■元カノに未練たらたらの女✕女の話見てぇ!! 作:あばなたらたやた
私は何気なくアヤメの方を見た。そして、その表情に少し驚いた。
彼女は私を見ていた。
まるで遠くの景色を見ていた人が、突然すぐ目の前に灯りを見つけたような顔だった。
そこには色々な感情が混ざっていた。
驚き。
困惑。
安堵。
申し訳なさ。
そして、言葉にできない何か。
人の心というのは不思議なもので、ときどき一つの表情の中に何年分もの感情が押し込まれることがある。
今のアヤメはそんな顔をしていた。
私は何も言わなかった。言葉を探しているうちに、その瞬間は過ぎ去ってしまう気がしたからだ。するとアヤメが一歩近づいた。
そして私を抱きしめた。
唐突だった。本当に唐突だった。
彼女の腕が背中へ回る。
細い腕だった。華奢な身体だった。けれど驚くほど力が入っていた。まるで嵐の海で流されそうになった人が、ようやく掴んだ浮き輪を離すまいとしているみたいだった。
私は動かなかった。
何も言わなかった。
ただそこにいた。
アヤメも何も言わない。
部屋は静かだった。
誰も喋らない。
時計の音さえ聞こえない。
それなのに不思議と私は彼女の気持ちが分かる気がした。もちろん本当に分かるわけじゃない。
人の心なんて読めない。
そんな便利な能力は持っていない。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
テレパシーみたいに彼女の奥底に触れた気がした。
ああ、疲れていたんだ。
そう思った。
それも、とても長い間。長い間ずっと。誰にも見つからない場所で、誰にも言えないまま、頑張り続けていたんだ。
助けを求める方法を忘れてしまうくらいに。
誰かへ寄りかかることが怖くなるくらいに。
そして誰かに守られることに慣れていないくらいに。
彼女はずっと一人だった。
周りにはたくさん人がいたはずなのに。
頼ってくる人も、感謝してくれる人も、尊敬してくれる人も。
たくさんいたはずなのに、それでも一人だった。
そんな感覚が伝わってきた。
アヤメはゆっくりと身体を離した。少しだけ名残惜しそうに。本当に少しだけ。
「ありがとうございます、元鞘さん」
その声は静かだった。だけど以前より柔らかかった。
私は笑う。
「カノでいいよ」
そして言った。
「私もアヤメって呼ぶし」
一瞬だけ。
アヤメは目を丸くした。それから小さく笑う。肩の力が抜けたみたいに。
「うん。か、カノ」
その呼び方はぎこちなかった。でも嬉しそうだった。頬が少し赤くなっている。そして彼女は笑った。
私はその笑顔を見て、少しだけ驚いた。
今日一日、何度も見てきた笑顔とは違ったからだ。
委員長の笑顔じゃない。
皆を安心させるための笑顔でもない。
場をまとめるための笑顔でもない。
もっと単純なものだった。幼い頃に大切な友達ができたときのような。初めて宝物を見つけたときのような。
そんな笑顔だった。
瞳がきらきらと輝いていた。
それは少し眩しかった。
窓から差し込む夕暮れの光よりも、私はその顔を見ながら思った。
夢の中で見たアヤメはみんな救おうとしていた。管理しようとしていた。あまりにも大きなものを背負っていた。でも、本当に欲しかったものはそんな大層なものじゃなかったのかもしれない。
ただ。
自分の名前を呼んでくれる誰か。
頑張らなくても隣にいてくれる誰か。
委員長でも英雄でもない七稜アヤメを見てくれる誰か。
それだけだったのかもしれない。
そして、その瞬間だけは彼女の心の中にあった長い冬が、ほんの少しだけ溶け始めたように見えた。
人がいなくなった後も、アヤメはしばらくその場に立ち尽くしていた。
何かを考えているようだった。いや、正確には違う。考えようとしているのに、感情が先に溢れてしまっている。
そんな状態だった。
私は黙って待った。
急かさない。
聞き出さない。
ただ待つ。
アヤメは何度か口を開きかけて、閉じた。
その繰り返して、そして。
「……カノ」
小さな声で私を呼んだ。
「うん」
アヤメは俯く。
金色の髪が揺れる。
肩も少し震えていた。
「私ね」
言葉が詰まる。
「私……」
また止まる。
それでも続ける。
「助かった」
その言葉を聞いた瞬間。
私は胸が苦しくなった。なぜなら、その一言に込められた感情があまりにも重かったからだ。
「助かった」
普通の言葉だ。
短い言葉だ。でもアヤメにとっては違う。
あれは、ずっと言えなかった言葉だ。ずっと思えなかった言葉だ。
私は理解してしまう。
アヤメはあの人達を嫌っていたわけじゃない。
憎んでいたわけでもない。
見捨てたかったわけでもない。
むしろ逆だ。
助けたかった。
期待に応えたかった。
役に立ちたかった。
だから断れなかった。
だから苦しかった。
そして何より、断れない自分を正しいと思っていた。
正しくなければならないと思っていた。
それが委員長だから。
それが強い人間だから。
それがアヤメだから。
そう思い込んでいた。
故に今日起きた出来事は彼女の世界では存在しないはずの出来事だった。
誰かが、アヤメの代わりに前へ出る。
誰かが、アヤメを守る。
誰かが、アヤメへ向かう負担を押し返す。
そんなこと、今まで一度もなかったのだろう。
アヤメは震える声で続けた。
「皆、悪い人じゃないんだよ」
「うん」
「本当に良い人達なの」
「うん」
「復興も頑張ってるし」
「うん」
「私なんかよりずっと辛い人もいるし」
私は何も言わず、アヤメの言葉に何度も頷く。まるで自分へ言い聞かせるみたいに。
「だから」
「だから?」
「嫌だって思っちゃ駄目なんだ」
その瞬間、私は全てを理解した。
ああ、そういうことか。
アヤメを苦しめているのは頼み事じゃない。
市民じゃない。
ナグサでもない。
委員長という立場ですらない。
アヤメ自身だ。
アヤメ自身が。
自分へ。
嫌だと思うことを許していない。
疲れたと思うことを許していない。
面倒だと思うことを許していない。
逃げたいと思うことを許していない。
だから苦しい。
だから壊れる。
だから誰よりも優しい人間が、誰よりも自分へ残酷になる。
「今日ね」
アヤメが笑う。
泣きそうな顔で。
「カノが前に出た時」
「うん」
「私」
そこで言葉が途切れた。
唇が震える。
目が潤む。
「ほっとした」
ぽろり。
涙が落ちた。
「すごく」
また落ちる。
「すごくほっとしたの」
その瞬間だった。
アヤメが私へ近づく。
一歩。また一歩。そして。
ぎゅっ。
抱きつかれた。今度はさっきよりずっと強く。
ずっと、必死に、まるで溺れている人みたいに私へ、しがみつく。
「ごめん」
アヤメが泣く。
「ごめん」
また泣く。
「ごめんなさい」
彼女は謝っているんじゃない。
許可を求めている。
弱い自分を見せる許可を。
誰かへ寄りかかる許可を。
泣く許可を、求めている。
私は何も言わない。ただ背中へ手を置く。
それだけだった。
それだけで十分だった。
アヤメは声を殺して泣いていた。
長い間。
本当に長い間、我慢していた人の泣き方だった。
私は考える。夢の中のアヤメが欲しかったものを。
管理された世界じゃない。
誰も失敗しない社会じゃない。
誰も依存しない人類じゃない。
そんな大層なものじゃない。
たった一度でよかった。
誰かに言ってほしかったのだ。
『もういいよ』
『休んでいいよ』
『それは君の仕事じゃないよ』
『君が全部背負わなくていいよ』
と。
だから今、私の胸元で泣いているアヤメは、委員長ではなかった。英雄でもなかった。百鬼夜行の象徴でもなかった。
ただの少女だった。
ずっと助ける側にいたせいで。
助けられ方を忘れてしまった。
寂しくて。
優しくて。
不器用な少女だった。
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