさに、怪物の顔面が潰れ、さしもの鷲鼻もぐしょりと哭いた。

 だが、一泊遅れた分だけ体勢が崩れ、会心の一撃には至らなかった。

 ゴリィの左膝を顔面に突き立てたまま、小鬼は残った乙女の軸足を刈り取り、勢いのまま大地に叩き付けた。

 

「…………ッ」

 

 山頂布陣(マウント・ポジション)

 大地を背負ったゴリィの顔面に、鉄臭い鼻血の熱がボタボタと降り注ぐ。  

 

 街角の子供の喧嘩から国家間の一大会戦に至るまで、高所を獲った者の圧倒的優位は覆らない。

 それは高度に洗練された爆肉魔闘礼法(グリコローゲン・スタイル)の攻防においても絶対である。

 敵の馬乗りを許す事により、下になった者は丹田を直に圧迫される事になる。

 丹田に蓄えられた魔素(ヴィスコ)は出口を失い、結果、精妙な魔術制御が困難となってしまう。

 仮に魔封石(カベルナリア)が無かったとしても、この戦形を許してしまっては詰みである。

 

「ギヘァ!」

 

 長い右腕を自慢げに天空に掲げ、ゴリィの顔面目掛けて容赦なく打ち下ろす。

 咄嗟に両腕を固め、鉄槌の一撃を受け止める。

 衝撃で後頭部が大地を叩き、両腕がビリビリと悲鳴を上げる。

 間を置かず、第二打、第三打。

 左、右と、小気味よく撃ち込まれる緑の拳を、歯を食い縛ってかろうじて凌ぐ。

 

『麓』の受け手にとって残酷な事に、この状態からでは山頂の敵陣に対し、逆襲する術が一切存在しない。

 高みに布陣した陣営だけが、一方的に強弓を打ち込める。

 無論、拳は矢ではないゆえ、掴み取り、打撃を喰い止めるチャンスもあるかもしれない。

 だが、体捌きも足捌きも封じられたこの状況では、そこから関節技に持ち込む事も不可能である。

 どころか、今のゴリィは対主の猛打の嵐を凌ぎながらも、両腕を掴まれ捩じ切られる危険にまで対処せざるを得ない状況であった。

 

「キヘラッ」

 

 第四打、再び誇らしげに拳を掲げ、小鬼が不敵に嗤った。

 先ほどの、栄光と破滅と狭間で零れた笑みとは明らかに異なる、勝利を確信したものの獰猛な笑いである。

 

 事、ここに至って、初めてゴリィはこの戦いに一転の勝機を見出した。

 

(ジャ)ッッ」

 

 鉄槌を打ち下ろさんと、小鬼がわずかに尻を浮かせた瞬間、迷わずゴリィが動いた。

 固めた両の拳を開き、天空にある敵の顔面目掛けてではなく、股座の隙間にずぼりと突っ込み、そこにある漢の珠玉(オーブ)を二つ、はっしと掴み取った。

 

「ギョヘ!?」

 

 小鬼が思わず素っ頓狂な声を上げた。

 さもあらん、今更説明するまでも無い事だが、金的とは急所である。

 いや、そもそも内臓が、生物にとっての絶対急所であると言い換えてもよい。

 

 肝臓、心臓、脾臓、肺腑、腎臓、胆臓、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦――。

 

 五臓六腑に失っていい器官など何一つ存在せず、いずれかを損なえば直ちに戦力は激減し、そのまま生命の危機へと直結する。

 そんな繊細高等な臓器の中でも、子孫繁栄に連なる最重要機関の一つが、薄皮一枚隔てて外気に曝されているという事実。

 大いなる主の犯した、致命的な設計失態(ミス)

 

 生殖能力に特化した小鬼にとって、その重要性は並の生物の生物より遥かに重く、一たび珠玉(オーブ)を失えば、社会的どころか物理的に死に至るほどの絶対急所ではあった。

 

 ……だが。

 

「ヌギュン!」

 

「……!」

 

 小鬼が下っ腹に力を入れた瞬間、手の内にある珠玉の感触が瞬く間に変わり始めた。

 薄手の皮袋のようであった陰嚢がみちみちと膨らみ始め、驚くゴリィの地獄爪殺法(アイアンクロー)を押し上げて、たちまち高密度の椰子(ヤシ)の実のような硬さになってしまった。

 

 金的は、小鬼の絶対急所である。

 それ自体は間違いない。

 だがそれゆえに、一部の小鬼たちは進化の過程で金的を守護する術を身に着け始めていた。

 

 一見、他の哺乳類同様、柔らかな皮袋にしか見えない小鬼族の陰嚢だが、実はその内側には細い筋繊維が幾重にも走っているのである。

 このチン肉に過酷な筋力トレーニングを課す事により、万一の時の肉壁とするのである。

 油断なき小鬼の傑物は、こんな所に至るまで完璧に鍛え上げていた。

 

 人類に、椰子の実を握り潰せるような握力は無い。

 ゴリィの反撃の牙が。虚しく潰えた。

 更にまずいことに、敵の股間に諸手を突っ込んだこの状況では、次の拳から身を守る術がない。

 

「ギャララッ!」

 

 第四打!

 第五打!!

 第六打!!!

 

 鉄槌の如き拳の乱打を、ひたすらに歯を食い縛って耐え凌ぐ。

 いや、もはやそれは、凌ぐというにも値しない、ただの痩せ我慢であった。

 拳が打ち下ろされる度に、頬が腫れ、瞼が潰れ、鼻血が噴き出す。

 決着はもはや、誰の目にも明らかであった。

 

「ギャ……!」

 

 第七打。

 とどめに行こうと振り被った拳が、不意にピクリと止まった。

 じわり、と股間に感じた違和感のような細やかな痛みが、小鬼の動きを反射的に縫い留めたのだ。

 つ、と背筋に冷たい汗が走り、思わず小鬼は、眼下で死にかけている魔闘家(メイジ)の貌を覗き込んだ。

 

「~~~~~ッッッ!!??」

 

 ゴリィの目は死んではいなかった。

 潰れかけた瞳にぐるぐると狂気を宿らせて、ただただ両手の中の椰子を握り潰す執念に全精力を傾けていた。

 

 知らない、こんな人間は知らない。

 誕生以来、小鬼は様々な人類と出会い、その技術を、魔術を、知識を戦術を盗んできた。

 恐るべき力を有した魔闘家(メイジ)たちの行動は、よくよく見れば、深い見識と経験に基づいた合理性の塊であり、用心深く彼らを観察し続けた結果、彼は今日、天敵たる人類を屈服させるほどの強靭な強さを手に入れるに至っていた。

 

 ただ一つ、彼に不幸があったとすれば。

 ギロチンドロップ一族という、皇国貴族の中央に在りながら、もっとも貴族の合理的精神とかけ離れた狂気の一族の存在を知りえなかった事である。

 

 

 三百年前。

 歴史に残る皇都大火災の折、現地に駆け付けたとある青年将校は、焼け出された家屋から幼子を抱いて飛び出してくる女将を見た。

 一見小柄で貧相な身なりのその女将は、青年の眼前で、大の男が五、六人でもかくやというほどの巨大な梁を、えいやとばかりに持ち上げたという。 

 青年……、後のギロチンドロップ侯爵家当主、グリコローゲンⅠ世は、女将の勇気を激賞すると共に、強靭な意志が肉体にもたらす神秘の探求に生涯を捧げる事となっていく。

 

 いわゆる一つの火事場のクソ力である。

 

 極限化で爆発した精神の強さは、時に肉体の限界を凌駕する。

 いや、絶対の決意の在りようこそが、肉体の本来持つ真の可能性(ポテンシャル)を解放すると言ってもよい。

 

 以来、三百年。

 ギロチンドロップの末裔たちは、心を一、体を二、技を三に置き、心中に宿る火事場のクソ力を我が身に灯さんとする鍛錬を連綿と続けてきた。

 そんなギロチンドロップの後裔に名を連ねる者が、キンタマを握り潰すと決めたのだ。

 もはや、手の内にあるのが椰子の実だろうが金剛石(ダイヤモンド)だろうが関係ない。

 ギロチンドロップが潰すといったら何が何でも潰すのである。

 

「ガアアァアアアアァァァ―――――ッッッ!!!!」

 

 股座を襲った本能的な恐怖に、小鬼はたちまち我を忘れ、しっちゃかめっちゃかに拳を振るった。

 先ほどとは比べ物にならぬ狂乱の打撃が、容赦なくゴリィの顔面を叩く。

 だが、どれほどの高所から鉄槌の雨霰が降り注ごうと、恐怖に駆られた者の拳が、決死の覚悟を固めたギロチンドロップの末裔(すえ)を殺せるハズがない。

 

 北風がありったけの暴力を浴びせるほどに、旅人の肉体は却ってその輝きを増し、ついには逆転の必殺技(フェイバリット)を許してしまう。

 古の伝承にも名高い風車の理論である。

 

「ヌギュアアアアァアァ」

「ウヌ」

 

 激痛と恐怖に駆り立てられるように、小鬼が打撃を捨て、諸手でゴリィを喉輪に捕らえた。

 いかに強靭な精神の持ち主であっても、酸素の供給そのものを抑えられては死に至るのは必定である。

 びくびくと痙攣するゴリィの瞳が、たちまちぐりゅんと白目を剥いた。

 もしもこの判断が今少し早ければ、運命の女神は小鬼族に微笑んでいた事だろう。

 

 だが、一部のカミツキガメは、たとえ首を刎ねられたとしても、一旦喰らい付いた獲物を決して離さないという。

 グリコローゲンが求めた一族の魂もまた、研鑽の果て、極めて原始的な闘争心へと回帰していた。

 

 

 ――ぷちゅん。

 

 

 死の淵にあったゴリィの手の内で、小鬼族の未来が宿った珠玉(オーブ)が二つ、湿気った音を立てて消滅した。

 

「ギニャアァアァアアアァァァ――――ッッッ」

 

 名も無き小鬼の英雄が、哭いた。

 尊厳であるとか、矜持であるとか、執念であるとか、一介の小鬼を怪物たらしめていた魂の全てが抜け落ちたような哭き声であった。

 

「ギャバッ」

 

 強敵の慟哭を耳に、ようやくゴリィは死の淵から甦った。

 激しく咽返りながら身を捩じらせ、必死の思いで酸素を取り込む。

 かろうじて意識を取り戻し、歪んだ視界を彷徨わせる。

 怪物の姿はどこにもない。

 股間を抑え、身を縮こまらせて痙攣する、哀れな小鬼がいるだけだ。

 

「…………」

 

 ふと、ゴリィの内の真っ赤に灼けた心金が冷めた。

 決着はついた。

 一瞬、目の前の小鬼を打ち捨てて行こうかとも考えた。

 だが、ゴリィの中の冷徹な理性は告げていた。

 

 眼前の小鬼の最も恐るべき所は、学ぶ事への執念である。

 今日、小鬼は敗北を学び、恐怖を学び、心の重きが肉体にもたらす脅威を学んだ。

 この傑物は、捨て置けばやがて屈辱を学び、雪辱を、復讐を学ぶであろう、と。

 

「セィヤ!!」

 

 うずくまる小鬼の首元目掛けて踵を振り上げ、将来の禍根を頸椎もろともへし折った。

 めきょり、と嫌な感触が踵に伝わり、小鬼は不自然に首を曲げた格好で動かなくなった。

 人類と小鬼族との未来を賭けた、知られざる死闘の幕が下りた。

 

「……カルラ」

 

 ようやく呼吸を整えた後、ゴリィはうわ言のようにぽつりと呟き、再びよろよろと歩き始めた。

 人類の未来も小鬼の英傑も、既に乙女の脳裏からは、きれいさっぱり消え去っていた。

 

 

 辿り着いた地下遺跡の有様を前に、ゴリィは思わず脚を止めた。

 由来も分からぬ遺構の数々が、粉微塵に砕け散り、ゴリィの眼前で、さながら爆心地の様相を呈していた。

 

 ごくり、と思わず息を呑み込む。

 経年による風化などでは断じてない。

 崩れ去った瓦礫の山の所々に、小鬼たちの骸が天地真逆に突き立ち、あるいは体の半ばまでが壁面に真横に突き立っている。

 さながら収穫前の小鬼の畑、あるいは森か。

 これほどの惨状の中で、洞窟そのものが崩落していない事が不思議にすら思えた。

 

 その惨劇の中央。

 ぽっかりと開けた小さな陥没地(クレーター)の中央に、探し求める少女はいた。

 ゴリィに背を向け、今にも倒れそうなほどに、ゆらゆらと体を揺らしている。

 これは、この惨状は、あの小柄な少女がやったというのか。

 どくどくと心臓が不協和音を鳴らす。

 

「カ……、カル、ラ……?」

 

 胸中の不安を押し殺し、今にも消えりそうな声で、かろうじてゴリィが呼びかけた。

 ピクン、と少女の動きが止まり、ゆっくりとゴリィの方に振り返る。

 一切の感情の感じられぬ、どこか焦点の合わぬ瞳。

 冷徹な古代兵器の単眼(センサー)のような、あるいは、忘我(トランス)の域に入った巫女(シャーマン)のような――

 

「……………………ゴリィ?」

 

 長い長い、沈黙の後、ゆっくりと、少女の瞳にいつもの光が灯り始めた。

 カルラがこちらを認識したのを見て、ほうっ、と一つ胸を撫で下ろす。

 突如現れた地下遺跡、恐るべき小鬼の異形種、そして不可解な少女の変化。

 未だゴリィの胸中には、まとまりのつかぬ疑問の数々がわだかまっていたが、それでも今は、カルラと無事に再会できた事だけで十分だった……!

 

「――!」

 

 瞬間、いち早くゴリィは気が付いた。

 カルラの更に後方、視界の端に、未だ息のある小鬼が居る。

 這いつくばった小鬼の手には(ボウガン)が握られ、狙いはカルラに向けられている。

 どくり、と心臓が唸る。

 矢の形状、毒か。

 次の瞬間、すぐにでも矢は放たれるであろう。

 この距離、傷つき疲弊した肉体。

 今、自分に何が出来る?

 何が、何が、なにが――

 

「ブボッファ!!」

 

 思うよりも早く、ゴリィの口から詠唱が発せられていた。

 未だ研鑽途中であった、その未知なる詠唱の完成とともに、ゴリィの尻が火を噴いた。

 凄まじい爆風に吹き飛ばされる形で、乙女の体は宙を舞い、小柄なカルラの体を押しのけ躍り出た。

 ほぼ同時に必殺の矢が放たれた。

 不格好に中空に押し出された乙女に、回避の余地は無い。

 

「ヌン!」

 

 せめてもの悪足搔きとばかりに、無我夢中で乙女は腰を振るった。

 ぐるりと中空で体が一回転し、盾代わりに突き出そうとした美尻(ヒップ)は、奇跡的にも、迫りくる鏃を側面から撫で付けるように掠めて逸らした。

 弾道がずれ、標的を失った毒矢は洞窟の壁面を乱反射して、小鬼の頭部にぷすりとあべこべに突き立った。

 

「ギョヘ!?」

 

 信じ難い大凶(ファンブル)を引いた小鬼が、ワケもわからぬといった表情で地に突っ伏した。

 間を置いて、地面を転げたゴリィの背に、つっ、と冷たい汗が伝う。

 

 どくどくと、心臓が再び別の生き物のように反響すしていた。

 情けない話だが、今ので精も根も尽き果ててしまったらしい。

 ゴリィは四つん這いとなり、尻を思い切り突き上げた格好のまま、身動き一つとれなくなってしまった。  

 思い切り捲れ上がったスカートが、ぶすぶすと焼け焦げた匂いを放つ。

 

「……ッ ゴリィ!」

 

 ようやく我に返ったカルラが、慌ててゴリィの下へと駆け寄ってきた。

 淑女(レディ)とは程遠い今の自分の姿に、ふっ、とゴリィが自嘲をこぼす。

 

「ふ、ふふっ、随分と無様な姿を晒してしまい……ひぅっ!?」

 

 乙女の強がりは最後まで続かなかった。

 ゴリィの真後ろに跪いたカルラが、原型を留めぬスカートを勢いよく剥ぎ取り、臀部の矢傷に吸いついたのである。

 後輩の眼前にはしたなく尻を突き出し、傷口から毒を吸い出される恥辱。

 淑女(レディ)として初めて味わう未知なる感覚。

 傷痕にぬらりと染みる、カルラの舌の熱さ。 

 羞恥と激情がない交ぜとなり、ゴリィはたちまちらしからぬ狼狽を爆発させた。

 

「んひぃ! ちょっ、なにを……

 おやめなさい! カルラ、こんなのはタダの、かすりキ、じゅぅっ!!」

 

「…………」

 

「まっへ! ほんとに、だいじょう、だいじょびゅだからァ!?

 やめて、やめてカルラ、こんなの、汚いからァッッ!!」

 

「……やめないよ」

 

 カルラはしばし、ゴリィの尻に無言で吸い付いていたが、やがておもむろに顔を上げ、濁った血液を吐き捨て言っ放った。

 確固とした決意を示す声色の裏に、ゴリィは少女の静かな怒りを感じ取った。

 

「なんで……、なんだってこんな無茶をするんだよォ」

 

「……カルラ?」

 

「貴方は、ゴリィ=アントワネットはビッグフォール皇国の誇る大貴族だろ?

 こんな所で小鬼(ゴブリン)相手に、犬死になんてしていいハズがない!」

 

「…………」

 

「ボクの事なんか、見捨てて行けばよかったんだ。

 戦場では、自分の身は自分自身で守らねばならない。

 皇国貴族に名を連ねる魔闘家(メイジ)には、何を犠牲にしてでも守らねばならないものがある。

 僕にそれを教えてくれたのは、他ならぬ貴方じゃないか?」

 

 感情のままに吐き出されたカルラの怒りが、ゆるやかに萎み、次第に己の無力さに対する哀しみへと転じていく。 

 ゴリィは口をつぐみ、ただ無言でカルラのお説教に耳を傾けた。

 何もかも、彼女の言う通りであった。

 未熟なカルラを監督し、その身を支える立場にありながら、敵を侮り、己の力を過信した挙句、諸共に命を落としかけた。

 しかもゴリィは戦いの最中、皇国貴族が背負うべき使命までをも放棄している。

 今さらカルラのやる事を咎められるハズが無かった。

 

 しん、と静寂が周囲を包み込む。

 しばしの沈黙の後、カルラは再び思い出したようにゴリィの傷に唇を寄せた。

 ゴリィももはや抗わず、全身の力を抜いてカルラの仕草に己を委ねる。

 静寂の中、ちうちうと吸い付く小さな音と、唇越しに通じるカルラの熱が、今の二人を繋いでいた。

 

「……まさに、一期一会、ね」

 

「……?」

 

 どれほどの時間が曲がれた事か、ぽつり、と独り言のようにゴリィが呟いた。

 カルラが顔を上げ、怪訝な瞳を彼女へと向ける。

 

「――今日、貴方も私も、一手間違えば死んでいた。

 もう、二度と会えなかったかもしれない」

 

「…………」

 

「どれほどに体を鍛え、技を磨き、知識を蓄え修めようとも、

 運命の女神の賽の目一つで、人は容易く命を落とす。

 分かってはいても儚いものね」

 

「……ゴリィ」

 

「今、こうして貴方に尻を吸われている恥辱すらも、かけがえのない時間の一部と。

 全てを受け入れ、感謝していくべきなのでしょうね」

 

 妙にしおらしくなったゴリィの姿を、カルラが無言で見つめ返す。

 ゴリィの言葉の真意を、少女は未だ、ただしく理解できてはいない。

 ただ、この洞窟に入る以前とは、二人を取り巻く時間の流れが、少しだけ変わった気がした……。

 

 

 

「ブボッファ!!」

 

 標高3,128バーバ。

 束の間の走馬灯が見せた尻の記憶の導きのままに、ゴリィは再びその詠唱を口にした。

 瞬間、ゴリィの美尻(ヒップ)が爆烈し、乙女の体が真横に跳ね、目前の岸壁に強かに叩きつけられた。

 肉体を壁面に打ち付ける事で、落下の勢いがわずかに緩んだ。

 

「カハッ」

 

 歯を食い縛って衝撃に堪え、上空を真っ直ぐに睨み据える。

 一説によれば走馬灯は、生命の極限化において、加速する思考が脱出の手段を過去の記憶に求めようとする、生存本能の為せる奇跡という。

 己の半生を刹那の内に振り返るほどの濃密な思考体験。

 その極限の集中力が、今、ゴリィの精神に奇妙なゆとりを与えている。

 

 再び肉体の落下が始まる。

 どうする?

 後ろ手の拘束を振りほどいて岸壁にしがみつくか?

 間に合うか?

 いや、アイツらはどうしている?

 これが日々の鍛錬の一部であると言うのなら、自分一人を千尋の谷に突き落として、それで満足するような奴らか?

 そう咄嗟に体をよじり、逆光の差し込む蒼天を仰ぎ見る。

 

「~~~~~~~ッッ」

 

 一瞬、呼吸が止まった。

 今の自分が置かれた状況も忘れ、上空に揺れる二つの影を食い入るように見つめる。

 やはり、彼らはそこにいた。

 縛られてこそいないが、自分と同じように両手を後ろ手に組み。

 絶壁を爪先で交互に踏み締めながら速度を殺し、まるで後ろ向きにスキップでもするかのように、ゆるゆると断崖を降りてくるではないか?

 

 出来るのか? あんな事が?

 踏み締めた、足場とも呼べぬあるかないかの出っ張りが崩れれば。

 あるいは跳躍の方向がわずかにでもズレれば。

 直ちに五体は中空に踊り、抗いようのない自由落下が始まるというのに。

 極限の動体視力に空間認識能力、わずかばかりの意識のズレも許さない肉体制御。

 常人を超えた、恐ろしいまでの集中力。

 

「クッ」

 

 迷っている暇はない。

 空中に戯れる二人の姿が、みるみる視界から遠ざかっていく。

 自分にだって出来るハズだ。

 いや、既にあちら側の世界に、半歩ばかりは踏み込めている。

 

 走馬灯。

 刹那の内に己の半生を垣間見るほどの、濃密な思考体験。

 時間の枷を超えて脳裏を走る、極限の集中力。

 

「ガッ」

 

 ままならぬ姿勢のまま、断崖の方向に必死で右脚を伸ばす。

 瞬間、爪先が岸壁に触れ、衝撃で五体が大きく弾かれた。

 勢いのままグルリと回る体ををよじらせ、なおも岸壁に身を寄せる。

 丸めた背中が岸壁を叩き、擦れ、回転が更に加速する。

 

「があああああああああああああああああああああああ」

 

 いつしかゴリィはいつぞやのように、一己の車輪と化していた。

 

 極真大山の岸壁は、厳密に言えば『絶壁』ではない。

 テーブルマウンテンの頂上に向け、わずかではあるが、傾斜のついた急勾配となっている。

 その絶壁にも等しい激坂を、人間車輪と化したゴリィが一直線に下っていく。 

 

 もしも大山が絶壁であったなら、ゴリィ為す術も無く大地に叩きつけられていただろう。

 あるいは、傾斜がなだらかであったなら、かえってその身は大きく弾き飛ばされていたかもしれない。

 だが、高速回転する今のゴリィに、僥倖を思う余裕はない。

 目まぐるしく廻る視界の先に、猛烈な速度で終点が迫る。

 

「おおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 ゴリィが再び吠えた。

 直後、ドゴン!と大地が揺れ、高らかと土塊が舞い上がった。

 

 

「……所かまわず姦しい女よ」

 

 濛々と立ち籠める土埃の中、呆れたように鴉がポツリと呟いた。

 ほどなく、ドゥ、とばかりに土煙を吹き飛ばし、後続の羆が荒々しく背後に着地した。

 

 地上の光景は一変していた。

 上空の岸壁より縦一直線に刻まれた轍の跡が、大地に大きな陥没を残し、そこから彼方の森林地帯まで、一筋の破壊の道を刻んでいる。

 

「此処で壁を蹴りおったか」

 

 鴉の言葉につられたように羆が壁面を見やると、そこにはちょうど、羆の目線ほどの高さの位置に陥没があり、深々と亀裂が走っていた。

 

 おそらくゴリィは着地の直前、壁面を蹴りつける事によって、己の体に横方向への反動を加えたのだろう。

 真っ直ぐに大地に叩きつけられるハズだったゴリィの体は、水平方向へのベクトルを得て斜めに跳ね、そのまま大地を一直線に駆け抜けていった。

 無理に勢いを殺せば、乙女の体は大地との摩擦で大根のように擦り卸されてしまっていた事だろう。

 破天荒と紙一重の所で、ゴリィの生存本能は最善の選択を取り続けていた。

 

 果たして轍の最奥、延々と薙ぎ払われた樹木の先には、巨岩に強かに打ち付けられ、天地逆さにのめり込んだゴリィの姿があった。

 嘴の奥で、ニィ、と鴉が笑った。

 

「どうやら醍醐(バター)にならずに済んだようだな」

 

「……あ、あ?」

 

 顔面血塗れとなったゴリィは、しばし虚ろな瞳をぐるぐると彷徨わせていたが、やがて視線の先に鴉を捉え、ニヤリ、とこちらも不敵に笑った。

 

「フ……フフ、元気、イッパイ……ですわ……」

 

「減らず口が叩けるならば重畳だ」

 

 鴉が吐き捨てると同時に、羆がおもむろに歩み寄り、いまだ身動きとれぬゴリィの体を優しく抱え上げた。

 逞しい羆の腕の中で、いやいやとぐずるようにゴリィが首を振るう。

 

「ひ、とりで……、歩け……ますわ」

 

「目の前の姉妹(スール)ぐらいは信頼しろ」

 

 二人の姿を顧みもせず、ぶっきらぼうに鴉が言い放つ。

 その言い種に、ゴリィは思わず目を丸くした。

 確かに自分は、目の前の羆に種族をも超えた情を感じている。

 だが、かの傍若無人を体現したような大天狗(レイブン)の口から、そのような言葉が出るとは思ってもいなかった。

 

()()()?」

 

「悪鬼と云い、天魔と云うは、この世の秩序に仇を為す者。

 一度下界に降り立ったなら、地上の全てが敵となる。

 我らに頼みがあるとすれば、同じ(よこしま)を抱いた同胞(はらかた)のみ……違うか?」

 

 ああ。

 不意にことりと、鴉の言葉が腑に落ちた。

 いつの間にか自分はもう彼らと同じ、怪物の仲間入りをしていたのか。

 鴉にとって、自分はもう人ではなく同胞になっていたのか、と。

 

「昼からもう一度跳ぶ。

 今の内にせいぜい体を休めておくのだな」

 

 彼方から、鴉の無慈悲な言葉が響いてきた。

 ゴリィは再びニヤリと笑い、そのまま意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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