バビロンの蹄鉄   作:灯火011

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あの頃、お金がなくて本当に苦しかった。

ステラの夢も支えきれない無力な私。

そんな時、ツムギ老人に出会ったんです。

『金に命令せよ』。私の人生は、ここから変わりました。


第一話:貧乏の足枷、偶然の出会い

 トレセン学園の寮の四畳半。壁紙は剥がれかけ、エアコンは埃を被っている。窓の外に見えるのは、他の寮の窓と、その隙間から覗く灰色の空だけだ。今日の夕食は、特売のもやし一袋と、賞味期限間近で半額になっていた豆腐一丁を使った、味の薄い炒め物。醤油を数滴垂らしたが、それだけでは物足りない。アオイはそれを木製の箸でちまちまと口に運びながら、深く、長いため息をついた。

 

 トレーナーになって三年。情熱だけは誰にも負けない自信があった。ウマ娘たちの才能を見抜き、共に夢を追いかける。そのためにこの学園の門を叩いた。しかし、現実は想像以上に厳しかった。ウマ娘の育成には、情熱だけではどうにもならない壁がある。それは、金だ。

 

 良質なトレーニング器具、最新のデータ分析ツール、栄養バランスを極限まで追求した食事、遠征にかかる費用、専門家によるボディケア…どれもこれも、ウマ娘がトップを目指すには必須の投資項目だ。だが、アオイの薄給では、その全てを賄うことなど到底不可能だった。借金こそないものの、毎月の給料は家賃と最低限の生活費、そしてウマ娘たちの必要最低限の消耗品に消えていく。月末にはいつも財布の中が寂しくなり、次の給料日まで指折り数えるような生活だった。

 

「このままじゃ、ダメだ……」

 

 自分の不甲斐なさに、古びたデスクの角に拳を打ち付けた。鈍い痛みが走る。担当ウマ娘たちの顔が次々と脳裏に浮かんだ。特に、ホシノステラ。夜空のような深い青色の髪に、星屑を散りばめたような金のメッシュが光る、神秘的な雰囲気を持つウマ娘だ。小柄ながら全身がバネのようで、特にレース終盤の爆発的な末脚は、見る者を魅了する。

 彼女には、間違いなくGⅠの舞台に立つポテンシャルがある。しかし、その才能を開花させるためには、苦手としているスタートの改善や、レース中のポジショニングといった技術的な課題を克服する必要があった。そして、そのためには専門的な機材や、高度なデータ分析が不可欠だった。

 

 今日のトレーニング後、ステラに言われた言葉が、アオイの胸に重くのしかかっていた。

 

「トレーナー。隣のチームが使ってる、あの最新のスタート練習機。あれ、すごく効果があるらしいわよ。うちでも導入できないの?」

 

ステラの視線は、遠くのグラウンドに設置された、真新しいスタート練習機に向けられていた。ウマ娘の反応速度や飛び出しの角度などを精密に測定・分析できる優れものだ。アオイは、目を逸らしながら、言葉を詰まらせた。

 

「あ、ああ……あれは、まだ、その、高価だから……今は、手作りの補助具と、私の経験で代用しようと思ってて」

 

「手作り? ふーん……」

 

ステラは、露骨に興味を失った顔をした。その瞳に宿る、わずかな失望の色。それが、アオイには何よりも辛かった。

 

「まあ、いいけど。でも、結果が出なきゃ意味ないから。私は、勝ちたいの」

 

 そう言い残して、ステラはクールに去っていった。彼女の背中を見送りながら、アオイは自分の無力さを痛感した。分かっている。代用には限界があること。彼女の「勝ちたい」という願いに応えるためには、お金が必要不可欠であることを。

 

 他の担当ウマ娘からも、遠回しに不満を聞かされるようになった。

「〇〇トレーナーのところは、新しいプール施設を使い始めたらしいよ」

「うちも、もっと色々なトレーニングを試してみたいなぁ」

 彼女たちの純粋な期待に応えられない自分が情けなくて、顔を上げられなくなることもあった。

 

 学園内でも、アオイの貧乏ぶりは公然の秘密となりつつあった。昼食時、他のトレーナーたちは、高級レストランのテイクアウトや、有名パティスリーのスイーツを広げながら、楽しそうに話している。彼らの会話の内容は、最新のトレーニング機材の導入、海外遠征の計画、あるいは高級車の話など、アオイの日常とはかけ離れたものばかりだ。彼らの優越感に満ちた視線や、憐れむような眼差しが、アオイをさらに追い詰めた。

 

「アオイ君、またもやし炒め? そんなものばかり食べてたら、体壊すよ。トレーナーが倒れたら、担当ウマ娘が困るんじゃないか?」

 

 ある日、ライバルトレーナーの一人、カネモチが、アオイの弁当を覗き込んで、嫌味たっぷりに言った。彼の隣には、彩り豊かな高級ステーキ弁当が置かれている。カネモチは、裕福な実家を持ち、学園でも実績を上げている、アオイにとって最も苦手なタイプのトレーナーだった。

 

「……私の勝手でしょう」

 

 アオイは小さく呟いた。反論する気力もなかった。

 

「まあ、無理もないか。君の担当ウマ娘、最近全然結果出てないじゃないか。稼ぎが少ないと、担当にも迷惑がかかるからねぇ。才能を腐らせる前に、もっと稼げるトレーナーに担当を変えてもらった方が、彼女たちのためじゃないか?」

 

 カネモチの言葉は、アオイの最も痛いところを突いてきた。反論したくても、事実を突きつけられては何も言えない。悔しさと無力感で、アオイはただ俯くしかなかった。カネモチは満足そうに笑い、鼻歌を歌いながら去っていった。

 

 どうすればいい? この状況を打開するには? このままでは、ステラの才能を、担当ウマ娘たちの夢を、そして自分自身の夢を、自分の貧乏さゆえに潰してしまうことになる。そんなことだけは、絶対に避けたい。

 

 

 その日、アオイは気分転換に学園の敷地を散歩していた。夕暮れ時、学園の片隅にある、古びた資料館の裏手を通った。そこには、普段あまり人影のない場所に、一人の老人がベンチに座っているのが見えた。

 

 学園の古株の用務員、ツムギ老人だ。いつも寡黙で、学生やトレーナーたちとは必要最低限の会話しかしない人物だった。手には、何やら古びた、分厚い本を持っている。その表紙には、見たことのない文字と、古代の都市のような絵が描かれていた。

 

 珍しいこともあるものだと思いながら、アオイは老人に軽く会釈をした。老人は視線だけをアオイに向けたが、特に何も言わない。アオイもそのまま通り過ぎようとした、その時だった。

 

「お前さん、顔色が悪いな。目の下に隈ができている。何か悩み事か?」

 

 突然話しかけられ、アオイは驚いて立ち止まった。ツムギ老人が自分に話しかけてくるなんて、初めてだ。しかも、自分の顔色を気遣うような口調で。

 

「あ、いえ……少し、考え事をしていただけです」

 

「そうか。しかし、その顔はただの考え事ではない。深い悩みがある時の顔だ。特に、金にまつわる悩みか?」

 

 なぜ分かるのだろうか。アオイは思わず目を見開いた。老人はアオイの反応を見て、ふっと、長年培ってきた知恵が滲み出るような、静かな笑みを浮かべた。

 

「長年生きておると、様々な人間を見てくるものだ。金に苦労している者の顔には、独特の淀みがある。それは、心が金に支配されている証拠だ」

 

 隠しきれないと思い、アオイは正直に打ち明けることにした。担当ウマ娘の才能を伸ばしたいが、経済的な問題で十分なサポートができないこと。自分が一流トレーナーになる夢も、遠のくばかりであること。カネモチトレーナーに言われた言葉が、どれほど自分を傷つけたか。

 

 ツムギ老人は、アオイの話を黙って、しかし真剣な表情で聞いていた。話し終えると、老人は手元の古びた本をそっと撫でた。

 

「ほう。一流のトレーナーになりたい、ウマ娘の夢を叶えたい、か。結構な志だ。若い者が夢を追うのは良いことだ。だが、志だけでは腹は膨れぬし、ウマ娘も速くはならぬ。現実には、金が必要となる場面が多々ある」

 

「おっしゃる通りです……分かっているんです、そんなことは。でも、どうすればいいのか、全く分からなくて……このままでは、何もかも失ってしまう気がして……」

 

 アオイの声は、絶望に震えていた。

 

「うむ。では、一つ、古い知恵を教えてやろうか。それは、遠い昔、バビロンという都市で教えられていた、富を得るための知恵だ。その知恵は、数千年経った今でも、変わらずに有効なものだ」

 

 老人はアオイに向き直った。その目は、普段の物静かな印象とは違い、まるで夜空に輝く星のような、深い光を宿していた。

 

「お前さん、自分の金に命令しているか?」

 

「え? 金に、命令?」

 

 アオイは、老人の言葉の意味が分からず、首を傾げた。金に命令する? どういうことだろうか。

 

「そうだ。ほとんどの人間は、自分の金に命令されるがままに生きている。入ってきた金は、出ていけと命令されるがままに、財布から出ていく。それは、金がお前さんの主人になっている証拠だ。それではいつまで経っても金は貯まらぬし、お前さんは金の奴隷のままだ」

 

 老人は静かに、しかし力強く語った。

 

「お前さんの収入は全て、お前さんの労働の対価、お前さんが生み出した奴隷のようなものだ。その奴隷たちに、出ていくことを許すな。一部を、お前さんのために働かせろ」

 

 老人はそう言って、手元から小さな、使い古された布袋を取り出した。

 

「まず、これだ。お前さんの()()()()()()()を、()()()()()()この袋に入れ続けろ。これは誰にも触らせてはならぬ、お前さん自身の金だ。この金は、お前さんが金に命令するための、最初の兵隊だ。この兵隊は、やがて増え、お前さんのために働く準備をする」

 

「収入の、十分の一を……貯める?」

 

 アオイは、老人の言葉に呆然とした。そんな単純なこと? 今の生活で、さらに十分の一も貯蓄に回したら、どうなってしまうのだろうか。ただでさえギリギリなのに、さらに生活が苦しくなるだけではないのか。

 

「そうだ。入ってきたら、まず十分の一をここに入れる。残りの九分は、生活費やウマ娘のために使うがよい。だが、この十分の一だけは、決して使ってはならぬ。飢え死にしそうになっても、だ」

 

 老人の言葉は、厳しかった。

 

「でも、ツムギさん……それだと、今の私の生活がもっと苦しくなってしまいます! 食費を削るどころか、何も買えなくなってしまうかもしれません!」

 

「うむ、最初はそう感じるかもしれぬ。だが、よく考えてみろ。お前さんは今、収入の全てを使っている。それでも貧乏だ。ならば、収入の九分を使っても、お前さんは貧乏なままではないか? 十分の一を貯めたところで、お前さんの生活は、今と大して変わらぬことだろう」

 

 老人は言葉を区切る。そして、アオイの目を見てこう言葉を続けた。

 

「だが、お前さんの()()()()()()。十分の一でも、お前さん自身の金が貯まり始めるのだ。それは、お前さんが金に命令するための、最初の力となる」

 

 老人の言葉に、妙な説得力があった。確かに、今の生活で収入を全て使っても、全く楽にならない。どうせ苦しいのなら、少しでも将来のために、自分のために何かを始めるべきなのかもしれない。

 

「これは、バビロンの大富豪たちが実践していた、富を得るための最初の知恵だ。非常に単純だが、最も重要な教えだ。これを実践できるかどうかが、貧乏から抜け出せるかどうかの分かれ道となる」

 

 ツムギ老人は立ち上がり、アオイに布袋を渡した。あらためて手に取った布袋は、使い古されてはいるが、丁寧に手入れされているように見えた。

 

「これを、お前さんの『富の始まり』と心得よ。来月の給料から、まずここへ十分の一を入れろ。何があっても、だ。これを続ける覚悟があるなら、お前さんの未来は変わるかもしれぬ。お前さんが、金に命令できるようになるかもしれぬ」

 

 アオイは、布袋を受け取った。ずっしりとした重みはないが、何かとてつもなく重要なもの、自分の人生を変えるかもしれないものを受け取ったような気がした。半信半疑。不安。そして、同時に、現状を打破できるかもしれないという、微かな、しかし確かな希望を感じていた。

 

「……分かりました。やってみます。老人、教えてくださって、ありがとうございます」

 

 アオイはツムギ老人に深々と頭を下げた。老人は何も言わず、静かに資料館の方へ歩いていった。その背中は、小さく見えたが、とてつもなく大きな存在に見えた。

 

 手の中に残った布袋を見つめる。使い古された布の手触りが、老人の言葉をリフレインさせる。

 

『収入の十分の一を貯蓄する』

 

 本当にこれで、自分は変われるのだろうか? 一流トレーナーに、なれるのだろうか? ステラの夢を、叶えられるだろうか?

 

 不安は拭えない。しかし、何もしないよりはマシだ。このまま貧乏の泥沼に沈んでいくよりは、たとえ茨の道でも、光を目指して歩き出す方が良い。アオイは布袋を大切にポケットにしまった。

 

 貧乏トレーナーの、そしてホシノステラの、長い黄金への道が、今、ほんの一歩だけ、始まった。それは、希望に満ちた一歩であると同時に、未知への不安を伴う、重い一歩だった。

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