■元カノに未練たらたらの女✕女の話見てぇ!! 作:あばなたらたやた
私は猛烈に焦っていた。
まずい。本当に、まずい。心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘のようにうるさく鳴り響いている。
目の前にいる彼女たちの表情、沈黙、空気の震えが、最悪のシミュレーションを頭の中に次々と弾き出していた。
私がここで言葉を間違えれば、アヤメはその救いを求めて私に盲目的な依存をしてしまうかもしれない。
そうなれば、ただでさえ自分を卑下しているナグサの心は完全に折れ、情緒は不安定になる。
互いを想い合っているはずの、二人の関係が壊れる。頭を失った紛争調停委員会が真っ二つに割れる。その余波で、百鬼夜行の復興計画は致命的に遅れる。
連鎖的に、アリウスやその裏に潜む黒幕への対抗戦力すらも削ぎ落とされていく。
最悪の場合――。
駄目だ。
考えろ。
冷静になれ、元鞘カノ。
そう自分に言い聞かせるほど、焼き付くような思考はさらに加速していく。
私は、元々そういう人間だった。
人の気持ちを考えすぎる。未来を予測しようとしすぎる。最悪の可能性に怯えすぎる。寄り添いたい、誰も否定したくないと願うからこそ、すべての選択肢の重みに押し潰されそうになる。
考え過ぎるのだ。そして今、私は完全に、出口のない思考の迷路へ入り込んでいた。
何を言えばいい?
何が正解なんだろう。
傷つけず、突き放さず、誰もが救われるために、私は今何を選べばいい?
アヤメさんを助けたい。
ナグサさんも助けたい。
そのための具体的な方法が分からない。喉の奥がカラカラに乾いて、言葉が出ない。部屋の隅に溜まった澱みのような、重苦しい沈黙だけが部屋を支配していた。
その時だった。
「その話、後で良い?」
静寂を切り裂くように響いた、聞き慣れた声。私は張り詰めていた糸が切れたように、反射的に振り返った。
カヨコだった。
いつもの感情の起伏を感じさせない無表情と低く落ち着いたトーン。
彼女は、この場に満ちていた窒息しそうな空気など最初から存在しないかのような自然さで、すんなりと部屋へ足を踏み入れてくる。
「緊急の仕事があるから」
「あー……」
私の口から、情けない間の抜けた声が漏れた。カヨコは私を一瞥もせず、淡々と言葉を続ける。
「副委員長のナグサさんの方が出てもらえると」
嘘だ。少なくとも、今すぐこの場を飛び出さなきゃいけないような緊急の用事じゃない。
カヨコは、私たちが限界を迎えているのを察して、この最悪の空気ごと場を強制解散させるための口実を作ってくれたのだ。そして、その意図はナグサにも伝わっていた。
ナグサは、ひどく苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
行きたくない。
ここにいたい。
アヤメの傍にいて、話を終わらせたい。安心したい。彼女の痛々しいほど大きな瞳が、そう雄弁に物語っている。
「……」
俯くアヤメさんを見て、最後に、私を見る。
どうしたらいいのか教えてほしいという、助けを求めるような。ここにいてもいいと言ってほしいという、許可を求めるような。
そんな、あまりにも脆く、迷子のような視線だった。対するアヤメさんは、ふっと視線を斜め下に逸らした。
何かを言いかけて、けれど白く綺麗な唇を噛み締め、何も言わない。言えないのだ。今の彼女には、ナグサさんを引き留めるだけの言葉も、心の余裕も残されていないから。
だからこそ、ここで、私が言うしかなかった。
「ナグサさん」
努めて穏やかに、安心させるための声音を意識して名前を呼ぶ。ナグサの、揺れる銀色の瞳がまっすぐにこちらを向いた。
「お願いできますか?」
アヤメを守るように言葉を紡ぐ。
ナグサは数秒の間、躊躇するように押し黙った。そして――諦めたように、小さく、頼りなく頷いた。
「……うん」
私は小さく息を吐き出し、視線をカヨコへと移す。
「カヨコ。お願い」
「了解」
カヨコが短く返す。
その徹底してビジネスライクな態度が、今は逆にありがたかった。
二人が並んで扉へと歩き出す。その途中、カヨコが歩調を緩めることなく、ちらりとこちらを見た。
前髪の隙間から覗く瞳と視線が交わったのは、本当に一瞬のことだった。だけど、私にははっきりと分かった。
彼女との長い付き合いが、言葉以上のものを私に伝えてくる。
『一つ貸し』
無言の瞳が、確かにそう告げていた。
私は張り詰めていた肩の力をようやく抜き、小さく落とす。
『ありがとう、助かったよ』
声には出さず、ただ口元だけで微笑みを返す。
カヨコはフン、と鼻を鳴らすように視線を前に戻した。伝わった、と思った。
カヨコはそれ以上何も言わず、戸惑いを残したままのナグサさんを促すようにして、静かに部屋を出て行った。
パタン、とドアが閉まる音が、妙に大きく部屋に響いた。
扉が閉まる。
カチャリ、と小さな金属音が部屋の終幕を告げるように響き、そこへ重苦しいほどの静寂がなだれ込んできた。
私は胸の奥に溜まっていた熱い空気を、大きく、長く吐き出した。張り詰めていた全身の筋肉がにわかに弛緩していくのを感じる。
――助かった。
情けないけれど、それが偽らざる本音だった。少なくとも今は、この瞬間だけは、最悪の決壊を先延ばしにすることができたのだから。カヨコが強引に引いてくれたおかげで、私たちは全損を免れたのだ。
そう、胸をなでおろした時だった。
ぽつり。
本当に、雨の始まりのような、か細い音がした。誰に聞かせるでもない、暗い水底から浮かび上がってきた独り言みたいな声。
「はぁ、なにそれ」
私は弾かれたように顔を上げた。
アヤメは、私を見ていなかった。ただじっと、切り取られた絵画のように四角い窓の外を見つめている。
西日に染まった茜色の光が、彼女の美しい横顔を容赦なく照らし出していた。
逆光の中に浮かぶその輪郭は、今にも夕闇に溶けて消えてしまいそうなほど、ひどく儚くて、泣き出しそうなほど寂しそうだった。
「いいよね、カノは。助けてくれる人がいて」
私は、言葉を失った。喉まで出かかったあらゆる慰めや綺麗事が、その声の持つ圧倒的な質量に押し潰されて消えた。
「羨ましいよ」
彼女の絞り出した言葉の隙間から、私は「観測」してしまったのだ。
そこにある、私への微かな羨望を。
どうしようもないほどの、昏い嫉妬を。
そして何より――胸が張り裂けそうになるほどの、深い、深い孤独を。
カヨコ、ナギサ、そして私が背負うトリニティ。
確かに私には、迷ったときに頼れる仲間がいて、意見を交わせる対等な相手がいる。もしも私が間違った道へ進もうとすれば、全力で止めてくれる人がいる。
不甲斐ないときには叱ってくれる人がいる。限界を迎える前に、こうして手を差し伸べてくれる人がいる。
だが、アヤメには、それが一人もいなかったのだ。
無論、世界の中にはナグサがいる。信じてついてきてくれる百鬼夜行の仲間たちだっているだろう。だけど、責任感の強すぎるアヤメの目には、彼女たちは「自分を支えてくれる人」としては映っていない。
どこまでも「自分が支え、守り、導かなければならない人たち」として、その肩にのしかかっているのだ。
『いいよね、カノは。助けてくれる人がいて』
今の言葉は決して、私やナグサへの不満なんかじゃない。百鬼夜行という歪な組織構造への恨み言でもない。
それは、もっと根深く、もっと暗い場所で澱のように溜まっていたもの。
弱音を吐くことすら許されず、たった一人で荒野を歩き続けてきた人間の、心の底の底から漏れ出てしまった、悲痛な本音だった。
『助けてくれる人がいて』
耳の奥で、彼女の言葉が何度も、何度もリフレインする。その痛みを丁寧に、取りこぼさないように見つめて、私はようやく理解した。
アヤメが本当に求めているものは、これ以上振りかざすための権力でも、誰かに誇るための名誉でも、ましてや戦いから逃げ出すための責任の解放でもない。
ただ自分が限界を迎えて、膝を突きそうになったとき。何も言わずに隣に並んで、一緒に荷物を持ってくれる「誰か」。
彼女が欲しかったのは、ただそれだけだったのだと。
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