■元カノに未練たらたらの女✕女の話見てぇ!! 作:あばなたらたやた
⑥
ナグサは言葉を失った。
ほんの数秒。それだけだった。だが次の瞬間、彼女は首を横に振った。
「倒れない」
即答だった。
迷いがない。
事実を述べるような口調だった。
私は静かに問い返す。
「人間だから倒れることもあるよ」
「ない」
ナグサは再び否定した。
「アヤメは違う」
アヤメが困ったように眉を下げる。
「ナグサ……」
私はナグサに正面から向き合う。
「違わないよ」
「違う」
今度はアヤメの言葉すら遮った。
私は思わず目を細める。
ナグサはアヤメを見ている。
真っ直ぐ。真っ直ぐ過ぎるほどに。
「アヤメはずっとやってきた。誰もできないことをやってきた。皆を守ってきた。失敗しても立ち上がった。苦しくても前へ進んだ」
だから。
「だから倒れない」
それは信頼だった。だけど同時に信仰だった。
私は少しだけ胸が痛くなる。ナグサはアヤメを見ている。でも本当に見ているのだろうか。
アヤメという人間を。
それともアヤメという理想を。
「ナグサ」
私は静かに呼ぶ。
「アヤメは人間だよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「でもアヤメだから」
また遮られる。
ナグサの声は震えていた。怒っているわけではない。怯えているのだ。
「アヤメは強い。優しい責任感がある。だから大丈夫」
私はアヤメを見る。
アヤメは苦しそうだった。その表情を見ていると分かる。アヤメがなぜナグサへ強く出られなかったのか。
ナグサはアヤメを責めない。攻撃しない。否定しない。むしろ褒める。肯定する。持ち上げる。だから拒絶しにくい。だけど、その肯定はアヤメが弱音を吐く場所を奪っている。
「ナグサ」
アヤメが小さく言った。
「私も辛いことはあるよ」
「知ってる」
「疲れることもある」
「知ってる」
「苦しいこともある」
「知ってる」
ナグサは頷く。そして優しく微笑んだ。
「でもアヤメなら大丈夫」
私はアヤメの顔を見る。
傷付いた顔だった。
本当に傷付いた顔だった。
まるで助けを求めて伸ばした手を、優しく握り返されながら崖の上へ押し戻されたみたいな顔だった。
ナグサは悪くない。本当に悪くない。むしろ善意しかない。だけど善意だからこそ残酷だった。
「アヤメなら大丈夫」
その言葉は励ましではない。
期待だ。願望だ。祈りだ。そして。呪いだ。
ナグサは怖いのだ。
アヤメが弱い存在だと認めることが。
アヤメが倒れる可能性を認めることが。
アヤメが助けを必要とする人間だと認めることが。
それを認めた瞬間、自分の世界が崩れてしまうから。
アヤメは英雄でなければならない。
アヤメは強くなければならない。
アヤメは優しくなければならない。
アヤメは自分を見捨てない存在でなければならない。
ナグサは無意識にそう願っている。だから、アヤメを否定する。
弱音を否定する。
疲労を否定する。
限界を否定する。
人間らしさそのものを否定する。アヤメを守るために、アヤメを失わないために、アヤメを英雄のまま固定しようとしている。
「……」
私は静かに息を吐いた。
アヤメの問題。
ナグサの問題。
アヤメは「助けてほしい」と言えない。
ナグサは「助けが必要なアヤメ」を受け入れられない。だから二人は同じ場所を見ているようで、全く違う場所を見ているのだった。
私は内心で舌打ちした。
まずい。思った以上にまずい。私はアヤメを助けようとしていた。アヤメの苦しみを理解しようとしていた。アヤメが一人で抱え込まなくて済むようにしたかった。
そのつもりだった。だけど私は問題を一人分として扱っていた。しかし実際には違う。
これはアヤメ一人の問題じゃない。
アヤメとナグサ。
二人で成立している問題だった。そしてその二人は、百鬼夜行紛争調停委員会の中枢そのものだった。
私は視線を動かす。
アヤメ。そしてナグサ。
両者を見る。
アヤメの瞳は揺れている。
今まで理解されなかった部分を理解されている。助けてほしいと言えなかった部分を見つけてもらった。だから嬉しい。だから救われている。
だから――危険だ。
人は苦しみの最中に救いを見つけると、その救いへ強く引き寄せられる。
それ自体は悪いことじゃない。だけど今のアヤメは正常な判断ができる状態ではない。
長年の疲労。
自己否定。
孤独。
責任。
その全てを抱えている。
そんな人間が突然、
「私はあなたを理解している」
という存在に出会ったらどうなるか。
答えは簡単だった。
依存する。
それも強烈に。
昨日からのアヤメの様子を思い出す。やたら近い距離感。私を探す視線。嬉しそうな笑顔。
私の言葉一つで浮き沈みする感情。
既に兆候は出ていた。私は少しだけ眉を寄せる。
助けるつもりが今度は私がアヤメの病巣そのものになりかねない。
それは違う。それでは根本解決にならない。支柱がアヤメから私へ移るだけだ。
組織構造としては何も変わっていない。そしてもっと危険なのはナグサだった。
私はナグサを見る。彼女は無表情だった。だけどあまりにも静かだった。
それが逆に怖い。
ナグサは今、自分の居場所が揺らいでいることを感じている。
長い時間をかけて築いてきた関係。
アヤメと自分。
その間へ私が入り込んだ。しかもアヤメは私へ心を開き始めている。ナグサから見れば、突然現れた外部の人間が突然アヤメの理解者になった。
そう見えていても不思議ではなかった。
もしここで私がアヤメだけを救おうとしたら。
ナグサはさらに不安定になる。
不安からアヤメへ依存する。
アヤメはナグサを見捨てられない。
結果。
委員長は更に疲弊する。そして最悪の場合、紛争調停委員会そのものが割れる。
私は深く息を吐く。
会話をするべきではなかった。いや、正確には違う。
順番を間違えた。
アヤメへ踏み込む前に、ナグサも含めて考えるべきだった。
アヤメだけを救うことはできない。
ナグサだけを救うこともできない。
二人は絡み合っている。片方だけ引っ張れば千切れる。そして千切れた先にあるのは救済じゃない。
崩壊だ。
私はゆっくりと考える。
今やるべきことは何か。
答えは一つ、アヤメを私へ依存させず、ナグサを敵にしない。
そして二人がお互いへ本音を言える環境を作る。
私が解決するんじゃない。
私は仲介者だ。
調停者だ。
この問題を解決するのは、最終的にはアヤメ自身とナグサ自身でなければならない。
だから私は口を閉じる。
今ここで更に言葉を重ねるのは危険だった。
救うために踏み込んだはずなのに、気付けば私は、二人の均衡そのものを揺らしてしまっていたのだから。
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