■元カノに未練たらたらの女✕女の話見てぇ!! 作:あばなたらたやた
アヤメが眠ったのは、泣き疲れて声も出なくなった頃だった。私は布団へ横になり、その隣で静かに目を閉じる。
部屋には夜の静寂だけが流れていた。
障子の隙間から差し込む月明かりが畳へ細長い影を落とし、遠くから虫の鳴き声がかすかに聞こえてくる。
静かな夜だった。だけど、その静けさは寂しいものではない。誰かが隣にいる静けさだった。しばらくすると、小さく布団が揺れる。
アヤメが少しだけこちらへ身体を寄せてきた。
昨日までの彼女なら、きっとそんなことはしなかっただろう。
人へ寄りかかることに慣れていない。
弱さを見せることにも慣れていない。
だから、その僅かな距離が縮まるだけで、どれだけ勇気を振り絞ったのか分かった。
「……カノ」
眠そうな声だった。
「うん」
「まだいる?」
「いるよ」
その一言だけで十分だった。
アヤメは安心したように、小さく息を吐く。その息は、肩から力が抜けていく音のようにも聞こえた。
私はそっと彼女の肩へ毛布を掛け直す。
指先が触れる。
温かい。
人の体温というのは不思議だ。
それだけで「一人じゃない」と教えてくれる。
私は静かに言った。
「もう恐ろしいものはないよ」
アヤメは返事をしなかった。代わりに私の服の袖を小さく握った。
本当に少しだけ。それだけだった。それだけで、彼女の答えは十分に伝わってきた。
長い間、誰かを安心させ続けてきた少女が今だけは、誰かに安心させてもらっている。
その光景が、とても尊かった。
私はそのまま目を閉じる。
眠りへ落ちる直前、アヤメの寝息が聞こえた。
穏やかな寝息だった。昨日までの彼女からは想像できないほど穏やかな。
私は心の中で思う。この子は、きっと何年も熟睡できなかったのだろう。誰かを守る責任を抱えたまま眠る人間は、眠っていても眠れない。
今だけは安心して眠ってほしかった。
翌朝、障子越しに差し込む朝日が部屋を優しく照らしていた。目を開けると、アヤメもゆっくり身体を起こしていた。
目が合う。
一瞬だけ照れたように笑う。
「……おはよう」
「おはよう、アヤメ」
その笑顔を見て、私は少し驚く。昨日までとは明らかに違う。疲れは残っている。泣き腫らした目も少し赤い。
それでも、その表情には余裕があった。昨日までずっと胸へ巻き付いていた鎖が、一つだけ外れたような顔だった。
「よく眠れた?」
私が尋ねる。
アヤメは少し考えたあと、小さく笑う。
「こんなに安心して眠れたの、いつ以来だろう」
その言葉は、とても静かだった。だからこそ胸に響いた。
私は笑い返す。
「それならよかった」
アヤメも笑う。
委員長として周囲へ向ける笑顔じゃない。一人の少女として浮かべる笑顔だった。
朝食を済ませた私たちは、ナグサと合流し、再び被災地域へ向かう。
昨日よりも人通りは増えていた。
瓦礫が片付けられ、仮設の屋台が並び始め、子供達が笑いながら走っている。復興とは、建物だけではない。人の表情が戻ってくることなのだと、私は改めて思った。
「アヤメさん!」
歩き始めて十分も経たないうちに声が飛ぶ。
「資材置き場の鍵が見つからなくて!」
アヤメが反射的に足を止める。昨日までなら、そのまま相談へ乗っていただろう。
私は一歩前へ出る。
「その件は資材管理班の担当業務です。責任者へ確認してください」
「でもアヤメさんなら……」
「現場判断が可能な案件は現場でお願いします。現在、アヤメさんはトリニティとの共同復興計画の調整中です」
相手は少し困った顔をする。けれど。
「分かりました。」
そう言って頭を下げ、その場を去っていく。
アヤメが隣で小さく息を吐いた。
私はその音を聞き逃さなかった。
安堵。それは間違いなく安堵だった。しかし、それで終わりではない。
「アヤメさん!」
「この書類ってどこへ提出したら?」
「看板が斜めになってるんです!」
「仮設住宅の掃除当番なんですけど!」
次から次へと声が飛ぶ。
私はその度に前へ出る。
「担当部署があります」
「まず班長へ確認してください」
「皆さんで話し合えば決められる内容です」
最初は戸惑っていた生徒達も、少しずつ考え始める。
「……そうか」
「まず自分達でやってみよう」
「報告だけしにきますね!」
昨日までなら、真っ直ぐアヤメへ向いていた流れが、少しずつ分散していく。
私はその変化を見つめていた。
依存とは、本人だけの問題ではない。周囲もまた、依存することへ慣れてしまう。だから、その関係を変えるには誰かが最初に流れを変えなければならない。
今は、その役を私が担う。
アヤメには担わせない。
「カノ」
歩きながらアヤメが私を呼ぶ。
「ありがとう」
「何が?」
「さっきから全部」
私は笑った。
「別に特別なことはしてないよ。」
「してるよ」
アヤメは首を横へ振る。
「私、本当は全部受けようとしてた。身体が勝手に動きそうになってた。でも」
彼女は私を見る。
「カノが前に立ってくれるから、私は立ち止まって考えられる。『これは私がやる仕事かな』って考えられる」
その言葉を聞いて、私は嬉しくなった。
昨日までは考える前に引き受けていた。でも今日は違う。
立ち止まれた。
それだけでも大きな変化だった。
「焦らなくていい。」
私はゆっくり言う。
「少しずつでいいから、アヤメが背負わなくても回る仕組みを、一緒に作ろう」
アヤメは嬉しそうに笑った。
「うん」
その返事は、昨日よりもずっと力強かった。
その様子を、少し離れた場所からナグサが見つめていた。
何も言わない。口元にはいつもの穏やかな笑みが浮かんでいる。でも私は気付いてしまう。その笑顔の奥にある小さな揺らぎへ。
アヤメは笑っている。
昨日より自然に。
昨日より軽やかに。
その隣には私がいる。
アヤメは私へ「ありがとう」と笑いかける。
ナグサはその光景を見つめていた。まるで何かを失ったように。あるいは。何かを考え始めたように。
羨望なのか。安心なのか。寂しさなのか。
自分でも整理できない感情が、彼女の胸の中で静かに渦を巻いているように見えた。
光が強くなればなるほど今まで見えなかった影も、少しずつ輪郭を持ち始める。私はその影に気付きながらも、今はまだ何も言わなかった。
今、救うべきなのはアヤメだ。そしてその光が届いた先で、今度はナグサ自身が何を思い、どんな答えを出すのか。
それはきっと、これから始まる物語なのだと思った。
復興地域を歩いていると、アヤメは昨日までとは別人のようだった。
仕事はきちんとこなしている。
説明も的確だ。
住民への対応も丁寧で、委員長としての姿は何一つ変わっていない。
それなのに。その合間、合間で。
彼女の意識は、必ず私の方へ向いていた。
「カノ」
まだ何も話していないのに、名前を呼ばれる。
「どうしたの?」
「……ううん」
アヤメは少し照れたように笑う。
「呼んでみただけ」
そう言って笑う横顔は、どこか幼かった。
私も思わず笑ってしまう。
「何それ」
「ふふ」
アヤメは恥ずかしそうに頬を掻きながら、また歩き始める。
その数分後。
「あ、カノ」
「うん?」
「見て」
彼女が指差した先には、瓦礫の隙間から小さな白い花が咲いていた。
「綺麗だ。昨日は気付かなかった」
「本当だ」
「こういうの見ると、ちょっと安心するね」
そう言って私の反応を嬉しそうに見つめる。私が頷くと、それだけで満足したように微笑んだ。
その様子を見て、私は少しだけ可笑しくなる。
花を見つけたことよりその感想を誰かと共有できたことの方が嬉しいらしい。
少し歩けば、また声が掛かる。
「カノ」
「うん?」
「お昼、何食べたい?」
「まだ午前中だけど」
「あっ」
アヤメは自分でも可笑しかったのか、小さく吹き出した。
「ちょっと気が早かったかな」
「かなりね」
二人で笑う。
そんな他愛もない会話が続く。今までの彼女なら、きっと仕事の話しかしなかっただろう。
それが今では空の色。咲いている花。屋台から漂う香り。歩いている猫。
目に映ったものを、そのまま私へ話しかけてくる。
それはまるで。
「これ、見て」
「これ、知ってる?」
と、友達へ話しかける少女そのものだった。私はそんなアヤメを見ながら、少しだけ安心する。
この子は、本当はこういう人だったのだ。責任や義務に押し潰される前は、きっと、こうして誰かと笑いながら歩くのが好きな子だったのだろう。
その時だった。
私は復興中の建物へ視線を向け、工事の進み具合を確認するため少し足を止める。
ほんの数歩。
アヤメと距離が空いた。すると彼女は歩きながら振り返った。
「あれ?」
私がいないことに気付き、辺りを見回す。少しだけ不安そうな表情。私と目が合った瞬間。
「あ……」
ほっとしたように胸を撫で下ろし、小走りで戻ってきた。
「ごめん」
「どうしたの?」
「カノがいないと思って」
「ちょっと建物を確認してただけだから」
「そっか」
アヤメは照れ臭そうに笑う。
「なんか……」
一度言葉を止める。少し迷うように視線を逸らし、それから小さな声で続けた。
「カノが近くにいないと、落ち着かなくなっちゃった」
その一言を口にした瞬間、自分でも驚いたのだろう。
「あっ……」
頬が一気に赤くなる。
「ち、違うの! その……。変な意味じゃなくて! 昨日いっぱい話を聞いてもらったから、その……安心するっていうか……」
慌てて言い訳を重ねる姿が、どこか微笑ましい。
私は少し笑って答えた。
「うん、安心できるなら、それでいいよ」
その返事を聞いてアヤメは心から安堵したように笑った。その笑顔は、昨日まで一度も見たことがないくらい、柔らかく穏やかなものだった。
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