大天狗令嬢 vs シャーマンスープレックスホールド   作:いぶりがっこ

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第九話「暗黒業洞」

 風が吹いていた。

 

 太古より天魔外道の棲家と謳われた、極真大山の頂に似合わぬ穏やかな東風が、乙女の髪をそよがせていた。

 一年前に此処を訪れた時よりも更に長く、腰まで伸びた乙女の髪。

 太陽を透かしたブロンドの……、という麗しい形容は、今となっては用いるのが少々躊躇われる。

 伸ばすに任せた蓬髪はかつての艶を失い、野生の獣の毛並みのようだった。

 それは頭髪だけに限った話ではなく、大山での日々の中で衣服は破れ、体は瘦せ、きめ細やかであったに肌のあちこちに大小様々な傷痕が残る有様であった。

 

 それでいて、かつて乙女を皇国貴族の頂点たらしめていた芯の部分には、衰え一つ感じられない。

 返り血で染めたかのような赤色の仮面の奥に燃えるような眼光を灯し、木製の鼻は猛き男根のように隆々と天を衝き、悠然とした佇まいの隅々にまで生命の気が満ち溢れるようにすら見えた。

 

 ザ、と迷いない足取りで、乙女が断崖の端を踏む。

 半年前より既に日課となっている、空中殺法錬行(トベ・コンヒーロ)に赴くのだ。

 だが、常ならば監視者のように背後に控えている羆の姿が、今日は無い。

 そして、今、ゴリィ=アントワネットの眼前に広がる風景もまた、いつもとは異なる姿をしていた。

 

 ゆっくりと瞳を閉じ、ゴリィが跳ぶでもなく中空へ第一歩を踏み出した。

 乙女の体が鮮やかに一回転し、緩やかに落下が始まる。

 肌を叩く風圧を感じながら、ゴリィは瞼の裏側に、緑色の粒子が煌めく世界を見ていた。

 この世界の大気に満ちた、見えざる魔素(ヴィスコ)の粒子たちである。

 

 いつの頃であったか、この地に籠るようになってから、ゴリィは漆黒の世界の中に、見えざるハズの粒子の世界を追いかけるようになっていた。

 僻地での過酷な修練が、ゴリィの内に眠っていた感覚器(センサー)を目覚めさせたのか。

 そういえば下界には、人ごみの中を苦も無く進む盲目の老人が居たという。

 人体は感覚の一つを失えば、他の感覚がそれを支えるように鋭敏に発達を遂げる。

 あるいは、ゴリィの視界を遮る分厚い仮面こそが、却って彼女の感性の進化を促したのかもしれない。

 

 いずれにせよ、この世界が見える者と、見えない者の隔たりは大きい。

 今更ながらにゴリィはそれを痛感する。

 今、暗闇の世界を、一際大きい粒子の群れが緩やかに落下していく。

 ゆっくりと瞳を開けると、足元には跳躍の際に蹴り上げた枝木があった。

 

 万物に魔素(ヴィスコ)は宿る。

 大気だけではなく、岩にも、木にも、水にも、他の生物にも。

 この世界に入門した事で、ゴリィにもそれがようやく理解できた。

 そして、その事実を活かす術も。

 

 体を捩じり、両の踵で叩きつけるように中空の枝木を踏む。

 丹田から足先に走る魔素(ヴィスコ)が、枝木に宿る魔素に干渉し、反発するようにゴリィの体が一瞬浮き上がった。

 中空で体勢を立て直し、周囲を見渡す。

 視界の端に岸壁より突き出た樹木を捉え、しなやかに右手を伸ばす。

 華奢な枝木を掴むのではなく、指先で弾くように魔素を放ち、反発で再び速度を減じ、次の係留地を探す。

 

 東洋の気功術において、内気功、外気功という概念がある。

 

 体内に宿る気の巡りを整える術が内気功であり、外界に遍く気を調律する術を外気功と呼ぶ。

 死線と隣り合わせの日常の中で、ゴリィは誰に学ぶでもなく、神仙、道士の領域に半歩踏み込みつつあった。

 

 

『――東岸?』

 

 壁面を蹴り上げるゴリィの脳裏に、ふと先日の鴉の言葉が甦る。

 

『ああ、そうだ。

 過去の鍛錬ではいつも山の西側……、貴様が登攀して来た壁面から跳んできたであろう?

 明日は東側から飛べ、貴様一人でな』

 

 要領を得ない鴉の言葉に、ゴリィが怪訝に眉を顰める。

 確かに、空中殺法錬行(コンヒーロ)は逐次変化する状況に対応する精神を養う修練である。

 毎回毎回、同じ場所から跳んでいたのでは修行の意味を為さない。

 だが、だからといって、広いテーブルマウンテンの対面まで移動する理由がどこにあるというのか?

 普段はいちいち行動の説明をしない鴉が、この日に限って細かな注文を付けてくるのも不審であった。

 

『東岸から跳ぶ事に、なんの意味がありますの?

 この山の東側に、一体なにがあると……』

 

『極真大山の東面に、巨人山脈(アンドレ)の中枢に通ずる洞穴あり』

 

 ゴリィの疑念に対し、鴉は珍しくも素直に回答をよこした。

 

『大山の麓に降り立ったなら洞穴を目指せ。 

 儂はそこの最奥で待つ』

 

 

 

「……見つけた!」

 

 天空より見下すゴリィの瞳が、仮面の奥で猛禽のように鋭さを増した。

 切り立った岩盤の一点に視線が吸い寄せられ、地表に近付くほどに洞穴の様相を呈していく。

 一見、長年の風雪が築き上げた天然の洞穴といった佇まい。

 だがゴリィの本能は、地上の静謐な光景の中に、言いようのない驚異の影をひしと感じていた。

 

 もしもあの小鬼(ゴブリン)退治の際に、この脅威を感じ取れていたならば。

 一瞬、苦い記憶が蘇り、仮面の裏に緊張感が満ちる。

 壁面から伸びる古木の幹を蹴り飛ばし、ゴリィは迷いなく洞穴へと身を躍らせた。

 

 

 洞穴は、狭い入口に反して長く、どこまでも深奥へと通じていた。

 縦に伸びる隧道を、落ちるように下って行くと、たちまち陽の光は途絶え、地上の輝きが遠くなる。

 反し、道幅は徐々に広がりを見せ始め、ぞくり、と冷たい風が下方より首筋を吹きあがる。

 

 やはり、ただの虚穴ではない。

 傾斜が終わり、洞穴の底へと降り立つと、ザ、と砂を噛む音が、広大な空間に微かに反響した。

 

 どれほど降りて来た事か?

 頭上を見やると、地上の灯はもはや針孔のような彼方にあった。

 この広大な鍾乳洞が、自然に出来たものなのかまでは分からないが、鴉が言った「巨人山脈(アンドレ)の中枢」に近づいている事だけは理解できた。

 

 ザ

 

 束の間の思考を切り裂いて、前方の闇の彼方から小さな足音が響いて来た。

 一つ息を吐き、油断なく意識を前方の闇へと向ける。

 一瞬、火を灯すかとも考えた。

 だが、足音は真っ直ぐこちらに近付いてきている。

 これから戦闘が始まろうというタイミングで、余計な魔素(ヴィスコ)の消耗は避けたかった。

 たとえ闇の中にあろうとも、今のゴリィならば、洞内を流れる魔素(ヴィスコ)の動きで、大まかな対主の様子は捉えられる。

 

 ザ

 

 だいぶ足音が大きくなってきた。

 ここに来て、徐々に夜目が効き始めた。

 朧げに広がる鍾乳洞の中央に、ゆらり、と細い姿が影を為す。

 

 しゃんと背筋を伸ばした、背の高い、細身の乙女のシルエット。

 暗色のドレスが足捌きを隠し、比較的明るい髪色を包むヴェールが、魔素の波を掻き分け迫る。

 薄布に隠された面立ちの奥で、鋭い眼光だけが異様な輝きを放つ。

 

「まさか……」

 

 そくり、とゴリィの背筋が震えた。

 思いも寄らぬ人影の登場に、天魔の領域に踏み込んでいたハズの魂が、未熟な乙女の頃のように揺さぶられる。

 

「お婆さま……」

 

 呻くようにポツリとこぼした。

 人影は、ゴリィの動揺など意にも介さず、しゃなり、しゃなりと緩やかに迫る。

 

 ボアウッド=ギロチンドロップ。

 かつて、ビッグフォール皇国の地母神(グランド・マザー)とまで謳われた伝説の女傑が、肖像画の中でしか知らぬ全盛期の姿で、ゴリィの前に立ちはだかった。

 

 

 半世紀ほど昔。

 当時、ビッグフォール皇国は未曽有の国難の只中にあった。

 

 巨人山脈(アンドレ)の火山群の噴火、天変地異とも呼ばれた異常気象と、それに伴う不作。

 時のギロチンドロップ家当主、ファッキンガムⅢ世の早世を始めとした、名だたる皇国貴族たちの不審死。

 大陸の盟主たる皇国の弱体化を見て取り、俄かに策動を始めた隣国アックスボンバー教国。

 

 近隣の小国を立ちどころに併呑し、大陸に新たな戦乱を呼び込まんとする新興国(チャレンジャー)の台頭に対し、かつての覇権国家(チャンプ)は外征に打って出る余裕すらなく、居並ぶ大臣たちは親書と称された屈辱的な外交文書を前に、みな憤りを殺して頭を下げたという。

 

 当代の若き君主、マックスパワーⅡ世が諦観の溜息とともに、その文書へ調印を施さんとしたまさにその時、議場の木扉が勢いよく吹っ飛ばされ、漆黒の乙女が姿を見せた。

 

 ギロンチンドロップ家公爵夫人、ボアウッド=ギロチンドロップ。

 夫の葬儀以来、長らく公式の場に姿を見せていなかった夫人は、黒のドレスに黒のヴェールという喪服姿のまま議場に雪崩込み、取り押さえようとした衛兵、あっけに取られる官僚、果てには陛下を守らんと立ちはだかった右大臣左大臣までをも勢いのままに張り倒していったという。

 

『だしゃあッ!!』

 

 裂帛の気合と共に、とうとう夫人は自らの主君、マックスパワーⅡ世までをも張り倒した。

 突然のお闘魂(ビンタ)の嵐を前に静まり返った議場の中心で、やがて夫人はゆっくりと一同を見渡し、静かに言い放った。

 

『――正義があれば、なんでも出来る』

 

 ビッグフォール皇国とは、貴族(メイジ)の力を以て大陸に秩序をもたらす為に打ち立てられた国家である。

 たとえ理想の為に国土を投げ打つ事になろうとも、国家の為に正道を曲げる事があってはならない。

 夫人の熱いお闘魂(ビンタ)により建国の志を呼び起こされた諸将は、アックスボンバー教国との会戦を決意。

 後に南方超謝肉大戦争(チャンピオンカーニバル)と謳われた戦乱の果て、ビッグフォール皇国は再び大陸の盟主の座を取り戻す事になるのであった。

 

 

 

 その皇国の屋台骨を支え続けた伝説の女丈夫が、全盛期の姿でゴリィの前に姿を現した。

 思わず瞠目するゴリィの前に、想像の中にしなかった祖母が、しゃなり、しゃなりと迫り来る。

 

 これは一体、どのような趣向なのか?

 咄嗟にゴリィは、指先に明かりを灯して目の前の異形を観察したい気持ちに駆られ、すぐに頭を振って衝動を抑え込んだ。

 敵はもう、間合いのすぐ外にまで詰め寄っている。

 眼前にいる女が本物(リアル)偽物(フェイク)か、そんな事は問題ではない。

 問題は、こんな動揺を胸中に抱え込んだまま、すぐにでも闘争(はじ)まってしまう事だ。

 闘いにおいて、心を第一に置くのがギロチンドロップの流儀。

 このような闘いを忘れた心境のままで、同門の女傑に対抗できよう筈がない。

 

 対主に気取られぬよう、静かに息を吐きだして気を静める。

 そうだ。

 自分は既に故郷を捨てた身。

 目の前に現れた女が本物か偽物かなど、既に自分には関係の無い話だ。

 たった一つの望みの為に、一族を、故国を、人としての生き方を捨ててここに立っているのだ。

 たとえ相手がギロチンドロップ公爵家最強の傑物であったとして、何を恐れる事があろう?

 長いギロチンドロップの歴史の中で培われた伝統をも超える力を求め、ゴリィは何もかもをかなぐり捨て、今日まで研鑽を重ねてきたのだ。

 超えられるハズだ。

 ()()お婆さまが相手だったとして――

 

「 だ し ゃ あ 」

 

「――!」

 

 間境を越えた。

 そう思った瞬間、まるで時間が飛んだかのように、夫人の顔が至近にあった。

 驚く間もなく雄叫びが反響し、横合いからの衝撃と共にゴリィの視界が回転した。

 

「がああああああああっ!?」

 

 凄まじいお闘魂(ビンタ)が洞内で爆裂し、ゴリィの体がくるくると三回転して、頭から派手に大地に突っこんだ。

 

「!!ッ??」

 

 激しくシェイクされた脳味噌が混乱を来たす。

 何だ、今のは?

 間合いの内側に入られるまで、いや、お闘魂(ビンタ)の直前まで夫人の動きが一切見えなかった。

 打たれた木面を通し、まるで直接右頬をぶっ叩かれたかのような痺れが脳天まで響く。

 なぜ、見切れなかった?

 なぜ、何ら魔力も感じられぬ、仮面越しのお闘魂(ビンタ)がここまで効くのか?

 洪水のように溢れる疑念に流されるまま、ぼんやりとゴリィが上体を起こした。

 あまりの実力差に、思わずゴリィは闘いの中で闘いを忘れていた。

 しまった、と気づいた時、すでに夫人はゴリィの眉間目掛け、限界まで引き絞った(ナックル)を放つ直前だった。

 

 

「 だ っ し ゃ あ ぁ !! 」

 

 グーで来た!!

 鉄の女と謳われた列女渾身の鉄拳制裁(ナックルアロー)が、ゴリィの顔面をぶっ叩いた。

 ギロチンドロップ史上最強の右ストレートは、まるで木面の壁を突き抜けるかのようにゴリィの額を強かに打った。

 ゴリィは物も言わず一直線にぶっ飛び、岩盤に勢いよくバウンドして仰向けに転がった。

 

「あ……! あぅ……!」

 

 漆黒の洞窟が、チカチカと眩くフラッシュする。

 肉体に蟻が走り、己の意志と無関係にのけぞった体がビクビクと痙攣する。

 

 勝てぬ。

 たったの二発で、文字通り身に沁みて思い知らされてしまった。

 圧倒的な格の違い。

 何故。

 乙女の鉄拳は、人類が鍛錬で辿り着ける領域を遥かに凌駕している。

 その人外の領域を求め、自分は人を捨て、怪物の世界に入門したのでは無かったのか?

 あの決意が、一年に及ぶ血の滲むような日々が、ただの通りすがりの天才の足元にすら及ばぬというのか?

 

 畜生。

 のたうつゴリィの足元から、しゃなり、しゃなりと乙女が迫る。

 じわり、と目頭が熱くなり、嚙み締めた唇に血の味が滲む。

 圧倒的な捕食者に捕らわれた子羊の恐怖。

 砂を噛み、砂利を掴み、ゴリィが必死で体を起こす。

 正しき血統を捨て、結局は本物の怪物にすらなれなかった、半端なけだもの。

 そんな自分が、ただ、恐怖に包まれ、敗北を受け入れ無為に死すのが可哀想だった。

 可憐なる令嬢でもなく、誇り高き天魔でもなく、ただ一切の虚飾を剥ぎ落した、負けず嫌いの少女の魂だけが、今のゴリィの体を突き動かしていた。

 

 かろうじて体を起こした。

 その時には既に、夫人の顔は目の前にあった。

 次の瞬間、自分は死ぬ。

 もう、身動き一つとれない。

 死ぬのか?

 殺せるか。

 こわい。

 畜生。

 堪るか。

 やって見せろ。

 瞳は逸らさない

 ただ、次の一撃を待――

 

 

「ッダアアァァ――ッッツ!!」

 

 

 来た。

 見えなかった。

 見えた時、既に拳は眼前にあった。

 首が千切れる。

 脳みそが弾け飛ぶ。

 喰らう前に、そう思わせる説得力で死ねるほどの拳――!

 

 

『 だ っ し ゃ あ ぁ !! 』

 

 

 思った瞬間、二重の衝撃が背後から来た。

 ベチィ、と乾いた炸裂音がゴリィの背中を激しく叩いた。

 

「~~~~~ッッ!!??」

 

 あまりの激痛(いた)みにゴリィの体はぶっ飛ぶのも忘れ、思い切り前方にのけぞった。

 二、三歩たたらを踏み、崩れかけた上体を支え、荒い息を辛うじて吐き出す。

 一体、何が。

 屈辱も恐怖も死の打撃も忘れ、思わずゴリィは後背を振り返った。

 

 祖母であった。

 ゴリィの背後には、彼女のよく知る白髪頭のボアお婆さまが、最後に見た時よりもいくらか矍鑠とした出で立ちで佇立していた。

 

「お、お婆、さま……?」

 

 呆然とゴリィが呟くと、老夫人は皺だらけの顔を破顔させ、スナップを効かせた右手をサムズアップに組み直し、そのまままるで煙のように消え去った。

 

 意味が分からない。

 ただ、張られた背中が異様に熱い。

 

 呼吸を整え、改めて若き日の夫人と向かい合う。

 身に迫る威圧感は、先ほどと何一つ変わっていない。

 ただ、受け止める自分の意識の方が、どこか変わった。

 背中に押し付けられたお婆さまの手形が、自分の後退の螺子(ネジ)を切ってくれたようであった。

 

『 だ し ゃ あ 』

 

 四度目のお闘魂(ビンタ)

 やはり、避ける術が見当たらない。

 いや、この技はそもそも避ける必要など無かったのだ。

 ここに来てゴリィは、ようやく夫人のお闘魂(ビンタ)の本質を見極める事が出来た。

 

 パン、と乾いた音が右頬で破裂し、ゴリィの体が大きくよろめく。

 咄嗟に腰を切り、上体を落として踏み止まる。

 やはり、かわせぬわけだ。

 ほう、と一つため息を吐き出すと、ゴリィは再び姿勢を正し、若き夫人と向かい合った。

 

「……ボアウッド=ギロチンドロップのお闘魂(ビンタ)は、殺人技(アタック)ではなく(バフ)

 魂震わす勇気の一撃が、恐ろしいハズがありませんわ」

 

 ゴリィが凛とした声でそう言い放つと、夫人は納得したように微笑し、こちらも闇の中へと消えていった。

 後にはただ常闇の静寂だけが残された。

 

 

 一体、アレは何だったのか?

 暗い洞内を下りながら、一人思案に耽る。

 

 鼻っ柱に浴びた拳の痛み、あれが偽物(フェイク)だったとは思えない。

 だが、気が付けば鉄の乙女は煙のように消え失せ、痛打を受けた肉体には痣の一つも残っていないではないか。

 

 冷静に考えるなら、皇都にいる祖母が同時に二人、この場に現れる事などあり得ない。

 しかも一方は時間の壁すら越えてゴリィの前に立ちはだかった。

 

 あれが、幻……?

 あるいは、あれが何者かの罠、妖術の類であったして、その仕手はなぜ祖母を……、いや、なぜ、自分と祖母の関係を知っていたのか……?

 

 ――東方に、サトリ、という妖怪がいるという。

 

 その怪異は人の心を読み、不安を煽り、対主の心の陥穽を衝き身も心も喰らうという。

 そのような怪異が仮に実在するのだとしたら、悔しいが、思い当たる節がある。

 

 かつてクロックアップの徒花と謳われ、華麗なる社交界を奔放に振舞い続けたゴリィであったが、ただ一人、祖母のボアウッドに対してだけは、一定の敬意をもって接し続けて来た。

 同じ女性として、ギロチンドロップ公爵家の家長として様々な栄光を築き上げた祖母に対する尊崇(リスペクト)というのは確かにあった。

 だがそれは、耳障りの良い言葉を除いたならば、祖母の従順な狗であったとも言える。

 数々の伝説に裏打ちされた、祖母の歴史的威容(プレッシャー)を前に、幼きゴリィは闘う前からその牙を抜かれていたのだ。

 

 ゴリィは若き日の祖母ではなく、自身の作り出した幻影に捕らわれていた。

 だとすれば、彼女の拳が見えなかったのも当然であろう。

 祖母の拳は筋力でも術理でもなく、ゴリィ自身の想像力で加速していたのだから。

 

 ふわっ、と。

 不意にゴリィはひんやりとした冷気の中に、頬を撫ぜる生温かな空気を感じた。

 ぷん、とすえたような臭いを嗅いだ。

 腐臭、いや、より生生しい血の臭いか?

 目の前に広がる闇の中から、何者かがこちらの姿を捉えている。

 いや。

 この洞内に潜む怪異が侵入者の潜在的な恐怖を喰らうというならば。

 次に来る『敵』は想像できる。

 ……既に、想像してしまっている。

 

『 グ ワ オ ォ オ ォ オ オ オ ォ ォ ―――ッッ 』

 

「……ッッ」

 

 痛烈な雄叫びが、突如として洞内に鳴り響いた。

 ビリビリと空気の壁を叩き、巨大な体躯が、ぬっと眼前に影を為す。

 間一髪、横っ飛びで身を翻すと、巨体は強かに壁面に激突し、再び洞内を揺るがした。

 

 そう。

 わかっていた。

 

 ごくり、と一つ息を呑むと、濛々と立ち込める土埃の先で、黒い影がぬうっと立ち上がる。

 生々しいまでの獣臭。

 今日まで長らく寝食を共にした大羆が、今、常ならぬ赤い瞳をギラつかせ、ゴリィの前で牙を剥いた。

 

「…………」

 

 呼吸を整え、覚悟を決めて眼前の大羆と向かい合う。

 こうして彼女と拳を交えるのは、幾度目となるだろうか?

 極真大山での生活の中、彼女とは幾度となく拳を交わし、時には勝利を得る事もあった。

 だが、それはあくまでも修行の一環であり、彼女がくれた情けに過ぎない事を知っている。

 目の前に現れた漆黒の脅威に、あの羆の優しさは求められない。

 

『グワォ!!』

 

 短い唸り声とともに、ゴリィの間合いの外から、たちまち漆黒の爪が飛んで来た。

 暴風が眼前を通過し、横壁が崩れて砂塵が舞う。

 

 あの羆の拳法の美しさの欠片も無い、荒々しい猛獣の前脚。

 だが、ゴリィは彼女が理合を捨て去り、本物の野生の拳を求めていた事を知っている。

 そして人並み外れた怪物の肉体には、暴力こそが最も馴染むであろうと言う事も。

 

『グワッッ』

 

 畏れてばかりもいられない。

 暴力の嵐に押し切られれば、か弱き乙女の身体はたちまち肉片と化す。

 何とかして黒旋風の内側に潜り込まねばならない。

 だが、首尾よく崩せた所で、この怪物を打倒できるのか。

 あの鴉の神速の五連撃にすら耐えた肉体である。

 あの時鴉は、必殺の打撃自体を崩しに使い、体勢が傾いだ所を関節技(サブミッション)に持ち込み仕留めていた。

 

 出来るのか、あれが?

 今の自分に。

 

「チィ!」

 

 短く吐き捨て、腹を括って一直線に暴風に突っ込む。

 クロスした両腕の外側から、殺意で固めた大爪が迫る。

 合わせ、対主の手首にぶつけるように左腕を廻す。

 

 廻し受け。

 丹田に満ちた魔素(ヴィスコ)を、体の中心から螺旋を描くように末端に巡らし、錬気の渦に巻き込むように内から払う。

 防御と崩しを同時に行う、拳術よりも神仙に近き肉体論理の結晶。

 

「……ッ!」

 

 それが、()()()()()()!!

 凌ぎ切ったハズの羆の右爪に、左手の袖が引っ掛かっている。

 否応なく、自分が生み出した螺旋の崩しに、自分自身の左腕が巻き込まれる。

 馬鹿な。

 出来るのか、そんな事が?

 拳聖の理に、野生の暴。

 相反する二つの要素が矛盾無く交じり合い、漆黒の巨体が自在に動く。

 矛盾を孕んだ、無法の肉体。

 いや。

 あの羆が実際にこれを出来るかどうかはともかく、少なくとも自分は想像していた。

 彼女の修練の行きつく先には、このような未来があるのではないかと。

 武と暴の融合。

 だが、そんな事より問題は。

 自分の右腋が、がら空きになってしまっている――

 

 ずぶり。

 

 決定的な一撃が、乙女の体を貫いた。

 驚く間もなく、衝撃が右の乳房の下から胴体を斜めに走り抜ける。

 太い爪が上衣を引き裂き、三本の荒々しいラインを体に刻む。

 

「ギ……」

 

 よろめく眼前で、勢いよく鮮血が噴出した。

 抱え込んだ腹から、ボタボタと腸が零れ落ちる。

 熱い。

 激痛に痺れる肉体から、夥しい流血と共に生命の熱量が流れていく。

 

 致命的な一撃。

 馬鹿な。

 この痛みが、熱さが、恐怖が、絶望が幻だというのか?

 だが、考えている余裕はない。

 目の前の大羆は、ゴリィが失血死するのを悠長に待ってはくれないだろう。

 たとえ幻であったとしても、胸に抱えた絶望もろとも、ゴリィは幻に喰われて死ぬ。

 いつかの可哀想な狒狒のように。

 だとしても抗う術がない。

 仮に十全の肉体であったとしても、目の前の大羆には逆立ちしても勝てない事は、ゴリィ自身がよく知っている。

 そう思うからこそ、この妄想の羆は実体化したのだ。

 今のゴリィに、他に何が残るというのだ?

 なにが……。

 

『目の前の姉妹(スール)ぐらいは信頼しろ』

 

 ふと、耳の奥でいつかの鴉の声が聞こえた。

 その瞬間、ゴリィは思わず構えを解き、羆に対し両腕を広げていた。

 ワケもわからぬゴリィの眼前で、羆がガバリと大顎を開く。

 

 がぶり。

 

 大ぶりの牙がゴリィの肩に齧り付き、バキバキと鎖骨をへし折る音を聞いた。

 はっきりと、自分の死を確信した。

 

 

 

 ――いつの間にか羆は消え、漆黒と静寂だけが残されていた。

 

「……ハァッ! ハァ!」

 

 全身をのたうつ激痛に打ち震えながら、ゴリィはようやく荒い息を吐き出した。

 おそるおそる、食い千切られた右肩に手を当てる。

 肩は、あった、腕も。

 腹にも上着にも喰い破られた形跡はなく、ただ死ぬほどの痛みだけが残っている。

 助かった。

 見逃してくれた、のか?

 いや。

 

『我らに頼みがあるとすれば、同じ(よこしま)を抱いた同胞(はらかた)のみ……違うか?』

 

 鴉の言葉。

 おそらくは、羆に対する信頼が、自分を救ってくれたのだ。

 信頼。

 本物の羆なら、自分の事を殺したりしない、とか、そのような甘い幻想ではない。

 

 彼女にだったら、殺されても構わない。

 あの時は確かにそう思ったのだ。

 自分の命は、元より彼女に拾われた物だ。

 たとえこの薄暗い洞穴の底で人知れず非道の死を遂げたとしても。

 自分の無念を、怒りを、哀しみの欠片だけでも、彼女が拾ってくれるというなら。

 自分の体を糧として、彼女が次の舞台(ステージ)に進むというのであれば。

 自分はここで終わりにしてもよいと、あの時はそう思えたのだ。

 彼女に殺される事への恐怖が消えた。

 敵が敵でなくなり、妄想の羆は姿を消した。

 

「くっ」

 

 激痛と絶望に震える肉体を引き摺り、ゴリィは再び歩き出した。

 結局、彼女に太刀打ち出来なかった。

 それでも殺してもらえなかった以上、自身の大望は、自分自身の拳で掴み取らねばならない。

 

 真っ暗闇の洞内で、ちらちらと、緑の燐光が煌めいていた。

 蛍の群れのように煌めくそれは、大気に満ちた魔素(ヴィスコ)の粒子である事に気づいたのは、歩き出してしばらくってからだった。

 一度は三途の川を渡りかけた影響なのか、いつしかゴリィは、目に見えぬはずの魔素(ヴィスコ)の奔流を目で追えるようになっていた。

 ゴリィ自身はもう、その事を不思議とも思わなくなっていた。

 

 一体、この先に何が待つのか。

 

 もしや今度は、あの鴉が目の前に現れるのではないか。

 ゴリィは一瞬、そのように考え、打ち消すように首を振るった。

 

 確かに鴉は強い。

 その底知れぬ真の力は、未だゴリィにとっても想像が着かない。

 ゆえに今のゴリィには、果たして鴉がいかに闘い、どのように自分を殺すのか、全く想像が着かないのだ。

 

 想像出来ないほどの強さは、真の恐怖とはなりえない。

 この洞窟がどのような幻を創り上げたとしても、ゴリィの瞳は、それを本物(リアル)と認識する事は無いだろう。

 

 鴉は、自分の敵ではない。

 この洞窟の闇は、自分自身でも理解していなかった、心の闇を浮き彫りにする。

 ゆえに、想像が着いてしまう。

 おそらくは、次が最後の試練になる、と。

 

 

 ――ザ

 

 

 魔素(ヴィスコ)の群れが、遥か漆黒の彼方に佇む人影を捉え、思わずゴリィは足を止めた。

 奔放なる粒子の輝きが、小柄な体を薄緑の光で染め上げていく。

 浅黒い肌の、やせっぽっちの少女。

 整える事を知らない、ボサボサに跳ね返った赤い髪。

 ある種の覚悟を宿した瞳の光が、遥か闇の向こうから、まっすぐにゴリィを捉えている。

 

「……カルラ、クラウザー」

 

 ゴリィは一つ息を呑み、やや間を置いて、その少女の名をもどかしげに呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

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